56話
食事を終えたあと、三人はまた店を回った。
ルカは荷物をまとめながら、歩く速度をフィアに合わせている。
それがあまりにも自然で、フィアはまた胸が苦しくなった。
「ルカ」
「ん?」
「また、いろいろしてくれてる」
ルカは荷を肩に掛け直しながら答える。
「そうかな。僕は、やってあげてるつもりじゃなかったけど」
「でも、してくれてる」
フィアは足元を見た。
「……返せるものがない」
その声は、喧騒の中では消えてしまいそうなほど小さかった。
ルカは一度だけ目を細めた。
冗談に逃がすべきか、きちんと受け取るべきか、ほんの一瞬迷った顔だった。
そして、いつもの調子を選んだ。
「じゃあ、僕とデートしてよ」
フィアが顔を上げる。
「……デート?」
ルカは軽く笑った。
「そう。二人で街を歩いて景色を見て、話したり、買い物をしたり」
「……今もしてる」
「うーん、そうだけどちょっと違うかな」
「それでルカは嬉しいの?」
「うん。君みたいな綺麗な子と街を歩けるなら、それだけで十分お礼になるよ」
言ってから、ルカは少しだけしまったという顔をした。
軽口のつもりだった。
少なくとも、そういう形で逃がすつもりだった。
けれどフィアは真面目に考えていた。
「……デート」
ルカが言葉に詰まる。
「あ、いや……冗談のつもりだったんだけど」
「でもルカのお礼になるなら、私も嬉しいから」
「フィア、それはたぶん、受け取り方が真面目すぎる」
フィアは困ったように瞬きをした。
「でも、お礼になるって」
「言った、けど」
「じゃあ……」
そこでフィアは、少し離れたところで周囲を見ていたシリウスを振り返った。
「ねえ、シリウス」
「フィア、冗談だから!」
止めようとするルカの声は間に合わない。
シリウスがすぐにこちらを見る。
「どうされましたか」
「今からルカとデート、してもいい?」
シリウスの動きが止まった。
ルカも止まった。
周囲の喧騒だけが変わらず流れていく。
「……何を」
シリウスの声が少し低くなる。
フィアは真剣だった。
「ルカに、お礼がしたくて」
シリウスはゆっくりルカを見る。
その視線は、控えめに言っても好意的ではなかった。
ルカは両手を軽く上げる。
「待って待って、シリウス……。僕もここまで真面目に受け取られるとは思ってなかった」
「お前が言ったのか」
「言ったけど」
「なら責任を持て」
「それは大丈夫だけどさ……」
フィアは二人を見比べる。
「駄目、だった?」
シリウスはすぐには答えなかった。
止める理由はある。
いくらでもある。
安全ではない。
ルカへの違和感も消えていない。
フィアを誰かの隣に置くこと自体、シリウスには不安でしかない。
だが、フィアは今、自分から何かをしようとしている。
それを止めることは、本当に守ることなのか。
時刻は昼。街は賑わっているが危険は少なそうな時間帯。
シリウスは短く息を吐いた。
「私も近くにいることが条件です」
ルカが苦笑する。
「それじゃあデートにならないよ」
「これ以上は譲歩できない」
「いや、分かった。今の状況なら、それが限界だろうね」
フィアは少し安心したように頷いた。
「シリウスがそばにいるなら、私も安心できる」
ルカは彼女を見て、軽く笑う。
「うん、そうだね。行こう、フィア」
それは、きらびやかなものではなかった。
ただ、二人で少し並んで店先を見る。
小物屋の前で、ルカが硝子玉のついた飾りを指す。
「これ、君に似合いそう」
フィアは小さな飾りを見る。
「私に?」
「うん。君の目の色に合う」
「これは何に使うの?」
「うーん、旅の途中で使うものじゃないかもね」
「でも、綺麗」
「そうだね、シリウスは邪魔になるって怒りそうだけど」
フィアは少しだけ笑った。
本当に、少しだけだった。
けれどルカはその笑みを見て、胸の奥が妙に痛むのを感じた。
助けたい。
それは本当だ。
けれど、自分はただ助けるためだけにここにいるわけではない。
それを忘れてはいけないはずなのに、フィアが店先の小さな飾りを見ているだけで、こんな時間が続けばいいと思ってしまう。
それが、ひどく厄介だった。
「フィア、喉乾かない?」
気持ちを切り替えようと声をかけると、フィアはまた別の髪飾りをじっと見ていた。
「それが気に入ったの?」
「あ、ううん……綺麗だなって」
「それは気に入ってるんだよ」
「じゃあ、そうなのかも」
「買ってあげようか、デートの記念に贈らせてよ」
「……いいの?」
髪を隠すためでも、食べるためでも、旅の役に立つわけでもない小さなガラスの髪飾り。
要らないもの、余計なもの。
清貧を美德としていた教会では与えられなかったもの。
目を輝かせるフィア。
だけどまだ戸惑いがある。
「でも、ルカにまた……」
「じゃあ僕にも一つ選んでよ。フィアが僕に似合いそうだと思うものを」
「わかった」
フィアは真面目な顔で選び始める。
「またそんなに真剣に」
ルカはその横顔を笑いながら眺める。
そしてフィアが最初に選んでいた飾りを眺める。
青いガラス玉が銀色の金具で止められた小さな髪飾り。
その色の取り合わせは、どことなく後ろで見張っている聖騎士の色を思わせた。
ルカは小さく息を吐く。
「ルカ、これはどう?」
そこでフィアが少し不安そうに振り返り、ルカは表情を戻す。
「うん、いいね。君が選んでくれたのがさらにいい」
「本当?」
「本当だよ、僕は嘘をつくこともあるけど、今のは本当だ」
安心したように微笑むフィアから、ルカはそれを受け取ると最初の髪飾りと一緒に代金を払う。
「次はどの店に行こうか」
「決めていいの?」
「決めてもいいし、決めなくてもいい。デートなんだから、ただ歩くだけでも意味がある」
少し離れたところで、シリウスは周囲を見ていた。
見ているはずだった。
だが、どうしても二人の姿が視界に入る。
ルカはフィアの歩幅に合わせるのがうまい。
近づきすぎず、遠ざかりすぎず、必要な時だけ手を差し出す。
フィアも、戸惑いながらそれを拒まない。
止める理由はない。
ルカが無理をさせているわけでもない。
フィアが嫌がっているわけでもない。
だからこそ、シリウスは止められなかった。
守るために少し離れた距離が、逆に二人の近さを見せてしまう。
胸の奥に、小さな棘が残った。
つい目を離してしまった一瞬に、二人が視界から消えた。
通りの先、ルカの金色の髪が見える。
それを追おうとした瞬間、ルカがこちらを振り返った。
目が合うと、彼は悪戯を思いついた子どものように、ほんの少しだけ笑った。
嫌な予感がした。
「フィア」
ルカが小さく呼ぶ。
「少しだけ、シリウスを困らせてみようか」
「え?」
フィアが聞き返すより早く、ルカは彼女の手を取った。
強く引くのではない。
人の流れの隙間へ、滑り込ませるような手つきだった。
「大丈夫。すぐ近くだよ」
「でも、シリウスが」
「だから、少しだけ」
ルカは笑っていた。
本当にただの冗談のつもりなのだと分かる声だった。
それでもフィアは一度、後ろを振り返る。
シリウスの姿は、人の肩と屋台の布の向こうに少しだけ隠れていた。
次の瞬間、ルカは露店の天幕の陰へフィアを導いた。
吊るされた布が風に揺れ、視界が一瞬だけ色で塞がれる。
赤、青、薄い金。
布の隙間を抜けると、隣の通りへ続く細い横道があった。
ほんの数歩だった。
けれど、大通りの音が少しだけ遠のいた。
フィアの胸が小さく跳ねる。
「ルカ、本当に大丈夫?」
「大丈夫。ほら、あそこから戻れる」
ルカが指した先には、屋台の間から大通りが見えていた。
人の流れも、さっきの店先も、すぐそこにある。
けれど、シリウスの姿だけが見えなかった。
フィアの手に、少し力が入る。
その変化に、ルカはすぐ気づいた。
「あ、ごめん。怖がらせるつもりじゃなかった」
その声は、少しだけ本気だった。
「ただ、あまりにもシリウスがこっちを見てるからさ。少し困らせたくなったんだ」
「シリウスは、心配してるだけ」
「分かってる」
ルカは苦笑する。
「だから余計に、ちょっと意地悪したくなる」
ルカは人の流れから隠れるように立ち位置を変えると、フィアのフードをほんの少しだけずらした。
外からは見えない角度で、先ほどの店で買った包みを取り出す。
青いガラス玉と銀の金具の髪飾り。
ふわりと流れる白色金の髪にそれをとめる。
フードを戻せば見えない位置。
フィアは突然のことに戸惑い、目を丸くする。
「うん、似合うよ。宿に着いたら鏡で見てみなよ」
ルカはフィアの髪の毛をまたフードで隠す。
その時だった。
「ルカ」
低い声が、背後から落ちた。
ルカの肩がわずかに跳ねる。
フィアが振り返ると、シリウスが通りの入口に立っていた。
追いついた、というより、最初から見失っていなかったような顔だった。
けれど、その目だけは笑っていない。
「二度とするな」
声は静かだった。
静かだからこそ、怖かった。
ルカは両手を上げる。
シリウスは逃さないと言わんばかりに、ルカの肩へ手を置いた。
「悪かったよ。ほんの冗談のつもりだったんだ」
「冗談で済ませられないこともある」
「うん。それは今、分かった。肩、痛いから離してくれると嬉しい」
シリウスはルカを見たまま、フィアへ声をかける。
「フィア様、こちらへ」
フィアはルカのそばからそっと離れ、シリウスの方へ戻った。
「シリウス……」
フィアは走ったせいか、頬に赤みを残したままシリウスを呼ぶ。
「見ててくれてありがとう」
「……楽しめましたか」
「うん」
「それならよかったです」
「だから、あまりルカを怒らないで」
「それとは話が別です」
「まったく厳しいなあ、騎士様は」
そしてルカはすぐに、いつもの調子を作り直す。
「じゃあ、ちゃんと三人で宿を探そうか」
シリウスは答えなかった。
ただ、今度はフィアのすぐ後ろではなく、半歩横に立った。
もう見失わない、と言うように。
日が傾き始める頃、ルカは宿を探し始めた。
「大通り沿いは便利だけど、目立つ」
彼は看板を見上げながら言った。
「静かすぎる宿も逆に目立つ。旅人が多くて、そこそこ雑な宿がいい」
「雑な宿?」
シリウスが眉を寄せる。
「綺麗すぎる宿は覚えられる。汚すぎる宿は別の意味で危ない。ほどほどがいい」
ルカが選んだのは、大通りから一本外れた場所にある宿だった。
表には旅人が数人出入りしていて、馬を預ける場所も近い。
中からは食堂のざわめきが聞こえるが、騒がしすぎるほどではない。
「うん、いいね。いい位置に裏口がある」
ルカが小さく言った。
シリウスがすぐに反応する。
「逃げる前提か」
「使わないなら、それが一番だけどね」
宿の扉を開けると、右手には食堂があった。
長い卓がいくつか並び、旅人たちが湯気の立つ皿を囲んでいる。
奥には階段。
階段の下を抜けた先に、裏庭へ続くらしい細い扉が見えた。
「三人で泊まれる部屋をお願い」
「一人は長椅子でもいいなら」
「うん、それでいいよ」
ルカが受付で宿代を払う。
「二階の部屋でいいかい?」
店主が宿帳を開きながら言う。
「できれば端じゃない部屋がいいな」
ルカが気安く返す。
「端の方が静かだぞ」
「静かすぎると落ち着かないんだ」
店主は呆れたように鼻を鳴らした。
「変わった客だな」
「よく言われる」
ルカが二人のもとに戻り、荷物を纏める。
その時、シリウスの視線が入口の方へ動いた。
受付の横で、誰かが店主と低く話していた。
「……空きはあるのか」
くぐもった声だった。
人の声と皿の音に紛れて、はっきりとは聞き取れない。
続いて、もう一つの細い声が落ちる。
「宿帳を見せてもらえるか。連れを探している」
その声に、シリウスの指がわずかに動いた。
聞き覚えがある。
だが、どこで聞いたのか、すぐには結びつかない。
受付の前には、背の高い客が二人いるようだった。
一人は外套を深く被り、もう一人はその陰に半分隠れている。
顔は見えない。
体格も、はっきりとは分からない。
店主が何か答え、宿帳の上へ視線を落とす。
二人の客も、そこを覗き込むように少し身を寄せた。
シリウスが一歩動こうとした時、次の客が荷を抱えて入ってきた。
視界が遮られる。
「どうしたの?」
フィアが訊く。
シリウスは答えず、入口の方を見続けた。
その間に、二人の客は店主に短く何かを告げ、宿の外へ出ていった。
扉が閉まる音だけが残る。
シリウスが改めて受付の方を見た時には、もうそこには店主しかいなかった。
「……いえ」
確信はない。
だから、言葉にはできなかった。
だが、耳の奥に残った声だけが、妙に引っかかっていた。
鍵を受け取り、三人は階段を上がる。
階段は少し狭く、踏むたびに軋んだ。
二階へ上がると、廊下は途中で右に曲がっている。
曲がり角の手前には小さな洗い場があり、その奥には物置らしい扉があった。
廊下の突き当たりには窓があり、外の細い路地が見下ろせる。
ルカが何気なく窓を覗く。
「下は近いけど、飛び降りるには少し高いね」
シリウスが冷たく見る。
「確認する必要があるのか」
「あるかもしれないよ」
「……お前は本当に、逃げ道を見る癖があるな」
「癖は大事だよ。役に立つ時がある」
部屋は二階の中ほどだった。
中には寝台が二つと、簡素な卓、横になれそうな長椅子が一つ。
窓は細い路地に面している。
大通りの喧騒は少し遠いが、階下の食堂の声は床越しにかすかに聞こえた。
「今日はここで休もう」
ルカが荷を下ろす。
フィアも買った荷物をそっと卓の上に置いた。
その中から、淡い灰青の布を取り出す。
端に小さな花の刺繍がある布。
今日、自分で選んだもの。
フィアはそれを膝の上に広げた。
たった一枚の布だった。
けれど、自分で選んだものだと思うと、胸の奥にまだ小さな熱が残っている。
街を見た。
食べたいものを選んだ。
ルカと少しだけ並んで歩いた。
シリウスはずっとそばにいてくれた。
不安がなかったわけではない。
怖くなかったわけでもない。
それでも今日のどこかに、普通の旅人みたいな時間があった。
そう思ってしまうことが、少しだけ怖かった。
階下からは、まだ人の声が聞こえている。
皿の音。
笑い声。
椅子を引く音。
廊下で、足音がした。
フィアは顔を上げる。
足音は扉の前で一度だけ止まったように思えた。
息を止める。
だが次の瞬間には、足音はまた遠ざかっていった。
誰かが別の部屋へ入る音がして、それきりだった。
何か落ち着かない。
大きな街、屋台での食事、ルカとのデートと少しのいたずら。
色々なことがありすぎて落ち着かない。
きっとそれだけ。
フィアは膝の上の布を、そっと握りしめる。
そう思おうとしても、扉の向こうの静けさだけが、少し長く耳に残った。




