55話
街に入る門まで、あと数歩だった。
門の向こうから、途切れない喧騒が押し寄せてくる。
荷馬車の車輪が石を噛む音に、門番の問いかけが重なり、
それに応じる旅人の声の隙間を縫うように、呼び込みや笑い声が入り込んでくる。
そして、門をくぐった。
その瞬間、音が一段大きくなった。
大通りには人が溢れていた。
屋台の煙が白く上がり、石畳の上を車輪が鳴る。
布を売る店の前には色が並び、香辛料の匂いと焼き菓子の甘い匂いが混ざる。
誰かが笑い、誰かが怒鳴り、誰かが名前を呼んでいる。
世界が一気に広がったようだった。
フィアは思わず息を呑む。
シリウスは黙って彼女の少し後ろへ立ち、周囲を見ている。
ルカはフィアの隣に立ち、人の流れを読むように目を細めた。
ここは、隠れるための場所。
そして、見失うための場所。
その両方なのだと、三人はまだはっきりとは知らない。
ただ、もう足を踏み入れてしまった。
「立ち止まると、流れに押されるよ」
ルカが軽く言った。
フィアは慌てて頷き、半歩前へ出る。
けれど、目はすぐに別のものへ吸い寄せられた。
「……こんなに大きな街、初めて」
屋台の上に積まれた焼き菓子。
紐に吊るされた色とりどりの布。
小さな金具や硝子玉の並ぶ店先。
人の肩越しに見える、湯気の立つ鍋。
「……物がたくさんで、見るだけでも忙しい」
思わずそう呟くと、ルカが少し笑った。
「街はだいたいそういうものだよ」
「全部、見てたら迷いそう」
「全部見ようとしたら、宿を見つける前に日が暮れるよ」
「それは困る……」
シリウスが彼女の後ろから静かに言う。
「フィア様、離れないでください」
「うん」
フィアは頷いた。
けれど、頷いた直後にも視線はまた布屋の方へ向いてしまう。
シリウスはそれを咎めなかった。
ただ、彼女の少し後ろを歩きながら、出入口や路地の影、荷馬車の隙間に視線を走らせている。
ルカはフィアの隣を歩いていた。
人の流れに逆らわず、けれど呑まれない位置を選んで進む。
あまり端に寄らず、かといって中央にも出すぎない。
周囲に合わせているのに、どこか自分の歩幅だけは崩さない。
フィアが一度、人の流れに押されてよろめいた。
「あ」
その声が出るより早く、ルカの手が彼女の手首を軽く掴んだ。
「こっち」
強く引くのではなく、流れの切れ目へ導くような手つきだった。
フィアは少し遅れて、ルカの隣に戻る。
「ありがとう」
「どういたしまして。街の流れは、慣れるまで足元を持っていかれるからね」
その何気ない動きを、シリウスは見ていた。
ルカがフィアの手首から手を離す。
ただそれだけのことだった。
必要な動きだった。
危険から遠ざけるための、自然な手助けだった。
それでも、シリウスの目が一瞬だけ鋭くなる。
前を歩く二人は、それに気づかない。
「まずは必要なものを揃えよう」
ルカが言った。
「服と布、薬、包帯、針と糸、火を起こす道具。あと、日持ちする食べ物も少し」
「そんなに?」
フィアが驚いたように訊く。
「旅を続けるならね。全部を多く持つ必要はないけど、何もないのは困る」
「小さな村では揃えられなかったものだな」
シリウスが言う。
「そう。だから大きめの街まで来た意味がある」
ルカは言いながら、迷わず道の脇へ寄った。
大通りに面した派手な店ではなく、その隣にある少し奥まった店を選ぶ。
店先には旅人向けの雑貨が並んでいた。
火打ち石、革紐、小さな薬瓶、包帯、針箱、油を染み込ませた布。
どれも特別なものではない。
けれど、旅には必要なものばかりだった。
「ここ?」
フィアが訊く。
「うん。高すぎないし、安すぎない」
「安い方がいいんじゃないの?」
「安すぎると、逆に事情があると思われることもあるし、変なものを掴まされることもある」
ルカは店先の品を見ながら言った。
「高すぎるものを買うと覚えられる。安すぎるものを選んでも覚えられる。ちょうどいい旅人に見えるのが大事」
「……気をつけるのは、買うものだけじゃないんだ」
「買い方の方が目立つこともあるよ」
その言い方は軽かった。
けれど、シリウスは黙ってルカを見る。
「お前は、そういうことに詳しすぎる」
ルカは店主に軽く手を上げながら、平然と答えた。
「商人だからね。売る側の気持ちも分かるんだ」
「……本当にそれだけか?」
「僕を叩いても何も出てこないよ」
ルカは笑って、店の奥へ向かい、店主と何事もなかったように話し始めた。
「包帯を二つ。あと、この針箱。火打ち石は……こっちじゃなくて、奥のやつを見せてもらえる?」
店主は少し面倒そうにしながらも、奥から別の品を出してくる。
ルカはそれを受け取り、軽く見てから値を尋ねた。
「それは少し高いかな」
「物は悪くない」
「悪くないから買うんだよ。でも、旅人にその値段はきつい」
「なら、こっちの安い方にしな」
「それはすぐ割れる。割れたらまた買うことになるから、結局高くつく。……あれも買うから、少し安くしてくれると嬉しいな」
店主が片眉を上げる。
ルカは笑っていた。
値切りすぎない。
だが、言い値でも買わない。
相手を怒らせる手前で止める。
そのやり取りがあまりにも自然で、フィアは思わず見入っていた。
「ルカ、すごい」
店を出たところでフィアはルカに話しかける。
「え、何が?」
「話し方。相手の人、怒ってない」
「怒らせたら損だからね」
「でも、ちゃんと安くしてもらってる」
「それが仕事みたいなものだから」
シリウスが低く言う。
「仕事、か」
ルカはそれには答えなかった。
必要な小物を買い終えると、次に布屋へ向かった。
フィアの髪を隠すための布を探していた。
入ったのは通りの角にある小さな店だった。
入口には薄い布が何枚も掛けられ、風に揺れるたびに色が重なって見える。
濃い赤、深い緑、砂色、灰色、薄い青。
布の匂いと、わずかに染料の匂いがした。
フィアは入口で足を止める。
「……すごく、たくさんある」
「隠すだけなら、地味な色がいいですね」
シリウスがすぐに言った。
「目立たず、汚れも分かりにくいものを」
「例えば?」
フィアが棚を見る。
シリウスは少し考えて、灰色に近い茶の布を手に取った。
「これなら、旅人の服にも馴染みます」
ルカが横から、わざと鮮やかな真紅の布を持ち上げた。
「じゃあ、こっちは?」
シリウスが即座に眉を寄せる。
「論外だ」
「似合いそうだけど」
「目立つ」
「目立つだろうね」
「分かっていて言ったのか」
「少し場を和ませようと思って」
「和んでいない」
ルカは肩をすくめた。
フィアは二人のやり取りを聞きながら、棚の端に目を留めた。
そこに置かれていたのは、淡い灰青の布だった。
派手ではない。
けれど、完全に沈む色でもない。
端の方に、小さな花の刺繍が入っている。
本当に小さな刺繍だった。
近くで見なければ分からないほど控えめで、それでもただの布ではないと思えるくらいには可愛らしい。
フィアはそっと手を伸ばした。
「これ……」
フィアの声に、言い合っていたルカとシリウスが同時に黙った。
フィアは布を指先で撫でた。
柔らかい。
今まで身につけていたものとは違う。
誰かに選ばれるために、店先へ並べられたものだった。
「これ、かわいい」
言ってから、フィアは少しだけ不安になった。
自分の声が思ったよりはっきりしていたからだ。
「……駄目?」
ルカが先に笑った。
「いいと思うよ。目立ちすぎないし、君にも似合う」
フィアはルカを見て、それからシリウスを見る。
シリウスは少し黙っていた。
布の色を見て、刺繍を見て、それからフィアの顔を見る。
「フィア様が選ばれたものなら」
その声は静かだった。
「……いいの?」
「はい。実用に支障もありません」
ルカが小さく笑う。
「実用に支障もありません、だって」
「何か問題があるか」
「ないよ。シリウスらしいなと思っただけ」
フィアは布を胸元に抱えた。
自分で選んだ。
それだけのことなのに、胸の奥に小さな熱が灯ったようだった。
買い物を終えて店を出ると、通りの空気はさっきよりも濃く感じられた。
人の声が重なり、どこかで油の弾ける音がする。
焼けた匂いの中に、ふっと甘い香りが混じった。
フィアの足が、そこでまた少し止まる。
視線の先には、屋台があった。
薄く焼いたパンに蜂蜜を塗っている店だった。
焼けた生地の香ばしさと、温められた蜂蜜の甘い匂いが風に乗って流れてくる。
フィアは何も言わなかった。
ただ、目がそこへ向いていた。
ルカが気づく。
「食べてみる?」
フィアは驚いて振り向いた。
「いいの?」
「後から食べたくなっても遅いからね」
「でも、まだ買い物の途中で」
「ちょうどいい時間だよ。ここで軽く食べておこう」
シリウスが周囲を見た。
「座れる場所は」
ルカが屋台の近くにある粗末な木の卓を指す。
「あそこ。通りに近すぎないし、入口も見える」
「入口ではなく、人の流れが見える場所の方がいい」
「どっちも見えるよ、大丈夫。あまり警戒しすぎるのも目立つよ」
シリウスは納得しきっていない顔をしながらも、反対はしなかった。
「少しずつでいいよね」
そう言って、ルカは屋台の前で店主と短くやり取りをする。
戻ってきた時には、蜂蜜を塗った薄焼きパンと、香草の匂いがする肉串、小さな包み焼き、それから湯気の立つ果物の飲み物を抱えていた。
木の卓にそれらが並べられると、フィアは少し困ったように目を瞬かせた。
「こんなに?」
「三人分だよ」
ルカが言う。
「それに、少しずつなら試しやすいでしょ」
シリウスは蜂蜜の薄焼きパンを見て、フィアへ差し出す。
「熱いので、気をつけてください」
「うん」
フィアは両手で受け取る。
まだ湯気が残っていて、指先が少し温かい。
ルカが笑う。
「シリウス、食べ物にも警戒するんだ」
「当たり前だ」
「毒見でもする?」
「必要なら」
「冗談だったんだけど」
フィアはそのやり取りを聞いて、少しだけ笑いそうになった。
けれど笑っていいのか分からず、唇を小さく引き結ぶ。
それから、薄焼きパンを少しだけ齧った。
蜂蜜の甘さが舌に広がる。
生地は薄く、端は少し香ばしい。
熱さに驚いて息を吸うと、ルカがすぐに言った。
「熱かった?」
「少し。でも……」
フィアはもう一度、小さく口にする。
「おいしい」
その声は小さかった。
けれどルカには聞こえたらしい。
「よかった。こっちも食べる?」
ルカは包み焼きを半分に割って、片方を差し出した。
「いいの?」
「いいよ。僕一人で食べるには少し多いし」
「……ありがとう」
フィアは受け取った。
中には野菜と刻んだ肉のようなものが詰まっていた。
香辛料の匂いが少し強い。
教会で出されていた食事とは、何もかも違った。
違うのに、嫌ではなかった。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな罪悪感が刺さる。
こんなふうに楽しんでいていいのだろうか。
逃げている途中なのに。
シリウスも、ルカも、自分のせいで危険に巻き込まれているのに。
手の中の包み焼きが、急に重く感じられた。
「フィア?」
ルカが覗き込む。
「口に合わなかった?」
「違う」
フィアは首を振る。
「おいしい。……おいしいから、少し困ったの」
ルカは一瞬だけ黙った。
それから、軽く笑う。
「おいしくて困ることもあるんだね」
「……ある」
フィアは真面目に頷いた。
その返事に、ルカの笑みが少しだけ柔らかくなる。
その顔を見て、フィアはもう一度、包み焼きに視線を落とした。
楽しんでしまったことへの後ろめたさは、まだ消えない。
それでも、口の中に残る甘さと温かさまでは、なかったことにできなかった。




