54話-1(分岐バッドエンド)
※この先は分岐となります。
物語の本筋を追う場合は、55話へ。
街に入る門まで、あと数歩だった。
門の向こうから、途切れない喧騒が押し寄せてくる。
荷馬車の車輪が石を噛む音に、門番の問いかけが重なり、
それに応じる旅人の声の隙間を縫うように、呼び込みや笑い声が入り込んでくる。
そのすべてが、すぐ目の前にある。
けれどフィアは、門の向こうではなく、シリウスの横顔を見ていた。
張り詰めた目。
強く握られた手綱。
いつでも前へ出られるように整えられた姿勢。
街に入ると決めたのは、自分だ。
けれど、その選択が彼を苦しめているように見えた。
自分が行きたいと言ったから。
自分が頷いたから。
だからシリウスは、また苦しさを飲み込んでいる。
そう思った瞬間、足が止まった。
「……やっぱり、行けない」
小さな声だった。
シリウスが振り返る。
「フィア様?」
大通りの喧騒も、荷馬車の音も、人の波も、その一瞬だけ遠くなった。
フィアは門を見なかった。
シリウスの顔だけを見ていた。
「シリウス、私が行きたいって言ったから、無理してる」
「違います」
返答はすぐだった。
少し強すぎるほどに。
けれど、その強ささえ、フィアにはさらに無理をしているように見えてしまう。
「違わない」
声が震える。
「私、また選んだふりをして、誰かに背負わせてる」
「それは違います」
シリウスの声が低くなる。
「あなたの選択を、私が負担だと思うことはありません」
「でも」
「ありません」
強く言い切られても、フィアの胸の中にある迷いは消えなかった。
むしろ、その即答の速さが痛かった。
シリウスは、いつもそうだ。
自分の苦しさを苦しさとして数えない。
フィアの前では、それを当然のように飲み込んでしまう。
そのことが、フィアにはたまらなく苦しかった。
ルカの表情から、いつもの軽さが消えた。
「フィア、それは違うよ」
声は低い。
普段のような冗談の余地がない。
「それに、今ここで止まるのは……君が思ってるより危ない」
フィアがルカを見る。
ルカは周囲を一度だけ見た。
門へ向かう人の列。
進む荷馬車。
足を止める者に向けられる、ほんの一瞬の視線。
「ここで列を外れる方が目立つよ」
その言葉に、シリウスの目が鋭くなる。
街門の前では、荷馬車の列がゆっくりと進んでいた。
一台が軋みながら前へ出て、三人の間に一瞬だけ流れを作る。
門番が何かを問い、別の旅人が横から割り込む。
馬が鼻を鳴らし、手綱が引かれ、誰かの荷がフィアの視界をかすめた。
シリウスは周囲を確認するため、半歩前へ出た。
ほんの半歩。
それだけだった。
彼がフィアを置き去りにしたわけではない。
目を離したわけでもない。
ただ、危険を探すために、いつものように前へ出ただけだった。
ルカは馬の手綱を押さえ直し、荷が人にぶつからないように身を捻る。
「少し詰めろ!馬車が通るぞ!」
門番の声が飛ぶ。
人の流れが押し寄せ、荷馬車の影が一瞬だけ伸びた。
旅人の肩と馬の首が、フィアと二人の間を細く遮る。
二人とも、フィアから目を離したつもりはなかった。
それでも――
ほんの一瞬だった。
フィアの肩に、後ろから手が置かれた。
重い手だった。
掴む、というより、逃げ道を確かめるような触れ方。
指が布越しに沈み、肩の骨の位置を確かめるようにゆっくりと力を込めてくる。
「……っ」
息が詰まる。
声を出そうとしたはずなのに、喉が先に閉じた。
「ああ、よかった」
耳元で、低い声がした。
「門に入る前で助かった。中じゃさすがに面倒だったからな」
フィアの呼吸が止まる。
知らない声だった。
少なくとも、覚えのある声ではない。
それなのに、身体が先に怯えた。
声の意味よりも、肩に置かれた手の重さが怖かった。
逃げ道を塞がれていることを、身体の方が理解してしまう。
「二人とも随分と服装が変わっていたから、探しにくかったなぁ」
大柄な男が、背後にいた。
獣のような体躯だった。
布越しにも分かる厚い肩。
フィアの肩に置かれた手は、人を押さえることに慣れた重さをしている。
「まあ、それでも隠しきれてはなかったけどな」
その少し後ろで、もうひとつの影が揺れた。
痩せぎすの男だった。
骨ばった輪郭が、人波の影に溶けている。
細い指が帽子の縁に触れ、口元だけがゆっくりと歪む。
振り返るより早く、乾いた笑い声がした。
「まったくだ」
細い声だった。
耳の奥を引っかくような声。
「あと少しで面倒になるところだった」
シリウスが振り向く。
その顔が、わずかに歪んだ。
「……お前たち」
声に、聞き覚えがあった。
教会から逃げ出したあの夜。
森の奥の礼拝堂で。
眠るフィアを追ってきた、あの二人。
フィアは知らない。
あの時、彼女は目を閉じていた。
だがシリウスは覚えている。
大柄な男の低い声も、痩せた男の乾いた笑い声も。
教会に雇われた密偵。
あるいは、それに近い何か。
シリウスの指が剣の柄へ動く。
だが、その一瞬で大柄な男の手がフィアの肩にさらに沈んだ。
「おっと」
男が笑う。
「動くなよ、騎士様」
その呼び方に、シリウスの瞳が冷える。
「手を離せ」
「怖い顔だ」
痩せた男が、帽子の陰で口元だけを歪めた。
「でも、ここで騒ぐのは困るだろう? 聖女様が目立つ」
フィアの肩が震えた。
聖女様。
その呼び方が、嫌だった。
丁寧なはずなのに、そこには敬意などなかった。
人として呼ばれていない。
価値のある荷物を見つけた時のような声だった。
ルカも同時に顔を上げていた。
その呼び方と、シリウスの反応で理解した。
――追ってきた連中だ。
いつもの軽さは、もうどこにもなかった。
「……離した方がいいよ」
低い声だった。
「その手、後悔することになる」
大柄な男はルカを一瞥し、鼻で笑った。
「お前は誰だ?」
「通りすがり」
「なら、通り過ぎろ」
ルカの琥珀の瞳が細くなる。
けれど動けない。
動けば、男の手がフィアに何をするか分からない。
人が多すぎる。
門番も、旅人も、荷馬車も、すべてが邪魔だった。
大柄な男がフィアの肩を押さえたまま、低く笑った。
「このまま司教様の嫁にするなんて、勿体ないな」
フィアの身体が固まる。
司教。
その単語だけで、胸の奥が冷える。
「なあ、少し遊んでから帰ろうか」
痩せた男が、帽子の陰で口元だけを歪める。
「聖女様も、長旅で退屈しているだろうしな」
「黙れ」
シリウスの声が落ちた。
怒鳴ったわけではない。
けれど、その一言で空気が変わった。
冷えた刃のような声だった。
「その口を閉じろ」
痩せた男は笑った。
「おお、怖い」
「手を離せ」
「離さなかったら、どうする?」
シリウスは答えなかった。
答える代わりに、一歩踏み込もうとする。
だが、荷馬車がちょうど門へ向かって動いた。
馬が横へずれ、旅人が二人の間を塞ぐ。
門番が怒鳴り、誰かが振り返る。
そのすべてが、ほんの一瞬だけ、フィアと二人の間に壁を作った。
大柄な男は、その一瞬を逃さなかった。
フィアの身体が後ろへ引かれる。
「っ……」
足がもつれる。
布の端が引っかかる。
人の肩が視界を横切る。
フィアは声を出そうとした。
けれど、喉が凍りついたように動かない。
シリウスが叫んだ。
「フィア様!」
ルカも手を伸ばす。
「フィア!」
二人の声が、確かに聞こえた。
すぐそこにいるはずだった。
手を伸ばせば届く距離だったはずだった。
それなのに、その距離がひどく遠い。
ほんの一瞬。
ほんの半歩。
それだけで、届かなくなった。
それだけで、彼女は人波の外側へ引き戻された。
強く掴まれた肩が痛み、声が詰まる。
踏み出そうとした足は、石畳を滑るだけだった。
街の中へ入っていく人々は、誰も振り返らなかった。
そこでは、誰かが立ち止まることなど珍しくない。
誰かが連れて行かれても、流れは止まらない。
門の向こうでは、人々が笑っていた。
誰かが値段を叫び、馬車が進み、門番が次の旅人を通している。
そのすぐ外側で、フィアの名前を呼ぶ声だけが、人波に呑まれて消えた。
bad end.
迷いの代償




