54話
街が近づくにつれて、道の空気は少しずつ変わっていった。
最初に変わったのは、音だった。
それまでの街道には、馬の蹄が土を打つ音と、風に草が擦れる音ばかりがあった。
けれど今は、その奥に別のものが混じっている。
荷馬車の車輪が軋む音。
遠くで誰かが馬を叱る声。
鉄を打つような乾いた響き。
物を売る声なのか、呼び込みなのか、まだ言葉にはならないざわめき。
道幅も、いつの間にか広くなっていた。
踏み固められた土の両脇には、旅人が休むための小屋や、簡単な屋台がぽつぽつと並び始めている。
宿場の看板も増え、行き交う荷馬車の数も明らかに多い。
布を積んだ馬車。
木箱を積んだ馬車。
麻袋を山のように重ねた荷車。
その間を、商人らしき者、旅人、荷運び、傭兵まがいの男たちが行き交っていた。
フィアは、そのすべてを少し遅れて目で追っていた。
「……人が、たくさんいる」
思わずこぼれた声は小さかった。
ルカが前を向いたまま笑う。
「まだ街の外だよ。中に入ったら、もっといる」
「これで、まだ外なの?」
「うん。門の前はもっと混む」
フィアは返事に迷い、もう一度周囲を見た。
人が多い。
声が多い。
匂いも、色も、動きも多い。
山道や小さな村とはまるで違う。
そこでは、一つの音がよく響いた。
けれどこの道では、何かを聞き取ろうとしても、すぐに別の音が上から重なってくる。
落ち着かない。
そう思う一方で、フィアは目を逸らせなかった。
荷馬車の隙間から、色とりどりの布が見える。
籠いっぱいに積まれた果物が陽を受けて艶を帯びている。
屋台からは白い湯気が上がり、焼いた肉の匂いが風に乗って流れてくる。
知らないものばかりだった。
「……あれは?」
フィアが小さく訊く。
「果物だね。たぶん、南の方から来たやつ」
ルカが答える。
「あれは?」
「布。染め物かな。高そうだから、見るだけにしよう」
軽い調子だった。
フィアは少しだけ目を瞬かせる。
「見るだけでも、いいの?」
「いいよ。見るだけなら大抵ただ」
「……そうなんだ」
その返事は、少しだけ不思議そうだった。
視線を迷わせるフィアに、同じ馬に跨るシリウスが声をかける。
「フィア様」
呼びかけは静かだったが、彼女が気を取られていることに気づいている声だった。
フィアははっとして、前を向き直る。
「……大丈夫」
そう答えたものの、シリウスはすぐには視線を外さなかった。
彼は街道の人の流れを細かく見ていた。
すれ違う旅人の手元や、荷馬車の陰。
道端に立つ男の顔。
休憩所の入り口と、路地へ続く細い道。
視線はひとつの場所に留まらず、常に次の危険を探すように動いている。
「そんなに張り詰めてると、逆に目立つよ」
前を行くルカが、振り返らずに言った。
シリウスの声が低くなる。
「人が多い場所は危険だ」
「うん。危険も多い」
ルカはあっさり認めた。
「でも、人が多いってことは、見られる数も増える代わりに、覚えられる数は減るんだよ」
シリウスは答えなかった。
ルカは続ける。
「人がいない道で三人連れを見たら、たぶん覚えられる。でもこの辺りなら、旅人の三人組なんていくらでもいる。
荷を持って、馬に乗って、少し疲れた顔をしてる。そういう人間に紛れた方が、ずっと自然だよ」
「自然に見えても、安全とは限らない」
「それもそう」
ルカは軽く返す。
「だから、目立たないように動く。怖がって固まるのも、逆に目立つよ」
「お前は慣れすぎている」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「褒めていない」
「だろうね」
二人のやり取りに、フィアは少しだけ視線を上げた。
険悪ではない。
けれど、どちらも譲ってはいない。
「……私は」
フィアが小さく言う。
二人の視線が一瞬だけ向いた。
「人が多いのは、少し怖い。でも……見たいものも、ある」
自分でも、どう言えばいいのか分からなかった。
それでも言葉にすると、胸の中のざわめきが少しだけ形を持った。
ルカは振り返って、少しだけ笑った。
「それでいいんじゃない?」
シリウスも、すぐには何も言わなかった。
ただ、フィアの前に出すぎないよう、馬の位置をわずかに整える。
道の端にいた女が、ふとフィアの方を見た。
すぐに視線は逸れた。
だが、その一瞬でフィアは自分の髪を隠す布の端に手をやった。
珍しい白色金の髪は、布の内側に入れている。
けれどすべてを隠しきることはできない。
風でこぼれた一房が頬に触れ、陽を拾って淡く光る。
シリウスがそれに気づき、わずかに馬の位置を変えた。
人の視線から遮るように。
ルカも気づいていただろう。
だが彼はそれを指摘せず、軽く前を向いたまま言った。
「もう少し行けば、街門が見えるはずだよ」
「……門」
フィアは繰り返す。
「そこを通ったら、街の中?」
「そう」
「……大きな街」
その言葉に、シリウスの視線がわずかに動く。
「不安ですか」
「少しだけ」
フィアは正直に頷いた。
「でも、行きたいって言ったのは私だから」
シリウスは少しだけ黙る。
「無理はしなくていいです」
「無理じゃない、と思う」
「思う?」
「……まだ、よく分からない。でも、戻りたいわけじゃない」
ルカはその会話を聞きながら、何も言わなかった。
それからしばらく、三人は人の流れに沿って進んだ。
宿場が近づくにつれ、道の両側はさらに賑やかになった。
屋台の鍋からは湯気が立ち、馬具を扱う店先では革紐や金具が吊るされている。
子どもが二人、荷車の陰を縫うように走っていき、母親らしき女に叱られていた。
フィアはその声に思わず視線を向けた。
「子どもも、いるんだね」
「そりゃいるよ」
ルカが言う。
「街道沿いは、旅人だけの場所じゃないから」
「……みんな、ここで暮らしてるの?」
「暮らしてる人もいるし、通り過ぎる人もいる。商売してる人も、待ってる人も、逃げてる人もいる」
最後の言葉だけ、少しだけ軽すぎた。
シリウスがルカを見る。
「逃げている人間も、珍しくないということか」
「珍しくはないね」
ルカは淡く笑う。
「だからこそ、紛れられる」
フィアはその言葉を聞いて、道端で水を飲む旅人を見た。
馬の鼻先を撫でる少年や客に釣り銭を返す店主。
誰かを呼ぶ女の声。
世界には、こんなに多くの暮らしがある。
自分はそのどこにも属していない。
けれど、それでも見ていたいと思ってしまう。
「フィア様」
また、シリウスの声がした。
今度は少し近い。
フィアが人の流れへ意識を奪われすぎたことに気づいたのだろう。
「……ごめんなさい」
フィアは小さく答えた。
「謝ることではありません」
シリウスはそう言ったが、その目はすでに別の場所を見ていた。
宿場の端、人の流れが一瞬だけ不自然に割れた。
大柄な男がいた。
荷馬車の陰から半身だけ見えたその男は、他の旅人より頭ひとつ分大きく、肩幅も広い。
粗末な外套を着ているが、布越しにも体の厚みが分かる。
顔は深くかぶった帽子の影でよく見えない。
そのすぐ後ろに、もう一人。
痩せた男だった。
背は高いが、肉が落ちたように細く、首筋や指の骨ばった輪郭だけが妙に目につく。
二人は会話をしていない。
荷を見るでもなく、宿場を見るでもなく、ただ人の流れの端に立っていた。
その横を通り過ぎる瞬間、フィアの背筋に冷たいものが走った。
理由は分からない。
顔を見たわけではない。
声を聞いたわけでもない。
それでも、身体の奥が先に怯えた。
いつかの礼拝堂の夜を思い出しかけて、フィアは息を止める。
「フィア様?」
シリウスがすぐに気づく。
フィアは振り返ろうとした。
けれどその時には、人と荷馬車が視界を遮っていた。
大柄な影も、痩せた男の姿も、もう見えない。
「……今」
声がうまく出なかった。
シリウスの目が鋭くなる。
彼は周囲を見回した。
手綱を握る手にわずかに力が入る。
「何か見ましたか」
「分からない。ただ……」
「ただ?」
「寒くなった、みたいな感じがして」
ルカがこちらを振り返る。
その表情は軽くない。
「知ってる顔?」
フィアは首を振る。
「顔は見えなかったんだけど……でも、嫌な感じがして」
シリウスはまだ周囲を探っていた。
だが、人の流れは途切れない。
荷馬車が進み、旅人が歩き、屋台の男が声を張る。
その中に、さっきの二人組の姿はもう溶けてしまっていた。
「止まるのはよくない」
ルカが低く言った。
「探すにしても、この流れの中で立ち止まる方が目立つ」
シリウスは一瞬だけルカを見た。
従いたくない、というより、認めざるを得ない顔だった。
「……進みます」
シリウスはそう言い、フィアの近くへ馬を寄せた。
「怖ければ、すぐ言ってください」
「うん」
「我慢する必要はありません」
「……分かった」
ルカが前から小さく言う。
「二人とも、視線は下げないで。警戒してるって、周りに伝わる」
シリウスの眉がかすかに動く。
「お前は本当に、そういうことに慣れているな」
「そういう場所で生きてきただけだよ」
ルカの返事は軽かった。
けれど、少しだけ本音のようにも聞こえた。
三人は再び進み始めた。
けれど、さっきまでのざわめきは少し違って聞こえた。
同じ人の声。
同じ荷馬車の音。
同じ屋台の匂い。
それなのに、その中のどこかに自分たちを見ている目があるのではないかと、フィアは思ってしまう。
しばらくして、宿場を抜けると、道の向こうに街の輪郭が見え始めた。
最初に見えたのは、門の上に立つ旗だった。
その下に石造りの門があり、門の前には荷馬車が列を作っている。
街を囲う石と木の塀が長く伸び、その向こうから絶えず音が漏れていた。
街そのものが、遠くから呼吸しているようだった。
フィアは思わず息を呑んだ。
「……この街、前に寄った港町よりも大きい?」
「そうだね」
ルカが答える。
「思ってたのと違う?」
「分からない。思ってたより……大きい」
「中に入ったら、もっと大きく感じるよ」
「それは、少し怖いかも」
フィアがぽつりと言うと、ルカは小さく笑った。
「怖かったらそう言えばいいよ」
「また、助けてもらうことになる」
「それくらいなら、慣れてる」
その言葉に、フィアは何か言いかけて、やめた。
シリウスは笑わなかった。
彼は門の前に並ぶ人々、荷馬車の数、門番の位置、街の外へ続く別の道、塀の切れ目を順に見ている。
街に入る前から、すでに出る道を探しているのだと分かった。
「ここからは、今まで以上に離れないでください」
シリウスが言う。
「うん」
フィアは頷いた。
「私、ちゃんと見てる」
「何をですか」
「周りと……二人のこと」
シリウスは一瞬だけ言葉に詰まった。
「ご自身のことを、まず気にしてください」
「それも、見る」
ルカが小さく吹き出した。
「いいね。少しずつ旅人っぽくなってきた」
「本当?」
「半分くらい」
「半分……」
フィアは少しだけ眉を下げた。
その時だった。
門へ向かう人波の向こうに、妙に目を引く影が見えた。
背の高い男だった。
周囲の人間より頭ひとつ抜けていて、暗い外套をまとっている。
ただ立っているだけなのに、人の流れから少しだけ外れて見えた。
フィアの胸が、わずかに強張る。
知っている。
そう思ったわけではない。
けれど、知らないとも言い切れなかった。
黒い髪の輪郭。
動かない姿勢。
人混みの中にいるのに、どこにも属していないような立ち方。
一瞬、視線が合ったような気がした。
フィアは瞬きをする。
次の瞬間には、もういなかった。
人波が揺れ、荷馬車が前へ進み、商人の男が大声で何かを言う。
さっきの背の高い男の姿は、どこにも見えない。
「フィア様?」
シリウスの声。
フィアは自分がまた足を止めかけていたことに気づいた。
「……今、誰か……」
シリウスが即座に周囲を見る。
ルカも目を細める。
「さっきの二人?」
ルカが訊く。
フィアは首を振った。
「違う……と思う」
「どんな人でした」
シリウスが訊く。
けれどフィアは、うまく言葉にできなかった。
「こちらを見ていましたか」
「分からない」
さっきの寒気とは違う。
もっと別の、言葉にしづらい感覚だった。
ルカは何も言わなかった。
ただ、フィアの横顔を一度見てから、街門の方へ視線を戻す。
「門で止まると目立つ。入ろう」
その声は普段より少し低かった。
シリウスは短く頷く。
三人は門へ向かった。
門の前では、荷馬車が簡単な確認を受けている。
門番は積み荷をすべて調べるほど厳しくはないが、人の流れを見ている目は怠けていない。
商人は慣れた様子で言葉を交わし、旅人は短く頭を下げて通っていく。
ルカが自然に前へ出た。
だが、シリウスより先に行きすぎることはしない。
「旅の途中。補給と宿を探してる」
門番に尋ねられる前に、ルカは気安くそう言った。
声は軽く、表情も柔らかい。
いかにも道中で立ち寄った旅人らしい温度だった。
門番の視線が三人を一度なぞる。
フィアの布に隠した髪の端で一瞬だけ止まったような気もしたが、深く問われることはなかった。
「面倒は起こすなよ」
「分かってるよ」
ルカはそう返し、軽く頭を下げる。
シリウスは黙っていた。
必要以上に目立つことを避けているのだろう。
フィアはただ、息を整えることだけを考えていた。
門の向こうから、街の喧騒が押し寄せてくる。
踏み出せば、もう人波の中だ。
立ち止まれば、その外側に残る。
フィアは、自分の足元を見た。




