52話
村を離れてから、数日が過ぎた。
三人の旅は拍子抜けするほど穏やかだった。
追手の影を見たわけでもなく、野盗に襲われたわけでもない。
小さな村をひとつ抜け、街道沿いの簡素な休憩所で馬を休ませ、夕方になれば馬車宿に部屋を取る。
朝が来ればまた荷をまとめ、乾いた道を進む。
ただそれだけの繰り返しだった。
空はよく晴れていた。
雲の薄い日には、遠くの稜線まで青く透けて見える。
馬車を失い、馬に乗って進む三人にはありがたい天気だった。
街道の脇には背の低い草が風に揺れ、ときおり荷馬車が軋む音だけが遠くから近づいてきては、また遠ざかっていく。
何も起きていない。
その事実が、かえってシリウスには落ち着かなかった。
平穏が続くほど、どこかで何かを見落としている気がする。
自分が気づけていないだけで、教会の手も、国の目も、もう近くまで伸びているのではないか。
そう考えてしまえば、晴れた空も、旅人たちの無関心な往来も、ひどく頼りないものに見えた。
シリウスは警戒を解かなかった。
道を歩いている間も、休憩の間も、宿へ入る時でさえ、視線は無意識のうちに周囲を巡る。
何を警戒しているのかと問われれば、答えはいくつもある。
追手も、野盗も、フィアが見たあの不穏な男もそうだ。
けれどこの数日、彼の意識はそれだけに向いていたわけではなかった。
ルカのことを、見ていた。
彼の目的や正体にまで疑いが及んでいるわけではない。
少なくとも、まだそこまでは届いていない。
ただ、フィアに向ける気遣いの早さが、妙に引っかかっていた。
街道沿いの休憩所は、どこも似たような造りだった。
粗末な屋根と、雨除け程度の壁。
運が良ければ、すぐ近くに水場もある。
木の卓がいくつか並び、古びた樽や木の箱が椅子代わりに置いてあった。
誰かが残していった焚き火を別の誰かが使い、共有する。
馬を休ませる旅人たちが短く腰を下ろし、水を飲み、乾いたものを口にし、また先へ進む。
誰も長居はしないし、他人の事情に興味も持たない。
それがこういう場所の、暗黙の空気だった。
その日、三人も昼の休憩のために、そうした小さな休憩所へ立ち寄った。
フィアは木の卓の端に腰を下ろした。
粗末な旅人の服を纏っていても、彼女は人の中で少しだけ浮いた。
露骨に見つめられるわけではない。
休憩所にいた旅人たちは、疲れた顔のままそれぞれの食事や馬の世話に気を向けている。
それでも、視線は一度だけ流れる。
白色金を宿した長い髪は布で隠していてもすべては覆いきれず、こぼれた毛先が陽を受けるたびに淡く光る。
青碧の瞳は周囲を見ているようでいて、落ち着く場所を探すようにわずかに揺れていた。
場に馴染みきらない細い身体つきが、どうしても人の目を引いてしまうのだ。
フィアはそれに気づいているのかいないのか、少しだけ肩を縮めた。
ルカはフィアの様子を眺めながら荷を下ろすと、彼女とは対照的に慣れた手つきで昼食の支度を始めた。
干し肉と硬いパンだけでは味気ない、とでも思ったのだろう。
水袋の水を小鍋へ移し、細く刻んだ乾燥野菜を放り込み、焚き火の端へかける。
火を借りることにもためらいがなく、誰が先に使っていたのか確かめることさえしない。
ここではそういうものだと知っている動きだった。
しばらくすると、薄い湯気が立ちはじめる。
乾いた野菜が水を吸って開き、わずかに匂いが出る。
塩を少し。
それだけで、旅の途中の食事としては十分なものになる。
「はい」
ルカは木椀にスープを注いで、先にフィアへ渡した。
それから硬いパンと、塩気の強いチーズを卓へ並べる。
パンは乾いていた。
指で押してもほとんど沈まず、軽く叩けば乾いた音が返る。
そのまま齧るには固すぎるし、口の中の水分ばかりを奪いそうだった。
フィアはそのパンを手に取ったまま、少し困ったように見つめる。
どう食べるのが正しいのか分からない。
そのまま口へ運ぶべきか、ちぎるべきか、それすら少し迷っているのが分かった。
ルカは、その戸惑いにほとんど間を置かず気づいた。
シリウスが手を伸ばすよりも早く声をかける。
「そのままだと、たぶん顎が疲れるよ」
フィアが顔を上げる。
ルカは自分の分のパンをちぎり、木椀のスープへ沈めた。
「こうやって浸しておくと、まだ食べやすい」
ルカの指先は慣れている。
硬いパンの質も、汁の吸わせ方も、待つ時間も、説明するまでもなく知っている手つきだった。
スープは薄い。
塩気ばかりが舌に残り、具も乾燥野菜の切れ端がわずかに浮く程度だ。
それでも、パンに汁を吸わせれば乾いた硬さはかなり和らぐ。
フィアは少し遅れて、同じようにパンを浸した。
ぎこちない手つきで待ち、そっと口へ運ぶ。
「……食べやすい」
小さな声だった。
ルカは軽く肩をすくめる。
「こういう時は、こんなスープでもあると違うでしょ」
その言い方が、からかうほど軽くもなく、世話を焼いていると誇るほど重くもない。
シリウスは向かい側から、そのやり取りを見ていた。
理にかなっている。
旅慣れた人間なら、あの程度の工夫は身についていて当然だろう。
そう思う一方で、やはり引っかかる。
気づくのが早い。
フィアが困ってからではなく、困るより先に手が伸びる。
その速さが、静かに胸に残った。
ルカは卓の端に置かれていた硬いチーズにも手を伸ばした。
塩漬けが強く、そのままでは匂いも刺激もきつい。
ルカはナイフで薄く削ると、それを火に少しだけかざした。
表面がじわりと緩み、油が滲む。
「これも少し温めた方がいいよ」
そう言って、柔らかくなった欠片をパンの上へ乗せる。
フィアは一瞬ためらってから、それを受け取った。
口にしたあと、ほんの少しだけ表情が変わる。
「おいしい」
「でしょ」
ルカはそれ以上、説明もしないし褒めもしない。
自分の分を同じように食べ始めるだけだ。
だからこそ、余計に自然に見える。
シリウスの視線が、ふとルカの横顔へ向いた。
明るい陽の下では、ルカの金色の髪は軽やかに見える。
乾いた光を含んで、明るい色なのに不思議と派手にはならない。
琥珀の瞳は柔らかい印象を与えるが、ときおりその奥が何を見ているのか分からなくなる瞬間がある。
笑っていて、肩の力も抜けている。
それなのに、気を抜いているようには見えない。
軽いようで、軽くない。
掴めそうで、掴めない。
その印象だけが、はっきりと残る。
昼を過ぎると、三人はまた道を進んだ。
言葉は多くない、それぞれに何か考え込んでいるような空気だった。
夕方に辿り着いた馬車宿は、街道沿いによくある建物だった。
軒先の看板は風に軋み、併設された厩舎からは馬の鼻息と干し草の匂いが漂ってくる。
扉を開けると、酒と煮込みの匂い、それに人の熱気が一度に流れ込んできた。
食堂の中には長い卓が並び、商人や荷運びが声高に話している。
油の染みた床。
積み上げられた荷。
木椀のぶつかる音。
湯気と煙で少し曇った空気。
誰もが自分の疲れを酒と食事で流すことしか考えていないように見えた。
ルカは一度だけ室内を見渡すと、迷わず奥の席を指した。
出入口から少し外れ、壁を背にでき、人の流れを真正面から受けにくい場所だった。
「ここなら落ち着くでしょ」
そう言って、先に椅子を引く。
フィアは頷いて腰を下ろし、シリウスは何も言わずに周囲を確認した。
席の選び方は、偶然のようでいてしっかりと計算されていた。
料理が運ばれてくる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
豆と野菜を煮込んだだけの簡素な料理だが、温かいというだけで夜の食事としては十分だった。
フィアはスプーンを取り、ゆっくりと口へ運んだ。
数日前よりは食べ方に迷いがない。
けれど、ざわついた食堂の空気にはまだ慣れないらしく、ときおり入口の方へ視線が向く。
ルカがそれに気づいた。
「疲れた?」
何気ない調子だった。
フィアは一瞬だけ視線を泳がせ、それから首を振る。
「……大丈夫」
「そういう顔には見えないけど」
ルカの声は柔らかい。
責めるわけでも、心配を押しつけるわけでもなく、ただそこへ触れる。
フィアは言い返せず、少しだけ目を伏せた。
否定しきれないのだろう。
シリウスはそのやり取りを聞きながら、胸の奥に小さく残る違和感を持て余していた。
ルカの言葉は間違っていない。
フィアの疲れに気づくことも、休ませようとすることも、必要な配慮だ。
それでも、やはり早い。
フィアが「大丈夫」と言い切る前に、その奥へ踏み込んでしまう速さがある。
自分と同じくらい、あるいは時には自分より先に見ている。
そのことが妙に落ち着かなかった。
その夜、フィアが少し早く部屋へ上がったあと、シリウスは宿の裏手へ出た。
馬に水をやるためでもあり、少し頭を冷やしたかったのかもしれない。
裏手は、表の喧騒が嘘のように静かだった。
水桶の縁に月明かりが淡く光り、厩舎の奥で馬が鎖を鳴らす。
土の匂いと冷えた夜気が、食堂の熱を少しずつ洗い流していく。
「やっぱりここにいた」
振り返ると、ルカが木杯を片手に立っていた。
宿の灯りを背にしているせいで、金色の髪の輪郭だけがぼんやりと浮いて見える。
「……何か用か」
シリウスが言うと、ルカは肩をすくめた。
「用というか、あの村を出てから……妙に君と目が合うな、と思ってさ」
ルカは水桶の近くまで歩いてきて、水面を覗き込む。
そこには月が揺れていた。
少しの沈黙のあと、シリウスが口を開く。
「慣れているな、と思っただけだ」
ルカは水面から目を上げる。
「そう見える?」
「宿の選び方も、席の取り方も」
シリウスは一拍置く。
「……人との距離の取り方もだ」
ルカはすぐには答えなかった。
木杯の縁を親指でなぞりながら、少しだけ笑う。
「はは、そこまで見てるんだ」
「ついでに見えるだけだ」
その言い方には、フィアを見ていれば自然と視界に入る、という静かな牽制が滲んでいた。
ルカは小さく息を漏らした。
「……困ってる相手を放っておく趣味じゃないだけだよ」
「助けることに慣れているように見える」
その言葉に、ルカはわずかに目を細めた。
否定もしない。
肯定もしない。
「シリウスが堅すぎるんじゃない?僕は君が困っていても同じようにするよ」
軽く返す。
だが、その軽さの奥にあるものまでは見せない。
嘘ではない。
けれど、答えてもいない。
濁し方がうますぎる。
それ以上追及しても、この場では何も出てこない。
そう判断して、シリウスは会話を切った。
そのルカの性質にフィアもシリウスも何度も助けられていることから強くは問いただせない。
「……そうか」
深追いはしなかった。
水桶の表面だけが静かに月を揺らしている。
ルカは横目でシリウスを見る。
月の明かりを弾くような銀の長い髪は、旅人の服装をしていても、その人間がただの旅人ではないと告げていた。
青い瞳は感情を消しているのではない。
見せる範囲を自分で決めている。
立ち方ひとつで分かる。
守るために前へ出ることに、躊躇がない人間だ。
旅人の格好をしていても、シリウスは間違いなくフィアを守る騎士に見える。
その真っ直ぐさは、ときに眩しくすらある。
――面倒だな。
ルカはそう思う。
誤魔化しが効きにくい。
それに、自分にはああいう形では立てない、という小さな劣等感もあった。
今は敵ではない。
だが、最後まで何も気づかないままではいてくれない相手だとも分かる。
部屋へ戻る前、シリウスはふと二階の窓を見上げた。
フィアのいる部屋は暗い。
もう休んでいるのだろう。
その窓を見上げる横顔を、ルカは黙って見ていた。
その窓の奥、フィアは疲れているはずなのに、眠れず窓の外から星のない夜空を見ていた。
旅の数日間、フィアは二人の会話や空気を何度か遠く感じていた。
険悪ではない。
言い争っているわけでもない。
けれど、どこか噛み合いきらない時がある。
その中心に自分がいるのではないか、と考えてしまう。
自分がいるから、シリウスは警戒を強める。
自分がいるから、ルカはここまで付き合っている。
自分がいなければ、二人はこんなふうに疲れた顔をしないのではないか。
そんな思いが浮かんでも、口には出せなかった。
言葉にした瞬間、それが本当になってしまう気がしたからだ。




