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many merry bad ENDs  作者: 源泉


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51話

その日の昼前、三人は村を出た。

朝の冷たさはすでに薄れ、陽の光はやわらかく地面を温めはじめていた。

夜露を吸った土はまだわずかに湿っていて、踏みしめるたびに淡い匂いを立てる。

どこにでもある、穏やかな村の光景だった。


出発の前に、三人は一度だけ診療所へ立ち寄った。

白く擦れた木の扉を開けると、乾いた薬草の匂いがほのかに鼻を打つ。

棚には小瓶や包みが整然と並び、窓際には柔らかな日の光が静かに差し込んでいた。


奥から出てきた先生は、三人の姿を見るなり、何かを察したように目を細めた。

引き留めることも、詳しく事情を尋ねることもしない。

ただ、短く言う。



「もう出るのか」


「うん。世話になったね」



ルカがいつも通りの軽さで答える。

すると先生は小さく鼻を鳴らし、それから遠慮なくルカの肩口を軽く小突いた。



「っ、痛……!」



思わず顔をしかめたルカに、先生は呆れたように眉を寄せる。



「あまり無理をするなよ。治りかけが一番厄介なんだ」


「分かってるよ」



そう言いながら、ルカは痛がったまま笑う。

その笑い方が普段と変わらないぶん、フィアの胸には逆に小さな痛みが残った。


本当に、怪我を負っていたのだ。

自分のために。

軽く流されるほど、その事実は重くなる。


フィアはうまく言葉を見つけられないまま、小さく頭を下げた。



「……ありがとうございました」



先生はフィアを見て、ほんの少しだけ表情を和らげた。



「礼はいい。道中、体を冷やさないようにしなさい」



診療所を出る時、薬草の匂いが背中に残った。 振り返れば、先生はもう扉の内側に立っていて、それ以上は何も言わなかった。


借りていた空き家へ戻り、最後の荷を持ち出す。 戸口のところで、フィアは一度だけ足を止めた。

見慣れたわけでもない、ほんの数日身を寄せただけの家だ。 それでも、雨風を凌ぎ、夜を越え、怯えたままでも眠ることを許してくれた場所だった。


何か言うべきかのように、唇がかすかに動く。 けれど結局、言葉にはならない。



「フィア、忘れ物ない?」



背後から、ルカが軽い声で訊く。

フィアは小さく首を振った。

その仕草はいつもより少しだけ遅い。



「……うん」



ルカはそれ以上は何も言わず、荷を肩へ引き上げた。

いつも通りの気安さで振る舞っているように見えるのに、どこかほんのわずか、距離を測るような静けさが混じっている。


シリウスは戸口の外に立ち、すでに周囲へ視線を走らせていた。

村の端。低い柵。乾いた道。遠くの木立。

危険があるとは限らない。

だが、ないと決めるには、彼はあまりにも多くのものを見てきた。



「行きましょうか、フィア様」



その一言で、三人はようやく村を離れた。

村人たちは深入りしなかった。

去っていく事情を聞きたがる者も、引き留める者もいない。


ただ、水を分けてくれた女が「お気をつけて」とだけ言い、年寄りの男が馬の様子を一度見てから無言で頷いた。

それだけだった。



フィアは何度か口を開きかけ、そのたびに言葉を飲み込んだ。

礼を言いたいのか、それとも別の何かを言いたいのか、自分でも分からないようだった。


結局、頭を下げることでしか返せないまま、村の家並みは少しずつ後ろへ遠ざかっていく。


ルカに対しても同じだった。


自分のせいで、シリウスだけでなく、ルカまで危ない目に遭っている。

その感覚は、朝から消えないまま胸の奥に沈んでいた。

さっき診療所で聞いた、あの短い痛がる声が、曖昧だった罪悪感に輪郭を与えてしまっている。

助けたいと言われたことも、まだどう受け取ればいいのか分からない。


シリウスはそんなフィアの沈黙を横目に見ていたが、何も言わなかった。

言葉を差し出したところで、今の彼女には慰めにならないと分かっていたからだ。


村を出てしばらくは、シリウスの判断が優先された。


緩やかな街道から外れ、踏み固められてはいるが人通りの少ない脇道へ入る。


道の両脇には低い茂みが続き、その先には山裾の暗い緑が重なっていた。

風が吹くたびに草が擦れ、遠くで鳥が鳴く。

人の声は、もうほとんど届かない。



「そっちに行くんだ」



ルカが、さほど深刻でもない口調で言った。

シリウスは前を向いたまま答える。



「街道に近すぎる。人の目も、追跡の手も届きやすい」


「逆に、人がいない方が浮くこともあるけどね」


「それでも、見られない方がいい」



短いやり取りだった。

言い争いにはならない。

だが、互いに譲ってはいないことは十分に伝わった。


シリウスは、人目を避けることを優先していた。 野盗の残党。フィアが遭遇した男。教会の探索。 どれも完全には切り捨てられない以上、人の少ない道を選ぶのは自然だった。



一方でルカは、人の流れに紛れる方が安全だと考えている。

ただ、今はそれを強く押し通すつもりはないらしかった。


道はゆるやかに木立の近くへ寄っていく。

人の気配が遠のくにつれ、静けさは濃くなった。


誰にも見られない。 誰にも気づかれない。

そのこと自体が、フィアにはかえって心を落ち着かなくさせた。


風に揺れた枝の音に、肩がわずかに強張る。

茂みの向こうに何かいるのではないかと、意味もなく視線が吸い寄せられる。

人のいない静けさは、守られているようでいて、同時に置き去りにされるような気配もあった。



フィアは無意識のうちに、少しだけ歩幅を詰めていた。

前を行くシリウスと、横を歩くルカとの距離を、どちらにも寄りすぎないまま狭める。


その変化に最初に気づいたのはシリウスだった。 だが、声をかける前に、馬が小さく鼻を鳴らした。


一瞬遅れて、茂みの奥で草が大きく揺れる。

湿った土を踏むような音。


低く喉を鳴らす気配。

気づいた時には、灰色がかった痩せた獣が、道の脇の影から半身をのぞかせていた。


犬に似ている。 だが野犬と呼ぶには目が鋭く、狼と呼ぶには人里に近すぎる。


骨ばった身体に汚れた毛が張りつき、腹は空いているのか、肋がうっすら浮いて見えた。

もう一匹、少し離れた茂みの向こうにも気配がある。


フィアの足が止まる。


その瞬間には、シリウスが前へ出ていた。


身体ひとつ分、フィアを後ろへ下がらせるように立つ。

右手はすでに剣の柄へかかっている。

抜ききるより早く、張り詰めた気配だけで空気が変わった。


獣は低く唸った。

だが、シリウスの視線にぶつかると、わずかに後ずさる。


ルカもさりげなく位置を変えていた。

冗談めいた軽さは消え、いつでも動けるように体勢だけを整えている。

それでも、前へ出るのはシリウスの役目だと知っているように、一歩引いた場所にいた。


数秒にも満たない睨み合いの末、獣は低く身を引いた。

もう一匹の気配も、じりじりと茂みの奥へ遠ざかる。


やがて草むらの揺れだけが残り、気配は消えた。

シリウスはしばらくその場を動かなかった。

完全に去ったと判断するまで剣から手を離さず、耳を澄ませたまま辺りを探る。

ようやく緊張を解いた時には、道の静けさはさっきまでとは別物に変わっていた。


フィアは自分でも気づかないほど浅く息をしていた。

胸の奥が冷えたまま戻らない。

人に見つかる怖さとは違う。

もっと原始的で、説明のいらない恐怖だった。

ルカが小さく息をつく。



「……人がいないって、こういうことでもあるんだよね」



責める響きはない。

ただ事実を置くような言い方だった。


シリウスはすぐには返さない。

自分の判断が間違いだったとまでは思っていない。

だが、フィアが怯えたことは無視できなかった。

歩き出しても、フィアの足取りは少しだけ固いままだった。

その様子を見て、ルカは今度こそはっきりと言う。



「街道そのものに戻れって言うつもりはないけど、もう少し人の流れに近い道の方がいいかもね。

人がいれば面倒もあるけど、何かあった時に完全に孤立はしない」



シリウスは黙る。

ルカの言っていることは理解できた。

そして、フィアの恐怖もまた現実だった。


しばらくして、フィアが小さく言った。



「……人が少ないのは、少し怖い」



その声は、さっきの獣の気配をまだ引きずっていた。 誰かに賛成したいのではなく、ただ、自分が感じたことをそのまま言葉にしただけだと分かる。


だからこそ、シリウスは否定できなかった。


ルカは何も言わない。

勝ったような顔もしない。

ただ、フィアの言葉をそのままそこに置いている。

シリウスは短く息を吐いた。



「……分かりました」



ようやくそう言って、道の先へ視線を向ける。



「街道から完全には外れない。だが、近づきすぎもしない。そのくらいなら取れるはずだ」



それは譲歩だった。

シリウスにとっては、人目を避けるという自分の優先を少し崩す形になる。

ルカにとっては都合がいい。

そしてフィアにとっては、ただ決めてもらったのではなく、自分の言葉が反映された道だった。



三人は改めて歩き出す。

先ほどまでより、人の往来に近い道へ寄っていくと、遠くに荷馬車の軋む音が聞こえた。

ときおり、風に乗って誰かの話し声も混じる。

それだけで、フィアの肩のこわばりは少しだけ和らいだ。


けれど、今朝から続いている重さまでは消えない。


ルカはまた普段通りの軽さを取り戻したように見える。

けれど、どこか少しだけ距離を測っている。

シリウスはそんなルカを意識して見ているが、まだ問い詰めることはしない。

フィアは二人を巻き込んでいる罪悪感を抱えたまま、それでも一度だけ自分で選んだ感触を胸に残していた。


やがて村は、道のうねりと木立の向こうに隠れて見えなくなる。


その直前で、フィアは一度だけ振り返った。


戻りたいわけではない。

けれど、留まれなかったことは分かっている。

あの静かな場所に長くいてはいけなかった理由を、三人とも、それぞれ違う形で知っていた。


先はまだ曖昧だった。


行く先も。

気持ちのあり方も。



それでも、もう歩き出してしまった以上、振り返るだけでは戻れない。

フィアは前を向き直り、何も言わずにまた歩き出した。




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