50話
翌朝の村は、昨夜と変わらず静かだった。
夜露を含んだ空気は冷えすぎず、土の匂いを薄く含んでいる。
軒先に吊された干し草が風に擦れる音と、遠くで鶏の鳴く声だけが、朝が来たことを知らせていた。
安全な村にいるとはいえ、シリウスは自分を落ち着かせるために小屋の周囲をひと通り見回ってから、中へ戻った。
この穏やかさが長く続かないことを知っているせいか、彼は朝の静けさを素直に受け取れなかった。
安全に見える場所ほど、そこから離れる判断が遅れる。
借りている空き家の中では、昨夜のまま卓の端に地図が伏せられていた。
その横には、まとめかけの荷、包まれた薬草、乾いたパン。
出発の支度はすでに始まっているのに、肝心の「この先」だけがまだ曖昧なまま残っている。
シリウスは紐で括った荷の重さを持ち上げて確かめた。
重すぎない。軽すぎもしない。
何かあった時にすぐ動けて、数日は凌げる量だ。
だが、その“ちょうどよさ”が、今の彼にはひどく頼りなく感じられた。
足りるかどうかではない。
本当に守り切れるかどうかだ。
窓際ではフィアが布包みを膝の上に乗せ、薬草をひとつずつ確かめていた。
細い指先が乾いた葉をそっと撫でるたび、かすかな香りが空気に溶ける。
旅装束はまだ体に馴染みきっておらず、座っているだけでもどこか落ち着かなさそうだった。
その向かいで、ようやく目を覚ましたルカが眠たそうに目をこすっている。
表情はいつも通りだ。
肩の力は抜けていて、口元には薄い笑みがある。
けれど、その姿が妙に部屋に馴染んで見えることが、シリウスには少し気にかかった。
この村での彼は、よく立ち寄る旅の商人というだけには見えなかった。
誰かが水を置き、誰かが干し草を足し、誰も余計なことは聞かない。
恩か、信頼か、あるいはもっと別のものか。
シリウスの中にある違和は、朝になっても消えていなかった。
「二人とも、早起きだね」
ルカが気軽に言う。
シリウスが顔を上げると、彼は視線だけを寄越した。
「シリウス、寝てないんじゃない?」
「寝ている」
短く答え、シリウスは荷を下ろす。
「お前こそ、怪我はどうなんだ」
「だいぶ良くなったよ。痛くないわけじゃないけど、動ける程度には」
平然とした声。
無理を隠すことに慣れた人間の響きだった。
その時、フィアの手が止まった。
「……あの……」
小さな声だった。
布を見つめたまま、言葉を選んでいる。
二人の視線が自然と集まる。
フィアは少し俯き、布の端を摘まんだ。
「私のせいで、シリウスだけじゃなくて……ルカまで、危ない目に遭ってる」
部屋の空気がわずかに沈んだ。
やはりそこを気にしていたのか、とシリウスは思う。
フィアは、自分が守られる理由に納得しきれていない。
守られるたびに、誰かの何かを奪っているように感じてしまう。
「それは――」
シリウスはすぐに否定しようとした。
だが、その前にルカが口を開いた。
「気にしすぎだよ」
軽い調子だった。
「僕はいろんな土地を巡ってきて、その分いろんな目にも遭ってる。このくらい、何でもないって」
肩をすくめる。
いつも通りの言い方。
それで終わるはずだった。
だが。
「でも」
フィアの一言で、それは止まった。
ルカの笑みは消えていない。
だが、目だけが違っていた。
場をほどくための目ではない。
何かを測るような、静かな目。
沈黙が落ちる。
外から桶の音が響いた。
遠くで笑い声がする。
そのどれもが、この部屋だけから切り離されているように感じられた。
「……別に、僕は――」
ルカは言いかけて、止めた。
その瞬間、シリウスの中で違和感が形を持った。
この男は、今、嘘をつこうとした。
いや――違う。
嘘で押し切ろうとして、やめた。
その“やめ方”が、不穏だった。
誤魔化すことはできたはずだ。
軽く流すことも、もっと穏やかにまとめることも。
それを、しなかった。
「……僕は」
ルカは小さく息を吐いた。
「フィアを助けたい、って思ってる」
静かな声だった。
「それじゃ、駄目かな」
シリウスは反射的にルカを見た。
言葉としては自然だ。
優しい響きですらある。
だが、それは慰めには聞こえなかった。
提示だった。
これから先に置かれる、何かの形。
まだ決まっていないはずの未来を、先に形にするような。
助けたいという言葉の底に、
それだけでは終わらない何かが沈んでいる。
シリウスは黙ったままルカの目を見る。
敵意はない。
欲もない。
だが――
ルカもまた、フィアを自分の選択の中心に置いている。
その置き方が、自分と同じかどうかが分からない。
分からないことが、最も不気味だった。
フィアは目を上げる。
驚いている。
けれど、受け取れない。
「……駄目、じゃない」
小さく言う。
「ただ……どう返したらいいのか、分からない」
シリウスはすぐに口を開いた。
「フィア様が今すぐ答える必要はありません」
自分でも硬い声だと分かる。
「感情で急ぐべきではない。安全を確保してから、改めて考えるべきです」
正論だった。
だが同時に、それは牽制でもあった。
ルカは静かにそれを受け止める。
「……分かってるよ」
柔らかい返事。
それでも、シリウスの中の違和感は消えなかった。
なぜ今、その言葉を選んだのか。
もっと安全な言い方はいくらでもあったはずだ。
それを選ばなかった理由が、見えない。
その見えなさこそが、危険だった。
「……ごめんなさい」
フィアが小さく呟く。
「謝る必要はありません」
即座に否定する。
「あなたが気に病むことではない」
それでも、フィアの表情は晴れない。
守る言葉だけでは、足りない。
それを理解していても、今のシリウスにはそれ以上を差し出せなかった。
「重くしすぎたね。ごめん」
ルカが空気を戻す。
「準備、進めようか」
三人はそれぞれ動き出す。
だが、何も終わっていない。
シリウスはルカの背中を見ていた。
軽い。
だが軽すぎない。
踏み込む位置を知りすぎている。
この男は、剣を向けられる形では来ない。
そういう相手だと、はっきり分かった。
「僕、馬たち見てくるよ。ついでに、皆に出るって伝えとく」
小屋を出たあと、ルカは一度だけ目を閉じた。
フィアを助けたい。
それは本当だ。
だが、それだけではない。
聖女の祈りは、意思がなければ意味を持たない。
それでも――別の意味で、価値を持つことはある。
フィアは、この見た目だ。
白色金を宿した髪、青碧の宝石の瞳。
誰かの手に渡れば、それだけで意味になる存在。
……あの王には、そういうものとして見られるはずだ。
そういう役目として、自分が動くはずだった。
本来なら。
教会から逃げた聖女を捕らえ、国へ連れ帰る。
そして祈らせる。
それが、最も分かりやすく、間違いのない選択だった。
けれど。
それを、そのまま選ぶことに、わずかな躊躇いがある。
理由は、はっきりしない。
フィアを見ていると、
ただ“そう扱う”ことに、どこかで引っかかる。
だからこそ。
さっきの言葉は、本音で――
そして同時に、少しだけ嘘だった。
助けたい。
だが、それだけで済むほど、自分は綺麗ではない。
シリウスは、もう気づき始めている。
それでも、まだ言葉にはできていない。
ルカ自身が、まだ言葉にしきれていないのだから。
朝の光が、少しずつ広がっていく。
ルカはいつもの笑みを作り、振り返った。
ここから先は、もう少し上手くやらなければならない。




