49話
その日も村に流れる空気は穏やかだった。
昼の光はやわらかく、家々の屋根を淡く撫でている。
風は冷たすぎず、強すぎず、遠くで薪を割る音が時折響いた。
何かが差し迫っているようには見えない。
だからこそ、その静けさは、かえって落ち着かなかった。
空き家の中では、卓の上に簡素な地図が広げられていた。
紙は古く、端が擦れている。
この辺りをよく知る者が、何度も手に取ってきた跡だった。
ルカは椅子に座ったまま、その地図の上に指を置いていた。
まだ立ち続けるのは難しいらしい。
けれど、顔色は前日よりもいくらかましになっている。
「そろそろ、考えないとね」
軽く言う。
けれど、その声の奥には冗談では済まない硬さがあった。
シリウスは黙って卓の向こうに立つ。
フィアはその間に座って、二人の顔を見た。
窓の外では、平穏な村の昼が続いている。
それなのに、この部屋の中だけ、少しずつ別の方向へ進み始めていた。
ルカが地図の一筋を指先でなぞる。
「ここを南へ下れば、大きな街道に出る。
人も荷馬車も多いし、宿場もいくつかある。途中で食料や薬を補えるし、旅人に紛れやすい」
フィアは地図を見る。
けれど、道の線の意味はまだ曖昧だった。
分かるのは、それがこの村の外へ続いているということだけだ。
「街道を行くのか」
シリウスが問う。
声音は低い。
反対する前提ではなく、確認する声だった。
「うん」
ルカは頷く。
「野盗が完全に消えたと思うには早いし、あの廃鉱山の件も変だ。残党がいなくても、あれをやった何かはいる。
そういうやつは、隠れたから見失う相手じゃない」
“あれ”、野盗たちの拠点で起きたこと。
話題に出たとたん、フィアの胸の奥が小さくこわばった。
顔には出さないようにする。
けれど、灰色の目が一瞬だけ浮かぶ。
低い声も。
フィアはそっと指先を膝の上で重ねた。
ルカは続ける。
「なら、人目に紛れたほうがいい。見つかるのを完全に避けるより、見つかっても特定されない方がいい」
シリウスの目が細まる。
「人目につくこと自体が危険だ」
間を置かず返る。
「フィア様の存在が露見すれば、それだけで追跡の口実になる。噂は広がる。
教会の手も、国の者も、人の流れがある場所ほど入りやすい」
「入りやすいけど、消えやすくもある」
ルカは淡々と言った。
「山道は隠れやすい。でも、一度見つかったら終わりだ。逃げ場がない。街道なら紛れられる。追う側だって、目印が曖昧になる」
「それは、見つかる前提の考え方だ」
シリウスの言葉は静かだった。
怒っているわけではない。
けれど、譲る気のない音だった。
ルカは小さく笑う。
「そうだよ。見つからない前提で動くより、見つかったあとを考えた方が現実的だと思ってる」
「私は、見つからないように動くべきだと思っている」
きっぱりと言う。
「接触そのものを避ける。人の少ない道を選ぶ。
噂を立てさせない。フィア様が人の目に入ること自体が危険だ」
二人の視線が地図の上で交わる。
言い争いではなかった。
声を荒らげもしない。
どちらも理にかなっている。
どちらも、フィアを守るために言っている。
それなのに、噛み合わない。
ルカは流れに紛れる道を見ている。
シリウスは流れそのものから外れる道を見ている。
フィアはその間にいた。
自分が中心にあって、そこへ危険が集まってくる。
二人ともそのことを分かっている。
だから方法を考えている。
分かる。
どちらも正しいのだと思う。
それでも、どちらを選べばいいのかは分からなかった。
自分が決めるべきなのかどうかさえ、うまく分からない。
フィアが黙ったままいると、ルカがふっと視線を上げた。
「……どっちにしても、長くここにはいられない」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ引き締まる。
ルカは地図から手を離した。
野盗の残党も、フィアが見た男も、教会も。
表向きの理由としては、どれも十分すぎるほどだった。
そして全部、本当でもあった。
けれど、ルカの胸の内にある理由は、それだけではない。
この村には、自分をただの旅商人として扱わない者がいる。
同じ国の匂いを持つ者。
昔の恩で動く者。
何も知らない顔をしながら、必要な時だけ手を貸す者たち。
長くいれば、いずれ綻ぶ。
関係も、立場も、隠しているものも。
この村にいると、自分は少しだけ素に戻りやすい。
それが一番厄介だった。
「村に迷惑をかけたくないしね」
ルカは最後に軽くそう付け足した。
本音を覆うような、薄い調子だった。
シリウスはそれを聞きながら、少しだけ視線を落とす。
「……ここを出ること自体には異論はない」
それは譲歩だった。
けれど、納得ではない。
「ただ、人の多い道を通るなら、姿をできるだけ隠す必要がある。荷も厳選しなければならない」
「その辺は同意」
ルカは頷く。
「目立たないようにはする。でも、動きやすさは残したい」
まだ完全には揃わない。
けれど、進むことだけは決まりつつあった。
その後、三人は必要なものを確かめ始めた。
シリウスは食料と水、それから予備の布と薬を数える。
一つ多いくらいでちょうどいい、という考え方だった。
足りないことを前提にしない。
何があっても守り切るための備えを選ぶ。
ルカは逆だった。
袋を軽くし、持つものを絞る。
必要最低限。足りない分は現地で補う。
動けることの方が優先だった。
「それは削りすぎじゃないか」
シリウスが言う。
「削ってるんじゃなくて、絞ってるんだよ」
ルカが返す。
「重い荷物は逃げるときに邪魔になる」
「最初から逃げる前提なのか」
「前提にしてるんじゃない。可能性を捨ててないだけ」
また少しだけ噛み合わない。
フィアはそのやり取りを聞きながら、卓の端に置かれた外套へ手を伸ばした。
落ち着いた色合いの布地だった。
明るい髪も、白い肌も、なるべく目立たないように選ばれている。
頭全体を覆うための布もあった。
顔の輪郭まで隠せるような、旅人用の簡素なものだ。
それを手に取ったとき、胸の奥で何かが沈んだ。
隠す。
自分を目立たなくする。
気づかれないようにする。
それは必要なことだと分かっている。
けれど、その布を持つ自分が、荷物の一つみたいに思える瞬間があった。
守るため。
連れていくため。
隠しておくため。
フィアは何も言わず、布をたたみ直した。
午後になると、村の者たちが何人か顔を出した。
頼むより先に、馬はすでに見られていた。
水桶も新しくなっている。
干し草も足されていた。
「これで足りるだろ」
乾燥肉と固いパンを抱えた男が、卓の上へ無造作に置く。
「薬草も少し分けてもらってきた」
別の女が布包みを渡す。
何の確認もいらないような口ぶりだった。
「あとは好きに使え」
「長くはいないんだろ」
その言い方は、事情を説明されるのを前提にしていなかった。
分かっているから聞かない。
そういう距離だった。
ルカは短く礼を言うだけで済ませる。
それを見て、フィアはまた小さく思う。
――この村で、ルカは何をしてきたのだろう。
世話になっている、というだけでは説明のつかない空気がある。
信頼。
沈黙。
知っていて踏み込まない距離。
それは心地よいようでいて、だからこそ少し怖かった。
日が傾きはじめる頃、ようやく大まかな方針だけは決まった。
最初は人の流れに近い道を使う。
ただし、宿場へ深く入りすぎない。
必要なら途中で外れる。
街道と裏道の折衷だった。
完全な合意ではなかった。
ルカはもっと流れに紛れたがっている。
シリウスはもっと隠れたがっている。
それでも、どちらか一方だけには寄せきれなかった。
三人とも、それで十分だと言い切れないまま、荷をまとめていく。
窓の外では、村の夕方が静かに色を深めていた。
人の話し声。
家畜の気配。
食事の匂い。
ルカはその気配を聞きながら、ゆっくりと息を吐いた。
ここにいれば、守れたのかもしれない。
少なくとも、もう少しだけ考える時間は持てた。
身体も休められる。
フィアも落ち着いている。
シリウスだって、今はまだここに剣を抜かずにいられる。
けれど、ここにはいられない。
ルカは視線を伏せた。
安全そうに見える場所ほど、長く置いてはいけないものがある。
人の目。
繋がり。
そして、自分自身。
ここにいると、隠しているものが少しずつ輪郭を持ち始める。
それが、一番まずい。
ルカは外へ視線を向けたまま、小さく目を細めた。
フィアは不安を抱えたまま黙っている。
シリウスは警戒を解いていない。
自分だけが、別の焦りを抱えている。
同じ場所にいても、見ている先は揃っていない。
それでも、進むしかなかった。




