48話 月と灰色
外の空気を吸いに行ったフィアとシリウスが戻ってきたとき、空き家の中には昼前のやわらかな光が差し込んでいた。
戸口の影が床に細く伸び、卓の上に置かれた器の縁を淡く照らしている。
「おかえり」
ルカが顔を上げた。
椅子に座ったまま、背もたれに軽く体を預けている。まだ無理はできないらしい。
フィアは小さく頷いた。
「……ただいま」
歩いたあとだからか、頬の色は少しだけ良い。
熱も、もうだいぶ下がっている。
ただ、完全ではない。
身体の奥に残る重さが、動きの端々にまだ滲んでいるように見えた。
シリウスはその様子を一瞥し、すぐに卓の方へ向かう。
冷ました白湯と薬を整え、フィアの前へ差し出した。
「飲んでください」
「もう熱、下がったと思う……」
「思う、では判断してはいけません」
いつも通りの調子だった。
穏やかだが、譲らない。
フィアは小さく息をついて、それでも受け取る。
口をつけると、少しだけ顔が歪む。
薬を飲むのには慣れていても、苦味が好きなわけではない。
薬を飲んだフィアに今度は蜂蜜を溶かした湯を差し出す。
その様子を見て、ルカが軽く笑った。
「シリウス、ちょっと過保護じゃない?」
「護るのが私の役目だ」
間を置かず返ってくる。
「なんかもう、お母さんみたいだよ」
フィアはそのやり取りに、ほんの少しだけ口元を緩めた。
声を立てるほどではない、静かな笑みだった。
部屋の中の空気が、わずかに柔らぐ。
――ようやく、少しだけ日常が戻った。
戸が叩かれたのは、その少し後だった。
「入るぞ」
低い声とともに入ってきたのは、診療所の先生と呼ばれる男だった。
この村に到着した夜にルカを診察し、それからも何度かこの小屋に顔を出している。
無造作に扉を閉め、ルカの方へと歩いてくる。
「起きてるな。見せろ」
「はいはい」
軽口を返しながらも、ルカは抵抗しない。
包帯が外され、傷の様子が露わになる。
「お前は……どんな無茶をしたんだ」
呆れたような声だった。
「してないよ、ちょっと巻き込まれただけ」
「ちょっとでこんなに強く蹴り飛ばされたのなら、お前の口が災いを呼んだのか」
「蹴られたってわかってるならもう少し優しくして……」
先生は手際よく薬を塗り、包帯を巻き直す。
手つきは荒いが、無駄がない。
「まだ無理はするな。歩き回るな。分かったな」
「善処します」
「する気がない返事だな」
短く叱られる。
ルカは肩をすくめようとして、わずかに顔をしかめた。
フィアはそのやり取りを見ていた。
軽口が交わされている。
けれど、その間にある距離は、ただの患者と治療者のものではない。
先生は一度だけフィアとシリウスの方を見て、それから少しだけ声を落とした。
「何をそんなに焦っている」
「ここに来る前に、廃鉱山に溜まってた野盗たちと少し揉めてね。
長くここにいたら村に迷惑をかけるかもしれない」
「廃鉱山の野盗……」
「何か知ってる?」
言葉を止めた先生にルカは問いかけた。
「あいつらには最近手を焼いていてな。だから時折、様子を伺っていたんだ。
だが、昨日見に行った者たちが言っていた。
……壊滅していた、と」
ルカは息を呑む。
「仲間割れか何なのか知らないが、食料も金目のものもそのままで死体だけが転がっていたってさ。
近くに残党が潜んでいるようでもない、薄気味悪いがあいつらのことは気にしなくてもいいんじゃないか?」
「そう、なんだ……」
ルカは短く頷く。
その景色は自分も見ている。
そして、フィアを助けた男の不気味さだけが、なおさら濃くなった。
野盗の拠点には、それなりに金目の物などが溜め込まれていたはずだ。
それにも手を出さない。
目的がまた絞られる。
野盗の残党よりも警戒すべき対象。
「……まあ、止めてもお前が言うことを聞くとは思ってない。
他のやつが馬の世話もしてる。必要なら食料や薬も持っていけ」
「助かるよ」
そのやり取りは、あまりに自然だった。
ここに長く滞在している者同士のように。
フィアはわずかに首を傾げる。
――ルカは、この村で何をしてきたのだろう。
先生が帰ると、また静けさが戻った。
フィアは窓辺に寄り、外を見た。
人の声。薪を割る音。遠くで誰かが笑う気配。
穏やかなはずの光景だった。
なのに、時折、意識が少しだけ遠くなる。
フィアの指先が、無意識に髪に触れる。
そのまま、顎へ。首元へ。
(……なんで)
自分でも分からない。
怖かった。
あの場所は、確かに怖かったはずなのに。
黒い髪。
灰色の目。
血の中に立っていた姿。
自分の名前を、低くなぞる声。
思い出したくないのに、ふとした拍子に浮かぶ。
フィアはゆっくりと目を伏せた。
――言えない。
まだ、何も整理できていない。
助けられたのかどうかすら、分からない。
ここで口にすれば、何かが変わってしまう気がした。
水を取りに立ち上がる。
その瞬間、シリウスの視線が動いた。
一歩踏み出しかけて、止まる。
手を伸ばしかけて、引く。
フィアはそれに気づいて、小さく首を振った。
「大丈夫」
短く言う。
シリウスは何も返さない。
ただ、その場に留まる。
ルカがそれを見て、軽く息をついた。
「そこまでしなくても逃げないよ」
冗談のように言う。
シリウスは無言だった。
フィアは少しだけ困ったように、視線を落とす。
その空気を見ながら、ルカはふと視線を逸らした。
(……なんだろう)
引っかかる。
シリウスはフィアを守っているだけだ。
それでいいはずなのに。
あれは、ただ守っているだけの顔には見えなかった。
(……違う、でもわからない)
昼過ぎ、フィアとシリウスは、食事を買いに村の小さな食堂へ向かう。
動けないルカの分も合わせて買う予定だった。
粗末な造りの建物の中には、数人の村人がいた。
会話はあるが、騒がしさはない。
フィアとシリウスが入ると、何人かが視線を向けた。
すぐに逸らす。
一人の男が、小さく言う。
「あいつには世話になってる」
別の者が肩をすくめる。
「ルカが連れてきた奴には、深入りしないんだ」
少し間があって、別の声が重なる。
「……悪い奴じゃない。ただ、抱えてるものが多い」
「関わりすぎないほうがいい、ってだけだ」
その言葉に、誰も続けなかった。
二人ははその空気を感じながら、黙って食事を受け取る。
何も知らない距離ではない。
知っていて、口にしない。
そんな風に感じられる距離だった。
夜。
フィアは眠れずにいた。
窓辺に寄り、外を見る。
薄い月が、山の稜線の上に浮かんでいた。
空気は冷たい。
昼間の温もりは、もう残っていない。
炉の火も、ほとんど消えている。
月を見ていると、ふと、思い出す。
灰色の目。
あの色に、どこか似ている気がした。
(……なんで)
そう思うのに、視線が逸らせない。
指先が、また髪に触れる。
顎へ。首元へ。
そこに何かが残っているような気がして、指が離れない。
目を閉じても、消えない。
少し離れた場所で、シリウスはそれに気づいていた。
声をかけようとする。
――眠れませんか。
――何か、気になることが。
言葉は浮かぶ。
けれど、どれも違う気がした。
何を聞いていいのか分からない。
何を踏み込んでいいのかも。
それを問うことで、彼女を傷つけるのではないかと恐れていた。
守りたい。
それだけは確かだった。
だが、その内側に触れることが、今はできない。
シリウスは何も言わなかった。
フィアは月を見ている。
シリウスは、その横顔を見ている。
そして、ルカは少し離れた場所から二人を見ていた。
けれど、誰も言葉を持たないまま、夜だけが静かに流れていった。




