47話
扉が叩かれたのは、フィアがようやく静かな眠りに落ちたあとだった。
もう夜と呼べる時間だった。
炉の火は小さくなり、空き家の中には薪のはぜるかすかな音と、熱の残るフィアの浅い寝息だけが満ちている。
シリウスはすぐに顔を上げた。
ルカも目を開ける。
「誰?」
「俺だよ」
戸の向こうから聞こえたのは、見張り小屋にいた男の声だった。
ルカが短く返す。
「どうぞ」
扉が開く。
入ってきた男の手には、巻かれた縄があった。
シリウスの目が細くなる。
男はその視線に気づいて、慌てて片手を上げた。
「いや、そんな顔しないでくれ。先生が、ルカがあんまり騒ぐなら本当に縛っとけって」
冗談半分の口調だった。
だが手にしているものは本物だった。
ルカは一度だけ縄を見て、それから小さく笑った。
「ちゃんとおとなしくしてるから、余計なことはしないで!」
軽い声だった。
だが男は、どこか真剣にそれを受け取った。
「分かってるよ。先生の言葉をそのまま持ってきただけだ。
だけどな、夜中にあんな顔して村に来たら誰だって心配する」
それから、手にしていた籠を卓の上へ置いた。
中には肉と野菜の挟まれたパンと、温かい汁の入った小さな壺が入っている。
「夕飯を持ってきた。食えそうなら食ったほうがいい。そっちの銀髪のあんたも、疲れが顔に出てるぞ」
シリウスは短く会釈だけ返した。
男はそれ以上は長居せず、ルカに押し返された縄を手元にまとめて、静かに出ていく。
扉が閉まると、また静けさが戻った。
ルカはため息をつき、薄くほほ笑む。
「随分賑やかな連中だな」
「うん、みんな気のいい奴らだよ」
ルカは肩をすくめようとして、脇腹の痛みに眉を寄せた。
その様子をシリウスが一瞥する。
だが、今はそこに触れなかった。
男の置いていったパンを、シリウスとルカが一つずつ手に取る。
しばらくは黙ったまま咀嚼の音だけが続いた。
短い沈黙のあと、二人は低い声でいくつか言葉を交わした。
あの野盗の拠点のこと。
移動するとしたら、いつになるか。
ここに長くいるべきではないこと。
どれも小さな声だった。
フィアを起こさないためでもあり、何かをはっきり口にしたくないためでもあった。
やがて会話は、あの男の話へ絞られていく。
「フィア様の話が、あの拠点で起きたことの真実なら」
シリウスが低く言う。
「普通の追っ手ではない」
「……そうだね」
ルカは壁にもたれたまま、炎の残り火を眺めていた。
「黒髪、灰色の目、短剣一本。肌が多く見える服に、入れ墨。
そこまで揃うなら、たぶん一人しかいない」
シリウスの視線が鋭くなる。
「何者だ」
ルカはすぐには答えなかった。
少しだけ目を伏せ、それから息を吐く。
「本名かは分からない。僕も実際には見たことがない。アルナト、って呼ばれてる男」
名だけが、静かに落ちる。
「危険な男だよ。怪物みたいに強い。表には出せない仕事だけを請ける。
依頼があれば、国も組織も関係なく動く。――そういう種類の人間だ」
シリウスの表情は変わらない。
だが、沈んだ怒気が声の底に溜まる。
「それがあの時、フィア様の近くにいた」
「いた。しかも、フィアが目的なら、依頼を果たせる状況で果たしてない」
ルカの指先が、自分の膝の上でわずかに動く。
「そこが気持ち悪い」
「なぜ見逃したのか、分かるか?」
「……分からない」
即答だった。
分からないからこそ厄介だと、その声が物語っていた。
「気まぐれかもしれない。まだ値踏みしてるのかもしれない。
あるいは、いつでも奪えると思ってるのかもね」
シリウスは沈黙した。
剣の柄に添えた指が、わずかに力を帯びる。
ルカはその横顔を見ながら、さらに小さく続けた。
「これからは、教会だけじゃなく、そういう存在も視野に入れた方がいい」
「追われる、ということか」
「うん。表に出てくる人間だけを警戒しても足りないかもしれない」
火がひとつ、小さく崩れた。
(僕だって、本当はそっち側だ)
ルカは目を細める。
この村には、ルカをただの旅商人としては見ない者がいる。
同じ国から流れてきた者。
昔の恩で動く者。
何も知らないふりをして、必要な時だけ手を貸す者。
親切も、詮索のなさも、どちらも理由があった。
だからこそ、今はまだ保たれている。
だが、長くいればいずれ分かる。
自分が何者で、何をしようとしているのか。
――それを、今はまだ知られたくなかった。
「今夜は休もう」
ルカが言う。
「僕も、君も、フィアも、これ以上考えても碌な方にいかない」
シリウスはしばらく黙っていたが、やがて短く頷いた。
「……分かった」
その一言で会話は終わった。
ルカは壁にもたれ、シリウスは剣の届く位置を変えないまま、夜の残りを見張る。
火はゆっくりと縮み、外の闇も少しずつ色を失っていった。
翌朝、フィアの顔色は昨日よりも明らかにましだった。
まだ本調子ではない。
けれど、熱の重さは抜けてきたらしい。
寝台から身を起こして、窓から差し込む薄い光を見る余裕が戻っている。
「……外の空気を、少しだけ吸いたい」
そう言ったとき、シリウスは一瞬ためらった。
けれど、閉じこもらせ続ける方が息が詰まると判断したのだろう。
「近くを少しだけです」
「うん」
フィアは頷く。
ルカは椅子に座ったまま、その様子を見ていた。
まだ長く歩ける状態ではない。
脇腹に巻かれた布は昨日よりきつく見える。
「いってらっしゃい」
いつもの調子で言う。
フィアが小さく笑う。
「すぐ戻ってくるね」
「うん、気をつけて。この村は石畳なんて引いてないから」
軽くそう言ってから、ルカは視線を逸らした。
シリウスはそれに何も返さない。
ただフィアの歩幅に合わせて戸を開け、そっとその手を取った。
外へ出ると、朝の村は静かだった。
山あいの空気はまだ少し冷たい。
日が高くなる前の柔らかな光が、斜面に沿って建つ家々の屋根を淡く照らしていた。
細い道の脇には薪の束や、割りかけの木材、黒ずんだ樽が置かれている。
土の匂いと、遠くの煙の匂いが混ざっていた。
「大丈夫ですか」
シリウスが歩調を緩める。
「うん。昨日より、ずっと」
フィアはそう答えた。
実際、足取りはまだ少し心許ないものの、昨日のような熱の重さはない。
シリウスの手に支えられながら、ゆっくりと坂を下りていく。
道の途中で、洗濯物を干していた女がこちらに気づいて動きを止めた。
目は向ける。
けれど、すぐにそらす。
声もかけない。
別の家の軒先で薪を割っていた老人も、斧を止めて一度だけ見たあと、何も言わずにまた作業へ戻った。
何も知らない村人の距離ではない。
知っていて、口にしない者たちの距離だった。
「……みんな、見てるだけ」
フィアが小さく言う。
「ルカの知り合いだからでしょう」
シリウスは周囲を見ながら答える。
「余計な詮索をしないようにしているのかもしれません」
フィアは少しだけ考えた。
優しいのか、遠いのか。
どちらとも言い切れない空気だった。
けれど、その静けさは今のフィアにはありがたかった。
道を少し下ると、村外れの方に開けた場所がある。
そこからは山の斜面と、木々のあいだから覗く空が見えた。
遠くで鳥が一声鳴く。
「……きれい」
フィアが呟く。
本当に小さな声だった。
シリウスはその横顔を見た。
昨日までの緊張で強ばっていた輪郭が、ほんの少しだけ緩んでいる。
「寒くないですか」
「少しだけ。でも、気持ちいい」
シリウスは頷いた。
そのまま、自分の外套の前を少しだけ寄せて、風が当たりすぎないように位置を変える。
フィアはそれに気づいて、わずかに目を細めた。
「ありがとう」
「当然です」
短い返答だった。
けれど、その声は硬すぎなかった。
束の間の平穏だった。
教会も。
野盗も。
黒髪の男も。
今この場にはいない。
だからこそ、余計に脆く見える時間でもあった。
フィアとシリウスはしばらくその村の細い道を歩いた。
言葉は少ない。
けれど沈黙は苦しくなかった。
家々のあいだを抜けるたび、遠巻きにこちらを見る村人の気配がある。
それでも誰も止めない。
声もかけない。
ルカの知り合いであるというだけで、そこに一線が引かれていた。
やがて空き家の戸が見えてくる。
フィアはそれを見たとき、なぜだか小さく息をついた。
戻る場所がある。
待っている人がいる。
それだけのことが、今は少しだけ救いのように思えた。
戸を開けると、ルカは出ていったときと同じ椅子に座っていた。
窓からの光が斜めに落ち、卓の端と、置かれたままの器を照らしている。
「おかえり」
ルカが顔を上げる。
いつもの調子の声だった。
フィアは小さく頷く。
「……ただいま」
その返事を聞いてから、ルカはほんのわずかに目を細めた。
シリウスもまた、戸を閉めて静かに息を吐く。
束の間の外の平穏は、ちゃんとここへ戻ってきた。
それだけで十分だと、フィアには思えた。




