94話 見てほしかった
「少し長くなるけど」
そう前置きしてから、ルカは椅子の背に身体を預けた。
窓の外では、すっかり日が落ちている。
通りから聞こえてくる人の声も、先ほどより少なくなっていた。
フィアは寝台の端に座ったまま、ルカを見つめていた。
シリウスも、その隣で黙っている。
少しの間を置いてから、ルカは口を開いた。
「さっき、僕は大勢いる子どものうちの一人だって言ったでしょ」
「……うん」
「父上には妃が何人もいるんだ。それで、子どもも多い」
ルカは指を折るような仕草をしてから、途中でやめた。
「兄もいるし、姉もいる。弟も妹も何人もいるよ」
「……そんなに?」
「うん。結構いる」
ルカは少し笑った。
「だから、王子だからって全員が同じように育つわけじゃないんだ」
「王位を継ぐ者も、その中から選ばれるのか?」
シリウスが尋ねる。
「そうだね。生まれた順番も少しは関係するけど、それだけじゃない。本人の能力とか、母親の家柄とか、周りからの支持とか。そういうものも絡んでくる」
ルカは肩をすくめた。
「だから今は、結構ややこしいんだよ」
「今は?」
フィアがその言葉に気づいた。
ルカは一度だけ目を伏せた。
「昔は、第一王子がいたからね」
フィアはわずかに目を見開いた。
以前、宿で聞いた話を思い出す。
隣国にかつていた聖女。
その聖女が殺された後、姿を消した第一王子。
「……前に、話に出てた人?」
「うん。その人」
ルカは静かに頷いた。
「僕の一番上の兄だよ」
フィアは目を丸くする。
ルカが王子なのだと知ったばかりだった。
以前は遠い国の昔話として聞いていた人物と、目の前のルカが兄弟だと思うと、不思議な感覚がある。
「……覚えてるの?」
「いや、ほとんど覚えてないよ」
ルカはあっさり答えた。
「第一王子がいなくなったのは、僕が五つくらいの頃だから」
「五歳……」
「いたことは覚えてる。たぶん、顔も見たことはあるんだと思う。でも、今はもう、はっきりとは思い出せない」
ルカは少し考えるように視線を落とした。
「歳も離れてたし、僕には他にも兄がたくさんいたからね。第一王子と話した記憶も、ほとんどないんだ」
「では、お前が第一王子について知っているのは……」
「ほとんど後から聞いた話だよ」
ルカは頷いた。
「父上とか、昔から城にいる人たちからね」
フィアは黙って続きを待った。
「第一王子は、すごく優秀だったらしい」
ルカは淡々と話し始めた。
「勉強もできた。剣も強かった。人の上に立つのも上手かった。十歳の頃には、もう次の王になる人間として扱われてたって聞いてる」
「十歳で?」
シリウスがわずかに眉を動かした。
「そうみたい。僕が直接見たわけじゃないけどね。でも、聞く人みんな似たようなことを言うんだ」
父王もまた、第一王子へ強く期待していた。
それだけは、何度も聞かされてきた。
「でも、第一王子はいなくなった」
ルカの声が少しだけ低くなった。
「聖女が殺された後に、第一王子も王家から姿を消した」
フィアは黙った。
あの宿で聞いた話と同じだった。
「何があったのかは、僕も詳しくは知らないんだ」
「知らされていないのか?」
「うん。当時の僕は五歳だったし、そのあとも詳しいことを教えてもらったことはない」
ルカは静かに答えた。
「世間で言われてることと、大して変わらないよ。聖女を殺した犯人に殺されたんじゃないかとか、同じ犯人に連れ去られたんじゃないかとか。事件に巻き込まれたんじゃないかとか」
「……ルカも、そう思ってたの?」
フィアが尋ねる。
「まあね、僕も第一王子が何か怖いことに巻き込まれたんだと思ってた」
けれど、それから二十年。
第一王子が戻ることはなかった。
「第一王子がいなくなってから、王位継承は一気に複雑になった」
ルカは続けた。
「もともと子どもは多かったからね。過去には女王だって何人もいたし、次は誰なのかって話になった」
「今も決まっていないのか?」
「はっきりとはね。候補は何人かいるよ」
「ルカも?」
フィアが尋ねると、ルカは少し困ったように笑った。
「一応ね。絶対に関係ないとは言えないかな」
その言い方は軽かった。
「ただ、第一王子がいなくなったからって、父上が誰か一人を第一王子と同じように扱うことはなかった」
ルカは窓の方へ一度だけ目を向けた。
「小さい頃はあまり気にしてなかったんだけどね」
「……何を?」
「父上の中に、ずっと第一王子が残ってること」
ルカは笑った。
けれど、その笑みはどこか力がなかった。
「子どもだったからね。深くは考えてなくて、大きくなるにつれて、その違いが分かるようになったんだ」
「今いる子どもたちより、第一王子のことを気にしていたってこと?」
「……たぶんね」
短い返事だった。
「でもね……父上は、僕たちが何かやればちゃんと評価してくれたよ。何も見てなかったわけじゃない」
ルカはゆっくり言葉を選んだ。
「でも、それだけだった」
フィアは黙って聞いた。
「兄弟の誰かが何かをしても、父上はだいたい『そうか』って聞いて終わる」
淡々とした口調だった。
「でも、第一王子の話になると違った。昔のことなのに、よく覚えてるんだよ。第一王子が何歳の時に何をしたとか。どういう判断をしたとか。誰に何を褒められたとか」
『第一王子は十の頃には、もう――』
そんな話を、何度も聞いた。
誰かと比べるために言われたわけではない。
責められたわけでもない。
けれど、第一王子について話す父王の言葉には、今いる子どもたちへ向けるものとは違うものがあった。
「父上は、僕たちより、いなくなった第一王子をよく見てたんだ」
部屋の中が静かになった。
フィアはすぐには何も言えなかった。
二十年前にいなくなった人。
ルカ自身ですら、ほとんど覚えていない兄。
それでも父王の中では、その人がずっと大きな存在のままだった。
「……寂しかった?」
フィアが小さく尋ねると、ルカは一瞬、目を丸くした。
それから、困ったように笑う。
「どうだろう」
「……違う?」
「違わないと思う」
ルカは少しだけ視線を落とした。
「でも、僕だけじゃないよ。たぶん、兄弟のほとんどが似たようなものだったと思う」
「……うん」
「だから、父上が悪いって言いたいわけじゃないんだ。必要なものは全部与えてもらったし、別に不幸だったわけじゃない」
少し間が空いた。
フィアは、ルカの横顔を見つめた。
静かに口を開く。
「ルカは、見てほしかったんでしょう?」
ルカの表情が止まった。
「お父さんに」
しばらく、部屋の外から聞こえる声だけが続いた。
やがてルカは、小さく息を吐いた。
「……うん」
その答えは、ひどく静かだった。
「たぶん、それが一番近いかな」
フィアは何も言わず、その先を待った。
「だから、いろいろ覚えたんだと思う」
「いろいろ?」
「うん。何か一つくらい、父上が僕を見る理由になるものがあるんじゃないかと思って」
「……いつ頃から?」
「たぶん、十歳になる前くらいかな」
ルカは少し考えた。
「その頃には、第一王子の話もかなり聞いてたから」
そんな第一王子の話を、ルカは幼い頃から何度も聞かされてきた。
「勉強ができれば、何か任せてもらえるかなって思った」
ルカは続ける。
「剣が使えれば役に立つかもしれない。薬の知識があれば、また違うことができるかもしれない」
「それで、商売も?」
「それはもう少し後だけどね」
ルカは少し笑った。
「気づいたら、色々できるようになってた」
少しだけ間を置く。
「まあ、どれも一番にはなれなかったけどね」
その言葉を聞いて、フィアは以前の会話を思い出した。
「……器用貧乏って言ってたのは」
ルカが少し驚いたようにフィアを見た。
「ああ。覚えてた?」
「うん」
以前、ルカは笑いながら言っていた。
何でもある程度はできる。
けれど、すごく得意なものはない。
「……ずっと、見てもらおうとしてたんだね」
ルカは黙った。
「……そうなのかな」
「うん」
フィアには、そう思えた。
シリウスが静かに口を開いた。
「それで、国外へ出る道を選んだのか」
ルカは頷いた。
「城に残って政治を学ぶ兄弟もいる。軍に入った者もいるし、地方を任されてる者もいる」
「お前は商売を選んだ」
「うん」
「なぜだ?」
「外に出たかったから」
ルカは答えた。
「城にいたら、兄弟と同じことしかできないと思ったんだ」
「だから、ほかの王子たちとは違うことを?」
「うん。外で何か大きな成果を出せたら、少しくらいは違うかもしれないって」
フィアは、これまで旅の中で見てきたルカを思い返した。
別々に見えていたものが、少しずつ一つに繋がっていくような気がした。
「……お父さんは、ルカが商売で成功したことも知ってるの?」
「知ってるよ」
「褒めてもらった?」
「うん」
ルカは少しだけ笑った。
「何度かね」
フィアは少し戸惑った。
「……嬉しかった?」
「嬉しかったよ」
ルカはすぐに答えた。
「もちろん」
けれど、そのあとで少し間を置いた。
「でも、また次を探した」
「次?」
「もっと大きなこと」
ルカは自分の手元へ目を落とした。
「もっと父上が僕を見る理由になるようなこと」
フィアは黙った。
「だから、僕も欲張りだったんだと思う」
ルカはそう言って笑った。
「一度褒められたなら、それで満足すればよかったのにね」
「……そういうものなの?」
「普通はそうなんじゃないかな」
「私は、分からないけど」
フィアは小さく答えた。
自分には親がいない。
聖女として求められたことだけをただ続けてきた。
だから、そのルカの気持ちを完全には理解できない。
それでも。
「もっと見てほしいって思うことが、悪いとは思わないよ」
ルカはゆっくり顔を上げた。
フィアはその目を見た。
「ルカが、お父さんに見てほしかったことは」
ルカはしばらく何も言わなかった。
それから、小さく笑った。
「……ありがとう」
その声は、普段より少しだけ弱かった。
部屋に静かな時間が流れた。
けれど、まだ聞いていないことがある。
フィアは顔を上げた。
「……ルカ」
「うん?」
「それが、私たちを隣の国へ連れていきたいことと、どう関係するの?」
ルカの笑みが消えた。
シリウスも何も言わず、ルカへ視線を向ける。
ルカはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくり息を吐く。
「……そこから先は」
言葉を選ぶように、一度口を閉じた。
「たぶん、今までより聞きたくない話になると思う」
フィアはルカを見つめた。
「それでも、聞くよ」
ルカは目を伏せた。
それから、静かに頷いた。
「……分かった」
窓の外では、町の灯りが夜の中に並んでいた。
ルカはもう一度、フィアとシリウスを見た。
そして今度は、少しも笑わなかった。




