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many merry bad ENDs 聖女がたどる結末たち  作者: 源泉


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93話 隠せなかった顔 後編


三人で宿の部屋へ入ってからも、フィアはしばらく落ち着かなかった。


窓の外では、日が沈みかけた町の通りを荷馬車が行き交い、商人たちの声が聞こえている。


少し前まで自分たちもあの中にいたのだと思うと、腕を掴まれた時の感覚が蘇ってきた。


フィアは寝台の端に腰を下ろし、膝の上でそっと手を重ねた。

掴まれていたところには、まだ赤い跡が残っている。



「フィア様、少し腕を見せていただけますか」



シリウスが隣へ腰を下ろした。



「……うん」



フィアが袖を上げると、シリウスは赤くなった手首を確かめた。


指先で触れる前に一度フィアの顔を見て、それから慎重に患部の周りへ手を添える。



「痛みはありますか?」


「……少しだけ。でも、動かせるよ」


「そうですか。骨には異常がなさそうですが、念のため冷やしておきましょう」



シリウスは用意していた布を当て、フィアが痛がらないように手当てを続けた。



「……ごめんね、シリウス」



フィアが小さく言うと、シリウスは手を止めた。



「何を謝るのですか?」


「私、ちゃんと気をつけてたつもりだったのに」


「フィア様が謝る必要はありません」



シリウスは穏やかに答えた。



「あの者たちは最初からフィア様を狙っていたのです。フィア様が気をつけていなかったからではありません」


「……シリウスも、悪くないよ」



フィアがそう言うと、シリウスはわずかに目を伏せた。



「ありがとうございます」



ルカは二人のやり取りを見てから、窓際に置いていた椅子を引き寄せた。



「ひとまず、シェルたちに宿の周りを見てもらってるよ。何かあればすぐ知らせが来るから」



シリウスが顔を上げた。



「見てもらっている?」


「うん。この町には頼れる人が何人かいるんだ。さっきのこともあるし、今夜は少し警戒しておいた方がいいと思ってね」


「……そうか。助かる」


「僕も、あの人たちがこれで諦めるとは思ってないから」



ルカはそう答えてから、少し困ったように笑った。



「……まあ、その話も含めて、今日はちゃんと説明しないといけないんだけどね」



フィアは顔を上げた。

ルカは椅子へ腰を下ろし、二人の顔を見比べた。



「何から話したらいいかな。思ってたより、いろいろ知られちゃったし」



冗談めかした言い方だった。


けれど、フィアには分かった。

ルカも、どう話し始めればいいのか迷っているのだろう。


フィアは膝の上で重ねていた手をほどき、静かに口を開いた。



「……ルカ」


「うん?」


「ちゃんと聞かせて」



ルカの笑みが、少しだけ薄くなった。



「私、まだ何も分かってないから。ルカが何を隠していたのかも、どうして話せなかったのかも」



ルカはしばらくフィアを見つめていた。

それから、小さく頷いた。



「分かった。ちゃんと話すよ」



椅子に座り直すと、ルカは少しだけ息を吐いた。



「まず、さっきのことだけど……シェルが僕を殿下って呼んだのは、間違いじゃないんだ」



フィアは黙って頷いた。

ルカは二人の顔を見比べ、それから静かに告げた。



「僕は、隣の国の王子なんだ」



改めて本人の口から聞くと、フィアはやはりすぐには言葉が出てこなかった。


先ほど、あの男たちもそう言っていた。

シェルも、確かに殿下と呼んでいた。


それでも、どこかでまだ信じられずにいたのだと思う。



「……本当に?」


「うん。本当だよ」



ルカは頷いた。



「まあ、王子って言っても、大勢いるうちの一人だけどね」


「……そうなの?」


「うん。僕はこうして国外に出ることも認められてる。その辺りは……僕の家のことを話す時に説明するよ」



ルカは軽く笑った。

フィアは少し迷ってから尋ねた。



「……じゃあ、ルカっていう名前も、違うの?」



ルカは一瞬だけ黙った。



「本当の名前は、レグルス」



その名を口にした瞬間、ルカの脳裏に黒髪の男の顔がよぎった。



『……レグルス』



アルナトがなぜその名を知っていたのか。

その疑問は、今も残ったままだった。



「レグルス」



ルカは目の前の彼女へ意識を戻した。

フィアは初めて聞く名前を、確かめるように繰り返した。


今までずっと、ルカと呼んできた。

彼も、それが当たり前であるかのように返事をしていた。



「……じゃあ、ルカっていうのは?」


「小さい頃からの呼び名だよ。この国ではずっとルカで通してる」


「……じゃあ、嘘の名前じゃないの?」


「うん。僕にとっては、どっちも自分の名前だよ」



ルカは少し笑った。



「だから、これからもルカって呼んでほしいな」



フィアは顔を上げた。



「……いいの?」


「もちろん。その方が嬉しいよ」


「本当の名前で呼ばなくても?」


「うん。フィアにまでレグルスって呼ばれたら、なんだか落ち着かないしね」



ルカは困ったように笑った。


フィアはその顔を見つめた。


知らない町で道を案内してくれた人。

旅の途中で食べ物を買ってきてくれた人。

自分の考えを聞いて、選んでいいと言ってくれた人。


その人まで、違う誰かになってしまうわけではない。


フィアは小さく頷いた。



「……うん。じゃあ、ルカ」


「うん」



その返事も、いつもと変わらなかった。



「……ありがとう、フィア」



少しだけ、部屋の空気が和らいだ。

やがて、シリウスが口を開いた。



「では、この国で商人をしていること自体は本当なのか?」


「うん。それは本当だよ」



ルカは頷いた。



「国外へ出ることも、商売をすることも王家には認められてる。仕入れも商談も、本当に自分でやってきた」



フィアは少し考えてから尋ねた。



「……お金も?」


「大半は商売で稼いだものだよ。王家から何も受け取ってないわけじゃないけどね」



ルカは少しだけ肩をすくめた。



「商売で稼いだお金なら、僕自身の判断で使えるから」



フィアは、これまでの旅を思い返した。


ルカはどこへ行っても、人と話すのが上手だった。


必要なものがあれば手に入れる方法を知っていたし、宿や隠れ場所にも心当たりがあった。



「……だから、知ってる人がたくさんいたんだね」


「うん。それもあるね」


「……それも?」


「商売で知り合った人も多いけど、僕の身分を知って協力してくれている人もいる。この町は国境に近いから、そういう人も比較的多いんだ」



フィアは先ほどのことを思い出した。



「……シェルさんも?」


「うん。シェルは少し特別かな」



ルカは頷いた。



「彼も普段は商人をしているけど、王城にも籍がある。正式に僕に仕えてくれている人間の一人なんだ。こちらにいる時には、いろいろ手伝ってもらってるよ」


「……じゃあ、あの時に殿下って呼んだのも」


「そう。あれが本来の呼び方だからね」



シリウスが静かに尋ねた。



「普段は、あのように接するよう頼んでいるのか?」


「うん。仕事の時まで殿下なんて呼ばれてたら、すぐに正体がばれちゃうでしょ?」



ルカは苦笑した。



「それに、シェルとは長い付き合いだからね。僕もあんまり堅苦しくされたくないんだ」



フィアは、ルカがシェルへ命じた時のことを思い出した。


迷いのない返事。

普段とは違う態度。


今なら、あの反応にも納得がいく。



「……じゃあ、あの時に助けてくれた人たちも、みんなルカの配下なの?」


「ううん。そうじゃないよ」



ルカは首を振った。



「僕の身分を知ってる人もいたけど、ほとんどは商売仲間だよ。騒ぎを見て手を貸してくれた人もいる」


「……そうなんだ」


「うん。王子だから動いてくれた人ばかりじゃないよ」



ルカは少し笑った。


フィアは、先ほどルカの言葉を聞いて動いた人々を思い返した。


きっと、今まで商人として付き合ってきたからこそ、あの人たちはルカの言葉を信じたのだ。



「すごいね、ルカ」



フィアが呟くと、ルカは少し驚いたように顔を上げた。



「え?」


「だって、あんなにたくさんの人が助けてくれたから……」


「……僕一人じゃできなかったよ。みんなが助けてくれたおかげ」



ルカは少し照れくさそうに笑った。

シリウスは静かにルカを見ていた。


これまで感じていた違和感の多くには、これで説明がつく。


それでも、目の前にいるルカまで別人になったわけではない。



「……それにしても、シリウス」



ルカが少し不思議そうに声をかけた。



「君はあんまり驚かないんだね」


「お前が商人以外の身分を持っていることは、薄々疑っていた」


「ええ? そんなに分かりやすかった?」


「いや。むしろ、巧妙だった」



シリウスは少し間を置いた。



「それに、マルクスという老人の態度も気になっていた」



ルカの表情がわずかに止まる。



「……マルじい?」


「あの者は、お前を見た時に『殿下』と呼びかけた。すぐに言い直していたがな」



ルカは困ったように目を逸らした。



「……聞こえてたんだ」


「ああ。それだけではない。お前と話す時の立ち位置や礼の仕方も、単なる昔馴染みに向けるものとは少し違っていた」


「そこまで見てたの?」


「長く仕える者の振る舞いには見覚えがある」



シリウスは淡々と答えた。



「だから、お前が商人以外の立場を持っていることは疑っていた。ただ、王子だとまでは断定していなかった」


「そっか……」


ルカは小さく息を吐いた。



「じゃあ、今日のことで答え合わせになったわけだ」


「そういうことだ」



ルカが苦笑すると、シリウスはわずかに口元を緩めた。



「そっか。……まあ、シリウスにも今まで通りにしてほしいな。僕のこと、殿下なんて呼ばなくていいからね」


「当然だ。私はお前の国の臣下ではないからな」



シリウスはあっさりと答えた。

ルカが思わず笑う。



「うん。それでいいよ。今まで通り、ルカでお願い」



シリウスは静かに頷いた。


フィアも、そのやり取りを聞いて少しだけ安心した。


ルカが王子だと分かっても、シリウスは何も変わらない。

ルカも、それを当然のように受け入れている。


そのことが、なんだか嬉しかった。


けれど、まだ一つだけ、どうしても分からないことがあった。


フィアは顔を上げた。



「ルカ」


「うん?」


「じゃあ、私たちを隣の国へ連れていきたいのも……ルカが王子だから?」



ルカの表情が、わずかに変わった。


それまで自然に続いていた会話が止まる。


ルカはすぐには答えず、少しだけ目を伏せた。



「それは」



フィアは黙って待った。

シリウスも口を挟まなかった。


しばらくして、ルカが静かに答えた。



「……関係はある」



フィアはその言葉を聞いた。

否定しなかった。



「どういう関係?」



ルカは小さく息を吐いた。

今までなら、ここで話を変えていたかもしれない。


けれど、今日は違った。



「……そこを話すなら、僕の家の話からしないといけない」


「……家?」


「うん。僕の父親のことも、兄弟たちのことも」



ルカは椅子の背へ少し身体を預けた。



「僕がどうして外にいるのかも、君たちを隣の国へ連れていきたい理由も……ちゃんと説明するなら、そこから話さないといけないと思う」



フィアは静かに頷いた。

王子なのだから、その家というのは王家のことなのだろう。


自分が教会で過ごしていたように、ルカにも自分の知らない日々があった。



「……話しても、大丈夫なの?」



ルカが少し驚いたように顔を上げた。



「え?」


「ルカ、今まで話せなかったんでしょう?」



フィアは膝の上で手を重ねた。



「でも、私たちがこれからどうするのか、ちゃんと考えたいから。私に関係することなら、知っておきたい」



ルカはしばらくフィアを見つめていた。



「……そうだね」


「私も聞いておきたい」



シリウスが静かに続けた。



「今回のことで状況も変わった。フィア様を守るためにも、必要なことは知っておきたい」



ルカは二人を見比べた。


何かを考えるようにしばらく黙り、それから小さく息を吐いた。



「……分かった。ちゃんと話すよ」



窓の外では、いつの間にか日が沈んでいた。


町の通りには灯りがともり始めたが、まだ人々の声が聞こえている。


ルカは椅子へ深く座り直した。



「少し長くなるけど」



フィアは頷いた。



「……うん。聞かせて」



ルカはほんの少し笑った。

そして、静かに口を開いた。

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