93話 隠せなかった顔 前編
国境に近い町が見えてきたのは、日が西へ傾き始めた頃だった。
街道には荷を積んだ馬車が何台も行き交い、町の門へ向かって緩やかな列を作っている。
国境を越えてきた商人たちも多いらしく、見慣れない衣服を身につけた人々や、異なる言葉で話す者たちの姿があった。
「もう少しだよ。あの門を抜けたら、今日の宿を探そうか」
先を歩いていたルカが振り返ると、フィアは小さく頷いた。
「……大きな町だね」
「国境が近いからね。隣の国から来る商人も多いし、荷物の中継地にもなってるんだ。僕も仕事で何度も来てるよ」
「それなら、宿にも心当たりがあるのか?」
シリウスが尋ねると、ルカは得意げに笑った。
「もちろん。食事も美味しいし、部屋も綺麗なところがあるんだ。空いてるといいんだけどね」
「では、宿を決めるのはルカに任せる」
「うん、任せて。二人とも今日は疲れたでしょ?」
フィアは頷きながら、ルカの横顔を見つめた。
昼間から、ずっと気になっていることがあった。
今夜、話す。
ルカはそう約束してくれていた。
彼が何を隠しているのか、どうして隣の国へ向かおうとしているのか。
聞きたいことはたくさんあったけれど、ここまでの道中でフィアは何も尋ねなかった。
シリウスも同じだった。
時折ルカへ視線を向けることはあっても、その話を持ち出そうとはしない。
ルカ自身も、宿に入って落ち着いてから話すつもりなのだろう。
三人は普段と変わらない会話を交わしながら、町の門をくぐった。
門の内側は、街道以上に賑わっていた。
通りの両側には露店が並び、香辛料や織物、旅人向けの食料などが所狭しと売られている。
荷車の車輪が石畳を鳴らし、行き交う人々の間を荷運びの男たちが大声で呼びかけながら進んでいた。
「今日は随分賑やかだなあ。何か市でも開いてるのかな」
町へ入ってから、ルカは何度も声をかけられた。
店先の商人からは「久しぶりだな」と手を振られ、荷車を押していた男からは以前頼んでいた品について尋ねられる。
そのたびにルカは相手の顔を見て、気軽に言葉を返していた。
「……ルカ、知ってる人がたくさんいるんだね」
「うん。この町には長いこと出入りしてるからね」
そう話していると、少し離れた場所から大きな声が飛んできた。
「おいおい、誰かと思えば!ルカさんじゃないか!」
振り返ったルカが、嬉しそうに手を上げた。
「あ、シェル!」
荷馬車の脇から歩いてきたのは、商人らしい身なりをした男だった。
先ほどまで荷運びの指示をしていたらしく、背後では何人かの男たちが荷物を積み直している。
「久しぶり!元気にしてた?」
「こっちの台詞だよ。あんた、随分長いこと顔を見せなかったじゃないか」
シェルは笑いながら近づくと、親しげにルカの肩を軽く叩いた。
「今度はどこまで行ってたんだ?また珍しい品でも探してたのか?」
「まあ、いろいろね。でも、今回は商売じゃないんだ」
「へえ、珍しいな。あんたが仕事抜きで旅をするなんて」
「僕だって、たまにはあるよ」
「どうだかなあ。どうせ旅先でも何か仕入れるつもりなんだろ?」
「シェルには何を言っても商売の話になるんだね」
二人は顔を見合わせて笑った。
フィアがその様子を眺めていると、シェルがようやく後ろにいる二人へ気づいた。
「おっと、失礼。お連れさんがいたのか」
「ああ、二人とも、この人はシェル。昔から商売で付き合いがあるんだ」
ルカに紹介され、フィアは小さく頭を下げた。シリウスも隣で丁寧に会釈する。
「初めまして。シェルと申します」
シェルは二人へ人懐っこい笑みを向けると、再びルカの方へ顔を向けた。
「ルカさんとは長い付き合いでしてね。こちらが困った時には何度も助けてもらってるんですよ」
「そんな、大げさだよ。僕の方だって何度も助けてもらってるし」
「そういうところが、あんたらしいんだよなあ。こっちが礼を言うと、いつもそうやって返してくるんだから」
シェルが呆れたように笑うと、ルカも少し照れくさそうに肩をすくめた。
「本当にお世話になってるんだ。何か困ったことがあったら、シェルに相談すれば大抵どうにかなるよ」
「おいおい、勝手に仕事を増やすなよ」
「はは、ごめんごめん」
二人のやり取りを聞いて、フィアも思わず小さく笑った。
「……仲がいいんだね」
「まあね」
ルカが頷くと、シェルも笑った。
「そうそう。こいつは昔からこんな調子でね。人当たりはいいくせに、商売の話になると案外抜け目がないんですよ」
「ちょっと、シェル。それ褒めてる?」
「もちろん!」
「絶対違うでしょ」
フィアは二人を見比べた。
ここでも、ルカはいつものルカだった。
気さくに話しかけられ、冗談を言い合い、相手の言葉に楽しそうに笑っている。
「それで、今日はどこに泊まるつもりなんだ?」
シェルに尋ねられ、ルカは通りの先を指差した。
「いつもの宿にしようと思ってるんだ。まだ部屋が空いてるといいんだけど」
「ああ、あそこなら大丈夫じゃないか? 今朝も何人か客が出ていったみたいだしな」
「本当?それならよかった」
「今夜はゆっくりしていくんだろ?」
「うん。一晩は泊まるつもり。また時間があったら顔を出すよ」
「分かった。こっちはまだ仕事が残ってるから、先に戻るぜ」
シェルはそう言うと、フィアとシリウスにも軽く頭を下げた。
「それじゃあ、お二人もよい旅を」
「……ありがとうございます」
フィアが答え、シリウスが会釈をすると、シェルは満足そうに笑い、再び荷馬車の方へ戻っていった。
「いい人だね」
その背中を見送りながらフィアが言うと、ルカは頷いた。
「うん。頼りになる人だよ。ああ見えて、仕事の時は結構厳しいんだけどね」
「随分と気心の知れた間柄のようだな」
シリウスの言葉に、ルカは笑って答えた。
「そうだね。昔から知ってるし、気を遣わなくていい相手かな」
それから、宿のある通りへ目を向けた。
「さて、そろそろ行こうか。荷物も置きたいし、今日は早めに休もう」
フィアも頷き、二人の後を追った。
*
三人が町へ到着するより前。
国境へ続く街道の中継所では、各地から運ばれてきた手紙の仕分けが行われていた。
郵便だけでなく、早馬や商隊に託された書簡もここを通る。
国境を越える荷物が多いため、仕分け場は朝から慌ただしく、係の者たちは宛先を確かめながら次々と手紙を分けていた。
聖女が姿を消してからというもの、この中継所では通常の仕分けとは別に、国境方面へ送られる書簡の一部が密かに確認されるようになっていた。
教会側の協力者が、差出人や宛先、封の状態などから不審なものを選び、中身を確かめている。
国外へ向かう便りや、旅人について触れた書簡は特に念入りに見られていた。
「こちらの束は確認が終わりました」
別室では、教会側の人間が読み終えた手紙を係の男へ差し出していた。
「何かありましたか?」
「いいえ。商売の話と私的な便りばかりです。次をお願いします」
男は頷き、新たな手紙の束を机へ置いた。
こうした作業は、聖女の行方に繋がる情報を見つけるため、毎日のように繰り返されていた。
そして、その日届けられた手紙の中に、マルクスが送った一通も含まれていた。
教会の男はほかの手紙と同じようにそれを手に取り、差出人と宛先を確かめた。
特に変わったところはない。
男は封を慎重に開き、中に収められていた便箋へ目を通した。
そこに書かれていたのは、ある殿下が若い女性と銀髪の男を伴い、国境方面へ向かっているという報告だった。
「……殿下?」
男は思わず手を止めた。
聖女という言葉はない。
名前も書かれていない。
それでも、若い女性と銀髪の男という組み合わせには覚えがあった。
「少し、こちらを見ていただけますか」
男が声をかけると、別の教会関係者が近づいてきた。
差し出された手紙を読み、相手も表情を変える。
「……例の三人でしょうか」
「可能性は高いでしょう。銀髪の騎士と、若い女性。それに、向かっているのが国境方面となれば」
「ですが、この殿下というのは?」
「分かりません。ただ、聖女たちには金髪の青年が同行しているという報告がありましたね」
「商人を名乗っている男ですか」
男はもう一度、手紙へ目を落とした。
「その男がこの手紙の『殿下』と呼ばれる相手である可能性も考えられます」
「殿下……隣国の王子か?」
「まだ断定はできません。ですが、国境へ向かっている以上、その可能性もあるでしょう」
男は少し考えてから、手紙を元の状態へ戻すよう指示した。
「近隣の捜索隊へ知らせてください。特徴の一致する三人が国境方面へ向かっている可能性が高い、と」
「殿下という呼称については?」
「それも伝えてください。ただし、誰を指しているのかは不明です。まずは聖女の確保を優先するように」
「承知しました」
教会の男は頷き、次の手紙へ手を伸ばした。
マルクスの手紙も、ほかの書簡と同じように封を戻され、予定どおり送り出される。
一方、教会への報告は、急ぎの伝令として早馬に託された。
国境周辺では、すでに聖女の捜索が続けられている。
報告を受けた近隣の教会拠点は、周辺で捜索に当たっていた者たちへ、特徴の一致する三人が国境方面へ向かっている可能性を知らせた。
連絡を受けた捜索隊は、商人や旅人の往来が多い町を中心に警戒を強めた。
そのうちの一隊は、三人に先んじて町へ入っていた。彼らは商人や旅人に紛れ、やがて通りを歩く三人の姿を見つけた。
*
「ほら、あそこだよ」
ルカが指差したのは、大通りから少し入ったところにある宿だった。
一階は食堂になっているらしく、開け放たれた窓から人々の話し声が聞こえてくる。
建物の脇には荷馬車を停めるための広い場所もあり、ちょうど一台の馬車が荷下ろしを終えたところだった。
「シェルが言ってた通り、部屋が空いてるといいね」
ルカがそう言うと、フィアも宿の入口を見上げた。
「……うん」
「フィア、疲れてない?少し休んでから食事にしようか」
「大丈夫。ありがとう、ルカ」
「それならよかった。シリウスも、今日はちゃんと休んでね」
「ああ、フィア様が落ち着かれたら、私も休む」
「まったく、シリウスはいつもそれなんだから」
ルカが苦笑すると、フィアもほんの少し笑った。
宿の入口までは、あとわずかだった。
その時、通りの向こうで馬のいななきが響いた。
「おい、危ないぞ!」
誰かが叫ぶ。
振り返ったフィアの目に、荷を高く積んだ馬車が飛び込んできた。
馬車は通りの中央から急に進路を変え、三人のすぐ近くへ割り込んでくる。
「フィア様、こちらへ!」
シリウスが咄嗟にフィアへ手を伸ばした。
しかし、割り込んできた馬車が二人の間を横切り、シリウスの伸ばした手はフィアへ届かなかった。
積まれた木箱が大きく揺れ、周囲の人々が慌てて飛び退く。
フィアも足元へ転がってきた箱を避けようとして、思わず後ろへ下がった。
その腕を、誰かが掴んだ。
「……っ!」
驚いて振り返ると、見知らぬ男が立っていた。
「こちらへ来ていただきます」
男は低い声でそう言うと、フィアの腕を強く引いた。
「……離して!」
フィアは反射的に身を引いたが、男の手は緩まなかった。
「騒がずにおいでください。危害を加えるつもりはありません」
「いや……! 離して……!」
腕を振りほどこうとしても、相手はびくともしない。さらに背後から別の男が近づき、フィアの肩を押さえた。
「早くしろ。人が集まる」
その声に、フィアは宿の脇へ視線を向けた。
そこには、幌を掛けた商用馬車が停まっていた。
御者台には男が一人座り、すでに手綱を握っている。
別の男が馬車の扉を開け、こちらへ手招きしていた。
連れていかれる。
そう理解した瞬間、フィアの身体が強張った。
「……行きたくない、行かない」
フィアは必死に腕を引き、男の手から逃れようとした。
「大人しくしてください、聖女様」
耳元で囁かれた呼び方に、息が止まった。
聖女。
どうして、分かったのだろう。
髪はフードで隠していた。
服装も、教会にいた頃とは違う。
それなのに、目の前の男は迷うことなくそう呼んだ。
「……どうして」
「お探ししていたのですよ。さあ、戻りましょう」
「いや……!」
男の言葉を遮るように、フィアは声を上げた。
「シリウス!」
返事の代わりに、鋭い金属音が響いた。
荷馬車の向こうでは、シリウスがすでに剣を抜いていた。
彼の前には数人の男が立ち塞がり、フィアのいる方へ進ませまいとしている。
「道を開けろ」
シリウスの声は静かだった。
それでも、男たちは動かなかった。
一人が剣を構えて踏み込んでくる。
シリウスはその刃を受け流すと、相手の手首を打って武器を弾き飛ばした。
続けて横から迫った男も、剣を振り下ろす前に体勢を崩され、石畳へ倒れ込んだ。
「フィア様!」
シリウスは馬車の向こうへ声をかけた。
「シリウス……!」
フィアの声が返ってくる。
彼女の姿を確かめようとした瞬間、別の男が前へ出た。
一人を倒しても、すぐに別の男が間へ入る。 シリウスがフィアの方へ踏み出すたび、別の刃がその進路を塞いだ。
彼らの目的はシリウスに勝つことではなく、フィアへ近づかせないことだった。
「そこを退け!」
シリウスの声が鋭くなる。
また一人を打ち倒し、フィアとの間を遮っている荷馬車の脇を抜けようとしたところで、荷台に積まれていた木箱が崩れ落ちた。
人々の悲鳴が上がり、通りはさらに混乱した。
その向こうで、フィアが男たちに引きずられている。
シリウスは剣を握り直した。
馬車が割り込んできた瞬間、ルカも逃げ惑う人々の波に押され、シリウスたちとは反対側へ離されていた。
人混みを抜けてフィアの姿を捉えた時には、すでに男たちが彼女を馬車へ連れ込もうとしているところだった。
「フィア!」
呼びかけても、彼女には届かない。
正面から向かえば、男たちはすぐに馬車を出すだろう。
ルカは周囲を見渡した。
馬車が停まっている位置、その先に続く狭い通り、積み荷を運んでいる男たちの数。
そして、少し離れたところで荷運びの指示を出している、見慣れた姿。
「シェル!」
鋭い声が通りに響いた。
名を呼ばれたシェルが振り返る。
「ルカさ――」
「西側の道を塞げ。荷馬車を横につけろ。あの馬車を絶対に通すな」
ルカはシェルの返事を待たず、宿の脇に停まっている馬車を指差した。
先ほどまでとは違う、低く張り詰めた声だった。
シェルは一瞬だけ目を見開いたものの、すぐに背筋を伸ばした。
「……分かった」
「二人、裏へ回せ。馬車を捨てて逃げる可能性もある」
「任せろ」
「荷が壊れても構わない。費用は僕が持つ。急げ」
「分かりました!」
シェルは即座に踵を返し、近くの男たちへ声を張り上げた。
「おい!その荷車を動かせ!西の通りを塞ぐんだ!」
「えっ、何の騒ぎだ?」
「いいから急げ! あの馬車を通すな!」
男たちが慌てて荷車を動かし始める。
ルカはその様子を確かめると、今度は通りの反対側にいる商人へ声をかけた。
「そこの荷車、動かせる?」
「ルカさん?ああ、動かせるけど……」
「お願い、宿の裏へ回して!僕の連れが攫われそうになってるんだ!」
「何だって!?」
「細い道を塞いでほしい。ほかの人が通れるように気をつけて!」
「分かった!おい、手を貸してくれ!」
声をかけられた男が周囲の仲間を呼び、荷車を押し始めた。
別の商人も、ルカの姿に気づいて近寄ってきた。
「ルカさん、何があったんだ?」
「僕の連れの女性が連れていかれそうになってる。もう一人の連れがなんとか止めてくれてるけど、馬車を逃がしたくないんだ」
「それなら俺たちも手を貸すぞ。何をすりゃいい?」
「ありがとう。あの馬車の前へは行かないで。巻き込まれると危ないから、通りの出口を押さえてほしい」
「分かった。任せろ!」
男たちはすぐに動き始めた。
ルカは礼を言う間も惜しむように、再びフィアへ視線を向けた。
彼女はまだ抵抗している。
男に腕を掴まれながらも、馬車の縁に手をかけて踏ん張っていた。
「フィアから手を離せ!」
ルカが声を上げる。
けれど、男たちは振り返っただけで、彼女を離そうとしなかった。
ルカは人混みを抜けて馬車へ向かった。
「早く乗れ!」
男の一人がフィアの背中を押した。
「いや……!行かない!」
フィアは空いている方の手を馬車の縁にかけ、必死に踏ん張った。
片方の足が段差に引っかかり、身体が傾く。それでも縁を掴む手は離さず、押し込もうとする男に抵抗し続けた。
「手間をかけさせるな!」
「……痛い!」
振りほどこうとした腕を、さらに強く掴まれる。
痛みに顔を歪めた時、馬車の前方から怒鳴り声が聞こえた。
「おい!邪魔だ、退け!」
御者が叫んでいる。
別の荷馬車が通りを横切り、行く手を塞いでいた。
「こっちは荷を運んでるんだ! そう簡単に動かせるかよ!」
荷運びの男が怒鳴り返す。
「ふざけるな! 今すぐ退け!」
「そっちこそ、こんなところで何してやがる!」
周囲からも声が上がり始めた。
「女を攫おうとしてるって本当か?」
「ルカさんが止めろって言ってたぞ!」
「おい、そこの馬車!動くんじゃねえ!」
御者は慌てて手綱を引いたが、後ろの道もすでに塞がれ始めていた。
「くそっ……何なんだ、こいつら!」
フィアを押さえていた男が苛立った声を上げる。
「早く中へ入れろ!馬車が出せないなら、別の道から連れていく!」
その言葉に、フィアはさらに強く身体を引いた。
逃げなければ。
シリウスとルカがそばへ来てくれるまで。
どうにかして、ここから離れなければ。
「……っ、離して!」
フィアは掴まれた腕を強く引き、相手の脇をすり抜けようと身体を捻った。
一瞬、相手の手が緩む。
その隙に馬車から離れようとしたが、別の男が回り込んで行く手を塞いだ。
「どこへ行くつもりだ!」
再び腕を捕まれた時、通りの向こうからルカの声が響いた。
「フィア!」
顔を上げると、ルカが人混みの間を抜けてこちらへ向かってきていた。
「ルカ!」
フィアが名前を呼ぶと、ルカは彼女を掴んでいる男へ視線を向けた。
「その手を離して」
フィアを掴んでいた男が、空いている方の手で短剣を抜いた。
「それはできない。聖女様には来てもらう」
ルカは足を止めた。
「それなら、もう無理だよ。馬車も動かせないし、逃げ道も塞がってる」
「黙れ!」
「今、彼女を離せば、それ以上は何もしない。だから、手を離して」
穏やかに聞こえる声だった。
しかし、フィアには何かが違うように感じられた。
普段のルカは、相手がどうしたいのかを尋ねてくれる。
けれど今は、男たちの返事を待っているようには見えなかった。
すでに逃げ道を塞ぎ、相手が従うかどうかだけを確かめているようだった。
男はフィアを自分の方へ引き寄せると、短剣を彼女の身体へ近づけた。
「それ以上近づくな。聖女様を傷つけたくはない」
「……そう」
ルカの表情から、わずかに残っていた笑みが消えた。
その時、通りの反対側から声が響いた。
「殿下――こちらは押さえました!」
言い切ったところで、シェルの表情が一瞬だけ変わった。
けれど、もう遅かった。
ルカもわずかに眉を寄せた。
「馬車は動けません。こちら側からは逃がしません!」
先ほどまで荷運びの男たちと一緒に道を塞いでいたシェルが、ルカへ向かって叫んでいる。
フィアは、その声を聞いて一瞬だけ動きを止めた。
殿下。
一瞬、誰のことか分からなかった。
けれど、シェルが見ているのは間違いなくルカだった。
ついさっきまで「ルカさん」と笑い合っていた人が、今は迷いなくその指示に従っている。
「……殿下?」
フィアは思わず呟き、ルカを見た。
ルカも、ほんの一瞬だけフィアへ視線を向けた。
その表情に何かが浮かんだが、すぐに男たちへ向き直る。
「……あとで話すから。今はこっちへ!」
ルカがもう片方の手を差し伸べた。
けれど、腕を掴む男の手はまだ離れていなかった。




