92話 呼びかけた名 後編
――殿下。
同時に、ルカの目が変わった。
先ほどまで浮かんでいた笑みは消えていない。
それでも、その奥に一瞬だけ鋭いものが走った。
その老人もすぐに気づいたらしい。
反射的に姿勢を正しかけ、途中で動きを止める。
「あ……失礼しました。あまりに懐かしくて、つい」
ルカは何も言わずに老人を見ていたが、すぐに小さく息を吐いた。
「本当に久しぶりだね。元気だった?」
何事もなかったように、また笑う。
老人の表情もほころんだ。
「ええ。おかげさまで」
そこで一度声を詰まらせる。
「そちらも、お元気そうで……本当によかった」
「マルじいも元気そうだね」
「もう随分と暇になりましたから」
「引退してから会うのは初めてだね」
「ええ。何年ぶりになりますかね」
フィアが二人のところへ戻ってきた。
「ルカの知り合い?」
「うん。昔、僕の家で働いてたんだよね、マルクス」
老人がすぐにフィアへ向き直る。
「マルクスと申します。初めまして」
「フィ――」
「旅の連れです」
フィアが名乗りかけたところへ、シリウスが穏やかに言葉を重ねた。
フィアが振り返ると、シリウスはわずかに視線を返す。
それだけで意味を察したのか、フィアは口を閉じた。
マルクスは一瞬だけフィアとシリウスを見たものの、それ以上名を尋ねることはせず、丁寧に頭を下げた。
「これは失礼いたしました。どうぞよろしく」
「こちらこそ」
シリウスも名乗らないまま、短く礼を返した。
「お二人は、旅のお連れで?」
マルクスがルカへ尋ねる。
「うん。仲間だよ」
ルカは迷わず答えた。
マルクスはフィアとシリウスをもう一度見て、穏やかに頷く。
「そうでしたか」
それ以上、二人について尋ねることはなかった。
「それにしても驚きました。まさかこんなところでお会いするとは」
「僕も驚いたよ。どうしてこの国に?」
「今は好きに旅をしております。現役の頃は、なかなか遠出もできませんでしたので」
「楽しんでる?」
「ええ。それなりに」
二人が話している間、シリウスは黙ってマルクスの様子を見ていた。
先ほど聞こえた言葉が、まだ耳に残っている。
――殿下。
あの一言だけで決めつけるつもりはなかった。
だが、気になるのはそれだけではない。
マルクスはルカと話しながら、いつの間にか半歩ほど後ろに立っている。
ルカがわずかに位置を変えれば、それに合わせるようにマルクスも動く。
本人が意識してそうしているようには見えなかった。
シリウスには、その距離の取り方に覚えがあった。
マルクスは談笑しながら、ルカの旅装や荷物へ目を向けた。
腰の剣にも視線を止め、少し心配そうに眉を寄せる。
「しかし、また随分と大変そうなことをなさっているようで」
「何が?」
「昔から無茶をなさる方でしたから」
ルカがすぐにマルクスを見る。
マルクスも自分の言葉に気づいたらしく、軽く咳払いをした。
「……昔から、無茶をする子でしたから」
ルカが苦笑する。
そのやり取りを見ていたフィアが、首を傾げた。
「ルカのこと、小さい頃から知ってるの?」
「うん。僕が子どもの頃から」
「マルじいと呼ぶのはなんで?」
「そこ?」
フィアが頷くと、ルカは少し笑った。
「初めは普通に『じいや』って呼んでたんだけどね」
「じいや?」
「うん。名前がマルクスでしょ。それに昔から顔が丸かったから」
「……それを説明する必要がありましたか?」
マルクスが呆れたように返す。
フィアは思わずその顔を見た。
確かに、少し丸みがある。
「だから、マルじい」
「その呼び名を定着させたのはあなたでしょう」
「でも嫌いじゃないでしょ?」
「好きだとも申し上げておりません」
フィアが小さく笑った。
ルカも楽しそうに笑い、マルクスはため息をつきながらも、どこか嬉しそうだった。
二人が昔から親しいことは、それだけでも十分に伝わってくる。
けれどシリウスが見ていたのは、それとは別のものだった。
先ほどの呼びかけ。
ルカより半歩後ろに立つ癖。
そして、つい漏れた「無茶をなさる方」という言葉。
ルカが言った「昔、家で働いていた」という説明自体は、おそらく嘘ではない。
幼い頃から使用人がいる家で育ったのなら、これまで見せてきた教養の広さにも説明はつく。
だが、それだけではない。
シリウスの中で、その疑いは少しずつ確信へ近づいていた。
マルクスの態度も、シリウスには引っかかった。
幼い頃から知っている相手が、見知らぬ男女と外国を旅している。
普通なら、もう少し事情を尋ねてもおかしくはない。
それでもマルクスは、ルカが答えなかったことには一切踏み込もうとしない。
興味がないのではない。
聞いていいことと、聞かない方がいいことを知っている。
そんな距離の取り方だった。
やがてマルクスが懐中時計を取り出した。
「では、私はそろそろ行かなくては」
「もう?」
「次の休憩場所まで、今日のうちに進んでおきたいので」
「そっか。気をつけてね、マルじい」
「ルカ様も……どうか、お気をつけて」
マルクスが頭を下げる。
その身体が反射的に深く折れかけた。
けれど途中で気づいたように止まり、ごく普通の会釈へ変える。
フィアは少し不思議そうにしているだけだったが、シリウスには十分だった。
殿下という呼びかけ。
半歩後ろへ下がる位置。
敬語を直すたびに漏れる、長く仕えた者の言葉遣い。
そして今の礼。
どれか一つだけなら偶然で済ませられたかもしれない。
だが、すべてが同じ答えを示している。
マルクスは昔、ルカの家で働いていた。
それ自体は嘘ではないのだろう。
ただし、単なる使用人ではない。
そしてルカも、単なる商家の息子ではない。
マルクスは別れ際にもう一度ルカを振り返った。
何か言いたそうに見えたが、結局何も言わずに街道の先へ歩いていった。
*
休憩所を出てからしばらく、誰もマルクスの話をしなかった。
フィアが最初に口を開く。
「マルクスさん、優しい人だったね」
「うん。子どもの頃はよく面倒見てもらったよ」
「だから、あんなに仲がいいんだね」
「まあね」
フィアは少し考えてから、ルカを見る。
「でも、なんだかすごく丁寧だった」
ルカの歩調がほんの少しだけ緩んだ。
「そう?」
「うん。ルカよりずっと年上なのに」
「昔からああいう人なんだよ。礼儀には厳しい人だったし」
「そうなんだ」
フィアはそれ以上聞かなかった。
けれど、完全に納得したようにも見えなかった。
シリウスは少しだけ二人の後ろを歩いた。
今、自分が知ったことをそのまま口に出せば、フィアにも伝わる。
だが、それをするべきなのか。
昨夜なら迷わなかったかもしれないが、今は違った。
少し歩いたところで、シリウスはルカへ声をかける。
「……昔の知人か」
ルカが振り返った。
「そう言ったでしょ」
「ああ」
それ以上は言わない。
ルカも何か返そうとしたが、シリウスの顔を見て止まった。
数秒、互いに黙る。
やがてルカが小さく息を吐いた。
「……聞こえてたんだね」
フィアが二人を見比べる。
「何が?」
シリウスは答えなかった。
答えるべきなのは、自分ではない。
ルカもすぐには口を開かなかった。
そのまま数歩歩いてから、フィアを見る。
「フィア。昨日の話なんだけど」
フィアの表情が少しだけ強張った。
「次に泊まるところに着いたら、話すよ」
「……昨日、言えないって言ってたこと?」
「うん」
「今度は、話せるの?」
ルカは少し黙った。
それから、今度は目を逸らさずに頷いた。
「話す」
フィアはしばらくルカを見ていた。
やがて小さく頷く。
「……分かった」
それ以上、誰も何も言わなかった。
三人はまた歩き始める。
国境へと続く街道を。
*
その日の夕方。
マルクスは、一人で小さな町の宿にいた。
机の上には一枚の紙が置かれている。
仕えを退いてから、すでに数年が経っていた。
今の自分には、見聞きしたことを報告する義務などない。
今日も、かつて仕えたルカがこの国で何をしているのかは尋ねなかった。
これからどこへ向かうのかも聞いていない。
昔から、あの方が自ら話さないことには理由があると知っていた。
だから、必要のないことは聞かない。
それでも、久しぶりに会った姿を思い返すと気にかかることはあった。
昔よりずっと旅慣れているようには見えた。
それでも長い道中なのだろう。
荷物を持ち、二人の仲間を伴い、あの方はまた自分で何もかも抱え込んでいるのではないか。
幼い頃からそうだった。
自分がやらなければならないと思えば、いくらでも無理をする。
そして心配されれば、平気な顔で笑う。
マルクスは小さく息を吐き、筆を取った。
宛先は、かつて共に仕えていた旧知の人物だった。
偶然、久方ぶりにルカ様とお会いした。
そのことを伝えるだけなら、問題はないだろう。
――本日、旅の途中で偶然にも殿下にお会いした。
――お元気そうであった。
――若い女性と、銀髪の男を伴って旅をされていた。
そこまで書き、筆を止める。
二人が何者なのかは聞いていない。
ルカはただ、仲間だと言った。
それならば、それ以上書く必要もなかった。
行き先についても同じだった。
本人から聞いたわけではない。
ただ、今日通っていた街道をそのまま進むのなら、向かう先は限られている。
マルクスは続きを書いた。
――行き先については伺っていないが、国境の街の方へ向かわれているようだった。
――旅慣れているご様子ではあったものの、長旅ゆえ、物資や資金に不足がないか少々気にかかる。
――もし国境へ向かわれるのであれば、無事に通れるよう、可能な範囲で便宜を図っていただければありがたい。
書き終えた手紙を、初めから読み返す。
余計なことを書いたつもりはない。
帰国すると決めつけてもいない。
ただ、昔の主人が無事だったことを知らせたかった。
もし本当に国境を越えるつもりなら、少しでも安全に通れるようにしてやりたかった。
それだけだった。
マルクスは手紙を折り、封をした。
明日、国境方面へ向かう早馬に預ければ、ルカたちが旅を続けるよりずっと早く届く。
そう考えながら、封じた手紙を旅装の内側へしまう。
自分が書いたその短い手紙が、ルカたちより先に国境へ届くことになる。
そして、その先で何を動かすことになるのかを、マルクスはまだ知らなかった。




