90話 祈らなかった日々 後編
シリウスの表情が、わずかに変わった。
「……フィア様」
名前を呼ぶ声が、少し低くなる。
フィアは答えを待ったが、シリウスもすぐには言葉を続けなかった。
昨日のことを考えていたのは、自分だけではないのかもしれない。
けれど、フィアには、まだ聞きたいことがあった。
「……魔物、前からこの辺りに出るのかな」
「交易商たちは、そう話していましたね。山や国境に近い土地では、時折現れることがあると」
「……でも、最近は?」
シリウスがフィアを見た。
「昨日、帰る時に聞いたの。前は、もう少し間が空いてたって」
「……はい」
「長雨のせいかもしれないって、言ってたけど……」
それだけが理由なら、いい。
けれど、昨日から何度も考えてしまうことがあった。
「……私が祈らなくなってから、増えてたらどうしよう」
シリウスは何も言わなかった。
「今まで魔物が少なかったのは、私が祈ってたからかもしれないでしょ?」
「……そうですね」
フィアは顔を上げた。
シリウスは、言葉を選ぶように続けた。
「フィア様の祈りが、この国の人々を守ってきたことを、私は否定しません。ですが、魔物が増えているのかどうか、何が原因なのか。今の私たちには、まだ分からないことがあります」
「……うん」
「それに昨日、街の人々は魔物に対処していました」
フィアは、昨日の通りを思い出した。
魔物が現れたと聞いた途端、店の戸を閉める人がいた。
逃げる道を教えてくれた人もいた。
「交易商の護衛たちも、私たちを助けてくれました。ルカも、負傷した方々を手当てしていましたね」
「……うん。今日も行ってくれた」
「ええ。フィア様が祈っていらした間も、人々はそれぞれ、自分たちの暮らしを守ってきたのでしょう」
フィアは少し考えた。
街の人々は、魔物から逃げる場所を知っていた。
警備の者たちは戦い、交易商の護衛たちも助けに来てくれた。
怪我をした人たちは手当てを受け、今日も生きている。
自分の知らないところで、ずっとそうしてきた人たちがいたのだ。
「……うん」
小さく頷いたものの、胸の重さは消えなかった。
その人たちがどれほど頑張っても、魔物が現れなければ、誰も傷つかずに済んだのではないか。
「……また、祈った方がいいのかな」
シリウスは黙った。
「もし、私が祈れば……魔物が少なくなるなら、昨日みたいに誰かが怪我をしなくて済むかもしれない」
「……はい」
「だったら、私が少しくらい疲れても、祈った方が――」
「フィア様」
シリウスが、静かに遮った。
フィアが顔を上げると、彼は少し間を置いてから尋ねた。
「以前、私の傷を治してくださった時のことを、覚えていますか」
「……うん」
シリウスの怪我を治した時、力を使ったあとに身体が重くなり、しばらく休まなければならなかった。
あの時、シリウスが心配してくれたことも覚えている。
「……シリウス、気にしてたね」
「はい。フィア様は大丈夫だとおっしゃいましたが、あの後、随分とお疲れだったでしょう」
「……少し、疲れただけだよ」
「その『少し』が、私には気になっていました」
シリウスはフィアの手元へ視線を落とした。
「治癒の力を使った時、あれほど消耗されるのであれば……祈りも、同じなのではないかと」
「……祈りも?」
「はい。治癒と祈りが、同じようにお身体へ負担をかけるのかどうか、確かなことは分かりません。ですが、ずっと気になっていたのです」
フィアは、その顔を見つめた。
自分が治癒のあとに疲れることを、シリウスが心配していたのは知っていた。
けれど、祈りについてまで考えていたとは思わなかった。
「私は……できれば、もう使ってほしくありません」
フィアは目を見開いた。
シリウスは視線を逸らさず、静かに続けた。
「治癒も、祈りも。フィア様がその力を使うたびに傷ついてしまうのであれば……私は、もう使ってほしくないのです」
「……でも、祈らなかったら、また誰かが傷つくかもしれないよ」
「はい」
「私が祈れば、守れる人がいるかもしれない」
シリウスは頷いた。
フィアは、自分の手を握った。
「だったら、私が……」
そこまで言ったところで、シリウスが立ち上がった。
「……フィア様」
彼はフィアの前へ来ると、左腕を伸ばした。
そっと肩を抱き寄せられ、フィアは驚いて顔を上げる。
「シリウス……?」
「私は、あなたに傷ついてほしくありません」
すぐ近くで声がした。
シリウスは右腕を動かさないようにしながら、左腕だけでフィアを抱きしめていた。
「フィア様が、誰かを守りたいと思っていらっしゃることは分かっています。祈りを大切にしてきたことも」
「……うん」
「ですが、あなたが傷つくことを、仕方のないことだとは思えません」
フィアは返事ができなかった。
目の前には、シリウスの右腕の包帯が見える。
昨日、魔物から自分を庇おうとした腕は、今もまだ治っていない。
フィアは、そっとシリウスの服を掴んだ。
「……私も、シリウスに傷ついてほしくないよ」
「……はい」
「ルカにも」
「ええ」
「でも、昨日……二人とも、私を守ろうとしてくれた」
シリウスの腕に、わずかに力がこもった。
「それは、私たちがそうしたかったからです」
「……うん」
「フィア様が、大切だからです」
フィアは、服を掴む指に力を込めた。
シリウスが自分に傷ついてほしくないと思っているのは、自分が二人にそう思うのと同じなのだろう。
その気持ちは分かった。
けれど、昨日の負傷者たちの姿も、祈らなければまた誰かが傷つくかもしれないという恐れも、消えてはくれなかった。
*
居間から寝室へ続く廊下で、ルカは足を止めた。
二人に声をかけようと、寝室の戸へ手を伸ばしかける。
戸は、わずかに開いていた。
その隙間から、シリウスがフィアを抱きしめている姿が見えた。
ルカは何も言わず、伸ばしかけた手を下ろした。
二人を呼ぶことなく、静かに踵を返す。
足音を立てないように廊下を戻り、そのまま居間へ入っていった。
*
「……シリウス」
「はい」
「私、まだ……どうしたらいいか、分からない」
シリウスは少しだけ身体を離し、フィアの顔を見て頷いた。
「今、答えを出さなくてもよいと思います」
「……うん」
「私の願いも、フィア様に聞いていただきたかっただけです」
フィアは、もう一度彼の服を握った。
「……聞けて、よかった」
「ありがとうございます」
それからしばらく、二人は何も言わずにいた。
やがてフィアが身体を離すと、シリウスは左手で彼女の背をそっと支えてくれた。
「……腕、痛くなかった?」
「大丈夫です。右腕は使っていませんから」
シリウスが小さく笑うのを見て、フィアも少しだけ笑った。
*
翌朝、寝室を出ると、ルカは居間で地図を広げていた。
二人に気づくと、いつものように顔を上げる。
「やあ、二人とも早いね」
「……うん。ルカ、このあたりの地図?」
「うん。道の確認をしてたんだ。座る?」
フィアが頷いて椅子へ腰を下ろすと、シリウスも向かいへ座った。
ルカは地図を二人へ向けた。
「国境の方へ向かうなら、こっちの道が使えそうなんだ。ただ、雨で傷んだところもあるから、まだ確かめたいことはあるんだけどね」
地図には、フィアの知らない街の名前が並んでいた。
川があり、山があり、その先には国境がある。
「別の場所へ向かうなら、こっちの道もあるよ。今すぐ決めなくてもいいし、もう少しここにいてもいい」
「……うん」
「魔物のことがあったからって、急いで出る必要はないからね。シリウスの腕も、まだ休ませないといけないし」
「ああ」
シリウスも頷いた。
フィアは、二人を見た。
ルカは、自分が行き先を決めるのを待ってくれている。シリウスも、急かさない。
昨夜、祈りについては答えを出せなかった。
これからどうすればいいのかも、まだ分からない。
けれど、一つだけ、今の自分にも言えることがあった。
「……私、国境の方へ行ってみたい」
ルカは静かに頷いた。
「そっか」
「まだ、どんなところなのかもよく分からないけど……この街みたいに、魔物が出ても、みんなで暮らしを守っている場所があるんだよね?」
「うん。国境に近い街では、魔物への備えをしているところも多いよ」
フィアはシリウスを見た。それから、もう一度ルカを見る。
「……もっと、いろんな街を見てみたい。二人と一緒に」
ルカは微笑んだ。
「そうだね。分かった」
「私も、ご一緒します」
シリウスにもそう言われ、フィアは小さく笑った。
ルカは地図へ視線を戻した。
「じゃあ、国境方面を目指そうか。ただし、出発はもう少し先ね。ひとまず数日後を目安にして、シリウスの腕の具合がよくなければ延ばそう」
「ああ。それがいいと思う」
シリウスが頷き、フィアも二人に笑いかけた。
祈りについての迷いが消えたわけではない。
それでも、二人と一緒に新しい場所を見てみたいという気持ちは、確かに自分のものだった。
*
その日から、三人は少しずつ旅支度を進めた。
ルカが道具を確かめ、フィアが必要なものをまとめる。
シリウスは右腕を休ませながら、荷物を確かめ、足りないものを二人に伝えてくれた。
手入れに出していた大剣も戻り、出発前にはシリウスの腕をもう一度診てもらうことになった。
必要なものが揃うにつれて、また旅に出る日が近づいていく。
三人で食事をし、道を確かめ、時折、何でもないことで笑う。
隠れ家での暮らしは、少しずつ穏やかさを取り戻していった。
けれど、フィアはまだ、街の方から大きな声が聞こえると顔を上げた。
荷車の音に驚いて手を止めることもあったが、シリウスやルカに呼ばれれば、しばらくしていつものように話せるようになった。
二人と笑うこともできる。
それでも、あの日のことを忘れられたわけではなかった。
*
それから数日後、旅支度がひと段落した夜、フィアは棚の前に立っていた。
白い花を挟んだ本の上には、見張りを任せた木の鳥が、今日も同じ場所に乗っている。
フィアは本へ手を伸ばしかけて、止めた。花がきちんと乾くまで、ここに置いておくのだと決めていた。
ルカは、また来ればいいと言ってくれた。
この家に戻ってくる日を思い描くことができたのは、嬉しかった。
自分の好きなものを置いていける場所がある。また三人で帰ってきて、本を開けられるかもしれない。
それは、今も変わらず楽しみに思えることだった。
けれど、魔物の姿を思い出さずに一日を終えられた日は、まだなかった。
傷ついた人々の姿も、助けたいと思いながら手を伸ばせなかったことも、忘れられない。
そして、祈るのをやめてからの日々。
シリウスは、もう力を使ってほしくないと言った。
ルカは、旅の行き先を急いで決めなくてもいいと言ってくれた。
二人と一緒に旅を続けたいという気持ちは、確かに自分のものだった。
けれど、祈らないままでいいのかは、まだ分からない。
フィアは木の鳥へ目を向けた。
いつもなら少し動かしてみる横の棒には、触れなかった。
「……おやすみ」
小さく告げて、フィアは寝室へ戻った。
明日も、二人と一緒に朝を迎える。
その明日があることを、今は信じていたかった。
それでもフィアはまた、祈らなかった日々を数えていた。




