↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
many merry bad ENDs 聖女がたどる結末たち  作者: 源泉


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

129/138

90話 祈らなかった日々 後編


シリウスの表情が、わずかに変わった。



「……フィア様」



名前を呼ぶ声が、少し低くなる。


フィアは答えを待ったが、シリウスもすぐには言葉を続けなかった。

昨日のことを考えていたのは、自分だけではないのかもしれない。


けれど、フィアには、まだ聞きたいことがあった。



「……魔物、前からこの辺りに出るのかな」


「交易商たちは、そう話していましたね。山や国境に近い土地では、時折現れることがあると」


「……でも、最近は?」



シリウスがフィアを見た。



「昨日、帰る時に聞いたの。前は、もう少し間が空いてたって」


「……はい」


「長雨のせいかもしれないって、言ってたけど……」



それだけが理由なら、いい。


けれど、昨日から何度も考えてしまうことがあった。



「……私が祈らなくなってから、増えてたらどうしよう」



シリウスは何も言わなかった。



「今まで魔物が少なかったのは、私が祈ってたからかもしれないでしょ?」


「……そうですね」



フィアは顔を上げた。

シリウスは、言葉を選ぶように続けた。



「フィア様の祈りが、この国の人々を守ってきたことを、私は否定しません。ですが、魔物が増えているのかどうか、何が原因なのか。今の私たちには、まだ分からないことがあります」


「……うん」


「それに昨日、街の人々は魔物に対処していました」



フィアは、昨日の通りを思い出した。


魔物が現れたと聞いた途端、店の戸を閉める人がいた。

逃げる道を教えてくれた人もいた。



「交易商の護衛たちも、私たちを助けてくれました。ルカも、負傷した方々を手当てしていましたね」


「……うん。今日も行ってくれた」


「ええ。フィア様が祈っていらした間も、人々はそれぞれ、自分たちの暮らしを守ってきたのでしょう」



フィアは少し考えた。


街の人々は、魔物から逃げる場所を知っていた。

警備の者たちは戦い、交易商の護衛たちも助けに来てくれた。


怪我をした人たちは手当てを受け、今日も生きている。


自分の知らないところで、ずっとそうしてきた人たちがいたのだ。



「……うん」



小さく頷いたものの、胸の重さは消えなかった。


その人たちがどれほど頑張っても、魔物が現れなければ、誰も傷つかずに済んだのではないか。



「……また、祈った方がいいのかな」



シリウスは黙った。



「もし、私が祈れば……魔物が少なくなるなら、昨日みたいに誰かが怪我をしなくて済むかもしれない」


「……はい」


「だったら、私が少しくらい疲れても、祈った方が――」


「フィア様」



シリウスが、静かに遮った。

フィアが顔を上げると、彼は少し間を置いてから尋ねた。



「以前、私の傷を治してくださった時のことを、覚えていますか」


「……うん」



シリウスの怪我を治した時、力を使ったあとに身体が重くなり、しばらく休まなければならなかった。


あの時、シリウスが心配してくれたことも覚えている。



「……シリウス、気にしてたね」


「はい。フィア様は大丈夫だとおっしゃいましたが、あの後、随分とお疲れだったでしょう」


「……少し、疲れただけだよ」


「その『少し』が、私には気になっていました」



シリウスはフィアの手元へ視線を落とした。



「治癒の力を使った時、あれほど消耗されるのであれば……祈りも、同じなのではないかと」


「……祈りも?」


「はい。治癒と祈りが、同じようにお身体へ負担をかけるのかどうか、確かなことは分かりません。ですが、ずっと気になっていたのです」



フィアは、その顔を見つめた。


自分が治癒のあとに疲れることを、シリウスが心配していたのは知っていた。


けれど、祈りについてまで考えていたとは思わなかった。



「私は……できれば、もう使ってほしくありません」



フィアは目を見開いた。

シリウスは視線を逸らさず、静かに続けた。



「治癒も、祈りも。フィア様がその力を使うたびに傷ついてしまうのであれば……私は、もう使ってほしくないのです」


「……でも、祈らなかったら、また誰かが傷つくかもしれないよ」


「はい」


「私が祈れば、守れる人がいるかもしれない」



シリウスは頷いた。


フィアは、自分の手を握った。



「だったら、私が……」



そこまで言ったところで、シリウスが立ち上がった。



「……フィア様」



彼はフィアの前へ来ると、左腕を伸ばした。

そっと肩を抱き寄せられ、フィアは驚いて顔を上げる。



「シリウス……?」


「私は、あなたに傷ついてほしくありません」



すぐ近くで声がした。


シリウスは右腕を動かさないようにしながら、左腕だけでフィアを抱きしめていた。



「フィア様が、誰かを守りたいと思っていらっしゃることは分かっています。祈りを大切にしてきたことも」


「……うん」


「ですが、あなたが傷つくことを、仕方のないことだとは思えません」



フィアは返事ができなかった。


目の前には、シリウスの右腕の包帯が見える。

昨日、魔物から自分を庇おうとした腕は、今もまだ治っていない。


フィアは、そっとシリウスの服を掴んだ。



「……私も、シリウスに傷ついてほしくないよ」


「……はい」


「ルカにも」


「ええ」


「でも、昨日……二人とも、私を守ろうとしてくれた」



シリウスの腕に、わずかに力がこもった。



「それは、私たちがそうしたかったからです」


「……うん」


「フィア様が、大切だからです」



フィアは、服を掴む指に力を込めた。


シリウスが自分に傷ついてほしくないと思っているのは、自分が二人にそう思うのと同じなのだろう。


その気持ちは分かった。


けれど、昨日の負傷者たちの姿も、祈らなければまた誰かが傷つくかもしれないという恐れも、消えてはくれなかった。



*



居間から寝室へ続く廊下で、ルカは足を止めた。


二人に声をかけようと、寝室の戸へ手を伸ばしかける。


戸は、わずかに開いていた。


その隙間から、シリウスがフィアを抱きしめている姿が見えた。


ルカは何も言わず、伸ばしかけた手を下ろした。


二人を呼ぶことなく、静かに踵を返す。

足音を立てないように廊下を戻り、そのまま居間へ入っていった。



*



「……シリウス」


「はい」


「私、まだ……どうしたらいいか、分からない」


シリウスは少しだけ身体を離し、フィアの顔を見て頷いた。


「今、答えを出さなくてもよいと思います」


「……うん」


「私の願いも、フィア様に聞いていただきたかっただけです」



フィアは、もう一度彼の服を握った。



「……聞けて、よかった」


「ありがとうございます」



それからしばらく、二人は何も言わずにいた。


やがてフィアが身体を離すと、シリウスは左手で彼女の背をそっと支えてくれた。



「……腕、痛くなかった?」


「大丈夫です。右腕は使っていませんから」


シリウスが小さく笑うのを見て、フィアも少しだけ笑った。



*



翌朝、寝室を出ると、ルカは居間で地図を広げていた。


二人に気づくと、いつものように顔を上げる。



「やあ、二人とも早いね」


「……うん。ルカ、このあたりの地図?」


「うん。道の確認をしてたんだ。座る?」



フィアが頷いて椅子へ腰を下ろすと、シリウスも向かいへ座った。


ルカは地図を二人へ向けた。



「国境の方へ向かうなら、こっちの道が使えそうなんだ。ただ、雨で傷んだところもあるから、まだ確かめたいことはあるんだけどね」



地図には、フィアの知らない街の名前が並んでいた。

川があり、山があり、その先には国境がある。



「別の場所へ向かうなら、こっちの道もあるよ。今すぐ決めなくてもいいし、もう少しここにいてもいい」


「……うん」


「魔物のことがあったからって、急いで出る必要はないからね。シリウスの腕も、まだ休ませないといけないし」


「ああ」



シリウスも頷いた。

フィアは、二人を見た。


ルカは、自分が行き先を決めるのを待ってくれている。シリウスも、急かさない。


昨夜、祈りについては答えを出せなかった。


これからどうすればいいのかも、まだ分からない。


けれど、一つだけ、今の自分にも言えることがあった。



「……私、国境の方へ行ってみたい」



ルカは静かに頷いた。



「そっか」


「まだ、どんなところなのかもよく分からないけど……この街みたいに、魔物が出ても、みんなで暮らしを守っている場所があるんだよね?」


「うん。国境に近い街では、魔物への備えをしているところも多いよ」



フィアはシリウスを見た。それから、もう一度ルカを見る。



「……もっと、いろんな街を見てみたい。二人と一緒に」



ルカは微笑んだ。



「そうだね。分かった」


「私も、ご一緒します」



シリウスにもそう言われ、フィアは小さく笑った。


ルカは地図へ視線を戻した。



「じゃあ、国境方面を目指そうか。ただし、出発はもう少し先ね。ひとまず数日後を目安にして、シリウスの腕の具合がよくなければ延ばそう」


「ああ。それがいいと思う」



シリウスが頷き、フィアも二人に笑いかけた。


祈りについての迷いが消えたわけではない。


それでも、二人と一緒に新しい場所を見てみたいという気持ちは、確かに自分のものだった。



*



その日から、三人は少しずつ旅支度を進めた。


ルカが道具を確かめ、フィアが必要なものをまとめる。

シリウスは右腕を休ませながら、荷物を確かめ、足りないものを二人に伝えてくれた。


手入れに出していた大剣も戻り、出発前にはシリウスの腕をもう一度診てもらうことになった。


必要なものが揃うにつれて、また旅に出る日が近づいていく。


三人で食事をし、道を確かめ、時折、何でもないことで笑う。


隠れ家での暮らしは、少しずつ穏やかさを取り戻していった。


けれど、フィアはまだ、街の方から大きな声が聞こえると顔を上げた。

荷車の音に驚いて手を止めることもあったが、シリウスやルカに呼ばれれば、しばらくしていつものように話せるようになった。


二人と笑うこともできる。


それでも、あの日のことを忘れられたわけではなかった。



*



それから数日後、旅支度がひと段落した夜、フィアは棚の前に立っていた。


白い花を挟んだ本の上には、見張りを任せた木の鳥が、今日も同じ場所に乗っている。


フィアは本へ手を伸ばしかけて、止めた。花がきちんと乾くまで、ここに置いておくのだと決めていた。


ルカは、また来ればいいと言ってくれた。


この家に戻ってくる日を思い描くことができたのは、嬉しかった。


自分の好きなものを置いていける場所がある。また三人で帰ってきて、本を開けられるかもしれない。


それは、今も変わらず楽しみに思えることだった。


けれど、魔物の姿を思い出さずに一日を終えられた日は、まだなかった。


傷ついた人々の姿も、助けたいと思いながら手を伸ばせなかったことも、忘れられない。


そして、祈るのをやめてからの日々。


シリウスは、もう力を使ってほしくないと言った。

ルカは、旅の行き先を急いで決めなくてもいいと言ってくれた。


二人と一緒に旅を続けたいという気持ちは、確かに自分のものだった。


けれど、祈らないままでいいのかは、まだ分からない。


フィアは木の鳥へ目を向けた。


いつもなら少し動かしてみる横の棒には、触れなかった。



「……おやすみ」



小さく告げて、フィアは寝室へ戻った。


明日も、二人と一緒に朝を迎える。


その明日があることを、今は信じていたかった。


それでもフィアはまた、祈らなかった日々を数えていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。