90話 祈らなかった日々 前編
「おかえり、ルカ」
フィアが顔を上げると、ルカが戸を閉めるところだった。
「うん。ただいま。二人とも、ちゃんと休めた?」
「……うん」
ルカは上着を脱ぎながら、フィアとシリウスを見比べた。
「……何かあった?」
「少し、今日のことを話していました」
シリウスが答えると、ルカはそれ以上尋ねなかった。
フィアは、ルカが脇に置いた手当ての荷物へ目を向けた。
「……怪我をした人たちは?」
「手当ては終わったよ。診療所に運ばれた人もいるけど、ひとまず落ち着いてる」
「……そうなんだ」
「明日、もう一度様子を見てくるつもりだよ。だから、フィアも今日は休もう」
フィアは頷いたものの、椅子から立ち上がる気にはなれなかった。
ルカは急かさずに向かいへ腰を下ろし、シリウスも隣に座ったまま、何か話すよう促すことはなかった。
三人で過ごす隠れ家は、昨日までと変わらず静かだった。
けれど、フィアには、もうあの叫び声を聞く前と同じ場所には思えなかった。
*
翌朝、通りを走る荷車の音で、フィアは顔を上げた。
車輪の軋む音に続き、誰かが道を空けるよう呼びかけている。
いつもなら気にも留めない音に、昨日の剣がぶつかる音と、人々の叫び声が重なった。
「……フィア様?」
シリウスに呼ばれ、フィアは我に返った。
朝食の席だった。
ルカがパンを皿へ取り分け、シリウスは湯気の立つ器を手にしている。
「……ううん。何でもないよ」
「外の音ですか?」
少し迷ってから頷くと、シリウスは窓へ目を向けた。
「いつもの通りのようですね」
「……うん」
昨日、魔物が現れた街には、今朝も荷車が走り、人々の声が聞こえている。
怪我をした人たちもいるのに、街はもう普段の暮らしへ戻ろうとしている。
そのことが、フィアには少し不思議だった。
「フィア、食べられそう?」
ルカが目の前に皿を置いてくれた。
「うん。ありがとう」
パンを一口食べると、昨日と同じ温かさが口の中に広がった。
けれど、食べ進めようとしたところで、昨夜から気になっていたことを思い出した。
「……ルカ。昨日の人たち、大丈夫だった?」
「怪我をした人たち?」
「うん。みんな、治りそう?」
「うん。昨日の手当てで、ひとまず落ち着いてるよ。ただ、傷の具合はあとから変わることもあるから、今日はもう一度確かめに行こうと思ってる」
フィアは少し息を吐いた。
「……私も行っていい?」
ルカはすぐには答えず、フィアの顔を見た。
「昨日の人たちが、ちゃんと大丈夫なのか知りたいの。私にも、何かできることがあるかもしれないし……」
「うん。心配だよね」
ルカは頷いたあと、穏やかに続けた。
「でも、今日は家で休んでてほしいな。昨日、あまり眠れてないでしょ」
「……少しは眠れたよ」
「少し、ね」
フィアは俯いた。
負傷した人たちがどうなったのか、自分の目で確かめたい。
けれど、昨日のように身体が震えたら、また何もできなくなるかもしれない。
「僕がちゃんと見てくるから。帰ったら、どうだったか話すよ」
ルカにそう言われ、フィアはようやく頷いた。
「……うん。分かった」
「ありがとう。シリウスも、今日は家で休んでね」
「ああ、そのつもりだ」
「昨日は魔物の前に出ようとしてたけど?」
「……あの状況とは違う」
「まあとにかく、今日はフィアと休んでて」
二人のやり取りを聞いているうちに、フィアは残りのパンへ視線を落とした。
もう一口食べようとしたが、どうしても飲み込める気がせず、そっと皿に戻した。
*
朝食のあと、ルカは昨日持ち帰った大剣を背負った。
魔物の騒ぎで手入れに出せなかったシリウスの剣も、負傷者の様子を確かめに行くついでに店へ預けてくるらしい。
「頼むぞ」
シリウスが言うと、ルカは頷いた。
「うん。昨日のことも伝えて、ちゃんと見てもらうよ」
フィアは、ルカの背にある大剣を見つめた。
昨日、ルカが魔物の前に立った瞬間が思い浮かぶ。
「……ルカ」
「どうしたの?」
「昨日、剣で魔物を止めた時……大丈夫だった?」
「僕?」
「うん。すごく、身体が傾いてたから」
「ああ……重かったね、あれは」
ルカは苦笑した。
「シリウスが支えてくれなかったら、転んでたかもしれない」
「転ぶだけでは済まなかっただろう」
シリウスが静かに言った。
「そうだね。助かったよ」
「……無茶をするな」
「それ、シリウスに言われるんだ」
「私は怪我をしている」
「分かってるなら、なおさらね」
フィアは二人を見比べた。
昨日は、シリウスがルカを支えたところまでしか、はっきり覚えていなかった。
そのあとどうやって路地へ逃げたのかも曖昧で、思い返すたび、二人が無事だったことにようやく安心する。
「……無事で、よかった」
フィアが呟くと、ルカは笑うのをやめた。
「うん。そうだね」
*
ルカが出かけたあと、フィアはシリウスと隠れ家で過ごした。
食器を片づけ、棚のものを整理している間も、物音がすると手が止まった。
卓に置いた器が思いがけず大きな音を立てた時には、昨日の金属音を思い出し、しばらく動けなくなってしまった。
シリウスは、そんなフィアから無理に話を聞き出そうとはしなかった。
声をかければいつもどおりに答えてくれるし、黙っている時には、そばで静かに過ごしてくれた。
「……シリウス」
「はい」
「昨日、怖かったね」
フィアがそう言うと、シリウスは頷いた。
「ええ」
「シリウスも?」
「フィア様に何かあればと思いました」
「……私も、シリウスとルカが怪我をしたらって思った」
シリウスは少し目を伏せた。
「ご心配をおかけしました」
「ううん。守ってくれて、ありがとう」
「……はい」
それから、二人は昨日の話を続けなかった。
フィアは棚に置かれた本へ目を向けた。
白い花を挟んだ本の上では、木の鳥が変わらず見張りを続けている。
ほんの数日前には、あの鳥に花を頼んだことを思い出すだけで笑えた。
今も、大切なものには変わりない。
ただ、昨日見た光景が頭から離れず、あの日のように笑うことはできなかった。
*
ルカが戻ってきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
「ただいま」
「おかえり、ルカ」
「うん。ただいま。シリウスも、ちゃんと休んでた?」
「……休んでいた」
「フィアは?」
「私も、大丈夫だったよ」
ルカは二人の顔を見て頷いた。
背中に大剣はなく、店へ預けてきたことをシリウスへ伝えている。
フィアはその話が終わるのを待ってから、尋ねた。
「……怪我をした人たちは?」
「うん。みんな、回復に向かってるよ」
「……本当?」
「本当。昨日は痛がっていた人も、今日は少し落ち着いてた。必要な手当てもしてきたから、あとは無理せず休んでもらえれば大丈夫だと思う」
フィアは胸元へ手を当てた。
「……よかった」
昨日見た人たちの姿が浮かぶ。
腕を押さえていた人も、脚に布を巻かれていた人も、少しずつよくなっている。
今朝まで心配していたことに、ようやく安心できた気がした。
「ルカ、ありがとう」
「僕?」
「うん。昨日も、今日も……怪我をした人たちを助けてくれて」
ルカは少し照れたように笑った。
「僕だけじゃないよ。街の先生たちもいたし、運んでくれた人もいたからね」
「……うん」
フィアは卓の上で手を重ねた。
昨日、ルカは負傷者のところへ向かった。シリウスは、自分を守ろうとしてくれた。
交易商の護衛たちも、街の人々を助けていた。
みんなが自分にできることをしていたのに、自分は。
「……私も、助けたかった」
小さく零すと、ルカが顔を上げた。
「フィア?」
「昨日、私も……何かしたかったの。でも、動けなくて……」
ルカはしばらくフィアを見ていた。
「昨日、初めて魔物を見たんでしょ。怖かったと思う。僕だって危うく腰を抜かすところだったよ」
フィアは、ルカがいつもの調子で言ってくれたことに少し救われた。
けれど、自分が何をためらったのかまでは話せなかった。
「何もできなかったって、自分を責めなくていいんだよ」
「……うん」
助けたいと思った。
それなのに、力を使うことが怖くなった。
ルカには頷いたものの、そのことだけは、まだ胸の中に残っていた。
*
夜、フィアはシリウスと寝室へ戻った。
ルカは居間で地図を確かめている。
今夜は道の話を進めるつもりだったらしいが、フィアの様子を見て、無理に決めなくてもいいと言ってくれた。
フィアは寝具へ腰を下ろしたものの、すぐには横になれなかった。
「……シリウス」
「はい、フィア様」
「今日、ルカから話を聞けて、よかった」
「負傷した方々のことですか?」
「うん。みんな、よくなってるんだって」
「ええ」
安心しているはずなのに、昨日の自分を思い出すと、どうしても胸が重くなる。
フィアは膝の上で手を重ねた。
「……でも、治せたかもしれないのに」
シリウスが顔を上げた。
「フィア様?」
「昨日、怪我をした人たち……私の力で、少しは痛みを和らげてあげられたかもしれない」
どこまで治せたのかは分からない。
それでも、何もできなかったわけではないのだと思うと、手を伸ばせなかったことが、いっそう苦しくなった。
「……なのに、使えなかった」
シリウスは急かさず、フィアが続きを話すのを待っていた。
「……どうして力を使わなかったのか、分かってる」
声に出すと、胸の奥に隠していた気持ちが、逃げられないものになった。
シリウスが静かに尋ねる。
「何か、怖いことがあったのですか?」
フィアは小さく頷いた。
「……聖女だって、知られるかもしれないと思った」
力を使っているところを見られたら、髪を隠していても正体を知られるかもしれない。
そうなれば、また追われることになる。
フィアはシリウスを見た。
「二人が、ここまで連れてきてくれたのに」
「……はい」
「こんな遠くまで来られたのにって思って……怖くなった」
怪我をした人たちを助けたいと思ったのは、本当だった。
けれど、もう一度追われることも、ようやく見つけた三人の暮らしを失うことも怖かった。
「……自分のことを、先に考えちゃった」
シリウスはすぐには答えなかった。
その沈黙が怖くなって顔を上げると、彼は責めるような顔をせず、フィアの言葉を受け止めていた。
「フィア様。正体を知られることが怖かったのですね」
「……うん」
「私やルカのことも、考えてくださった」
「……うん」
「それを、責めることはできません。フィア様が助けたいと思っていたことも、私は知っています」
そう言ってもらえても、何もできなかったことは変わらない。
フィアは膝の上で手を握った。
「……もし、私が少しくらい疲れても、あの人たちを治せたなら」
シリウスを見上げる。
「その方が、よかったのかな」




