89話 祈りの外側 後編
フィアが振り返る。
一体の魔物が、脇の通りから飛び出してきた。
街の警備に当たる者が追っている。
けれど、間に合わない。
「あ……!」
魔物の脚が地面を蹴った。
シリウスがフィアの前へ出る。
ルカも、すぐ隣にいた。
「フィア、下がって」
ルカの声がした。
次の瞬間、目の前で銀色の刃が閃いた。
*
ルカが、シリウスの大剣を抜いていた。
大剣の重さを確かめるように、わずかに握りを変えた。
魔物が伸ばした前脚に向かい、ルカが大剣を斜めに構える。
刃がぶつかる。
耳に痛いほどの音がした。
ルカは魔物の一撃を横へ逸らした。
けれど、衝撃を受けた身体が大きく傾く。
「ルカ!」
フィアが叫ぶ。
ルカの足が滑った。
倒れる、と思った瞬間、シリウスが左手でルカを支えた。
「大丈夫か」
「……っ、うん」
ルカは足を引き、どうにか体勢を立て直す。
シリウスは、ルカの手元を見ていた。
それから足元へ視線を移し、もう一度、大剣を握る手へ戻す。
何か気になることがあったのか、わずかに眉を寄せた。
その目には、心配だけではない、驚きに似たものが浮かんでいた。
フィアには、シリウスが何を見ているのか分からなかった。
シリウスが口を開くより早く、後ろから怒鳴り声が飛んだ。
「おい、あんたたち!」
フィアが振り返る。
見覚えのある男たちが、こちらへ駆けてきていた。
荷馬車に乗せてもらった交易商の護衛たちだった。
「何やってる!早く下がれ!」
ルカが目を見開く。
「君たち、まだ街にいたの?」
「話はあとだ!」
護衛の一人が、三人と魔物の間へ出る。
別の二人は、駆けつけた街の警備に加わった。
「そこの路地へ入れ!」
「後ろから回れば広い道に出られる!」
「よく止めたな!もういい。ここは任せろ!」
ルカは大剣を持ち直した。
「分かった。お願いね」
護衛は短く頷き、魔物へ向き直る。
フィアはその背中を見ていた。
少し前まで、一緒に荷馬車で旅をしていた人たちだ。
あの人たちも、今は魔物へ向かっていく。
「フィア様、行きましょう」
シリウスの声に、ようやく頷いた。
三人は路地へ入った。
背後で、何度も金属音が響く。
誰かが叫ぶ。
地面を蹴る音がする。
フィアは振り返りそうになった。
けれど、ルカが隣で言った。
「フィア、前を見て」
「……うん」
フィアはフードを押さえ、足を動かした。
*
騒ぎが静まり始めた頃、フィアたちは広い通りの端にいた。
魔物がどうなったのか、フィアには分からなかった。
遠くで警備の人々が声を上げ、それから少しずつ、剣の音が聞こえなくなった。
やがて、さっきの護衛の一人が戻ってきた。
「もう大丈夫だ。でもまだこっちへ来るなよ」
ルカが尋ねる。
「魔物は?」
「片づいた。警備の連中が、残りも確かめてる」
「そっか……よかった」
ルカは息を吐き、大剣へ目を落とした。
シリウスも、剣を見ている。
「刃は傷んでいないか」
「……まずは僕の心配をしてほしいな」
ルカは大剣を見下ろし、苦笑した。
「まあ、手入れに出す前でよかったのかもね。あとで一緒に見てもらおうか」
ルカは軽く笑った。
けれど、フィアは笑えなかった。
手が震えていた。
さっきまで、ルカが魔物の前に立っていた。
シリウスも、フィアを庇おうとしていた。
あのまま、護衛の人たちが来なかったら。
「……フィア?」
ルカに呼ばれ、顔を上げる。
「大丈夫?」
「……うん」
答えたものの、声はうまく出なかった。
その時、通りの向こうから声が聞こえた。
「誰か、こっちを手伝ってくれ!」
フィアはそちらを見た。
警備の人々が、傷ついた人を運んでいる。
腕を押さえた人。
脚に布を巻いた人。
顔をしかめながら、誰かに支えられて歩く人。
どの人も、さっきまでこの街で普通に過ごしていたはずだった。
*
ルカは負傷者の方を見ると、すぐにシリウスへ声をかけた。
そちらへ向かおうとしたフィアを、そっと手で制する。
「シリウス、フィアをお願い」
「……ああ」
「僕、ちょっと手伝ってくる」
ルカはフィアの顔を覗き込んだ。
「歩けそうなら家に戻ってて。無理ならあまり動かないで」
「……ルカ」
「うん?」
「私も……」
けれど、最後まで言えなかった。
ルカはもう一度フィアを見てから、負傷者の方へ向かった。
「僕も手当てを手伝えるよ。何か必要?」
「助かる。診療所へ運ぶ前に、こっちの傷を見てほしいんだ」
「分かった。すぐ行くよ」
ルカは大剣を鞘に納め、邪魔にならない場所へ荷物を下ろした。
フィアは、その姿を見つめた。
自分も、何かしなければ。
怪我をした人がいる。
手を伸ばせば、治せるかもしれない。
そう考えた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
今、ここで力を使ったら。
この街の人たちに、知られてしまうかもしれない。
自分が、聖女だと。
白い髪を隠していても、力を見られれば、また追われるかもしれない。
ルカも、シリウスも。
せっかく、ここまで来たのに。
フィアは握りしめていた手を開いた。
何もしていない自分の手だった。
目の前には、傷ついた人がいる。
助けられるかもしれないのに。
怖いからと、何もしないのだろうか。
「……私も」
フィアが呟くと、シリウスが振り返る。
「フィア様?」
「私も、何か手伝いたい」
フィアは負傷者の方へ歩こうとした。
聖女の力を使わなくても、できることはあるはずだった。
布を運ぶことなら。
水を持ってくることなら。
けれど、足がうまく動かなかった。
「……フィア様」
シリウスがそばへ来る。
「顔色が悪いです」
「大丈夫……」
「手が震えています」
フィアは自分の手を見た。
言われて初めて、指先が細かく震えていることに気づいた。
「……でも」
声が掠れた。
「怪我をした人がいるから……」
手当てに使う布を取りに戻ってきたルカが、フィアの顔を見て足を止めた。
「フィア?」
ルカは眉を寄せた。
「だめだよ。顔色が悪い」
「ルカ、私も……」
「うん。手伝いたいんだよね」
フィアは頷いた。
ルカは少し屈んで、フィアと目を合わせた。
「ありがとう。でも、今は休んでほしいな」
「……でも」
「僕はここで手当てをするから。シリウスと家に戻ってて」
フィアは、何か言おうとした。
けれど、言葉にならなかった。
ルカはシリウスを見た。
「お願いできる?」
「ああ。任せろ」
「シリウスも、腕は使わないでね」
「分かっている」
ルカは少しだけ笑った。
「……うん。じゃあ、あとでね」
フィアは俯いた。
「ごめんなさい」
「謝ることじゃないよ」
ルカの声は、いつもと変わらなかった。
「家で待ってて」
*
シリウスと二人で歩き始めた時、街は少しずつ普段の姿へ戻ろうとしていた。
閉められていた店の戸が開く。
通りに散らばった商品を拾い集める人がいる。
警備の人々は、魔物が来た方角を確かめに向かっていた。
フィアは、その様子を見つめた。
さっき、あんなものがいたのに。
傷ついた人もいたのに。
それでも、この街では、また暮らしが続いていく。
道の端で、住民たちが話していた。
「また魔物かい。前は、もう少し間が空いてた気がするけどね」
「この長雨のせいじゃないか。山から下りてきたのかもしれん」
「そうだといいけどなあ」
フィアは足を止めた。
前は、もう少し間が空いてた。
その言葉が、耳の奥に残った。
「フィア様?」
シリウスがこちらを見る。
フィアは答えられなかった。
魔物は、この国では少ないと聞いていた。
山や国境に近い場所では、年に何度か現れることがある。
それで、街の人々は対処の仕方を知っている。
今日も、警備の人々がすぐに動いた。
けれど。
前は、もう少し間が空いていた。
フィアは、胸元で手を握りしめた。
自分が祈るのをやめてから、どれくらい経ったのだろう。
「……フィア様」
シリウスがそばへ寄る。
「歩けますか?」
フィアは頷いた。
「……大丈夫」
シリウスは何も尋ねず、彼女の隣を歩いた。
人通りの多いところでは少し先へ出て、道が狭くなると歩幅を合わせてくれる。
フィアが足を取られそうになった時だけ、左手でそっと支えた。
そのたびに、フィアは小さく礼を言った。
隠れ家までの道が、今朝よりも長く感じられた。
*
家へ戻ると、シリウスが戸を閉めた。
「フィア様。まず、座りましょう」
「……うん」
フィアは椅子へ腰を下ろした。
いつもなら、ルカがここにいて、何かを話している。
棚には白い花を挟んだ本がある。
その上に、木の鳥が乗っている。
昨日、自分で置いたものだった。
フィアはしばらく鳥を見つめた。
「フィア様、お水を」
シリウスが左手で器用に水を注ぎ、持ってくる。
「……ありがとう」
フィアは水の入った器を受け取り、少し飲んだ。
けれど、身体の震えはなかなか収まらなかった。
シリウスは向かいへ座った。
「……初めて、ご覧になったのですね」
シリウスは何を、とは言わなかった。
「……うん」
フィアは頷いた。
「……あんな姿だと思わなかった」
シリウスは静かに聞いていた。
「祈ってた時は、ずっと……魔物が人を傷つけないようにって、願ってたの」
「はい」
「でも、見たことなかったから」
フィアは両手で器を包んだ。
「どんなものなのか、ちゃんと分かってなかった」
シリウスはすぐには答えなかった。
フィアは続けた。
「街の人たち、慣れてたね」
「……そうですね」
「みんな、どうしたらいいか知ってた」
「この辺りでは、以前から魔物が現れることがあったのでしょう」
「……うん」
フィアは俯いた。
思い出すのは、魔物の姿だけではなかった。
腕を押さえていた人。
脚に布を巻かれていた人。
ルカが手当てをしていた人たち。
そして、道端で聞いた会話。
フィアは器を卓へ置いた。
「……シリウス」
「はい」
「私が祈っていれば……」
言葉が詰まった。
シリウスが、こちらを見る。
フィアは膝の上で手を握った。
「……あの人たちは、傷つかなかったのかな」
しばらく、誰も話さなかった。
窓の外から、遠くの通りを行く人々の声が聞こえる。
フィアは俯いたまま、答えを待った。
シリウスは、静かに口を開いた。
「……私には、分かりません」
フィアの指が、わずかに動いた。
「魔物が現れたことと、フィア様が祈りをやめたことに、どこまで関係があるのか。私には、確かなことは言えません」
「……うん」
「ですが」
シリウスの声は、いつもと同じように穏やかだった。
「今日、街の人々は互いに助け合っていました。警備に当たる者も、交易商の護衛たちも、負傷した方々を運んだ人もいました」
フィアは、顔を上げた。
「……うん」
「ルカも、今は手当てをしています」
シリウスはフィアを見つめた。
「今日のことを、すべてフィア様お一人の責任にすることはできません」
フィアは、すぐには頷けなかった。
分からない。
本当に、自分が祈るのをやめたことと関係がないのか。
自分が祈っていたら、魔物は現れなかったのか。
あの人たちは、傷つかなかったのか。
考えても、答えは出なかった。
「……でも」
小さな声が漏れた。
「……私、何もできなかった」
シリウスは首を横に振った。
「フィア様は、魔物を初めてご覧になったのです」
「……うん」
「恐ろしかったでしょう」
その言葉に、フィアは唇を噛んだ。
怖かった。
魔物も。
ルカが大剣を抜いたことも。
シリウスが、自分を庇って前に出たことも。
怪我をした人を見て、何もできずに立ち尽くしたことも。
そして、何より。
あの人たちを助けたいと思いながら、自分の正体が知られることを恐れた、その気持ちが。
「……怖かった」
フィアが答えると、シリウスは静かに頷いた。
「はい」
フィアは目を伏せた。
シリウスは、それ以上何も言わなかった。
二人の間に、静かな時間が流れる。
やがて、戸の外から足音が聞こえた。
鍵の動く、小さな音。
「ただいま」
ルカの声がした。




