89話 祈りの外側 前編
隠れ家に来て、三日目の朝。
フィアが寝室から出ると、ルカは卓の上に置いた大剣を眺めていた。
シリウスの剣だった。
「ルカ、どうしたの?」
フィアが尋ねると、ルカは顔を上げた。
「おはよう、フィア。ちょうどよかった。今日はこれを手入れに出そうと思って」
「シリウスの剣?」
「うん。しばらく使わないなら、今のうちに見てもらおうかなって」
フィアは大剣へ目を落とした。
シリウスがいつも持っていたものだ。
腕の怪我を悪化させてルカに預けてから、シリウスが手にするところを見ていない。
「お店に持っていくの?」
「そう。剣を扱ってる店があるんだ。ほかにも手入れしたい旅道具があるから、その辺も見てもらおうかなって」
「私も行っていい?」
「もちろん。天気もいいし、帰りに少し散歩でもしようか」
フィアが頷いたところで、寝室からシリウスが出てきた。
「何の話ですか?」
「今日はシリウスの剣を手入れに出そうって話」
ルカが答えると、シリウスは卓の大剣を見た。
「それなら、私が持っていこう」
「だめ」
フィアがすぐにそう言うと、シリウスの手が止まる。
「……持つだけです」
「持ったら振りたくなるかもしれないよ」
「そんなことしませんよ」
「でも、お医者さんに重いものは持たないでって言われたよ」
「それくらい重いとは言いませんよ」
ルカが大剣を持ち上げた。
「はいはい、僕が持つから。シリウスは今日は剣を見てるだけね」
「……ああ」
「本当に?」
「お前までフィア様と同じことを言うな」
「だって、昨日も何度か荷物を持とうとしてたでしょ」
シリウスは心当たりがあるのか、返事をしなかった。
フィアは少し笑った。
「診療所の先生にも、ちゃんと休ませてるって言わないとね」
「……フィア様」
「ふふ。冗談だよ」
ルカは大剣を背負いやすいように持ち直した。
「じゃあ、三人で散歩がてら出かけようか」
*
街は穏やかだった。
空には薄い雲が広がっていたが、雨が降る様子はない。
道端では店の人が商品を並べ、通りを行く人々が顔見知りに声をかけている。
フィアはフードの端を確かめながら、二人と並んで歩いた。
「昨日のお菓子のお店、こっちだったよね」
「よく覚えてるね」
ルカが笑う。
「うん。おいしかったから」
「また買う?」
「今日はいいよ。まだ買ったものもあるし」
「遠慮しなくてもいいのに」
「遠慮じゃないよ」
フィアは少し考えてから続けた。
「……でも、また食べたいな」
「うん。じゃあ、ここを出るときに買っていこう」
ルカはそう言って、シリウスを振り返った。
「シリウスも気に入ってたしね」
「美味しかったとは言ったが」
「気に入ったってことでしょ?」
「……フィア様が選んだものですから」
フィアが笑うと、シリウスも小さく口元を緩めた。
昨日まで、シリウスは何かと荷物を持とうとしていた。
けれど今日は、右腕を動かさないように気をつけている。
包帯もほとんど歪まずに、そのままだった。
「シリウス、ちゃんと休んでるね」
フィアが言うと、シリウスは少し困ったように笑った。
「医者の指示ですから」
「うん。よかった」
「……随分と信用がないようですね」
「そんなことないよ」
ルカが横から口を挟んだ。
「僕はちょっと心配してるけどね」
「ルカ」
「ほら、怒る元気はある」
「怒っていない」
フィアは二人のやり取りを聞きながら、歩く速度を少し緩めた。
この街に来てから、何度もこうして笑っている。
今日は剣を店へ持っていって、帰りに少し買い物をする。
戻ったら、三人で昼食を食べるのだろう。
明日も、ここで休める。
そんなことを考えながら歩いていた。
*
最初に聞こえたのは、誰かの大きな声だった。
「おい、そっちへ行くな!」
フィアは足を止めた。
通りの向こうで、荷車を押していた男が振り返る。
店先にいた人たちも、同じ方角を見ていた。
「……何かあったのかな」
フィアが尋ねると、ルカも足を止めた。
「なんだろう……」
その時だった。
「魔物だ!」
遠くで叫び声が上がった。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
続いて、別の声が響く。
「街外れに魔物が出たぞ!」
「山側の道から来てる!そっちは通るな!」
「戸を閉めろ!」
「子どもは中へ入れろ!」
通りの空気が変わった。
店の人が並べていた商品を急いで引っ込める。
近くにいた女性が、連れていた子どもの手を引いた。
荷車が道の端へ寄せられ、人々が建物の中へ入っていく。
フィアは、その様子を見つめていた。
「……魔物?」
口に出しても、まだ実感がなかった。
この国には稀に魔物が現れることは知っている。
祈りによって魔物や災害から人々を守るのが、聖女の役目だった。
旅の途中でも、交易商たちから魔物についての話を聞いた。
けれど、実際に見たことはなかった。
「フィア様」
シリウスがそばへ寄った。
「こちらへ」
「……うん」
フィアは頷き、二人とともに通りの端へ移動した。
人々は逃げながらも、互いに行き先を教え合っていた。
「そっちは駄目だ!」
「裏の通りから回れ!」
「警備の連中が向かってる!」
誰もが、ただ闇雲に走っているわけではない。
店の戸を閉める者がいる。
通行人を建物の中へ案内する者がいる。
街の警備に当たる人々は、叫び声のした方角へ駆けていった。
フィアだけが、何をすればいいのか分からなかった。
二人に促されるまま、足を速める。
そして、人々の間から、それが見えた。
*
最初は、大きな獣だと思った。
馬ほどの大きさがある。
低く構えた胴体と、地面を蹴る四本の脚。
けれど、その姿を見た瞬間、フィアは息を呑んだ。
脚の関節が、獣とは違う方向へ折れていた。
伸びた胴体の左右も、同じ形をしていない。
頭には口らしいものがあったが、開いた時に見えた歯は、不揃いなまま幾重にも重なっていた。
「……なに、あれ」
声が震えた。
その後ろから、もう一体が姿を現す。
さらに、少し離れたところにも動く影があった。
「魔物です」
シリウスが短く答えた。
魔物。
フィアは目の前のものを見つめた。
あれが。
ずっと、祈りによって遠ざけようとしてきたもの。
人々を守るために、現れないよう願い続けてきた相手。
見たこともないまま、知っているつもりでいたもの。
魔物の一体が、地面を蹴った。
その動きさえ、普通の獣とは違っていた。
折れ曲がった脚が伸び、胴体が大きく揺れる。
誰かの悲鳴が上がった。
フィアは動けなかった。
そのうちの一体が、こちらへ顔を向けた。
目が合ったような気がして、フィアは息を止めた。
「フィア様!」
シリウスに呼ばれる。
「下がりましょう」
「……うん」
返事をしたはずなのに、足が動かない。
シリウスがフィアの前へ出た。
その右腕には、まだ包帯が巻かれている。
「シリウス……」
「大丈夫です。私の後ろに」
シリウスは魔物の方を見たまま、フィアを背に庇った。
その姿を見て、フィアの胸が強く締めつけられた。
「だめ……」
「フィア様?」
「腕が……」
シリウスが動こうとしたところへ、ルカが声をかけた。
「シリウス、今は戦わないで」
「だが、フィア様が――」
「うん、フィアを守るために下がろう」
ルカは周囲を見回した。
「警備の人たちも来てる。この街の人たちは対処に慣れてる。僕たちは邪魔にならないところへ移動しよう」
シリウスは一瞬ためらった。
だが、すぐに頷いた。
「……分かった。フィア様、こちらへ」
フィアはシリウスに促され、足を動かした。
三人は、人々が逃げていく方へ向かった。
その時、避難する人々の先頭から悲鳴が上がった。
「こっちにも来たぞ!」




