87話 ひとつの隠れ家 前編
街が見えてきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
街道の先に建物の屋根が増え始めると、交易商たちの間から安堵した声が上がった。
「ようやく着いたなあ」
「今回は遠回りしたからな。いつもより長く感じたよ」
先頭の荷馬車に乗っていた護衛が伸びをする。
別の護衛は、街の入口へ向かう人々の列を見て、今日中に荷を下ろせるだろうかと商人へ尋ねていた。
シリウスは幌の端から外を見た。
道の両側には店や住居が並び、その間を荷車や旅人が行き交っている。
王都ほど大きな街ではないが、街道を通る者のための宿や商店は多いようだった。
「着いたんだね」
隣でフィアが声を弾ませた。
「ええ。ようやく、少し落ち着けそうですね」
「この街にも、ルカの隠れ家があるんだよね」
「そう聞いています」
フィアは幌の隙間から顔を出しかけ、すぐにフードへ手を添えた。
白金の髪は布の内側に収まっている。
その仕草を見て、シリウスは胸の奥がわずかに痛んだ。
昨日、フィアは荷台の奥で息を潜めていた。
検査所を抜けられたとはいえ、白い髪の女を探す噂が消えたわけではない。
それでも、隠れ家に入ってしまえば、少なくとも数日は街道を歩かずに済む。
シリウスは右肩の位置を直した。
「フィア様。降りる時は、お声がけください」
「うん。でも、シリウスは荷物を持っちゃだめだよ」
「……」
「持とうと思ってたでしょ?」
フィアに見上げられ、シリウスは返事を控えた。
「ほら、やっぱり」
彼女が笑ったところで、御者台からルカの声がした。
「二人とも、そろそろ降りるよ」
荷馬車は街の入口を少し入ったところで止まった。
*
三人が荷台から降りると、交易商の責任者が御者台から手を振った。
「いやあ、お疲れさん。無事に着けてよかったな」
「本当にね。乗せてもらえて助かったよ」
ルカが答えると、男は笑った。
「それはこっちの台詞だ。あんたがいてくれたおかげで、検査所もずいぶん楽だった」
「書類、次からも同じように用意するといいよ」
「そうするさ。あんた、うちで一緒に働かないか? 知識もあるし、話もうまい。客に好かれそうだ」
「ありがたい話だけど、僕は一人で気楽にやってる方が好きなんだ」
「どこかの商会に属してるわけじゃないのか?」
「うん。あちこちで商売してるだけだよ」
「へえ、そりゃもったいない。あんたなら、もっと大きな商売もできそうなのにな」
ルカは肩をすくめた。
「荷馬車三台分の帳簿を見るだけでも大変だったよ。僕には、今くらいがちょうどいいかな」
「ははっ。そう言う割には、ずいぶん楽しそうにやってたじゃないか」
男はルカの背を軽く叩いた。
シリウスはその会話を聞きながら、フィアの荷物を降ろす護衛に礼を述べた。
「お世話になりました」
「気にするな。そっちも腕、お大事にな」
「ありがとうございます」
護衛は気さくに笑い、荷馬車へ戻っていった。
続いて、頭痛を訴えていた御者が顔を出した。
「おお、先生。もう行っちまうのか?」
「だから、先生はやめてって言ったでしょ」
ルカが笑う。
「頭はもう平気?」
「おかげさまでな。次に会った時も、また頼むよ」
「次は、僕が診なくてもいいくらい元気でいてよ」
「そう言わずにさ。御者も代わってもらえるなら、先生が一人いると助かるんだ」
「それなら、お給料は二人分かな」
「おいおい、そこはまけてくれよ!」
やり取りを聞いて、フィアが小さく笑った。
責任者も笑いながら手を上げる。
「俺たちは商業地区で取引を済ませて、少し休んでいくつもりだ。街でまた会うかもしれんな」
「そうだね。見かけたら声をかけるよ」
「三人とも、気をつけてな」
フィアは頭を下げた。
「ありがとうございました」
シリウスも、もう一度礼を述べる。
荷馬車がゆっくりと動き出し、護衛たちがその後ろを歩いていった。
ルカは一団を見送ってから、二人へ向き直った。
「じゃあ、僕たちも行こうか」
「隠れ家、ここから近いの?」
フィアが尋ねる。
「そんなに遠くないよ。街の外れだけど、ここからなら歩いて行ける」
「よかった」
フィアは嬉しそうに頷いた。
「またルカに助けてもらっちゃったね」
「今度は、商人さんたちのおかげでもあるけどね」
「でも、ルカが話してくれなかったら、乗せてもらえなかったよ」
シリウスも同意した。
「あの道を無理に通らずに済んだのは、かなり助かった」
「シリウスが素直に僕を褒めるなんて……また雨が降りそうだね」
ルカはいつもの調子で笑い、街外れへ続く道を歩き始めた。
*
隠れ家は、商店の並ぶ通りを抜け、住宅が増えてきた辺りにあった。
街の外れとはいえ、周囲に家がないわけではない。
少し歩けば店のある通りへ戻れ、別の道を進めば街道へも出られそうだった。
「ここだよ」
ルカが足を止めたのは、小さな一軒家の前だった。
以前訪れた隠れ家とも、どこか似ている。
目立つ装飾はなく、旅の途中で立ち寄るには十分な大きさの家だった。
ルカは鍵を取り出し、戸を開けた。
「半年くらい来てなかったからね。ちょっと確認させて」
先に中へ入ったルカは、荷物を下ろすより先に、窓や棚の様子を見て回った。
シリウスもフィアに続いて室内へ入り、周囲を確かめる。
窓の留め具に異常はない。戸も内側から施錠できる。
裏手へ回る通路もあり、街道へ出るには別の道を使うこともできそうだった。
ルカは裏口を開けて外を覗き込み、すぐに戻ってきた。
「うん。大丈夫そうだね」
「何か気になることでもあったのか?」
シリウスが尋ねると、ルカは首を振った。
「しばらく留守にしてたから、一応ね。泥棒が入った様子もないし、置いてたものもそのままだよ」
「そうか」
シリウスは頷いた。
慎重なルカらしい行動だった。
これまでも、彼は宿や野営地で周囲の様子を確かめている。
室内へ目を戻すと、シリウスはふと気づいた。
半年も留守にしていたという割に、空気がこもっていない。
棚や卓にも、目立つほどの埃は積もっていなかった。
「……随分と整っているな」
「ああ、ここ?」
ルカが振り返る。
「近所の老夫婦に、時々掃除と換気を頼んでるんだ。管理費を渡してね」
「なるほど」
「今度、顔を見せに行かないと。半年も来なかったから、またどこかで迷子になってると思われてるかもしれない」
フィアが笑った。
「ルカが?」
「前にしばらく留守にした時、『ちゃんとご飯を食べてるのかい』って随分心配されちゃったんだよ」
「ルカ、ちゃんと食べてるの?」
「食べてるよ。フィアこそ、僕がいないところでもちゃんと食べてね」
「食べてるもん」
「そうだね。最近はよく食べてくれるから、安心してる」
シリウスは二人の会話を聞きながら、肩の力を抜いた。
誰かに管理を頼んでいるなら、室内が整っているのも不思議ではない。
ルカは上着を脱ぎ、棚の前へ立った。
「さて、何が残ってたかな」
*
隠れ家には、寝室が二つと、食事や荷物の整理に使える部屋があった。
薬や商品を置いた棚のほか、地図や帳簿、旅道具がそれぞれまとめられている。
ルカが保管していたものを確かめ始めると、フィアもその隣へ行った。
「ここも、ルカのお家なの?」
「家っていうほど立派なものじゃないけどね。旅の途中で、よく使ってた場所だよ」
「前のところと、ちょっと似てる」
「必要なものは、大体同じだからね」
フィアは棚に並ぶ器や畳まれた布を見て、微笑んだ。
「うん。ルカのお家って感じがする」
ルカは一瞬きょとんとしたが、すぐに笑った。
「そう?」
「うん。前に寄ったところもルカの雰囲気がしたよ」
「それはそうかもね、僕が選んだものばかりだから」
フィアは棚の端に置かれた小さな品物を見つけた。
「これは?」
「どれ?」
「この、変な形の……鳥?」
ルカが覗き込む。
「ああ、それ。前に買ったんだった」
フィアが手に取ったのは、木でできた小さな鳥だった。
丸い胴に細い脚がつき、横には短い棒が突き出している。
シリウスには、何に使うものなのか分からなかった。
「……何の道具だ?」
尋ねると、ルカは楽しそうに笑った。
「ちょっと見てて」
ルカは鳥を卓へ置き、横の棒を回した。
すると鳥の首が上下し、翼がぱたぱたと動いた。
「わっ」
フィアが顔を輝かせる。
「動いた……」
「でしょ。面白いよね」
ルカはもう一度棒を回した。
鳥は忙しなく翼を動かし、最後にこくりと頭を下げた。
フィアが笑い声を上げる。
「かわいい」
「売れるか分からないけど、面白かったから買ったんだ」
シリウスは卓の鳥を見た。
「……それは、何の役に立つ?」
「今、フィアが笑ったでしょ」
「それは見れば分かる」
「じゃあ、役に立ってるね」
ルカは平然と答えた。
フィアがまた笑った。
「シリウスもやってみる?」
「私がですか?」
「うん。こっちを回すだけだよ」
差し出された鳥を、シリウスは左手で受け取った。
棒を回すと、木の鳥が翼を動かし始める。
思いのほか勢いがあり、鳥は卓の上で小さく跳ねた。
「……っ」
シリウスが慌てて押さえると、ルカが吹き出した。
「シリウス、力が入りすぎだよ」
「……加減が分からなかっただけだ」
「もう一回やってみたら?」
「いや、結構だ」
フィアは口元を押さえながら、鳥を受け取った。
シリウスは、木の鳥をもう一度見た。
どうやらルカは、商売になるかどうかだけで物を選んでいるわけではないらしい。
ルカは棚の下から地図を引き出し、卓へ広げた。
「ほかに見たいものある?」
「地図が見たい」
フィアが即答した。
「ここって、どの辺り?」
ルカは指先で現在地を示した。
「この街がここ。昨日通った検査所は、この辺りかな」
「結構、遠回りしたんだね」
「うん。でも荷馬車に乗れたから、歩くよりずっと楽だったと思うよ」
フィアは地図を覗き込み、街の名前を一つずつ目で追った。
「ほかの隠れ家も、地図に載ってる?」
「載ってるよ。ここと、ここと……」
ルカが指を動かす。
「それから、この辺りにも一つ。ああ、こっちにもあるね」
「えっ、そんなに?」
「あと、ここにも。ここは少し遠いけど」
フィアが目を丸くした。
「ルカ、何軒お家があるの?」
「何軒だろうね。ほら、こっちも――」
「まだあるの?」
ルカはついに笑い出した。
「さすがに冗談だよ」
「え」
「ごめんごめん。フィアが真剣に聞いてくれるから、つい」
「もう、信じちゃった」
少し拗ねたように目を逸らした後、フィアはすぐに笑った。
「どこまで本当なの?」
「どうだろうね」
「教えてくれないの?」
「いつか通ったら教えるよ」
ルカは地図を畳み始めた。
シリウスは、今しがた指された場所を思い返した。
すべてが本当とは限らない。だが、どこから冗談になったのかも分からなかった。
「こっちの棚も見ていい?」
フィアが別の小物に気づき、ルカが「いいよ」と答える。
誰もそれ以上、地図について尋ねなかった。
*
荷物を寝室へ運ぼうとしたところで、フィアに止められた。
「シリウス、その鞄は私が持つよ」
「これくらいなら問題ありません」
「右腕、まだ痛いんでしょ?」
「日常の動作には、ほとんど支障はありません」
「でも、重いものはだめ」
シリウスが左手で鞄を持ち上げると、フィアはすかさず手を伸ばした。
「フィア様、お待ちください。これは私が――」
「私だって持てるよ」
そこへルカが戻ってきた。
「何してるの?」
「シリウスが荷物を運ぼうとするの」
「ああ、なるほど」
ルカはシリウスの手から鞄を取った。
「じゃあ、僕が運ぶね」
「ルカ、お前まで……」
「フィアには、軽い方をお願いしようかな」
「うん!」
フィアは小さな包みを抱え、寝室へ向かった。
シリウスは二人を見送った。
右腕は以前より動くようになっている。
服を着替えることも、食器を持つこともできる。
ただ、少し力を入れれば痛みが走った。
医者から安静にするよう言われた以上、休むべきなのだろう。
頭では分かっていた。
「……何か、することはないか」
シリウスが尋ねると、ルカは振り返った。
「あるよ」
「何だ?」
「座って休むこと」
「……」
「シリウスがここで腕を悪くしたら、何のために隠れ家まで来たのか分からないでしょ」
ルカは鞄を持ち直した。
「明日、もう一度お医者さんにも診てもらおうね」
「分かっている」
「うん。それならよかった」
ルカが寝室へ入っていく。
シリウスが残った荷物へ手を伸ばそうとしたところで、フィアが戻ってきた。
「シリウス?」
「……」
「また持とうとしたでしょ」
「まだ触れていません」
「だめだよ」
フィアは真剣な顔で言った。
「シリウスには、ちゃんと治してほしいの」
シリウスは、伸ばしかけていた左手を下ろした。
「……承知しました」
「うん」
フィアは満足そうに頷いた。
*
荷物の整理がひと段落すると、ルカは足りない食料を買いに出ることになった。
「二人とも、今日はここで休んでてね」
「私も行こうか?」
フィアが立ち上がる。
「ありがとう。でも、今日は僕だけで大丈夫だよ。明日は一緒に街を見ようか」
「本当?」
「うん。買いたいものがあったら、考えておいて」
「分かった」
ルカはシリウスへ視線を向けた。
「シリウス、フィアをお願いね。あと、荷物は運ばなくていいから」
「……分かった」
「本当に?」
「分かったと言っているだろう」
ルカは笑い、買い物袋を持って出ていった。
戸が閉まると、フィアは卓の上に残された木の鳥を手に取った。
「シリウス、もう一回やってもいいかな」
「ルカのものですから、壊さなければよいと思います」
「壊さないよ」
フィアが棒を回す。
木の鳥はぱたぱたと翼を動かし、最後に小さく頭を下げた。
フィアはしばらく鳥を眺め、それからシリウスの向かいへ座った。
「……ここに来られてよかったね」
「ええ」
「何日か、ここにいてもいいんだよね?」
「ルカは、そのつもりだと言っていました」
「そっか」
フィアはほっとしたように息を吐いた。
「少し、休めるね」
シリウスは頷いた。
土砂崩れで負った傷は、ヴァレリウスの屋敷で少しずつ良くなっていた。
だが、屋敷を脱出する際に再び痛め、その後も移動が続いている。
日常の動作にはほとんど支障がなくなったものの、まだ以前のようには腕を使えなかった。
今度は、傷が落ち着くまで無理をせずに過ごす必要があるのだろう。
フィアがこちらを見た。
「シリウスの腕も、ちゃんと治そう」
「……はい」
「明日、お医者さんに診てもらって、それで、言われたことちゃんと守ってね」
「承知しました」
「荷物も持っちゃだめだよ」
「……それは、医者の指示を聞いてから判断します」
「シリウス」
「分かりました」
フィアが笑った。
シリウスも、つられて小さく笑った。




