84話 名も知らない花
休憩所を出てから、村まではそれほどかからなかった。
山を背にしてしばらく街道を進むと、畑の向こうに低い屋根がいくつも見えてくる。
大きな町ではないが、街道沿いにあるためか荷車や旅人の姿はそれなりにあり、宿らしい建物も二軒ほど見えた。
小さな商店や鍛冶屋らしい軒先もある。
道を一本入ったところには、診療所を示す札が出ていた。
ルカは村へ入る前に一度振り返った。
フィアはフードを深く被り、その下から覗く髪も布でまとめている。
白金の髪はわずかに見えているだけで、人通りのあるこの村ならそれほど目立たない。
シリウスも外套の下へ剣を隠していた。
右腕は身体のそばへ寄せたままで、ほとんど使おうとしていない。
それでも歩調は乱さず、いつも通りフィアの近くを歩いていた。
ルカは街道沿いの宿を見てから、フィアを振り返った。
「どうする?」
「……何が?」
「ここで今日は終わりにするか、少し休んでもう少し進むか」
フィアはすぐには答えず、自分の身体を確かめるように少し立ち止まった。
「……今日は、もう休みたい」
「うん」
「明日の朝まで休んでから行きたい」
ルカは頷いた。
「じゃあ宿を取ろうか」
ルカが決めたのは二階建ての古い建物だったが、中は外から見るより広かった。
一階には小さな食堂があり、荷物を抱えた旅人や商人が何人か出入りしている。
このくらい人がいれば、三人でいても目立ちにくい。
ルカは受付で主人と話し、三人で使える部屋を一つ取った。
クロウ邸を出たばかりで、まだ警戒は必要だった。
部屋には寝台が三つある。
二つは壁際に並び、もう一つだけ少し離れて窓の近くに置かれていた。
フィアは自然と、その離れた寝台のそばへ荷物を置く。
そこでようやく気が抜けたのか、フィアの肩が落ちた。
ここまで普通に歩いていたのに、荷物を下ろした途端、疲れが一気に表へ出たようだった。
寝台の端へ腰を下ろし、自分の脚を見ている。
ルカは外套を椅子へ掛けた。
フィアの視線が、今度はシリウスへ向く。
「シリウス」
「はい」
シリウスは部屋の入口近くに立ったまま答えた。
フィアはその右腕を見る。
「腕、診てもらって」
「……はい」
「約束したからね」
シリウスは少しだけ困ったように目を伏せ、それでもすぐに頷いた。
「分かりました。診療所は先ほど見えましたので、行ってきます」
「今?」
「フィア様がお休みになる間に済ませた方がよいでしょう」
フィアは少し考えてから頷く。
「無理して歩かないでね」
「そこまでではありません」
「でも」
シリウスはわずかに間を置いた。
「……気をつけます」
その返事にフィアはようやく納得した。
シリウスは剣を腰に残したまま、部屋を出ていった。
扉が閉じる。
ルカが荷物を整理していると、寝台へ腰掛けていたフィアがしばらくして立ち上がった。
「少しだけ外、見てもいい?」
ルカは振り返る。
「休むんじゃなかった?」
「ずっと寝てるほどじゃないから」
「本当に?」
「うん。少しだけ」
自分でそう決めたのなら、止める必要はなかった。
「じゃあ宿の近くだけね」
「分かった」
二人は再び外へ出た。
村の中は思ったより人が多かった。
街道を荷車が行き交い、店先には野菜や干した肉が並んでいる。
どこかから焼きたてのパンの匂いも漂ってきた。
フィアはフードを被ったまま、ゆっくり歩いている。
ルカも歩調を合わせた。
風が吹き、フィアのフードの端が少し揺れる。
布の隙間から、まとめた白金の髪がわずかに覗いた。
それを見て、ルカはふと思い出す。
「あれ、つけないの?」
フィアがこちらを見る。
「何?」
「髪飾り」
一瞬考えてから、フィアが「あ」と小さく声を出した。
以前、街で一緒に選んだ青いガラス玉の髪飾り。
「持ってるよ」
「持ってるのは知ってるけど」
「どうして聞いたのかなって」
「せっかく似合ってたのに、つけないのかなって」
フィアはフードの端を指先で少し押さえた。
「……考える余裕がなかったのかも」
「そっか」
ルカもそれ以上は聞かなかった。
歩き出そうとすると、今度はフィアがルカの胸元を見た。
「ルカだって、つけてない」
「僕?」
ルカは自分の服へ目を落とす。
「何を?」
「琥珀色の」
フィアが続ける。
「私が選んだの」
ルカは思わず顔を上げた。
「……覚えてたんだ」
自分でも分かるくらい、少し嬉しい声になった。
フィアの口元がわずかに緩む。
「私が選んだんだから、覚えてるよ」
「そうだけど」
「ルカもつけてない」
「考える余裕がなくて」
「……真似しないで」
「バレたか」
言い返せなくなり、ルカは笑った。
フィアも小さく笑う。
クロウ邸ではほとんど見なかった表情だった。
こうして他愛のないことで笑えるくらいの余裕が、少しずつ戻ってきている。
ルカはそのことには触れず、またフィアと並んで歩いた。
宿からそれほど離れていない場所に、小さな広場があった。
井戸と長椅子があるだけの簡素な場所で、道端には小さな花壇に季節の花が咲いていた。
その中に、小さな白い花があった。
フィアが足を止める。
ルカも立ち止まった。
「疲れた?」
「ううん」
フィアの視線を追う。
「花?」
「うん」
フィアはただその白い花を見ていた。
そこへ、一人の女性が通りかかった。
花壇の前で足を止め、フィアが花を見ていることに気づいたらしい。
「このお花、好きなの?」
突然声をかけられ、フィアが少し驚いた。
「……え?」
女性は足元の白い花を指す。
「それ。ずっと見てたから」
フィアは花へ視線を戻した。
「……きれいだなって」
「そう」
女性は笑うと、その場へしゃがみ込み、花壇の白い花を一輪摘んだ。
そのまま立ち上がり、フィアへ差し出す。
「じゃあ、一つあげる」
フィアの目が丸くなった。
差し出された花と女性を交互に見る。
「……私に?」
「そう。見てたでしょう?」
女性はごく普通のことのように答えた。
「別に珍しいものじゃないけどね。私が世話してる花だから、見てもらえて嬉しくて」
フィアはしばらく戸惑っていたが、やがて両手を少し伸ばした。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
女性はそれだけ言って、元の道を歩いていった。
フィアは受け取った花をしばらく見つめていた。
細い茎の先に、小さな白い花が咲いている。
その口元がゆっくりと緩んだ。
さっきよりも少しだけ大きな笑みだった。
ルカはその横顔を見る。
嬉しそうだった。
その姿を見ているうちに、ふと思う。
この笑顔を、自分の国まで連れていけたら。
胸の奥に、わずかな引っかかりが残った。
自分の国なら、フィアを今より安全にできる。
教会の影響も薄くなる。
追われ続ける今より、ずっと穏やかに暮らせるはずだ。
それでも、アルナトの声が残っていた。
――あいつには言ったのか。
フィアにはまだ話していない。
自分が何者なのか。
どうして隣国へ連れていこうとしているのか。
その先に何があるのか。
それなのに、自分だけが行き先を決めたように、その国へ連れていけたらと考えている。
ルカは小さく息を吐いた。
フィアは手の中の花を見ている。
その時、広場の向こうから銀色の髪が近づいてきた。
シリウスだった。
右腕には新しい包帯が巻かれている。
フィアも気づき、すぐに顔を上げた。
「シリウス」
シリウスは二人の前まで来ると、まずフィアを見る。
その視線が少しだけ止まり、張っていた表情がほんのわずかに緩んだ。
「診てもらった?」
フィアが尋ねるとシリウスは頷く。
「はい。骨には異常はないそうです」
「本当に?」
「はい。ただ、治りかけていたところを使いすぎたため、炎症と痛みが戻っていると」
ルカが横から尋ねた。
「剣は?」
シリウスの表情がわずかに渋くなる。
「数日は振るな、と言われた」
「ほら」
ルカが言うと、シリウスは黙った。
フィアは新しく巻かれた包帯を見る。
「ちゃんと休んでね」
「はい」
そこでシリウスの視線が、フィアの手元へ落ちた。
「その花は?」
フィアも白い花を見る。
「もらったの」
「村の方に?」
「うん」
シリウスは少し近づいて花を見た。
「何という花ですか?」
フィアは花を見つめ、それから首を横に振る。
「分からない」
「そうですか」
「でも」
フィアは花を指先でそっと持ち直した。
「きれいだから嬉しい」
シリウスの表情が、また少しだけ柔らかくなった。
ルカはそれを横から見ていた。
「じゃあ、そろそろ宿に戻ろうか」
ルカが言う。
「シリウスも医者に怒られたばかりだし」
「怒られてはいない」
「同じようなものだよ」
シリウスがわずかに眉を寄せる。
そのやり取りを見て、フィアがまた小さく笑った。
夕食は宿の食堂で取った。
出てきたのは、豆と野菜の入った温かいスープに、少し固いパン。
薄く焼いた肉と、塩で味をつけた野菜。
ルカは一口スープを飲み、息をついた。
向かいではフィアも湯気の立つ器を両手で持っている。
シリウスは右腕を休ませ、左手だけで食事をしていた。
少し食べづらそうだが、ゆっくりと口へ運んでいる。
周囲では旅人たちが話しながら食事を取り、宿の主人が忙しそうに厨房と食堂を行き来していた。
入口の近くでは、荷物を雨で濡らしたらしい商人が連れに文句を言っている。
何でもない食堂の空気に、ルカは妙にほっとした。
フィアもいつもよりゆっくりと食べている。
「おいしい?」
ルカが尋ねると、フィアは頷いた。
「うん」
「クロウ邸より?」
少しからかうように聞くと、フィアは真面目に考えた。
「料理は、向こうの方がすごかった」
「正直だね」
「でも」
フィアはもう一口スープを飲む。
「こっちの方が落ち着く」
ルカは少し黙り、それから笑った。
「僕も」
シリウスも静かに頷く。
それだけの会話をしながら、三人は食事を続けた。
部屋へ戻ると、フィアはもらった白い花を手にしたまま少し考えていた。
ルカが水差しを指す。
「小さい器でも借りてこようか?」
「あるかな」
「聞いてみるよ」
宿の主人に頼むと、小さな空き瓶を一つ貸してくれた。
フィアはそこへ水を入れ、白い花を挿す。
窓辺に置くと、質素な部屋の中で小さな花が静かに揺れた。
ルカは少し離れたところからそれを見る。
フィアはもう自分の寝台へ座っていた。
今日一日の疲れが戻ってきたのか、目元が重そうだ。
シリウスも右腕を庇いながら、自分の寝台へ腰を下ろしている。
「今日はもう寝ようか」
ルカが言う。
フィアは素直に頷いた。
「うん」
「明日の朝、体調を見てから出よう」
「分かった」
シリウスも頷き、灯りを少し落とす。
フィアは窓辺の花を一度だけ見てから横になった。
しばらくすると、静かな寝息が聞こえ始める。
シリウスも横になっている。
ルカは小さな机へ地図を広げた。
次の村。
その先の街道。
西へ伸びる道。
さらに進めば、国境がある。
その向こうには、自分の国がある。
昼間のフィアの笑顔を思い出す。
この笑顔を、自分の国まで連れていけたら。
フィアが安全に過ごせる場所へ連れていきたい。
その気持ちは変わらない。
その一方で、アルナトの声も残っていた。
――本人には言ったのか。
ルカは地図から目を離す。
窓辺に、小さな白い花がある。
フィアが嬉しいと言った、名前も知らない花。
しばらくそれを見たあと、もう一度地図へ視線を戻した。
すると、今度は別の言葉が浮かぶ。
――レグルス。
指先が止まった。
その名を知る人間は、この国ではそう多くない。
少なくとも、この国で商人として動いている自分を見て、簡単に結びつけられるような名前ではない。
それなのに、アルナトは迷いもなく口にした。
探るようでもなかった。
確かめるようでもなかった。
知っていた。
ルカは地図へ目を落としたまま、眉を寄せる。
どこで知った。
誰から聞いた。
考えても答えは出なかった。
アルナトは何も話さなかった。
こちらが聞けば、別料金になると言っただけだ。
ルカは小さく息を吐く。
静かな部屋に、フィアの寝息が聞こえている。
窓辺では、名も知らない白い花が揺れていた。
――あの男は、どこでその名を知ったのだろう。




