83話 報酬 後編
ルカが戻ってきた時、フィアはまだ長椅子に座っていた。
シリウスが最初に尋ねる。
「何を話していた」
「報酬の話だよ」
完全な嘘ではなかった。
「何か要求されたのか?」
「まあ、ちょっとね」
ルカは返された硬貨を見せる。
「半分返された」
「なぜ」
「残りは別のもので払えって」
「何を渡したんだ」
「話を少し」
それだけ言って、ルカは革袋へ硬貨を戻した。
シリウスはまだ何か聞きたそうだったが、フィアが疲れていることに気づいたのか、それ以上は追及しなかった。
三人だけになる。
アルナトの姿はもうない。
クロウ邸の追手の気配もない。
それでようやく、フィアの身体から少しずつ力が抜けていった。
本当に離れられたのだ。
そう思った途端、疲れが一度に押し寄せてきたような気がした。
ルカが道の先を見てから、フィアへ振り返る。
「近くの村までは、そんなに遠くないと思う」
それから、少しだけ声を柔らかくした。
「このまま行く? それとも、ここで少し休む?」
フィアはすぐには答えず、自分の身体を確かめた。
脚は重い。
座ってしまったせいか、さっきまで気にならなかった疲れまで一気に感じるようになっていた。
息はもう落ち着いているけれど、今すぐまた歩き始めたいとは思わない。
以前なら、二人が決めた方でいいと言っていたかもしれない。
けれど今は、自分がどうしたいのかを考える。
「……少し、休みたい」
「うん。じゃあそうしよう」
ルカはそれ以上何も言わず、自分の荷物を下ろした。
フィアも長椅子へ深く腰を下ろす。
その隣では、シリウスが怪我をした腕を庇うようにしながら、少し離れた場所へ腰を下ろした。
その動きを見て、フィアはアルナトの言葉を思い出す。
――そのまま使ってると、まともに剣を振れなくなるぞ。
「シリウス」
「はい」
「村に着いたら、腕、診てもらおう」
シリウスがわずかに目を見開いた。
「歩くことには支障ありませんので――」
「歩けるかじゃなくて」
思ったより早く言葉が出た。
フィア自身も少し驚いて、それから言い直す。
「……ちゃんと診てもらってほしい」
しばらく、シリウスは何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「分かりました」
今度は、大丈夫だとは言わなかった。
フィアはそれを聞いて、少しだけ安心した。
ルカが荷物から自分の水筒を取り出しながら、こちらを見る。
「僕も賛成。あれだけ言われてまだ放っておくなら、次は僕が医者のところまで引っ張っていくよ」
「自分で歩ける」
「じゃあ問題ないね」
いつもの調子に少しだけ戻ったルカの声に、フィアの肩からも力が抜けた。
喉が渇いていることに気づき、自分の水筒を取り出す。
口をつけると、冷たくなった水が乾いた喉を通っていった。
何口か飲んでから顔を上げると、シリウスはまだ何も飲んでいなかった。
荷物の脇に水筒は置いてある。
けれど、取ろうとする様子がない。
「シリウス、水は?」
「後でいただきます」
「今飲んだ方がいいよ」
「ですが――」
フィアは返事を待たず、水筒へ手を伸ばした。
持ち上げてみると、思ったより重い。
蓋へ指をかけて回す。
少し固く締まっていた。
両手で持ち直して力を込めると、ようやく小さな音を立てて開いた。
シリウスがこちらを見ている。
フィアは開けた水筒を差し出した。
「はい」
「……ありがとうございます」
シリウスが受け取ろうとする。
けれど、腕を動かした瞬間、その動きがわずかに止まった。
ほんの少しだった。
それでもフィアには分かった。
「そのままでいいよ」
「フィア様?」
「飲んで」
「左手で持てます」
「……でも、私がしたいから」
フィアは水筒を持ったまま、シリウスの方へ少し近づいた。
「飲んで」
「いえ、自分で――」
「いいから」
シリウスが黙る。
否定しない。
それだけで答えは十分だった。
フィアは水筒の口をシリウスの近くへ持っていく。
「こぼしたらごめんね」
「……そこまでしていただかなくても」
「私がしたいから」
その言葉を口にしてから、フィアは一瞬だけ目を瞬いた。
けれど、取り消さなかった。
シリウスも何も言わなかった。
少し迷ったあと、フィアが持つ水筒へ口をつける。
フィアは傾けすぎないように気をつけながら、ゆっくりと水を飲ませた。
何口か飲んだところで、シリウスが顔を離す。
「もう十分です」
「本当に?」
「はい」
「……分かった」
フィアは水筒を戻し、蓋を閉める。
シリウスはまだ少し困ったような顔をしていた。
けれど、嫌そうではなかった。
「ありがとうございます、フィア様」
「ううん」
自分がしてもらったことに比べれば、本当に小さなことだった。
それでも、少しだけ嬉しかった。
自分からしてあげられることも、ちゃんとあった。
しばらく三人とも何も話さなかった。
雨上がりの風が休憩所の中を通り抜ける。
木々から落ちる雫の音と、遠くで鳴く鳥の声だけが聞こえていた。
急いで走る必要もない。
追手の足音を気にする必要もない。
今は、ただ休んでいていい。
フィアは水筒を膝の上に置いたまま、濡れた道の先を見た。
ここから先を、どこへ行くのか。
まだ決まっていない。
少しすると、隣でシリウスが静かに口を開いた。
「フィア様」
フィアが顔を上げる。
「なに?」
「クロウ邸でのことを、謝らせてください」
思っていなかった言葉だった。
フィアは瞬きをする。
ルカも少し離れたところで顔を上げた。
シリウスはすぐには続けなかった。
言葉を選ぶように一度視線を落とす。
「私は一度、安全であればそれでよいのではないかと考えました」
右手が、膝の上でわずかに動いた。
「屋敷にいれば、貴女が教会に見つかる危険も少ない。旅を続けなければ、また何かに巻き込まれることもない。私自身が怪我をしていたこともありました」
フィアは黙って聞いていた。
「だから、あそこへ残ることが貴女のためになるのではないかと」
シリウスの声は静かだった。
言い訳をしているようには聞こえなかった。
「貴女を守ることばかりを考え、貴女がどうしたいのかより、自分の判断を優先しかけました」
フィアの胸の奥が、少しだけ痛んだ。
シリウスも、それを覚えていた。
自分が「ずっとは違う」と言った時。
「ここにずっといるつもりはない」と言った時。
シリウスは、すぐにはその言葉を選ばなかった。
安全な方を考えていた。
「申し訳ありませんでした」
シリウスが頭を下げる。
フィアは慌てて何か言おうとした。
けれど、すぐには言葉が出なかった。
責めたいとは思わない。
シリウスが自分を危険から遠ざけたかったことも分かっている。
怪我をしていた。
もしまた何かが起きたら守れないかもしれないと、怖かったのだと思う。
だからこそ迷った。
フィアは膝の上で自分の手を見る。
「でも」
シリウスが顔を上げる。
「最後には、聞いてくれたから」
フィアはゆっくり続けた。
「ここにいたいかって」
アルナトに最初に聞かれた。
それから、シリウスももう一度聞いてくれた。
自分は、変わらないと答えた。
「聞いてもらえたから、私もちゃんと答えられたんだと思う」
シリウスの表情がわずかに動いた。
フィアは休憩所の外へ目を向ける。
道は二つに分かれている。
片方は小さな村の方へ。
もう一方は、どこへ続いているのかここからでは分からない。
クロウ邸にいた時も同じだった。
どこへ行きたいのかは、分からなかった。
今も、まだ分からない。
「私」
フィアは小さく息を吸った。
「まだ、どこへ行きたいのか分からない」
シリウスもルカも黙っている。
「知らない場所を見たいって思うことはあるし、国境の向こうも少し見てみたい。でも、本当にそこへ行きたいのかって聞かれたら、まだ分からない」
フィアは言葉を探す。
「でも……どこへ行きたいのか分からなくても、ここを出たいって思っていいんだと思う」
シリウスの青い瞳が、静かにフィアを見ていた。
「行きたい場所が決まってないからって、居たくない所に残らなくてもいいんだって」
クロウ邸は、嫌なことばかりの場所ではなかった。
それでも、残りたいとは思わなかった。
それだけで、出ていい。
今は、そう思える。
「……はい」
シリウスが静かに答えた。
「そうですね」
短い返事だった。
けれど、それで十分だった。
フィアは少しだけ笑った。
*
ルカは何も言わなかった。
普段なら、何か一言挟んでいたかもしれない。
「じゃあ行き先はゆっくり決めよう」とか。
「そのために僕がいるんだから」とか。
そんなことを言ったかもしれない。
けれど今は、言葉が出てこなかった。
どこへ行きたいのか分からなくても、ここを出たいと思っていい。
フィアの言葉が、胸の奥に残る。
同時に、さっき聞いたアルナトの声も戻ってきた。
――あいつには言ったのか。
ルカは視線を落とした。
荷物の中から地図を取り出す。
次に向かう村。
その先の街道。
そして、さらに西へ続く道。
国境。
その向こうにある、自分の国。
フィアにはまだ、そこへ行く本当の意味を話していない。
自分が何者なのかも。
何のために、そこへ連れていこうとしているのかも。
けれど危険な場所へ連れていくつもりではない。
それだけは本当だった。
自分の国なら、この国よりもフィアを安全にできる。
教会の手も届きにくくなる。
守れる場所がある。
だから、間違ってはいない。
そう思う。
そう思ってきた。
ルカは地図の上で、国境へ続く線を見つめた。
以前なら、その道を見ても迷うことはなかった。
安全な場所へ連れていく。
それで十分だと思っていた。
けれど今は、同じ線が少しだけ違って見える。
――お前が何者で、どこへ連れていくつもりなのかを。
アルナトの声が、まだ耳の奥に残っていた。
ルカは何も言わず、地図を畳んだ。
本人には言ったのか。
その問いだけが、どうしても胸の中から消えなかった。




