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many merry bad ENDs 聖女がたどる結末たち  作者: 源泉


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83話 報酬 前編

山を下りきる頃には、空の色が少し明るくなっていた。


雨はもう降っていない。

それでも木々の葉にはまだ雫が残り、風が吹くたびに細かな水滴が落ちてくる。


斜面のきつい山道を抜けた先で、ルカが足を止める。


道の脇に、小さな休憩所があった。


石造りの低い壁に簡素な屋根をかけただけの場所で、中には古い長椅子と水桶が置かれている。

旅人や山仕事をする者が休むためのものなのだろう。


そこから先は道幅も少し広くなり、遠くには畑のようなものまで見えた。

もう少し進めば、小さな村か宿場があるらしい。


アルナトは周囲を一度見回した。


来た道。

木々の間。

遠くへ続く道。


しばらく耳を澄ませたあと、短く言う。



「ここまでだ」



ルカが振り返った。



「もう大丈夫そう?」


「すぐ追いつかれる距離じゃない。あいつらも、この先までまとまって追ってはこないだろ」



それで契約の終わりなのだと、フィアにも分かった。


クロウ邸を出るために、ルカがアルナトへ頼んだ仕事。


屋敷から出る道を教えること。

必要なら護衛を相手にすること。

そして、山を抜けるところまで連れていくこと。


ここで、それが終わった。


フィアは少しだけ肩の力を抜いた。


走り続けていたせいで、脚は重く、呼吸もまだ完全には戻っていない。

隣にいるシリウスも、何も言わないまま怪我をした腕を身体の近くへ寄せていた。


さっきより明らかに動きが硬い。

アルナトも気づいたらしい。


灰色の目が、シリウスの右腕へ向いた。



「その腕」



シリウスがアルナトを見る。



「医者に見せろ」


「……分かっている」


「分かってる奴の使い方じゃない」



アルナトは淡々と言った。



「そのまま使ってると、まともに剣を振れなくなるぞ」



フィアの胸が小さく縮んだ。

シリウスは少しだけ眉を寄せたが、反論はしなかった。



「近くに村があるなら、そこで診てもらいます」


「そうしろ」



それだけだった。

心配しているような声音でもなければ、気遣うような言い方でもない。


ただ、見れば分かることを告げただけのようだった。


けれど、その言葉を聞いてから、フィアは改めてシリウスの腕を見る。


自分を守るために傷ついた腕。

クロウ邸で護衛に掴まれ、山の中でも剣を振った。


また悪くなっている。


フィアの視線に気づいたのか、シリウスが静かに言った。



「歩くことに支障はありません」


「でも、診てもらって」


「はい」



今度は、問題ないとは言わなかった。


そのことに少しだけ安心する。


アルナトはもう用がないとでもいうように、休憩所から離れようとした。


黒い髪が揺れる。

その背を見た瞬間、フィアの口から声が出た。



「……待って」



アルナトの足が止まった。


振り返る。

灰色の目が、こちらへ向いた。


それだけで、フィアの身体は反射的に強張った。


自分でも分かるほど肩に力が入る。

すぐ横で、シリウスが半歩だけ近づいた。


剣へ手を伸ばすわけではない。

けれど、フィアとの距離をわずかに縮める。


ルカも休憩所の入口からこちらを見ていた。

誰も、アルナトへの警戒を解いてはいなかった。


フィア自身も同じだった。


クロウ邸から逃げるために助けてもらった。

山道でも助けてもらった。

自分ではもう走れなくなった時には、抱えて運んでもらった。


それでも、怖かったことが消えるわけではない。


アルナトに突然手を伸ばされれば、今でもきっと身体は固まる。

二人きりになれば怖いと思う。


それでも。

フィアは指先を少し握り、アルナトを見た。



「……ありがとう」



それだけだった。


何に対する礼なのか、自分でも全部を言葉にはできなかった。


屋敷を出るのを手伝ってくれたこと。

追手を止めてくれたこと。

走れなくなった自分を運んでくれたこと。



それとも、あの時、ヴァレリウスの考えではなく、自分の気持ちを、

「ここにいたいのか」

と聞いてくれたことなのか。



フィアにも、よく分からなかった。

だから、何も付け足さなかった。


アルナトはしばらくフィアを見ていた。

それから、



「礼はいらない」



とだけ言った。


想像していた通りの返事だった。

そこで話は終わったはずだった。


けれど、アルナトはすぐには背を向けなかった。


ほんの少し沈黙が続く。

フィアが不思議に思い始めた頃、アルナトが口を開いた。



「あそこに残りたかったか」



フィアは瞬きをした。


クロウ邸。


雨にも濡れない。教会の者も簡単には入ってこられない。

確かに、安全な場所だった。


それでも。



「……嫌だった」



答えはすぐに出た。

アルナトの灰色の目が、わずかに細くなる。



「それならいい」



なぜそれでいいのかの説明はなく、フィアも尋ねなかった。

ただ、その言葉を聞いたアルナト自身が、何か納得しきれていないように見えた。


ほんのわずかに眉間へ皺を寄せる。

まるで、自分がどうしてそんなことを確認したのか、自分でも分からないような顔だった。


アルナトは一度視線を逸らす。

それから、不意にもう一度フィアを見る。



「それと」



フィアが顔を上げる。



「前みたいに、るなと呼べ」



一瞬、何を言われたのか分からなかった。


隣でシリウスの空気が変わる。

ルカも少し目を見開いた。


フィアはアルナトを見る。



るな。



自分が名前を知らなかった時に、聞こえた音の欠片。


一人きりでアルナトといた時は、なぜか今でもその呼び方が口から出る。

けれど、シリウスとルカの前では言えなかった。


今も同じだった。

唇を開く。けれど、声は出なかった。


アルナトはそれをしばらく見ていた。

返事を催促することはなかった。


ただ、自分からそんなことを言ったのが気に入らないとでもいうように、わずかに顔を顰める。



「……次があればだ」



吐き捨てるほど強くはない。


そのまま背を向けようとしたところで、今度はルカが声をかけた。



「待って。まだ僕の方が終わってない」



アルナトが面倒そうに振り返る。



「何だ」


「報酬」



ルカは荷物の中から、小さな革袋を取り出した。

中には硬貨が入っている。


ルカはそれを数え、取り決めていた分をそのままアルナトへ差し出した。



「約束通り」


「……ああ」



アルナトは受け取った。

その場で枚数を数える。


ルカも何も言わずに待っていた。


フィアには金額が多いのか少ないのか分からなかったが、ルカが値切ろうとしている様子はない。


取り決めたものを、そのまま払ったのだろう。


けれど数え終えたアルナトは、その硬貨を二つに分けた。

半分ほどだけ手元に残し、残りをルカへ差し出す。



「返す」


「……何で?」



ルカは受け取らなかった。



「何、値引いてくれるの?」


「違う」



アルナトが硬貨を押しつけるように差し出す。



「残りは別のもので払え」



ルカの表情が変わった。

少しだけ笑っていた口元から、軽さが消える。



「別のもの?」


「ああ」


「物なら今ほとんど持ってないけど」


「いらない」



アルナトはルカを見る。



「お前に聞きたいことがある」



フィアも二人を見る。

シリウスの表情が硬くなった。



「何を話すつもりだ」


「お前には関係ない」


「なら、ここで話せ」


「お前がいたら意味がない」



シリウスの目が細くなる。


ルカはしばらくアルナトを見た。

いつものように笑って受け流すことはしなかった。


何かを測るように、その灰色の目を見返している。



「……いいよ」



シリウスがルカを見る。



「ルカ」


「大丈夫」



ルカは軽く手を上げた。

そしてアルナトへ向き直る。



「ただし、二人が見えるところで」


「好きにしろ」



ルカとアルナトは休憩所から少し離れた。


道を外れ、木々の方へ向かう。

フィアとシリウスから姿は見える。

けれど、声は届かない。


フィアは遠ざかっていく二人を見つめた。


何を話すのだろう。

聞きたい気持ちはあった。


けれど、今はそれ以上に身体が疲れていた。


休憩所の長椅子へ腰を下ろすと、シリウスも近くに立つ。


その右腕は、やはり身体のそばへ寄せたままで、ほとんど使おうとしていなかった。



*



少し離れた木々の間で、ルカは足を止めた。

休憩所は見える。

フィアが長椅子に座り、その近くにシリウスが立っている。


声までは届かない。

アルナトはそれを確認すると、ルカを見る。



「ルカ」



呼ばれ、ルカは少し眉を上げた。



「何?」


「それがお前の本当の名前か」



ルカの笑みが、一瞬だけ止まった。

けれど、すぐにいつもの顔へ戻る。



「急だね」


「答えろ」


「報酬って、そんな質問に答えることだったの?」


「ああ」


「それなら先に言ってほしかったな。値段を変えたかもしれない」



冗談めかした声だった。

アルナトは笑わなかった。



「答えろ」


「どうだろうね」



ルカは肩をすくめる。



「商人なんて、場所によって名乗り方が違うこともあるよ」


「そうか」



アルナトはそれ以上追及しなかった。

一瞬だけ、ルカは拍子抜けした。


その次だった。



「……レグルス」



呼吸が止まった。

ほんの一瞬だった。


けれど、それまで貼りつけていた表情が完全に消えた。


ルカはアルナトを見る。

声が出るまで、少し時間がかかった。



「……どうして、その名前を知ってるの」



アルナトは答えなかった。

灰色の目が、ルカを見ている。


どこまで知っている。

ルカは頭の中で考える。


名前だけか。

それとも、その名前が何を意味するのかまで。


なぜ知っている。

誰から聞いた。


いくつも問いが浮かんだ。


けれど、アルナトはそのどれにも答えず、別のことを聞いた。



「あいつをどこへ連れていくつもりだ」



ルカの眉がわずかに動く。



「フィアを?」


「他に誰がいる」


「……僕は危険な場所へ連れていくつもりじゃないよ」



ルカはゆっくり息を吐いた。

声だけは、もうほとんど元に戻っている。



「今いる国の中を逃げ続けるより、国境を越えた方が安全になる。少なくとも、教会やこの国の連中は動きにくくなる」


「安全かどうかは聞いてない」


「じゃあ何が聞きたいの?」


「あいつには言ったのか」



ルカの指先がわずかに止まる。



「……何を」


「お前が何者で」



アルナトは休憩所の方へ一度だけ目を向けた。



「どこへ連れていくつもりなのかを」



ルカは答えなかった。

フィアの姿が見える。


少し疲れたように長椅子へ座っている。


そのそばにはシリウス。

ここまで一緒に来た二人。


フィアは、ルカが隣国の出身だということは知っている。


商人だと思っている。

国境へ向かうことにも納得している。


それは嘘ではない。


隣国へ行けば、この国の教会は簡単には手を出せなくなる。

今より安全にできる。


そのために連れていこうとしている。

そのこと自体に、嘘はない。


ただ。

全部を話してはいない。



「……まだだよ」



ようやく答えた。



「でも、僕はフィアを危険な場所へ連れていこうとしてるわけじゃない」


「そうか」



アルナトはそれだけだった。


責めない。

呆れもしない。


正しいとも間違っているとも言わない。

そのことが、ルカには少し意外だった。



「それだけ?」


「ああ」


「君、何か言いたいんじゃないの?」


「別に」



アルナトの返事は変わらない。



「俺が言えることでもない」



それだけ付け加えた。

ルカには、その意味が分かった。


アルナトは一度フィアを無理に連れていった。

本人がどうしたいのかなど聞かず、自分の判断で。


だから今さら、ルカへ説教するつもりはないのだろう。

ただ、聞いただけ。


本人には言ったのか。


その一言だけが、妙に残った。

ルカはしばらく黙ったあと、逆に尋ねる。



「じゃあ、今度は僕の番」


「……別料金になるぞ」


「意外と細かいんだね、君」



ルカは笑おうとした。

今度はうまく笑えなかった。



「君は何者なの?」



アルナトの目がわずかに動く。



「どうして、その名前を知ってるのか」


「……」


「僕のこと、どこまで知ってるの?」



アルナトは少しだけ考えるようにルカを見た。

それから、背を向ける。



「さあな」


「ちょっと」


「その答えはかなり高くなる」



それだけ言って歩き出す。

ルカは追わなかった。


追っても答えないことは分かっていた。


少し先でアルナトが休憩所の方へ戻る。

けれど、フィアたちのところへ寄ることはなかった。


そのまま道を外れ、別の方角へ向かっていく。


フィアが顔を上げる。

アルナトも一度だけそちらを見た。


何も言わない。

フィアも、今度は呼び止めなかった。


黒い髪が木々の間へ消えていく。

しばらくすると、姿そのものが見えなくなった。


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