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many merry bad ENDs 聖女がたどる結末たち  作者: 源泉


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82話 失いたくないもの 後編

濡れた山の道が、その先へ続いていた。


木々の間へ入ると、屋敷の庭とはまるで違う匂いがした。

湿った土と苔、濡れた葉の青臭さが混じり、柔らかくなった地面が靴の裏にまとわりつく。


ルカが少し先を走り、その後ろをフィアとシリウスが続いていた。

アルナトは最後尾につき、時折振り返りながら背後を確認している。


まだ屋敷からそれほど離れておらず、木々の隙間から白い壁が何度か見えた。


その時、遠く背後から声が届いた。



「追いなさい!」



ヴァレリウスの声だった。


普段の穏やかさは戻っていたものの、その言葉だけははっきりと山の中まで響いた。

フィアの肩が跳ね、分かっていたはずなのに、実際に追跡を命じる声を聞くと胸の奥が冷たくなる。


やはり、諦めてはいない。



「そのまま行って!」



ルカが振り返らずに言った。


フィアは頷こうとしたが、すでに息が上がっていて声にならなかった。


走ることそのものに慣れていないうえ、発熱のあとで、まだ身体が完全に戻っていたわけでもない。

濡れた山道は平らな道とは違い、少し走るだけでも思っていた以上に体力を奪っていく。


それでも止まりたくはなかった。


隣ではシリウスがフィアの手を握ったまま、その歩幅に合わせて走っている。



「フィア様、足元を」


「うん」



浮き出た木の根を避け、ぬかるみに足を取られないよう進む。

分岐が近づくと、アルナトが後方からルカの近くまで上がってきた。



「次を右だ」



ルカが地図へ目を落とす。



「その先で本道から離れる。右!」



四人は細い分岐へ入った。


道と呼べるほど整ってはおらず、人が何度か通った跡だけが木々の間に残っている。

傾斜も少しきつくなり、フィアの呼吸はさらに浅くなった。


それでも、まだ走れる。

そう思っていた時、ルカが突然振り返った。



「後ろ、来てる」



その声に全員の動きがわずかに変わる。

アルナトは足を止めないまま背後へ目を向けた。



「何人」


「三人……いや、四人」



木々の間から、四つの人影が見えた。


ヴァレリウスがあの収蔵品の無事を確かめている間に稼いだ距離は、思っていたほど大きくなかったらしい。

追ってきているのは全員ではない。

足の速い者だけが先行してきたのだろう。



「このままだと追いつかれる」



アルナトが短く言った。


ルカはすぐに前方を見回した。

右側は斜面で、左には大きな岩と木々が密集している。

道幅も狭く、何人も並んでは通れない。



「ここで一度止める?」


「その方が早い」


「分かった」



ルカがフィアの方へ戻ると、シリウスも足を止めた。



「フィア様、ここにいてください」



そう告げて、握っていた手を離す。

一瞬だけ手のひらから熱が消えた。


シリウスはフィアを大きな岩の内側へ下がらせると、その前へ立った。

ルカもフィアの近くに残り、アルナトだけがさらに数歩前へ出る。


黒い髪の向こうから、四人の護衛が迫ってきた。そのうち先頭の二人はすでに剣を抜いている。



「戻ってください!旦那様の命令です!」



先頭の護衛が、続けてアルナトを見る。



「旦那様からです。そちらより高い報酬を出す。フィア様とシリウス殿を連れ戻してほしい、と!」


「……先約だ」



アルナトが低く呟く。


シリウスも何も言わず、剣を抜く。


右手で柄を握り、左手を添えた瞬間、フィアには右腕の動きがわずかに強張ったように見えたが、本人は何も言わない。


四人の護衛が間合いへ入った。


最初の一人がアルナトへ斬りかかる。

アルナトは真正面から剣を受けず、半歩だけ身体をずらした。


振り下ろされた腕を取り、その勢いを殺さないまま身体を捻ると、護衛は濡れた地面へ背中から叩きつけられ、息を詰まらせた。

剣が手から離れて土の上を滑る。


倒れた男を確認することもなく、アルナトはすぐに次を見る。


二人目がその隙を狙って踏み込んできた。


ほとんど同時に、三人目がアルナトの横を抜けてフィアたちの方へ向かう。


シリウスが前へ出た。


三人目の護衛が振るった剣を受けると、高い金属音が森の中へ響いた。


衝撃でシリウスの身体がわずかに揺れる。

両手で受けた剣に力を込めた瞬間、右腕がわずかに震えた。


痛みが走ったのだろう。眉がほんのわずかに寄った。


それでも剣は離さない。


相手の刃を横へ流しながら、自分の身体をフィアとの間へ入れ、これ以上先へ進ませない。


その間にも、アルナトは二人目と向き合っていた。


相手の剣を紙一重で避け、そのまま懐へ入り込む。肩をぶつけるようにして体勢を崩すと、男がよろめいた。


そこへ、残る四人目が道の端から回り込もうとする。



「右、もう一人!」



ルカの声が飛び、アルナトは振り向いた。


二人目が立て直すより早くその手首を捻り、剣を落とさせる。

そのまま身体を押し退けると、すぐに四人目へ向かった。


四人目も剣を抜いていたが、アルナトは速度を緩めなかった。


振り下ろされた刃を避け、横へ回り込む。

男が追って身体の向きを変えようとした瞬間、その足を払った。


大きく体勢を崩したところへ腕を取り、濡れた地面へ押さえ込む。

抵抗しようとした腕を背中側へ捻ると、男の身体から力が抜けた。


アルナトはその剣を蹴り飛ばし、すぐに二人目へ振り返る。


先ほど剣を落とされた二人目が、すでに拳を振り上げて向かってきていた。

アルナトはその拳を避けると、伸びてきた腕を掴み、身体を入れ替えるように引く。


勢いを利用された男はそのまま前へ崩れ、地面へ膝をついた。


立ち上がろうとしたところで、アルナトが背後から肩を押さえる。


それ以上動けないと分かったのか、男の動きが止まった。


最初に地面へ叩きつけられた男も、先ほどまでアルナトへ食い下がっていた男も、もうすぐには立ち上がれそうになかった。

少し離れたところでは、四人目も剣を失ったまま地面に伏している。


アルナトが相手をしていた三人は、これで動きを止めた。


一方、シリウスの前にはまだ一人が残っていた。


男が再び剣を振るう。

シリウスが受けた。


二度目の衝撃を受けた瞬間、右腕がわずかに沈み、小さく息が漏れる。


フィアの胸が締めつけられた。

それでもシリウスは下がらない。


相手がさらに踏み込もうとした瞬間、剣を受け流しながら身体を横へずらす。


勢いを逃がされた護衛の身体が前へ流れた。

そこへシリウスが足をかける。


男が地面へ膝をついた。

シリウスは剣を振り下ろさなかった。


代わりに相手の手首を柄で打ち、剣だけを落とさせる。

護衛が武器を拾おうとするより早く、シリウスがその前へ立った。


それ以上動けば再び止められる。

そう理解したのか、男は動かなかった。


これで四人とも動きを止めた。

シリウスが相手をしたのは一人だけだった。


けれど、その一人をフィアへ近づけることなく抑えている間に、アルナトは残る三人をすべて無力化していた。


シリウスは一度だけアルナトへ視線を向ける。

普段なら、その動きを警戒するはずの相手だった。


けれど今は何も言わなかった。


三人を相手にしてもほとんど迷いなく動き、すべて無力化したアルナトを見て、少なくとも今だけは、アルナトを味方として頼ってもいいと判断したようにフィアには見えた。



「もういい」



アルナトが言う。



「後ろが来る」



その一言で、ルカもすぐに動いた。



「行こう」



シリウスは剣を収めたが、その動きで右腕が一瞬遅れた。

フィアはすぐに気づいた。



「シリウス、腕……」


「大丈夫です」



いつもの答えだった。

それでも、剣を鞘へ収める動きは明らかに硬い。



「行きましょう。後続が来ます」



差し出された左手を、フィアは握った。


四人は再び走り始める。


戦っている間にフィアの呼吸は少し戻っていたものの、それも長くは続かなかった。

山道はさらに狭くなり、雨で流された土が何度も足元を滑らせる。



「左は駄目。崩れてる」



前を走るルカが言う。



「右へ行け。この先に古い道がある」



アルナトの言葉に従い、四人は斜面を回り込むように右へ進んだ。


細い木々の間を抜けるうち、フィアの呼吸はまた苦しくなっていった。

胸が大きく上下し、足も重くなる。


それでもシリウスの手は離さなかった。


ただ、そのシリウスの速度も少しずつ落ち始めていた。

フィアに合わせているだけではない。


走るたびに身体が揺れ、そのたびに右腕の動きが小さくなっている。

明らかに腕を庇っていた。



「シリウス……」


「大丈夫です」



返事はすぐだったが、さっきより声が少し低い。

フィアは思わず足を緩めた。



「腕……」



シリウスもそれに合わせて速度を落とす。



「大丈夫です。止まらないでください」



そう言いながら、フィアを置いて先へ行こうとはしなかった。

握った手も離さない。


後ろから、かすかに人の声が聞こえた。


まだ遠い。

けれど、追手は完全には途切れていない。


ルカも振り返り、木々の向こうへ目を凝らした。



「後ろ、また来るかも」



フィアの足がさらに重くなる。

シリウスも右腕を庇ったまま走っている。


このままでは、二人とも速度が落ちていく。


そう思った時だった。

突然、フィアの身体が浮いた。



「……っ」



声を出す暇もなかった。


アルナトの腕が背中と膝の下へ入り、そのままフィアを横抱きにしていた。


足が地面から離れる。

その感覚に、身体が勝手に強張った。


前にもあった。


同じように突然抱え上げられ、自分の意思とは関係なく連れていかれた。

怖いと言っても、下ろしてもらえなかった。


ほんの一瞬だけ、その時の感覚が重なる。



「アルナト」



シリウスの低い声がした。

フィアは反射的にそちらを見る。


シリウスはすぐ横を走っていた。苦しそうではあるけれど、ちゃんとそこにいる。


少し先にはルカもいる。



「そのまま行って!この先、右!」



ルカが道を指した。


アルナトは何も答えない。

フィアを抱えたまま速度を上げる。


身体にはまだ強張りが残っていた。

それでも、フィアは抵抗しなかった。


前とは違う。


今、自分たちが向かっているのはクロウ家の屋敷へ戻る方向ではない。


自分が行きたいと決めた方だった。


シリウスもいる。

ルカもいる。


自分だけをどこかへ連れていかれているわけではない。


アルナトの腕の中にいることへの怖さがなくなったわけではなかったが、それでも、その腕から逃れようとは思わなかった。


シリウスは一度だけアルナトを見た。


何かを言いたそうに唇が動いたものの、右腕を庇うように身体へ寄せたまま、それ以上は何も言わず隣を走り続ける。



「次、左!本道から外れるよ!」



ルカの声に、アルナトが前を見る。



「その先に倒木がある。越えたら右へ降りろ」


「分かった」



道はさらに細くなった。


倒れた大きな木が斜面を塞ぐように横たわっている。ルカが先にその脇を抜け、アルナトもフィアを抱えたまま迷いなく足を運ぶ。


ぬかるんだ地面でも、その速度はほとんど落ちなかった。


シリウスがその後ろを続く。


倒木を越えたところで四人は一度右へ下り、さらに岩の陰を抜けて、古い獣道のような細い道へ入った。


後ろから見れば、そのまま真っ直ぐ進んだように見える場所だった。


そこからしばらく進んだところで、アルナトがようやく速度を落とした。


立ち止まり、背後へ目を向ける。


全員が息を潜めた。

遠くで声がする。


足音も聞こえていた。


けれど、それは少しずつ別の方向へ離れていった。

追手は分岐に気づかず、そのまま先へ進んだらしい。


アルナトはしばらく耳を澄ませたあと、



「しばらくは来ない」



と短く言った。

ルカが大きく息を吐く。



「助かった……」



アルナトは何も言わず、フィアを地面へ下ろした。


足が土へ触れ、一瞬だけ力が抜けそうになる。

それでも、フィアは自分で踏ん張った。


アルナトはもうこちらを見ていない。すぐに背後へ向き直り、まだ追手の気配が残っていないか確かめている。


フィアは足元を見る。


脚はまだ少し震えていて、息も完全には戻っていない。

それでも、確かめるように一歩前へ出ると、自分の足でちゃんと進むことができた。


もう一歩進んだところで、隣へシリウスが来る。

右腕を庇っているのは分かったが、本人はやはり何も言わなかった。


フィアは少し迷ってから、シリウスが手を差し出すより先に自分から手を伸ばし、その手を握った。


シリウスはわずかに目を見開いたが、何も言わずに握り返した。


強すぎない。

けれど、離れない程度の力だった。



「歩けそう?」



少し前にいたルカが振り返る。



「うん」


「じゃあ、今度は走らなくていいよ。少なくとも少しの間は」



ルカは肩で息をしながら地図を畳み、それから後ろにいるアルナトを見て小さく笑った。



「いやあ、ずいぶん高い散歩になったね」



アルナトは振り返りもしない。



「まだ終わってない」


「分かってるよ」



ルカの笑みが少しだけ苦くなった。

契約は山を抜けるまでで、まだそこには着いていない。


四人は再び歩き始めた。


ルカが少し前で道を確認し、フィアとシリウスがその後ろを並んで進む。

アルナトは少し離れた後方に残り、何度も背後を振り返っていた。


木々の間から差し込む光はまだ弱く、道も濡れている。

この先が安全なのかも分からなければ、教会がどこにいるのかも、次にどこへ行けばいいのかも、まだ何も決まっていない。


それでも、もうクロウ家の屋敷へ戻りたいとは思わなかった。


ふと、今朝すれ違った使用人の顔が浮かぶ。


まだ足元がぬかるんでおります。

お気をつけて。


あの言葉も、笑顔も、きっと嘘ではなかった。

暖かい食事も、柔らかな寝台も、体調を気遣ってくれたことも、本物だったのだと思う。


安全でもあった。


それでも、そこに残ることを自分で選びたくはなかった。


フィアは隣を歩くシリウスの手を握ったまま、前を向いた。

木々の向こうから、クロウ家の屋敷はもう見えなくなっていた。

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