82話 失いたくないもの 中編
翌朝、雨は止んでいた。
厚い雲はまだ山の上に残っていたが、昨日までのように窓を叩く雨音はない。
庭の木々から時折雫が落ち、濡れた石畳の上で小さく弾けていた。
フィアは窓辺に立ち、空を見上げる。
晴れたとは言えない。
それでも、昨日よりはずっと明るかった。
昨夜はなかなか眠れなかった。
目を閉じるたびに、ここを出たあとのことを考えてしまったからだ。
山道は本当に通れるのか。
誰かに見つからず屋敷を出られるのか。
もし見つかったら、シリウスはまた戦うのだろうか。
考え始めれば不安はいくらでも出てきた。
それでも、ここを出たいという気持ちだけは昨日と同じだった。
「正門は駄目だね」
少し離れた机の前で、ルカが窓の隙間から外を確認しながら言った。
フィアたちが朝食を終えてから、アルナトも部屋へ来ていた。
机の上には昨日と同じ地図が広げられ、その周りにルカとシリウス、アルナトが集まっている。
フィアも少し離れた椅子に座り、三人の話を聞いていた。
「昨日より多いの?」
フィアが尋ねると、ルカが頷いた。
「昨日まで別の倉庫を見張ってた連中まで何人か回されてる。僕たちが何かすると思ってるのか、単に警戒を強めただけなのかは分からないけど」
窓から見える正門付近には、武器を持った男たちが何人も立っている。
普段から屋敷にいた使用人とは違う。
服装そのものは派手ではないが、腰には剣があり、庭や玄関を見る目にも明らかな緊張があった。
「正面からの方が色んな道に繋がるから良かったんだけどね。危ないなら避ける」
ルカが地図へ戻る。
アルナトは何も言わず、地図の端を指で押さえた。
「こっちへ向かえ」
「西側?」
「蒐集塔がある」
フィアは顔を上げた。
「蒐集塔?」
「ヴァレリウスが特に気に入ってる物を納めている場所だ。母屋とは繋がっていない」
アルナトの指が屋敷の裏手をなぞっていく。
「その脇に通用口がある。正門ほど広くないが、人が通るには十分だ」
ルカも地図を覗き込んだ。
「正門からは一番遠いね」
「だから警戒も薄いはずだ」
「なるほど」
「鍵がかかっている可能性は?」
「その時は壊せばいい」
ルカはしばらく地図と窓の外を交互に見ていたが、やがて納得したように頷いた。
「今の配置なら、そっちの方がいい。正門側に集めすぎてる分、裏手は昨日より手薄になってる」
シリウスがアルナトを見る。
「外へ出たあとは」
「そこから西へ下る。森に入れば、正門側からは見えなくなる」
「道は」
「広い道は使わない。雨で少し崩れてる場所はあるが、歩けないほどじゃない」
「フィア様が通れる道だろうな」
シリウスの声が少し硬くなる。
アルナトは面倒そうに視線を返した。
「通れない道なら最初から候補に出していない」
それだけ言うと、再び地図へ目を落とした。
二人の間にある空気は相変わらずだったが、昨日までとは少し違って見えた。
互いに気に入っていないことは変わらない。
それでも今は、同じ地図を見て、同じ場所から出る方法を考えている。
そのことがフィアには少しだけ不思議だった。
「何かあれば、ここで変える」
ルカが地図の数か所を指で示した。
「僕が周りを見る。護衛が来たら言うし、道が崩れてたら別の方へ回る。アルナトはその都度、どっちへ行けるか教えて」
「分かった」
「シリウスは」
「フィア様から離れない。目を離さない」
迷いのない返事だった。
フィアはその言葉を聞いて、昨夜の約束を思い出した。
何があっても、私から離れないでください。
フィア自身も、分かったと答えた。
「荷物は最低限に」
ルカが言う。
「走ることになるかもしれないからね」
その言葉に、フィアの胸が少しだけ強張った。
けれど、それを見せないように頷いた。
出発の時、持ったのは小さな鞄だけだった。
着替えも食料も最低限にして、すぐには必要のないものは屋敷に残した。
持ち込んだものも多くはなかったが、それでも置いていくものが出てくる。
フィアは初めに青い硝子玉のついた髪飾りと、店で自分で選んだ髪を隠すための布を鞄に入れる。
どちらも、アルナトに連れ去られたあの大きな街で手に入れたものだった。
それでも今は、迷わず鞄に入れることができた。
フィアは最後に部屋を振り返る。
柔らかな寝台も、窓から見える庭も、嫌いだったわけではない。
むしろ、ここへ来たばかりの頃は本当に安心していた。
それでも、残りたいとは思わなかった。
「フィア様」
シリウスに呼ばれ、フィアは振り返る。
「行きましょう」
「うん」
扉を閉める。
鍵はかけなかった。
四人が母屋の廊下を歩いても、すぐには誰も止めなかった。
アルナトは少し先を歩き、ルカがその近くにいる。
フィアの横にはシリウスがいた。
使用人とすれ違えば、いつもと同じように頭を下げられた。
事情を知っている様子はない。
途中、何度か食事を運んでくれた女性の使用人と会った。
フィアたちの上着と小さな荷物を見て、彼女は少し首を傾けたものの、深く尋ねることはなかった。
「外へ出られるのですか?」
フィアは一瞬だけ迷った。
「……少し」
嘘ではない。
けれど、本当のことでもなかった。
使用人は窓の外を見てから、いつものように柔らかく笑った。
「まだ足元がかなりぬかるんでおります。お気をつけて」
「……ありがとう」
そのまま通り過ぎる。
フィアは数歩進んでから、一度だけ振り返りそうになった。
けれど、シリウスが隣にいるのを感じて、そのまま前を向いた。
母屋を離れるにつれて、人の姿は少なくなった。
庭の奥へ進むと、屋敷の華やかさも薄れていく。
背の高い木々の間を抜けた先に、石造りの細長い建物が見えてきた。
「あれ?」
フィアが小さく尋ねると、ルカが頷いた。
「そうみたいだね」
蒐集塔だった。
母屋ほど大きくはないが、窓は小さく、壁も厚い。
装飾もほとんどなく、何かを見せるためではなく、守るために建てられた場所なのだと分かる。
アルナトが足を止めずに言った。
「中には入らない。脇を抜ける」
塔と外壁の間に、人が二人並んで通れる程度の細い道があった。
その先に小さな鉄の扉が見える。
「あそこ?」
「そうだ」
正門とは比べものにならないほど小さい。
けれど、向こう側にはもう屋敷の外がある。
それを見た瞬間、フィアの心臓が少し速くなった。
あそこを抜ければ。
そう思った時だった。
「お待ちください」
男の声がした。
蒐集塔の陰から、武器を持った護衛が姿を見せた。
一人だけではなく、少し離れた場所にももう一人立っている。
ルカの足が止まった。
「何か?」
いつもの商人らしい、柔らかな声だった。
「こちらは蒐集塔の管理区域です。ご用件を」
「少し外へ出たいだけだよ」
「外へ?」
護衛の視線が四人の荷物へ向かう。
それだけで、空気が変わったのが分かった。
「正門をご利用ください」
ルカは笑みを崩さなかった。
「ちょっと散歩するだけなんだけど」
「こちらの通用口は使用できません」
アルナトが護衛の向こうにある扉を見る。
ルカもその視線を追った。
予想通り、扉には鍵がかかっていた。
ただし、一つではなかった。
扉の中央にある大きな錠のほかに、その上下にも別の錠が取りつけられている。
アルナトもそれを見て、わずかに眉を寄せた。
「……増えてるな」
「前は違った?」
「ここまでじゃなかった」
蒐集塔を守るために、以前より警備そのものが厳重になっているらしい。
少なくとも、一つ壊せば通れるという状態ではなかった。
ルカも扉を見ながら小さく息を吐く。
「三つか。全部壊してたらさすがに時間がかかるね」
「……俺が時間を稼ぐ」
アルナトは目だけで護衛の腰を示した。
そこに鍵束が下がっている。
ルカもすぐに意図を理解して頷いた。
この通用口が閉ざされていること自体は、自分たちを逃がさないためではないのだろう。
蒐集塔のそばにある以上、もともと防犯のために施錠されていた。
ただ、アルナトが以前知っていた時よりも、守りは厳重になっていた。
「戻ってください」
護衛がもう一度言った。
その手が剣の柄に触れる。
次の瞬間、アルナトが動く。
速かった。
護衛が剣を抜くより先に間合いへ入り、その手首を掴んで身体を崩す。
「アルナト!」
ルカの声と同時に、もう一人の護衛が剣を抜いた。
シリウスがすぐにフィアの前へ出る。
「私から離れないでください」
「うん」
フィアは反射的にシリウスの服を掴みそうになり、それをやめた。
代わりに、自分から一歩近づく。
アルナトは最初の護衛を地面へ倒すと、その腰から鍵束を奪った。
「ルカ」
放られた鍵をルカが受け取る。
「分かった!」
鍵束には十本近い鍵がついていた。
ルカはすぐに鉄の扉の前へしゃがみ込み、一番上の錠へ鍵を差し込んでいく。
一つ目は入らない。
次も途中で止まった。
三本目を差し込むと、今度は奥まで入った。
「これだ」
回すと、乾いた金属音とともに一番上の錠が外れる。
けれど、扉は当然開かない。
まだ二つある。
ルカは外した鍵の形を一度見てから鍵束へ戻し、今度は中央の大きな錠へ別の鍵を試し始めた。
その間に、もう一人の護衛がアルナトへ斬りかかった。
アルナトは身体をずらして避け、その腕を打つ。剣が地面へ落ちたところで、遠くから大きな声が聞こえた。
「こちらです!」
フィアは振り返った。
母屋の方から、何人かの男たちが走ってくる。
「気づかれたね」
ルカは振り返らない。
鍵を一本抜き、次を差し込む。
「分かってる」
アルナトは短く答え、向かってきた護衛を押し退けた。
シリウスも剣を抜いていたが、前へ出ようとはしない。
フィアのそばから離れず、近づいてくる者だけを警戒している。
「ルカ」
「分かってる、もう少し!」
中央の錠へ差し込んだ鍵が回らない。
違う。
抜いて、次。
それも違う。
遠くに見えていた護衛たちが、少しずつ近づいてくる。
フィアにも足音が聞こえ始めた。
ルカの指が次の鍵を選び、錠へ差し込む。
今度は回った。
重い音を立てて中央の錠が外れる。
「二つ」
あと一つ。
一番下の錠だけが残っていた。
ルカはすぐに鍵束を持ち替える。
一つ目は入らない。
次も違う。
「ルカ……!」
フィア自身でも気づかないうちに、声が出ていた。
「大丈夫、まかせて」
ルカの声はいつもと変わらないように聞こえたが、鍵を動かす手は先ほどより速かった。
背後ではアルナトが新しく来た護衛を一人受け止めていた。
さらに別の男が横から回り込もうとする。
シリウスがフィアの前へ半歩出た。
「こちらへ」
フィアもシリウスから離れないよう、その動きに合わせて下がる。
ルカがもう一本、鍵を試す。
違う。
その次。
奥まで入った。
「……これだ」
鍵を回す。
一度引っかかる。
ルカが角度を変えて、もう一度力を込めた。
がちり、と重い音がした。
最後の錠が外れる。
三つの錠がすべて外れ、ルカが鉄の扉を押した。
重い扉が、ゆっくりと外側へ開いていく。
向こうに濡れた草と木々が見えた。
屋敷の外だった。
フィアの胸に一瞬だけ安堵が広がる。
間に合った。
そう思った。
「そこまでです」
聞き慣れた穏やかな声がした。
護衛たちの向こうから、ヴァレリウスが歩いてくる。
走ってきたわけではない。
けれど普段より歩幅は速く、その後ろにも多くの護衛が続いていた。
開いた通用口の向こうにも、いつの間にか回り込んだ護衛の姿が見えた。
抜け道そのものは開いた。
けれど、もう誰にも見つからず出ていける状況ではなくなっていた。
「やはり、そうなのですね」
ルカが開いた通用口の前に立つ。
「僕たちは出るって言ったよ」
「ええ。ですから、考え直していただきたかったのですが」
ヴァレリウスはルカを見ていなかった。
その視線は、フィアへ向いている。
「フィアさん」
名前を呼ばれ、フィアの身体が少し固くなる。
それでも目を逸らさなかった。
「昨日、お話ししましたね」
「……うん」
「外は危険です。教会の者が近くまで来ていることも、道が完全には戻っていないことも、お伝えしたはずです」
「分かってる」
「それでも?」
フィアは隣にいるシリウスを一度だけ見た。
そして、ヴァレリウスを見る。
「それでも、出たい」
ヴァレリウスの表情から笑みが消えたわけではなかった。
ただ、ほんの少しだけ目が細くなる。
「そうですか」
静かな声だった。
次に護衛へ向き直る。
「止めなさい」
護衛たちが一斉に動いた。
「ただし、傷つけてはいけません」
ヴァレリウスの声が続く。
「どちらにも、傷が残っては困ります」
フィアは一瞬、意味を理解できなかった。
どちらにも。
その言葉が胸に引っかかった。
「絶対に、二人とも連れ帰りなさい」
二人。
自分だけではない。
全員でもない。
フィアがシリウスを見るより早く、護衛が迫ってきた。
アルナトが一人を止める。
シリウスもフィアの前に入り、剣で別の男の武器を受けた。
金属のぶつかる音が狭い通路に響く。
「フィア様、私の後ろへ」
言われた通り下がろうとしたが、別の護衛が横から回り込んできた。
シリウスがすぐにそちらへ向こうとする。
横から回り込んだ護衛へ注意が向いた瞬間、別の二人が左右からシリウスの腕を取った。
そのうち一人の手が、まだ治りきっていない肩へかかる。
「っ……」
シリウスの表情が一瞬歪んだ。
怪我をしている方の肩だった。
「シリウス!」
フィアが思わず手を伸ばす。
別の護衛がその間へ入った。
「離れてください」
「嫌」
フィアは下がらなかった。
シリウスも護衛を振り払おうとする。
「フィア様!」
互いに手を伸ばす。
触れられそうで、届かない。
その光景を見たヴァレリウスが、ふいに目を細めた。
それまでの困ったような表情とは違った。
初めてフィアが見る顔だった。
嬉しそうですらあった。
「……やはり、そうでなくては」
フィアはヴァレリウスを見る。
「何が……?」
ヴァレリウスは答える代わりに、フィアとシリウスを交互に見た。
「私は、貴女だけをここに残したいわけではないのですよ」
「……私だけじゃない?」
「ええ」
そこで初めて、ヴァレリウスの視線がはっきりとシリウスへ向いた。
「彼も必要だ」
フィアは息を止めた。
ヴァレリウスの声には、隠す気のない熱が混じっていた。
「聖女と、その聖女を選んだ守護騎士。国にも教会にも背き、すべてを捨てて、二人でここまで逃げてきた」
その言葉を聞くたび、フィアの胸の奥に冷たいものが広がっていく。
「聖女だけでも稀有です。ですが、そのそばに彼がいることで、さらに価値が生まれる」
シリウスが自分を選んだこと。
一緒に逃げてくれたこと。
何度も守ってくれたこと。
それまでの全部を、ヴァレリウスは一つの物語のように語っている。
「二人でなければ意味がない」
その声には迷いがなかった。
「これほど互いを求めている。だからこそ、美しいのです」
「フィア様を、そのように語るな」
低い声だった。
叫んではいない。
それでも、フィアはこれまで聞いたことがないほど強い怒りをそこに感じた。
シリウスは自分のことを何一つ言わなかった。
自分まで蒐集されようとしていることではなく、フィアをそういうものとして語られたことに怒っている。
ヴァレリウスは、その怒りさえ興味深そうに見ていた。
フィアの頭に、昨日見た濃紺の本が浮かんだ。
国とともに失われた言葉で書かれた本。
古い道具。
宝石。
失われれば二度と手に入らないもの。
だから、残しておかなければならない。
自分も。
シリウスも。
この人の中では、同じなのだ。
それだけではない。
シリウスが自分を選んだことも、一緒に逃げてきたことも、二人の間にあるものまで、価値を高めるための一部として見られている。
気持ちが悪い。
初めて、はっきりそう思った。
「離して」
フィアは自分とシリウスの間にいる護衛を見る。
「シリウスから離れて」
護衛は動かなかった。
ヴァレリウスも首を横に振る。
「それはできません。今は少し落ち着いていただく必要があります」
「嫌」
自分でも驚くほど、はっきり言えた。
「私はここに残らない」
ヴァレリウスの眉がわずかに下がる。
「なぜ、そこまで」
「嫌だから」
それ以上うまく説明できなかった。
けれど、それで十分だった。
フィアはもう一度シリウスへ手を伸ばす。
その時だった。
「ヴァレリウス」
アルナトの声がした。
低く、普段と何も変わらない声だった。
フィアだけではなく、護衛たちもそちらを見る。
いつの間に移動したのか、アルナトは蒐集塔の入口近くに立っていた。
片手には短剣がある。
その刃先が、台の上に置かれていた古い遺物へ触れていた。
具体的に何に使われていた物なのか、フィアには分からない。
ただ、丁寧に固定され、他の品とは少し離して置かれている。
それだけでヴァレリウスが特別に扱っているものなのだと分かった。
決行前にアルナトが言っていた。
蒐集塔にはヴァレリウスが特に気に入っているものを納めている、と。
アルナトはヴァレリウスに頼まれて貴重な品の回収を請けたことが何度もある。
今、刃を向けているものも、以前アルナト自身がヴァレリウスの依頼で回収してきたものだった。
その価値も、どこを壊せば二度と元には戻らないのかも知っている。
短剣の先は、まさにその一点へ当てられていた。
ヴァレリウスの顔から、初めて完全に余裕が消えた。
「……何をしている、それの価値を知らないわけではないだろう」
アルナトは答えない。
短剣をほんのわずかに傾ける。
力を入れれば、それだけで壊せる。
「仕事を請けた。追わせるなら壊す」
一瞬、誰も動かなかった。
「やめなさい」
ヴァレリウスの声が初めて乱れた。
それまでどんな時でも崩れなかった穏やかさが消え、言葉が鋭くなる。
アルナトは顔色一つ変えない。
「それなら止めろ」
ヴァレリウスはアルナトの短剣と、その刃先にある遺物を見た。
次に、フィアとシリウスを見る。
ほんの一瞬だった。
それでも、その迷いがフィアには分かった。
どちらも失いたくない。
だから決められない。
アルナトの刃先が、さらにわずかに沈む。
「……彼らから離れなさい」
護衛たちの動きが止まった。
シリウスを押さえていた手も緩む。
「今だ!」
ルカの声が飛んだ。
シリウスはすぐに護衛を振り払い、フィアのところへ来た。
「フィア様」
伸ばされた手を、フィアは迷わず掴んだ。
「シリウス、行こう」
「はい」
二人で開いた通用口へ向かう。
ルカはすでに扉の向こうに立ち、外の様子を確認していた。
「こっち!」
フィアはシリウスと一緒に扉を抜ける。
屋敷の外だった。
濡れた土と草の匂いが強くなる。
通用口の外へ回り込んでいた護衛たちも、ヴァレリウスの命令を受けたまま動かなかった。
ルカが先へ走り、シリウスもフィアの手を離さずその後を追う。
数歩進んだところで、フィアは振り返った。
アルナトはまだ蒐集塔の前にいた。
短剣を遺物に当てたまま、ヴァレリウスと向き合っている。
三人が十分に離れたのを確認したのか、アルナトはようやく短剣を引き、遺物から離れる。
ヴァレリウスは反射的に遺物のもとへ駆け寄った。
フィアたちを追うより先に、大切なものが無事なのか、自分の目で確かめるために。
その姿を最後まで見る前に、シリウスがフィアの手を軽く引いた。
「フィア様、前を」
「うん」
フィアは振り返るのをやめ、木々の間へ向かって走る。
しばらくして、後ろから別の足音が近づいてきた。
身体が一瞬強張ったが、振り返る前にルカが言った。
「アルナトだ」
黒い髪が木々の間から見える。
アルナトは何事もなかったような顔で追いついてきた。
四人になった。
まだ逃げ切ったわけではないし、屋敷もすぐ後ろにある。
それでもフィアは、今度こそ自分たちが外へ出たのだと分かる。
濡れた山の道が、その先へ続いていた。




