82話 失いたくないもの 前編
少し休めば、身体は楽になると思っていた。
実際、横になってしばらくすると、頭の奥に残っていた重さは少しずつ薄れていった。
熱が戻ったわけでもなく、身体が動かないほど具合が悪いわけでもない。
ただ、眠れるほど落ち着いてもいなかった。
フィアは薄く目を開け、見慣れ始めた天井を眺めた。
クロウ家の屋敷に来てから使っている客室。
柔らかな寝台も、静かな部屋も、窓から見える庭も、最初はただありがたかった。
雨に打たれ、崩れた山道を越え、シリウスが怪我をして、ようやく辿り着いた安全な場所だった。
ゆっくり身体を起こす。
窓の外は薄暗く、夕食には少し早い。
ルカはアルナトに道のことを聞きに行ったままで、シリウスもその後呼び出された。
アルナトは、道を教えてくれなかったのだろうか。
部屋に一人でいると、余計なことばかり考えてしまう。
少し外へ出ようかと思った。
フィアは寝台から足を下ろし、床へ足をつけた。身体にはまだ少し重さが残っていたものの、さっきまでよりはずっと楽になっている。
立ち上がろうとした時、一瞬だけアルナトの姿が頭に浮かんだ。
黒い髪と灰色の目をした男。
助けられたこともある。
けれど、自分の意思を無視して連れ去られたこともある。
今日も、この屋敷のどこかにいる。
もし廊下で会ったらと思うと、胸の奥がわずかに強張った。
それでもフィアは座り直さなかった。
ここにいても、何も分からない。
ルカたちが戻るまで少しだけ歩き、それから部屋へ戻ればいい。
そう決めて上着を羽織ると、フィアは静かに扉を開けた。
廊下には誰もいなかった。
夕食の支度が始まっているのか、遠くから食器の触れ合う音が聞こえてくる。
窓の外にはまだ雨雲が残っていたが、雨そのものはほとんど止んでいた。
特に行き先を決めずにゆっくり歩いているうちに、気づけば以前ヴァレリウスに案内された蒐集室の近くまで来ていた。
扉は開いている。
中を覗くと人の姿はなかったので、フィアは少し迷ってから足を踏み入れた。
以前と変わらず、棚には古い本や小さな箱、用途の分からない道具が整然と並んでいた。
ひとつひとつが丁寧に扱われていることは、見れば分かる。
その中で、フィアの目が一冊の本に止まった。
濃紺の革で覆われた表紙に、金と銀の細い線が走っている。
描かれているのは月と星で、小さな星々を結ぶように銀線が伸び、ひとつの大きな星座を形作っていた。
角には金色の金具が取りつけられている。
前にも綺麗だと思った本だった。
フィアは少し離れたところで立ち止まり、触れることはせずに表紙を眺めた。
その国を旅した人物の記録だと、ヴァレリウスは説明していた。
街の様子や、そこで暮らしていた人々のこと。
祭りの日に何を食べたのか、どんな服を着ていたのか、子どもたちが何をして遊んでいたのかまで書かれているのだと。
もうなくなってしまった国と、その国とともに失われた言葉で残された本。
それを大切に保管しているヴァレリウスのことを、あの時は立派な人なのだと思った。
貴重なものを集め、大切に残していく。
失われてしまえば、二度と同じものは戻らないのだから、それを守ろうとすること自体は、今でも悪いことだとは思えない。
むしろ、大切なことなのだと思う。
ただ、人まで同じように考えるとは思っていなかった。
フィアは本の表紙を見つめながら、指先をわずかに握った。
ヴァレリウスが自分たちをどう見ているのか、まだ全部が分かったわけではない。
それでも、ここへ残ることを勧められるたびに、胸の奥には小さな違和感が積もっていた。
大切にすることと、本人が出ていきたいと言っているのに残そうとすることは、本当に同じなのだろうか。
考えても、うまく答えは出なかった。
「……表紙だけは綺麗な、つまらない本だ」
突然聞こえた声に、フィアの肩が跳ねた。
振り返ると、蒐集室の入口近くにアルナトが立っていた。
「……るな」
自然にその呼び名が口から溢れた。
アルナトがいつからいたのかは分からない。
黒い髪に灰色の目、自分よりずっと大きな身体を見た瞬間、フィアの身体は反射的に強張った。
「起きていて平気なのか」
けれど、アルナトはこちらへ近づいてこなかった。
入口の近くに立ったまま、フィアではなく濃紺の本を見ている。
そのことに少しだけ安堵してから、フィアの中に別の疑問が浮かんだ。
「……つまらないって、読んだことあるの?」
「ある」
答えは短かった。
フィアはもう一度本へ目を向ける。
「この言葉、今はほとんど読める人がいないって聞いた」
「そうだな」
「じゃあ、訳したものをここで読んだの?」
アルナトは面倒そうに本の方へ視線を向けた。
「あれを訳したのは俺だ」
フィアは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「……え?」
「ヴァレリウスに仕事として頼まれた」
アルナトが顎で本の横を示す。
そこには以前見た、翻訳された紙が置かれている。
フィアはそちらへ視線を移した。
整った文字だった。
一行ごとの間隔まで揃っていて読みやすく、几帳面に書かれている。
あの時、綺麗な字だと思ったことを覚えている。
「……あれ、るなが書いたの?」
「そう言っただろ」
「でも……」
思わず出かかった言葉を、フィアは途中で止めた。
アルナトの眉が少し動く。
「何だ」
「……なんでもない」
本当は、意外、と言いかけた。
目の前の男と、この几帳面な文字がすぐには結びつかなかった。
アルナトは以前、自分を簡単に抱え上げ、そのまま連れ去った。
こちらがどれほど怖がっていても、必要だと思えば強引に進む人だった。
そんな人が机に向かい、一枚ずつ紙を揃えながら、こんなに丁寧な字で古い本を訳していたのだと思うと、どうにも想像しにくかった。
フィアはもう一度、翻訳された紙を見る。
「本当に、つまらなかったの?」
「俺にはな」
「どんなことが書いてあるの?」
「聞いたんだろ」
「ヴァレリウスさんからは聞いたけど」
フィアは濃紺の本を見る。
「街のこととか、祭りのこととか。いろんな土地を旅した人の記録だって」
「その通りだ」
「じゃあ、面白そうだけど」
アルナトは少しだけ目を細めた。
「どこで何を食っただの、どこの街では何を着ていただの、子どもが何をして遊んでいただの。そんな話ばかりだ」
フィアは瞬きをした。
「……それが面白いんじゃないの?」
「どこがだ」
あまりにも迷いのない返事だったので、フィアは少し戸惑ったあと、ほんの少しだけ可笑しくなった。
笑うほどではなかった。
けれど、さっきまで胸に残っていた強張りが、少しだけ薄くなったのが分かった。
「もうない国なんでしょう?」
「そうだな」
「だったら、そこに住んでた人が何を食べてたとか、何をしてたとか、残っているのはいいと思う」
アルナトは何も言わなかった。
フィアは表紙に描かれた星を見つめる。
「もう同じ国には行けないから。本の中なら、そこにあったものを知ることができる」
しばらくして、アルナトが低く言った。
「土地自体が消えたわけじゃない。国がなくなっただけだ。街も残ってるところはある」
フィアは顔を上げた。
「行ったことあるの?」
「ある」
短い答えだった。
けれど、その一言で、フィアの中に別の興味が生まれた。
この本に書かれていた国にも行ったことがある。それだけではなく、この人はきっともっといろいろな土地を知っている。
「……いろんな国に行ったことがあるの?」
「ある」
「仕事で?」
「大体はな」
翻訳された紙を見せられた時、フィアはこれを書いた人物のことを少しだけ想像していた。
失われた言葉を知っていて、いろいろな土地を歩き、たくさんの国を見てきた人。
そういう人が、この几帳面な字を書いたのだと思っていた。
その生き方が羨ましいとも思った。
それがアルナトだった。
どうしても、まだうまく結びつかない。
「この言葉も、旅をして覚えたの?」
「違う」
「じゃあ、どうして読めるの?」
アルナトは一瞬だけ黙ったあと、
「昔、習った」
とだけ答えた。
それ以上話す気はないのだと分かる言い方だったので、フィアも続けては聞かなかった。
しばらく静かな時間が流れた。
アルナトと二人きりだということを忘れたわけではない。
近づかれれば、きっとまだ怖いし、急に腕を掴まれれば身体が動かなくなるかもしれない。
されたことが消えるわけではなく、怖かった記憶もそのまま残っている。
それでも、目の前の男が自分の知っている一つの形だけではなくなったような気がした。
助けられたことがある。
怖いことをされたこともある。
古い言葉を読むことができ、いろいろな国を歩き、意外なくらい几帳面な字を書く。
それらが全部、同じ一人の中にある。
怖くなくなったわけではない。
ただ、怖いだけの人でもないのだと思った。
「……フィア様!」
聞き慣れた声に振り返ると、シリウスが蒐集室の入口に立っていた。
その少し後ろにはルカもいる。
シリウスの表情は明らかに硬く、ここまで普段より速い足取りで来たのだろう。
呼吸もわずかに深かった。
そしてフィアと同じ部屋にアルナトがいるのを見た瞬間、青い目が鋭くなる。
「シリウス」
「お身体は大丈夫ですか」
アルナトのことではなく、最初に聞かれたのはそれだった。
フィアは頷く。
「うん。少し楽になったから、歩いてたの」
「そうですか」
ほんの少しだけ、シリウスの肩から力が抜けたように見えた。
「部屋に戻ったらいらっしゃらなかったので」
責めるような言い方ではなかったが、探していたことは十分に伝わった。
「ごめん。少しだけ歩こうと思って」
「いえ。貴女が無事ならば、それで」
そこでルカが、シリウスの後ろから顔を出した。
「シリウス、すごい顔して探してたよ」
「余計なことを言うな」
「本当じゃない」
フィアはシリウスを見る。
本人は明らかにその話を続けたくなさそうだった。
ただ、フィアのそばにいるアルナトへの警戒までは解けていない。
「……本の話をしてただけ」
そう言ってから、フィアはアルナトを見る。
「この本を訳したんだって聞いたの」
ルカが一度だけ瞬きをした。
「へえ」
それからそばにあった翻訳された紙を見て口を開く。
「この字、君が書いたんだ」
「何か文句があるのか」
「いや。意外と綺麗だなって」
「だからなんだ」
そのやりとりにフィアは少し目を見開いた。
シリウスだけは笑わなかった。
アルナトとフィアの間にある距離を確かめるように一度見てから声をかける。
「フィア様。そろそろお部屋へ戻りましょう」
「うん」
フィアも逆らわなかった。
アルナトはもう用がないとでもいうようにそこを立ち去ろうとした。
「君はどこにいくの?」
「お前に関係あるか」
「一応、明日のこともあるから」
アルナトは少しだけ振り返る。
「必要なら呼べ、この屋敷の中にはいる」
それだけ言うと、先に蒐集室を出ていった。
シリウスの視線は、その背中をしばらく追っていた。
部屋へ戻ると、ルカが扉を閉めた。
フィアは寝台の端へ座り、シリウスはその近くにある椅子へ腰を下ろした。
その動きの途中で肩がわずかに固くなったのを見て、フィアは眉を寄せる。
「シリウス、腕は」
「問題ありません」
いつもの返事だった。
さっき急いで探したせいかもしれないと思ったが、それ以上言ってもきっと同じ答えしか返ってこない。
フィアが黙ると、ルカが机の上へ折り畳まれた紙を広げた。
屋敷の周辺と、その先の山道が簡単に描かれた地図だった。
「約束してたからね。決まったら教えるって」
フィアは地図へ目を落とす。
「……決まったの?」
「まだ全部じゃないよ。天気と護衛の動きは明日見てから変えることになるけど、ここを出る方法自体はある」
フィアは思わず顔を上げた。
「本当に?」
「うん」
ルカは軽く笑う。
「アルナトに頼んだ」
「……え?」
思ったより大きな声が出た。
ルカはそれを気にする様子もなく頷く。
「報酬を払って、道案内と護衛を頼んだ。山を抜けるところまで」
フィアはすぐには返事ができなかった。
さっきまで話していたアルナトの顔が浮かぶ。
本を訳したことも、古い言葉を読めることも、いろいろな国へ行ったことも知った。
だからといって、怖かった記憶が消えたわけではない。
「……信用していいの?」
ルカは少し考えるように首を傾ける。
「信用じゃなくて、契約かな」
「契約?」
「僕はあいつを信用してないし、向こうも僕を信用してない。でも、何を頼んで、いくら払うかは決めた。少なくとも、その約束については信頼できる」
フィアには少し不思議な言い方に聞こえた。
信用していないのに、信頼できる。
「あの人も、それでいいって?」
「むしろその方がいいみたい」
ルカは苦笑した。
「道を教えるだけならこの値段。護衛まで必要なら別料金、って」
フィアは少しだけ目を丸くした。
いかにもアルナトらしいような気もするし、そうでもないような気もする。
まだ、よく分からない人だった。
それでも、さっきまでなら「アルナトが協力する」と聞いただけで、もっと強く怖がっていたかもしれない。
今は不安ではあるものの、何の理由もなく自分たちについてくるのではなく、ルカと仕事として約束したのだと思う方が少しだけ受け入れやすかった。
「道は?」
フィアが聞くと、ルカは地図の何か所かを指でなぞった。
「いくつかある。でも、今日の雨でどこが使えるかは明日にならないと分からない」
「あの人はこの辺りに詳しいの?」
「この辺りは仕事で何度も通ってるらしいよ。古い道も知ってる」
そこでシリウスが静かに続ける。
「ただし、どの道も安全とは限りません。屋敷を出ることができても、護衛が追ってくる可能性がありますし、山道も今の天候では何が起こるか分からない」
フィアの胸が少し強張った。
道が崩れた時の音を思い出す。
シリウスが自分を庇った時のことも。
怖くないわけではなかった。
それでも、自分の中にある答えは変わらなかった。
「……出たい」
言葉にすると、思っていたよりもはっきりした声になった。
シリウスとルカがフィアを見る。
「怖いけど、それでもここから出たい」
少しの沈黙のあと、シリウスが頷いた。
「分かりました」
その返事は、以前とは違っていた。
安全だから残るべきだとも、もう少し考えるべきだとも言わなかった。
ただ、フィアが言ったことをそのまま受け取ってくれた。
それだけで、胸の奥にあったものが少し軽くなる。
「ですが、一つだけ」
シリウスの声が少し低くなる。
「何があっても、私から離れないでください」
フィアはシリウスを見る。
まだ完全には治っていない腕で、それでも自分のそばにいると決めている人。
「分かった」
しっかりと頷く。
それを確認してから、ルカは地図を折り畳んだ。
「じゃあ、今夜はできるだけ休もう。明日の朝、天気と護衛を見て決める。無理そうなら一日ずらすし、行けそうならそのまま動く」
フィアはもう一度頷いた。
その横で、シリウスが静かに言う。
「必ず、ここを出ます」
窓の外は、いつの間にかほとんど夜になっていた。
同じ屋敷の中で、同じ部屋へ戻ってきただけで、危険がなくなったわけでもない。
それでも、フィアの胸の中には先ほどまでとは違うものが残っていた。
ここを出る。
怖さが消えたわけではない。
けれど今夜は、その言葉を自分の中から消さずに眠ろうと思った。




