81-1話 (分岐バッドエンド)
※この先は分岐となります。
物語の本筋を追う場合は、82話へ。
少し休めば、身体は楽になると思っていた。
実際、横になってしばらくすると、頭の奥に残っていた重さは少しずつ薄れていった。
熱が戻ったわけでもなく、身体が動かないほど具合が悪いわけでもない。
ただ、眠れるほど落ち着いてもいなかった。
フィアは薄く目を開け、見慣れ始めた天井を眺めた。
クロウ家の屋敷に来てから使っている客室。
柔らかな寝台も、静かな部屋も、窓から見える庭も、最初はただありがたかった。
雨に打たれ、崩れた山道を越え、シリウスが怪我をして、ようやく辿り着いた安全な場所だった。
ゆっくり身体を起こす。
窓の外は薄暗く、夕食には少し早い。
ルカはアルナトに道のことを聞きに行ったままで、シリウスもその後呼び出された。
アルナトは、道を教えてくれなかったのだろうか。
部屋に一人でいると、余計なことばかり考えてしまう。
少し外へ出ようかと思った。
廊下を歩くくらいなら問題ない。
庭までは無理でも、使用人に道路のことを聞くくらいはできる。
フィアは寝台から足を下ろし、床に足をつけた。けれど立ち上がろうとしたところで、まだ身体に重さが残っていることに気づいた。
動けないほどではないが、無理をしてまで出るほどでもない。
その時、頭の中に黒い髪と灰色の目が浮かんだ。
談話室の扉の向こうに立っていたアルナト。
――また、私を。
そう思った瞬間の、胸が強く縮むような感覚まで一緒に戻ってくる。
アルナトは自分を追ってここへ来たわけではない。
ヴァレリウスに呼ばれただけだと言っていた。
それは分かっている。
それでも、もし廊下で会ったら。
もし一人の時に会ったら。
そう考えた途端、立ち上がろうとしていた力が抜けた。
今日はもういい。
明日になれば、もっと身体も楽になるかもしれない。
ルカたちが外のことを調べてくれているのだから、自分まで動く必要はない。
そう思って、フィアはもう一度寝台へ座り直した。
静かな部屋だった。
静かすぎて、考えないようにしようとするほど、次から次へと色々なことが浮かんできた。
ヴァレリウスは、自分たちをここに残したがっている。
教会らしい馬車は近くまで来ていたし、主要な山道もまだ完全には直っていない。
そしてシリウスは、まだ怪我をしている。
アルナトを見た瞬間のことを思い出す。
あの腕で、それでもシリウスは迷わず自分の前へ立った。
剣に手を添えた時、肩がほんの少し固くなっていたのを、フィアは見ていた。
山道でも同じだった。
土砂が崩れた時、シリウスは自分を庇い、そのせいで怪我をした。
もし、あの時自分がいなかったら。
何度も考えたことだった。
考えてはいけないと思っても、消えなかった。
今回もそうなのかもしれない。
自分がここを出たいと言ったから、また危険なことになる。
外へ出れば教会に見つかるかもしれないし、また別の誰かに追われるかもしれない。
自分をどこかへ連れていこうとする人間が、また現れるかもしれない。
そのたびに、シリウスは自分の前へ立つ。
今度こそ、本当に取り返しのつかない怪我をするかもしれない。
ルカだって同じだった。
いつも道を探してくれた。
宿を探し、馬車を探し、追手の目を避けられる道を考え、知らない街でも何でもないような顔をして交渉してくれた。
けれど、本当に何でもないはずがない。
自分がいなければ、ルカがそこまでする必要もなかった。
今もきっと、自分をここから連れ出すために、何か方法を探している。
ルカとシリウスはなかなか戻ってこなかった。
アルナトに道を聞きに行っただけなら、もう戻ってきてもいい頃だった。
もしかすると、何か話がこじれているのかもしれない。
アルナトがルカとシリウスに協力するなど、フィアには考えもつかなかった。
特にシリウスと顔を合わせれば、余計に話が面倒になっているのではないかとさえ思った。
フィアは膝の上で手を握った。
自分が出たいと言わなければ、それだけでいいのではないか。
ここにいれば、シリウスは戦わなくていい。
ルカも危険な道を探さなくていい。
ヴァレリウスも、自分たちを止める必要がなくなる。
護衛も警戒を解くかもしれない。
誰も追いかけなくていい。
誰も怪我をしなくていい。
フィアは窓の方を見る。
ここは、泣きたくなるほどに安全だった。
少なくとも、今までいたどの場所よりも。
ヴァレリウスは怖いことをしない。
使用人たちも優しい。
食事もあり、暖かい部屋もある。
教会だって勝手には入ってこられない。
だったら、ここにいることの何がいけないのだろう。
そう考えた途端、胸の奥に小さな声が浮かんだ。
出たい。
ここにずっといるのは違う。
それは、今も変わっていなかった。
知らない街へ行ってみたい。
あの古い本に書かれていたように、名前も知らない土地を歩いてみたい。
国境の向こうも見てみたい。
自分で行く場所を決めたい。
けれど、そのために誰かが傷つくなら。
シリウスがまた血を流し、ルカが危険な道を探し続けることになるなら。
それでも自分は行きたいと言っていいのだろうか
フィアには、分からなくなっていた。
その時、扉を叩く音がした。
顔を上げる。
「はい」
「フィアさん。私です」
ヴァレリウスだった。
身体がわずかに強張る。
「少し、お話ししてもよろしいでしょうか」
フィアは少し迷ってから、
「……はい」
と答える。
扉が開き、ヴァレリウスが一人で姿を見せる。
部屋の中へ一歩入ったあと、彼は開いた扉を振り返った。
「女性のお部屋ですからね。扉はこのままにしておきましょう」
廊下から部屋の中が少し見える。
人が通れば、声も聞こえるだろう。
フィアを警戒させないためなのだと分かった。
ヴァレリウスは寝台から少し離れた椅子へ腰を下ろした。
「先ほどは、少し話が急でしたね」
フィアは黙って彼を見る。
「貴女ご自身のお考えを、もう一度聞かせていただけませんか」
「……私の?」
「ええ。ここへ残るか、それとも外へ出るか」
ヴァレリウスは穏やかだった。
「私は、貴女を無理に閉じ込めたいわけではありません。ただ、危険だと分かっている場所へ出ていくことが、本当に貴女のためになるのか。それが分からないのです」
フィアは何も言えなかった。
「少なくとも、ここにいる限り、無用な危険に晒されることはありません」
それだけだった。
シリウスのことも、ルカのことも、ヴァレリウスは何も言っていない。
それでもフィアの頭には二人の姿が浮かんだ。
怪我をした腕で、それでも自分の前へ立ったシリウス。
何度も道を探し、何でもないように笑っていたルカ。
自分がここにいれば、二人とももう危険なことをしなくていい。
そう思ってしまう。
窓の外では、重い雲の向こうからわずかに夕方の光が差していた。
フィアは長い間、何も言わなかった。
本当は出たい。
その言葉は、まだ胸の中にあった。
けれど、フィアはそれを飲み込んだ。
「……やっぱり、ここにいる」
言ってしまうと、胸の奥が少し痛んだ。
ヴァレリウスはフィアを見た。
「ここにいたい」とは言っていない。
その違いに気づいたのかもしれない。
けれど、彼はそれを問題にはしなかった。
満足そうに、静かに微笑んだ。
「やっと分かっていただけましたか」
その言葉を聞いた瞬間、フィアは少しだけ安心した。
これでシリウスは怪我をしない。
ルカも危険なことをしなくていい。
もう誰も、自分のために無理をしなくていい。
そう思えば、胸の痛みも我慢できる気がした。
シリウスへ伝えたのは、その日の夜だった。
フィアの部屋へ来たシリウスは、いつものように寝台から少し離れたところに立っていた。
「シリウス」
「はい」
「私、ここにいることにした」
その言葉を聞いた瞬間、シリウスの表情が止まった。
ほんのわずかな変化だった。
「……そう、決められたのですか」
「うん」
シリウスはしばらく黙っていた。
フィアがここに残りたいのではないことくらい、分かっていた。
今日、ヴァレリウスの前で「ここを出たい」と言ったばかりだった。
それほど簡単に考えが変わるなら、あの時あんな顔で自分の返事を待ちはしなかっただろう。
それでもシリウスは尋ねた。
「本当に、それでよろしいのですか」
フィアは頷く。
「うん。シリウスも、もう怪我しなくていいから」
その一言で、シリウスは目を伏せた。
やはり、と思った。
フィアが残る理由の中に、自分がいる。
崩落の時に庇ったことも、今も満足に剣を振るえないことも、フィアは全部見ていた。
守ったつもりだった。
それが今は、彼女をここへ留める理由になっている。
胸の奥に冷たいものが沈んだ。
「……駄目?」
フィアの声に、シリウスは顔を上げた。
「いいえ」
否定はできなかった。
ここで「それは違います」と言えば、また自分がフィアの代わりに答えを決めることになる。
本人のためだと言って、自分の判断を優先しかけたばかりだった。
だからこそ、浮かんだ言葉をすべて飲み込んだ。
「フィア様がお決めになったことです。私は、それに従います」
フィアはほっとしたように笑った。
その顔を見て、シリウスはさらに苦しくなった。
自分なら分かってくれる。
そう信じて安心した顔だった。
本当は分かっていた。
分かっているからこそ、何も言えなかった。
その夜、シリウスはフィアが眠るまで部屋の中にいた。
眠ったあとも、しばらく離れられなかった。
窓の外を見ることだけはできなかった。
翌日、アルナトもフィアの前へ来た。
ヴァレリウスと一緒ではなかった。
シリウスとルカも近くにいる。
アルナトは少し離れた場所からフィアを見た。
「聞いた」
フィアにはすぐ何のことか分かった。
アルナトはわずかに目を細める。
「お前が、本当に自分で残ると決めたのか」
フィアの胸がざわついた。
本当に自分で。
その言葉が少しだけ痛かった。
けれど、ここにいると決めたのは自分だ。
「……うん」
アルナトはしばらくフィアを見ていた。
何か引っかかっているようにも見えたが、結局、
「そうか」
とだけ言い、それ以上は聞かなかった。
少し後、ルカがアルナトを追うように廊下へ出た。
「待って」
アルナトが振り返る。
「何だ」
「昨日の話。フィアが残るって言ったからって、それで終わり?」
「終わりだろ」
「どう見ても本心じゃない」
アルナトの眉がわずかに動いた。
「本人がそう言った」
「でも」
「出る気がない奴を無理に連れ出す仕事は請けない」
「……君がそれ言うんだ」
ルカの声には苛立ちが滲んでいた。
アルナトは否定しなかった。
「本人が決めたなら、それで終わりだ」
そして、その日のうちに屋敷を出ていった。
フィアは知らなかった。
前日、ルカがアルナトに報酬を払って道案内を頼み、アルナトもそれを請けていたことを。
必要なら、屋敷の護衛を相手にすることまで引き受けるつもりだったことを。
ここを出る方法が、本当はすでに生まれていたことを。
フィアは最後まで知らなかった。
ルカがフィアと二人になったのは、その日の夕方だった。
部屋の窓から薄い夕日が差していた。
ルカは椅子にも座らず、窓際にいるフィアを見ていた。
「フィア」
「うん」
「本当は、君がここにいたいんじゃないよね?」
フィアは答えなかった。
ルカも急かさなかった。
責められているわけではない。
それが余計に答えづらかった。
やがてフィアは小さく言った。
「……うん」
ルカの表情が固くなる。
「そうなんだ」
「うん」
「じゃあ、なんで」
フィアは窓の外へ視線を向けた。
「二人が安全なら、ここにいるのを選ぶ」
「二人?」
「シリウスは、もう怪我しなくていいし。ルカも危ない道を探さなくていい」
ルカの目が少し見開かれた。
「僕も?」
「うん」
「僕のためにも残るの?」
「……そうだよ」
ルカは俯き、言葉を選ぶようにしばらく考えた。
「……それ、僕は嬉しくないよ」
押し殺したような言葉に、フィアは答えられなかった。
「僕は、それを君が望んだことだとは思わない」
「でも、私が決めたよ」
ルカは長く黙ったあと、
「……そうだね」
と返した。
それ以上は、何も言わなかった。
翌朝、ルカはシリウスにも聞いた。
「本当に残るの?」
シリウスは少し黙ってから口を開いた。
「フィア様がお決めになったことだ」
「それが本心じゃなくても?」
その言葉は、昨夜からシリウス自身が何度も考えていたことだった。
本人が決めたことなら、どんな理由でも受け入れるべきなのか。
自分のために願いを諦めようとしていることが分かっていても。
「……私が決めることではない」
ルカが苛立ったように息を吐く。
「分かってる。でも、それでいいの?」
シリウスは答えられなかった。
よくない。
そう思っている。
けれど、「よくないから連れ出す」と決めれば、結局またフィアの代わりに答えを出すことになる。
だから黙った。
ルカが屋敷を出たのは、それから数日後だった。
ヴァレリウスは何も追い立てなかった。
ただ食事の席で、フィアはこちらへ残ると決め、シリウスもそのそばにいるのだから、ルカまでいつまでも留まる必要はないだろうと穏やかに言った。
ルカはしばらくヴァレリウスを見たあと、
「……そうだね」
とだけ答えた。
出発の日、ルカはフィアに「また来る」と言った。
「うん」
「手紙も書く」
「うん」
「……本当に、また来るからね」
「分かってる」
ルカは最後まで何か言いたそうだったが、結局言わなかった。
門は普通に開き、誰もルカを止めなかった。
馬車が屋敷を離れていく。
フィアはシリウスと並んで、それを見送った。
馬車が見えなくなったあとも、フィアはしばらく道を見ていた。
シリウスはそれに気づいていたが、声はかけられなかった。
何を言えばいいのか、分からなかったからだ。
それから長雨の季節が終わり、山道も直った。
最初は人だけが通れるようになった道を、やがて馬車も行き来するようになった。
使用人たちは以前と同じように優しく、ヴァレリウスも変わらなかった。フィアもシリウスも、表向きはずっと客人のままだった。
誰も部屋に鍵をかけない。
庭へ出たいと言えば出られるし、屋敷の中ならどこへ行ってもよかった。
外へ出る時には、いつの頃からか護衛が一人つくようになった。
「念のためです」
そう説明され、フィアは断らなかった。
危険があるなら、その方がいい。
そう思った。
時折、ルカから手紙が届いた。
ヴァレリウスは隠さなかったし、封も切られていなかった。
元気か。
体調はどうか。
シリウスの腕は治ったか。
道はもう完全に通れるようになった。
何かあれば、いつでも言ってほしい。
フィアは何度も読み返してから返事を書いた。
元気だよ。
シリウスの腕も治った。
みんな優しくしてくれる。
大丈夫。
最後に、心配しないで。
と書いた。
シリウスの怪我は、すっかり治っていた。
剣も以前と同じように振れる。
ヴァレリウスはそれを喜んだ。
「やはり、守護騎士はそうでなくては」
シリウスは答えなかった。
腕が治れば、何か変わるかもしれないとどこかで思っていた。
少なくとも、自分が怪我人であることを理由にフィアがここへ残る必要はなくなる。
けれど、フィアは何も言わなかった。
道が直った時も、シリウスの腕が治った時も、「もう出ても大丈夫だね」とは言わなかった。
シリウスも聞かなかった。
何度も言いかけた。
けれど、そのたびに自分の願望をフィアへ押しつけているような気がして、言葉にできなかった。
だから待った。
フィア本人が、もう一度「出たい」と言うのを。
けれど、その言葉は来なかった。
いつの間にか使用人たちは、シリウスをフィアの専属護衛のように扱うようになっていた。
ヴァレリウスが明確に命じたわけではない。
シリウス自身がいつもフィアのそばにいるから、自然とそうなった。
フィアが庭へ出れば同行し、蒐集室へ行けば少し後ろに立つ。食事の時も近くにいる。
以前と同じだった。
以前と同じはずなのに、シリウスには少しずつ違って見えるようになっていた。
旅をしていた頃、自分がフィアの後ろに立つのは、彼女が次の場所へ進むためだった。
今は、どこにも行かないフィアのそばに立ち続けている。
ヴァレリウスが時折、二人を満足そうに眺めていることにも気づいていた。
その視線の意味を考えるたび、シリウスは自分まで屋敷の一部になっていくような感覚を覚えた。
ルカは本当にまた来た。
数か月経った頃だった。
ヴァレリウスは普通に屋敷へ通し、フィアとも会わせた。
久しぶりに見たルカは、少し疲れているように見えた。
「久しぶり」
「うん」
フィアは笑った。
「元気だった?」
「僕はね」
ルカはフィアを見る。
「フィアは?」
「元気だよ」
「……まだ、ここにいるんだ」
フィアは少しだけ首を傾けた。
「うん」
「そっか」
「大丈夫だよ」
ルカは何も言わなかった。
その視線が痛くて、フィアはもう一度笑った。
「本当に、大丈夫だから」
「……うん」
ルカはそれ以上聞かなかった。
シリウスは少し離れたところから、その会話を聞いていた。
大丈夫。
フィアは最近、その言葉をよく使う。
ルカへの手紙にも書いていた。使用人に体調を聞かれた時も、シリウスが少し長く顔を見てしまった時も。
「大丈夫」
その言葉を聞くたび、シリウスは何も言えなくなった。
本当に大丈夫なのかと聞けば、またフィアに答えさせることになる。
だから聞かない。
その代わりに、何もできないまま見ていた。
旅に使っていた荷物は、まだ残っていた。
鞄も、外套も、簡単な道具も、誰も捨ててはいない。
使用人が丁寧に手入れしてくれている。
ただ、使われなくなった。
最初の頃、フィアは時々鞄を見ていた。
道が安全になったら。
もう少し身体が戻ったら。
シリウスの腕が治ったら。
また使うつもりなのだろうと、シリウスも思っていた。
けれど、道は直った。
フィアの体調も戻った。
自分の腕も治った。
それでも鞄は閉じられたままで、やがてフィアはそれを見ることさえ少なくなった。
ある日、フィアは、自分が最後に「ここを出よう」と考えたのがいつだったのか思い出せないことに気づいた。
以前なら、窓から街道を走る馬車を見るたびに羨ましいと思っていた。
どこへ行くんだろう。
自分も行ってみたい、そう思っていた。
今は、ただ馬車を目で追いながら、どこへ行くんだろう、と考えるだけだった。
しばらくしてから、遅れて思い出す。
そういえば、自分も少し前までは、ああして旅をしていた。
シリウスとルカと、雨の中を歩いた。
知らない宿に泊まり、道端で休み、知らない場所へ行くことを怖いと思いながら、それでも少し楽しみにしていた。
まだ数か月しか経っていないのに、ずっと昔のことのようだった。
シリウスは、その変化にもっと前から気づいていた。
何度も言いかけた。
フィア様。
もし、今でも出たいとお思いなら。
けれど、いつもそこで止めた。
一度確認した答えを、気に入らないから聞き直すようなことはしたくなかった。
そして何より、「もういいの」と返されるのが怖かった。
自分が守ろうとした結果、フィアが外へ出たいと思うことさえやめてしまったのだと、はっきり分かってしまうのが怖かった。
その日は晴れた日だった。
長雨の季節は、とうに終わっていた。
山の緑は明るく、空には薄い雲が少しあるだけだった。
フィアは部屋の窓辺に立っていた。
窓は開いている。
風が白金色の髪を揺らす。
街道を、一台の馬車が通っていく。
荷物を積んだ普通の馬車で、その後ろを何人かの旅人が楽しそうに話しながら歩いていた。
フィアはそれを目で追った。
どこへ行くんだろう。
それだけを思った。
すぐ近くにシリウスがいた。
手を伸ばせば届く距離。
以前なら、それだけでフィアは安心した。
今も、きっと安心している。
シリウスはその横顔を見ていた。
旅人を追う視線に、もう焦がれるような色はない。
それが、何より苦しかった。
道が直った。
腕も治った。
ルカも戻ってきた。
それでも、フィアは一度も「出たい」と言わなかった。
フィアを抱えて門の外へ連れ出すことならできる。
今の腕なら、護衛を突破することだってできるかもしれない。
けれど、それをすれば、また同じことになる。
自分が正しいと思う場所へフィアを連れていき、本人の言葉より自分の判断を優先する。
そのことだけは、もうしたくなかった。
だから、そばにいる。
それしかできない。
守るという名目で、何も変えられないまま。
開いた扉の近くには、ヴァレリウスがいた。
窓辺のフィアと、そのすぐそばに立つ銀の騎士を静かに眺めている。
聖女と、その聖女を守るためにすべてを捨てた守護騎士。
どちらも傷ついていない。
どちらも失われていない。
二人とも、ここにいる。
ヴァレリウスは満足そうに目を細めた。
「ここなら、もう何も心配はいりません」
誰に聞かせるでもないような、静かな声だった。
フィアは窓の外を見たまま、
「……うん」
と答えた。
その返事を聞いた瞬間、シリウスは目を伏せた。
確かに、フィアはもう追われていない。
傷つけられてもいない。
怯えて眠れない夜もなく、自分ももう怪我をしていない。
望んでいたはずのことは、すべて揃っていた。
それなのに、これが正しかったとはどうしても思えなかった。
けれど、その言葉さえフィアには言えなかった。
門は開いていた。
道も続いていた。
誰も、フィアを止めてはいなかった。
そしてシリウスもまた、彼女を連れ出さなかった。
bad end.
安全な場所




