81話 同じ目的 後編
アルナトはそのまま帰るつもりだったらしい。
けれど、以前から頼まれていた別の仕事について確認したいことがあるとヴァレリウスに引き止められ、屋敷に残っていた。
その間、フィアは部屋で少し休んだ。
横になったのは短い間だけだったが、目を閉じているうちに身体の重さは少し引いた。
夕食前になると、ルカが道路の様子を聞きに行くと言い、フィアも一緒に部屋を出た。
廊下では、この数日によく世話をしてくれている使用人と出会った。
「少しはお加減、よくなりましたか?」
「うん。ありがとう」
「よかったです」
使用人は本当に安心したように笑った。
「道の方も、かなり進んでいるようですよ。雨さえ強くならなければ、もう少しで歩きでなら通れるようになるそうです」
ルカが尋ねる。
「明日か明後日くらい?」
「そこまでは私も聞いてませんね。ですが、もう長くはかからないと思います」
使用人はフィアへ向き直る。
「もう少しで出発できますね」
フィアは一瞬、返事が遅れた。
「……うん」
その人は何も知らない。
ヴァレリウスが自分たちをここへ残そうとしていることも。
聖女だと知られていることも。
いつもと変わらず、ただ長雨で足止めされている客人だと思っている。
そのことが少しだけ不思議だった。
そこへ、廊下の向こうから足音が聞こえる。
ヴァレリウスだった。
その隣にはアルナトがいる。
フィアの身体が一瞬だけ固くなる。
けれど、さっきほどではなかった。
ヴァレリウスは使用人へ、
「少し客人と話したいので」
と告げると使用人は軽く頭を下げ、そのまま去っていく。
シリウスもフィアのそばへ来ていた。
四人とヴァレリウス。
廊下で立ったまま話すには人数が多く、近くの小さな応接室へ移ることになった。
フィアが椅子へ座る。
シリウスはそのすぐそば。
ルカは向かい側。
アルナトは少し離れた壁際に立ったままだった。
ヴァレリウスはゆっくりと腰掛ける。
「先ほどのお話ですが」
フィアは身構える。
「私はやはり、皆さんがここにいる方がよいと思っています」
「……でも」
「不安になるお気持ちは分かります」
ヴァレリウスは穏やかだった。
「ですが、いずれここが一番よいと分かりますよ」
その言葉に、フィアは少し息を詰めた。
いずれ。
今は分かっていないだけ。
自分の考えが変わることを、最初から決まっているように言われる。
返事をしようとした時だった。
壁際にいたアルナトが、不意に声を出した。
「お前は」
フィアが顔を上げる。
灰色の目がまっすぐこちらを見ていた。
フィアはわずかに身体を固くする。
アルナトが自分からフィアへ話しかけたのは、今日初めてだった。
「ここにいたいのか」
それだけだった。
フィアは答えようとした。
けれど、声がすぐには出なかった。
代わりに、静かに首を横に振る。
一度。
はっきりと。
アルナトはそれを見た。
それ以上、何も聞かない。
フィアの答えを疑うことも、理由を尋ねることもなかった。
ただヴァレリウスへ目を向ける。
「……それならやはり、俺は先ほどの話を請けるつもりはない」
「そうですか」
ヴァレリウスは特に怒らず、ただ少し残念そうに見えた。
ヴァレリウスにアルナトが何かを頼まれていたことを三人は察するが言葉には出さない。
そしてヴァレリウスは視線をシリウスへ移す。
フィアもつられるように横を見た。
シリウスは何も言わず、アルナトを見ていた。
その表情がわずかに変わる。
アルナトの言葉そのものではなかった。
質問だった。
お前はここにいたいのか。
ただ、それだけ。
聞けばよかった、聞くべきだった。
本人に。
それだけのことだった。
シリウスの脳裏に、先日のフィアの言葉が戻る。
――ここにずっといるつもりはありません。
そう言ったフィアが、自分を見た。
あの時。
自分は答えられなかった。
ここなら安全だ。
ここならフィアを守れる。
今の自分の腕で外へ出れば、もし何かあった時に守りきれないかもしれない。
そればかりを考えていた。
本人のためだと思っていた。
けれど結局は、本人のためという言葉の中で、自分の判断をフィアの意思より優先しようとしていただけだった。
一度はフィアを無理に連れ去ったアルナトですら、今は本人に聞いた。
フィアが首を横に振れば、それで終わりにした。
その事実が、鋭く刺さる。
シリウスの表情が歪むほどではなかった。
けれど、その目に浮かんだものをフィアは見た。
何かが変わった。
そう思った。
シリウスがフィアの方へ向き直る。
「フィア様」
「……うん」
「ここを出たいという考えは、変わりませんか」
フィアは一瞬、目を見開いた。
同じことを聞かれている。
シリウスに聞かれた今は。
胸の奥に張っていたものが、少しだけ緩んだ。
「……変わらない」
今度は言葉で答えた。
シリウスは静かに頷く。
「分かりました」
一度息をついてから続けた。
「道が通り次第、ここを出ましょう」
胸の奥が、少し軽くなる。
同じ答えになったからではない。
シリウスが、自分に聞いてくれた。
それが嬉しかった。
ルカも何も言わず、小さく息を吐いた。
「それは困りましたね」
ヴァレリウスの声がした。
フィアはそちらを見る。
ヴァレリウスはシリウスを見ていた。
怒ってはいない。
むしろ本当に困ったような顔だった。
「危険だと分かっている方々を、そのまま外へ出すわけにはいきません」
シリウスはヴァレリウスの視線を受け止める。
「それでも、出ます」
静かな声だった。
迷いはなかった。
ヴァレリウスはしばらくシリウスを見つめ、それから、
「そうですか」
とだけ答えた。
その場では、それ以上何も起きなかった。
変化に最初に気づいたのはルカだった。
夕食のあと、外の様子を見てくると言って部屋を出ていき、しばらくして戻ってきた時には表情が少し違っていた。
「増えてる」
フィアが顔を上げる。
「何が?」
「護衛」
ルカは扉を閉めてから声を落とした。
「門のところに二人。今まであそこには常に立ってなかったよね」
シリウスの表情が硬くなる。
「裏手は?」
「一人見えた。たぶん、ほかにもいる」
フィアの胸がざわつく。
「……私たちを?」
「たぶん」
ルカは短く答える。
新しい兵が突然来たわけではない。
以前から屋敷にいた護衛が、配置を変えただけだった。
普通に見れば、ただ警備を少し増やしたようにしか見えない。
だから使用人たちも気にしていないのかもしれない。
「少し外に出ていいか聞いたら、『旦那様の許可が必要です』って止められたよ」
昼間に「もう少しで出発できますね」、とそう笑っていた使用人を思い出す。
きっと、あの人たちは本当に何も知らない。
フィアは膝の上で手を握った。
自分が出たいと言ったから。
また皆を危険なことに巻き込んでいる。
その考えは、どうしても浮かんだ。
ここに残ると言えばいい。
そうすれば。
シリウスも怪我をしたまま無理をしなくていい。
ルカも危険なことをしなくていい。
けれど。
フィアは目を伏せた。
それでも、ここには残りたくない。
そう思ってしまう。
以前なら、その気持ちの方を引っ込めようとしたかもしれない。
だけど、今はできなかった。
「普通に門から出るのは難しそうだね」
ルカの言葉にシリウスが頷く。
「今夜急いで動くのは危険だ」
「僕もそう思う。暗いし、フィアの体調もある。明日の朝まで待とう」
フィアは少しだけ迷ってから頷いた。
その時、ルカが何かを思い出したように目を細めた。
「そういえば」
「どうした」
「アルナトのこと」
シリウスの眉間に皺が寄る。
ルカはそれを見ても構わず続けた。
「道、まだ塞がってるよね」
フィアも気づいた。
主要な山道は通れない。
だから自分たちはここに留まっている。
なのにアルナトは今日、この屋敷へ来た。
「……どうやって来たんだろうね」
ルカが立ち上がる。
「聞いてくる」
「一人でか」
「その方が話が早いでしょ。少なくともあの人、今はこの屋敷の訪問者で僕たちと同じ立場だし」
シリウスは明らかに不満そうだったが、止めなかった。
アルナトは屋敷の裏手近くにいた。
帰る前に、依頼品を置いてある倉庫を確認するつもりだったらしい。
ルカが見つけると、アルナトは露骨に面倒そうな顔をした。
「ねえ」
「何だ」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「嫌だ」
「まだ何も言ってないよ」
ルカは少しだけ笑った。
普段の軽い笑い方に近い。
けれど、今は商人として相手を探る時の顔だった。
「道が塞がってるのに、君はどうやってここまで来たの?」
アルナトは一瞬黙る。
「別の道がある」
「やっぱり」
ルカの目が細くなる。
「使える?」
「何に」
「分かってるでしょ」
アルナトはルカを見る。
少し離れた門の方へ視線をやった。
そこには、昼間まではいなかった護衛が立っている。
アルナトもすでに気づいていたらしい。
「……ヴァレリウスは、本当にお前たちをここから出さないつもりか」
「みたいだね。それに君にも何か頼んでいたよね……僕たちをここから出さないように、とかかな?」
「それに答える必要はない」
「固いなあ」
ルカは肩をすくめる。
「使える道、いくつある?」
「……条件による」
「明日の朝でも?」
「天気次第だ」
「じゃあ、聞かせてよ。報酬は払う」
アルナトは少し考えた。
報酬という言葉をルカが出したことでただの情報の探り合いの空気ではなくなる。
「ヴァレリウスの目を盗んでここを出る気か」
「できればね」
「お前たちだけでは無理だろうな」
「だから君に聞いてる」
しばらく、互いに黙って相手を見る。
信用しているわけではない。
むしろ信用していないからこそ、何をどこまで話すか測っている。
やがてアルナトが息を吐いた。
「場所を変えるぞ」
しばらくして、シリウスも呼ばれた。
決行するなら早いほうがいい、当事者たちで集まるべきだ、と。
フィアも、
「私も聞く」
と言った。
シリウスは一瞬迷う。
「フィア様。ですが、お身体が」
止める言い方ではなかった。
ただ心配している。
フィアは少し考えた。
まだ身体は重い。
明日、本当に外へ出るかもしれない。
それなら、今無理をする方がよくない。
「……じゃあ、少し休む」
シリウスを見る。
「決まったら教えて」
「はい」
シリウスはそれ以上何も言わなかった。
ルカに割り当てられていた客間に集まり、机に簡単な屋敷周辺の図が広げられた。
正確な地図ではない。
紙の上に、アルナトが覚えている道を書き足していく。
「ここに古い狩猟道がある」
アルナトが指で示す。
「今はほとんど使われてない。少し遠回りになるが、一人なら今日も通れた」
「……フィアでも歩ける?」
アルナトは紙の上の道を見た。
「女を連れて通る道じゃない。足場が悪い」
アルナトはシリウスを一瞥した。
「……怪我人もいる」
「動けないほどではない」
シリウスが静かに返す。
「ですが、長く剣を振るうのは難しい。戦闘になる道ならば避けるべきでしょう」
「それなら最初からそう言え」
「お前に聞かれていない」
ルカは二人の険悪さに気が付かないかのように話を進める。
「じゃあ別の道があれば教えてほしい」
「こっちに旧道がある。ただ、雨でどうなってるか分からない」
ルカはその道を指でなぞる。
「そこなら一度使ったことがある。馬車が通れるくらいには広かったよ」
シリウスが紙の上へ視線を落とす。
「今夜も雨が降るなら、その旧道は避けた方がいいでしょう。一度崩れた場所の近くです。馬車が通れる幅があっても、地盤が安定しているとは限りません」
アルナトも頷く。
「……確かにそうだな」
「それなら、こっちの道は」
シリウスは二人のやり取りを聞きながら、屋敷の出入口と護衛の位置を確認している。
シリウスは屋敷の出入口を指で示した。
「今確認できているのは、正門に二人、裏手に一人です」
「増えると思う?」
ルカが聞く。
「こちらが動くと知られれば、おそらく」
「じゃあ、見つかる前提の道は駄目だね」
「はい。私も今はフィア様を守りながら複数人を相手にする余裕はありません」
フィアから離れない。
それが明日、自分の役割になる。
怪我をした腕で無理に戦うよりも、その方が重要だった。
まだ、どの道を使うかは決めない。
朝になってから警備と天候を確認する。
候補だけを並べ、それぞれの危険を確認する。
話が一段落したところで、ルカがアルナトを見る。
「一つだけ言っとくけど」
「何だ」
「僕は君を信用してないからね」
アルナトは一拍も置かなかった。
「奇遇だな」
ルカが小さく息を吐く。
そこで話は終わるかと思ったが、アルナトは机の上の図へもう一度目を落とした。
「それで」
「何?」
「俺への依頼は道を教えるだけか」
ルカがアルナトを見る。
「……どういう意味?」
アルナトは紙の端を指で軽く叩いた。
「あいつが本気でお前たちを出さないつもりなら、道を知ってるだけじゃ足りない。護衛に見つかれば止められる」
シリウスの表情が硬くなる。
「戦闘になる可能性があると?」
「可能性ではなく、そうなると思っておいた方がいい」
アルナトは淡々と説明する。
「ここの護衛は飾りじゃない。屋敷の中身を狙う連中を追い返すために雇われてる」
アルナトは屋敷の裏手を示した。
「それに、この辺りの地形はあいつらも知ってる。外へ出たところで見つかれば、山の中まで追ってくる」
アルナトの言葉にシリウスも口を開く。
「人数はわかるのか?」
「普段表に出てるだけなら大した数じゃない。ただ、屋敷の中にまだいる」
「全員がこちらへ来るとは限らない」
「だが、ヴァレリウスが本気なら使うだろうな」
ルカが少し眉を上げた。
「もしも、道案内だけでなく護衛との戦いも頼むとしたら?」
「別料金だ」
一瞬、部屋が静かになる。
ルカは目を細めて微笑む。
「いいね、そのほうが信用できる」
「話が早くて助かる」
「分かった。払うよ」
シリウスがアルナトを見る。
「ただし、無用な戦闘は避ける」
「俺もわざわざ面倒を増やす気はない」
シリウスは少し間を置いて、アルナトを見る。
「それから、お前はフィア様には近づかなくていい」
アルナトは特に反発しなかった。
「勝手にしろ」
ルカが二人を見比べる。
「じゃあ、役割は決まりだね」
アルナトは机の上の地図へ視線を戻した。
「決めるのは明日の朝だ。天気と護衛を見てからだ」
「それでいい」
シリウスも頷いた。




