81話 同じ目的 前編
「つまり、あの人は最初から気づいてたってことだよね」
ルカの声は、いつもより少し低かった。
夕方の談話室には三人しかいない。
窓の外では長雨の名残を引きずった雲が山の上に重く垂れ込み、薄暗い空から差す光が、部屋の中まで灰色にしていた。
フィアは椅子に座ったまま、膝の上で両手を重ねている。
「……たぶん」
「フィア様が聖女であることも。私が守護騎士だったことも」
「それだけじゃないよ」
ルカは声を潜めたまま続ける。
「近くまで来てた馬車が教会のものだと思っていたけど、それも黙ってた」
シリウスは向かいの椅子で黙っていた。
怪我をした腕は少しずつ動くようになっているものの、まだ以前のようには使えない。
座っているだけなら目立たないが、時折肩の位置を直す動きがわずかに固かった。
「……道が通ったらここを出る」
フィアが言う。
自分で口にしておきながら、その言葉をもう一度胸の中で確かめた。
道が通ったら、ここを出る。
ヴァレリウスにも、そう伝えた。
今も、その気持ちは変わっていない。
ルカが小さく頷く。
「うん。それでいいと思う」
シリウスは何も言わなかった。
その沈黙に、フィアは少しだけ視線を下げた。
ここにいた方が安全なのは分かっている。
教会が近くまで来ていた。
それ以外にも、自分を探している者がいるかもしれない。
シリウスはまだ怪我をしている。
自分の体調も、ようやく熱が下がったばかりだった。
それでも。
ずっとここにいるのは違う。
そう思う気持ちは変わらない。
三人とも自然と声を落としていた。
誰かが聞いている気配があるわけではない。
けれど、この屋敷で何をどこまで知られているのか分からないという感覚が、いつの間にか三人の間に共有されていた。
以前なら、ただ広く静かなだけだった談話室まで、今は少し違って見える。
廊下へ続く扉。
大きな窓。
誰でも自由に通れる庭。
どこにも鍵はない。
それでも、何となく声を大きくする気にはなれなかった。
ルカが何か言おうとした、その時だった。
廊下から足音がした。
フィアは何気なく顔を上げた。
扉が開く。
最初に見えたのは、ヴァレリウスだった。
「失礼します」
いつもと変わらない穏やかな声。
その少し後ろに、もう一人いた。
黒い髪。
背の高い男。
灰色の目。
その姿を認識した瞬間、フィアの身体から音が消えたような気がした。
息を吸うことさえ忘れる。
膝の上に置いていた指が動かなくなった。
視線だけが、扉の前に立つ男から離れない。
あ。
声にはならなかった。
見間違えるはずがない。
アルナトだった。
一瞬だけ、どうしてここにいるのかが分からなかった。
次の瞬間には、もっと嫌な考えが浮かぶ。
――また、私を。
胸の奥が強く縮む。
アルナトはフィアにとって、ただ恐ろしいだけの男ではなかった。
最初に会った時は野盗に捕らえられていた自分を助け、次に会った時も別の追っ手から救ってくれた。
それなのに、そのあとでシリウスとルカへの苛立ちを理由に自分を連れ去った。
助けられたこともある。
怖いことをされたこともある。
だから、怖いのに、怖いだけではなかった。
それが余計に分からない。
身体の方が先に、あの時のことを覚えている。
フィアが動けないままアルナトを見つめていると、横から椅子の擦れる音がした。
シリウスが立っていた。
動きは素早かった。
ただ、怪我の残る腕のせいか、立ち上がった瞬間だけわずかに肩が固くなる。
それでも迷わずフィアの前へ出た。
身体の半分ほどを隠すように立ち、使える方の手を剣へ添える。
抜かない。
けれど、いつでも動ける姿勢だった。
ルカも遅れて扉の方を見る。
目を見開いた。
「……なんで、ここに」
驚きが先に出た声だった。
アルナトはルカを見る。
それからシリウス。
最後に、シリウスの肩越しにわずかに見えるフィアへ目を向けた。
「……仕事だ。この男に呼ばれただけだ」
フィアは小さく息を吐いた。
自分を追ってここまで来たわけではない。
少なくとも、その言葉が本当なら。
けれど安心できるほどではなかった。
シリウスも剣から手を離さない。
ルカもいつもの軽い笑みを浮かべてはいなかった。
そんな三人を見て、ヴァレリウスだけが少し興味深そうに目を細めた。
「おや、お知り合いだったのですね」
「前にちょっとね」
ルカが答える。
口調だけなら軽かった。
けれど、その視線はまったく笑っていない。
ヴァレリウスはそれ以上深く尋ねず、アルナトへ視線を向ける。
「なるほど。先ほどの反応は、そういうことでしたか」
アルナトは答えない。
フィアはその言葉にわずかに引っかかった。
先ほど。
ということは、アルナトは自分たちより前にヴァレリウスと会っていたらしい。
ヴァレリウスはそのまま、まるで昔の仕事を思い出しただけのような調子で続けた。
「彼には以前から、何度か仕事をお願いしているのですよ」
フィアはシリウスの向こうから、ヴァレリウスを見る。
「仕事……?」
「ええ。古い書物や、今ではほとんど残っていない魔道具などです。私一人では見つけられないものも多いですから」
それ自体は不思議ではなかった。
ヴァレリウスの蒐集室を見ている。
古い本も、宝飾品も、魔道具もあった。
アルナトがそうしたものを探す仕事をしていたとしても、おかしくはない。
「もっとも」
ヴァレリウスは少し笑う。
「すべてを熱心に請けてくださるわけではありませんが」
アルナトは面倒そうに目を逸らした。
「以前、聖女と思われる女性を見つけたら、保護のために傷つけず、この屋敷まで連れてきてほしいとお願いしたこともありました」
フィアは瞬きをした。
一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。
フィアの視線が、アルナトへ向いた。
アルナトは何も言わない。
ヴァレリウスは小さく笑った。
「まあ、彼にその依頼は請けてもらえませんでしたが」
アルナトはそれも訂正しなかった。
フィアの胸の奥に、別の疑問が生まれる。
最初にアルナトと会った時。
あの時、アルナトは自分を助けた。
けれど、そのままどこかへ連れていこうとはしなかった。
二度目に会った時には、連れ去った。
もしヴァレリウスから、すでに自分を探す仕事を頼まれていたのなら。
あの二つは、どう違ったのだろう。
聞けなかった。
今、アルナトにそれを尋ねることなどできそうになかった。
ただ疑問だけが残る。
それ以上に、もっと重く残ったものがあった。
ヴァレリウスは、自分たちを助けたあとで聖女だと知ったのではない。
以前から、聖女という存在を探していた。
「なぜ……」
フィアは小さく声を出した。
ヴァレリウスがこちらを見る。
「なぜ、私を……聖女を、探していたんですか」
「危険だからです」
答えはすぐに返ってきた。
「聖女という存在は、それだけで多くのものを惹きつけます」
ヴァレリウスは落ち着いた声で言う。
「教会にとっては信仰の象徴です。国にとっては、その祈りの力が平穏を支える大きな要となる。他国から見ても、決して無視できる存在ではないでしょう」
フィアは黙って聞いていた。
「まして貴女は、随分と目立つ」
ヴァレリウスの目が、フィアの髪へ向く。
白金色の長い髪。
「外見も含めて、隠しておくことが難しい。利用しようとする者も、奪おうとする者も出てくるでしょう」
その言葉自体に、間違いはない。
実際にそうだった。
教会のほかにも、自分を連れていこうとした人間は一人ではなかった。
だからこそ、ヴァレリウスの言葉には一見すると筋が通っている。
「危険な場所にいるのであれば、安全な場所へ移した方がいい」
ヴァレリウスはそう言った。
「それが本人のためでもあります」
フィアは返事をしなかった。
以前なら、その言葉を聞いて安心したかもしれない。
今は違う。
守るためにここへ置いておくのではなく。
ここへ置いておくことそのものが目的なのではないか。
ほんの少しだけ、そんな感覚があった。
保護、その言葉が。
保管という別の言葉に近づいたように思えた。
まだ、それが正しいのかは分からない。
ヴァレリウスはフィアの沈黙を拒絶とは受け取らなかったらしい。
穏やかなまま言葉を続けた。
「ですから、私は今でも、ここにいることが貴女にとって一番よいと思っています」
そして、改めて尋ねる。
「まだ、お考えは変わりませんか」
フィアは膝の上で指を重ね直した。
怖くないわけではない。
アルナトまでここにいる。
ヴァレリウスは以前から自分を探していた。
教会らしい馬車も近くまで来ていた。
それでも。
「……変わりません」
声は小さかった。
けれど迷いはなかった。
「道が通ったら、ここを出たいです」
ヴァレリウスは何も言わず、フィアを見た。
フィアは横を見る。
シリウスは視線をわずかに落としていた。
何も言わない。
その沈黙が、少しだけ痛かった。
自分がここを出たいと言うことを、シリウスが嫌がっているわけではない。
分かっている。
きっと心配しているだけだ。
それでも、分かっているから傷つかないわけではなかった。
しばらく話しているうちに、身体が重くなってきた。
熱が戻ったわけではない。
けれど頭の奥がぼんやりして、胸の辺りが少し苦しい。
「フィア」
ルカが先に気づいた。
「顔色悪いよ」
「……大丈夫」
「その返事、信用できないんだけど」
軽い調子だったが、目は真面目だった。
シリウスもすぐにフィアの方へ向き直る。
「フィア様。一度お部屋へ戻りましょう」
フィアは少し迷ってから頷いた。
「……うん」
立ち上がる。
アルナトの前を通ることになる。
意識しただけで身体が少し固くなった。
それでも、シリウスがそばにいる。
ルカもいる。
アルナトは何も言わなかった。
フィアが通り過ぎる時も、近づいてこない。
ただ一度だけ、その視線がフィアへ向いた。
眉がほんのわずかに寄る。
フィアは気づかなかった。
けれど、その表情をルカだけが横目で見ていた。
三人が談話室を出て行き、扉が閉まった。
残ったのは、ヴァレリウスとアルナトだけだった。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
先に声を出したのはヴァレリウスだった。
「本当に、随分と運の良い巡り合わせだと思いませんか」
アルナトは返事をしない。
「まさか彼女の方からこの屋敷へ来るとは思いませんでした」
「偶然だろ」
「ええ。だからこそ面白いのです」
ヴァレリウスは先ほどまでフィアが座っていた椅子へ視線を向ける。
「しかも、守護騎士まで一緒です」
アルナトは面倒そうに眉を寄せた。
「相変わらずだな」
「何がです?」
「人間まで蒐集品と同じように見るところだ」
ヴァレリウスは否定しなかった。
むしろ、意味が分からないというように少し首を傾ける。
「価値があるものを価値があると認めているだけですよ」
アルナトはそれ以上言わなかった。
ヴァレリウスは机のそばへ戻りながら、何気ない調子で続ける。
「ですから、もう少しここにいていただきたいのです」
アルナトが目を向ける。
「道が通れば、彼らは出ていくでしょう」
「そうだろうな」
「そこで、貴方にお願いがあります」
ヴァレリウスは穏やかに呼ぶ。
「彼らが無茶をしないよう、止めていただけませんか」
アルナトはほとんど間を置かなかった。
「断る」
ヴァレリウスが瞬きをする。
「まだ詳しくお話ししていませんが」
「聞く必要ない」
「以前なら、この程度の仕事は請けてくださったでしょう」
それは事実だった。
品物だけではない。
逃げた人間を連れ戻したこともある。
本人が戻りたいかどうかなど、聞いたこともない。
アルナト自身が一番よく分かっている。
「本人が残ると言ってない」
ヴァレリウスは少し間を置いた。
「だから何です?」
本当に分からないようだった。
「外へ出れば危険があります。教会もまだ探しているでしょう。あの騎士も怪我をしている。彼女自身も万全ではない」
「それでも出るつもりなんだろ」
「だからこそ止めるのです」
当然のことを言うような声だった。
アルナトはしばらくヴァレリウスを見た。
自分が言えたことではない。
フィアの意思を無視して連れ去ったことなら、自分にもある。
それを棚に上げて、本人の意思がどうこうと綺麗な理屈を並べる気にはならなかった。
ただ。
自分から離れていった女が、今度は別の男の都合で、また簡単に行き先を決められようとしている。
それが妙に気に食わなかった。
「……気に食わないからだ」
ヴァレリウスはしばらく何も言わなかった。
やがて、
「そうですか」
とだけ答えた。




