80話 珍しいもの
長雨が続くようになり、どこかの山道で大きな地滑りがあったと聞いてから、数日が経っていた。
その日の午後、アルナトは街道沿いの小さな宿で、遅い昼食を取っていた。
食事を終えたところで、腰につけていた小袋の中が熱を持つ。
眉を寄せて中を探ると、指先に触れたのは掌に収まるほどの小さな石だった。
表面には細い文字のような模様が刻まれている。
仕事の取引相手から渡されていた、遠く離れた相手へ短い言葉を送るための魔道具だ。
この国ではほとんど流通していない品だが、作る技術そのものが失われているわけではない。
その依頼主はアルナトへ仕事を頼むたび、呼び出し用として新しいものを一つ寄越していた。
石は次第に熱を増し、内側から淡く光り始めている。
「……あいつのところか、面倒だな」
アルナトは宿の裏手へ出ると、石を地面へ投げつけた。
乾いた音を立てて砕けた破片の上に、淡い光の文字が浮かぶ。
――なるべく早く来てください。
それだけだった。
理由も、用件もない。
その男からの呼び出し自体は珍しくない。
今も二、三件ほど依頼を受けたままになっているが、どれも期限のないものばかりだった。
古い魔道具や、すでに作り手の絶えた装飾品。
どこかの貴族が手放したという古書。
見つけた時でいい、と言われているものばかりで、急いで呼び出されるような心当たりはない。
無視してもよかった。
ただ、今回はその屋敷からそれほど離れていない場所まで来ている。
普通に街道を使えば一日以上かかるが、アルナトならもっと早く着ける。
何度も足を運んだ場所で、周辺の道も知っていた。
面倒な相手ではあるものの、報酬はいい。
契約を違えたこともなく、仕事相手としては信用できる。
少し考えた末、アルナトは砕けた石を一瞥した。
「近いなら行くか」
結局、それだけの理由で宿を出た。
しばらく進み、木々の途切れた場所へ出たところで、前方から馬車が近づいてくるのが見えた。
三台。
どれも目立たない濃色の車体で、紋章はない。
銀色の金具だけが、傾き始めた日の光を鈍く返していた。
アルナトは道の脇へ寄り、馬車を通す。
御者も付き添う者たちも派手な格好はしていなかったが、視線の配り方や歩き方が普通の旅人とは少し違う。
隠しているつもりなのだろう。
馬車が通り過ぎたあと、アルナトは一度だけ振り返った。
――教会か。
そう思っただけだった。
山道に続く道で何をしていたのかは少し気になったが、わざわざ追いかけて確かめるほどでもない。
すぐに興味を失い、アルナトは再び目的の屋敷へ向かった。
主要な山道へ入ると、ほどなく通行止めに行き当たった。
数日前の長雨で地滑りが起きたらしく、崩れた土砂の前では何人もの作業員が道を広げている。
先ほどの馬車も、この先へ進めず引き返したのだろう。
アルナトは手前で道を外れ、昔、貴族が狩猟に使っていた細い道へ入った。
今ではほとんど人が使わず、倒木や伸びた草に塞がれている場所もあるが、一人で抜けるには問題ない。
この周辺には、こうした古い道がいくつも残っている。
以前の仕事でこの周辺を何度も歩き回り、屋敷の裏側から品を運び込んだこともあった。
主要道が潰れたところで、アルナトにとっては少し遠回りになる程度だった。
日が傾いてきた頃、木々の向こうに見慣れた館の屋根が見えてきた。
何度も仕事で出入りしてきた、ヴァレリウス・クロウの屋敷だった。
門番はアルナトの顔を見ると、特に確認することもなく中へ通した。
玄関へ向かう途中、年嵩の使用人がこちらに気づいて足を止める。
「ああ、アルナトさん。お久しぶりです」
「まだいたのか」
「失礼ですね」
使用人は苦笑してから、「旦那様がお待ちですよ」と告げた。
他の使用人たちも軽く頭を下げる程度で、特別な反応はしない。
主人が時々呼びつける仕事相手。
そのくらいの認識なのだろう。
アルナト自身も勝手は分かっていたため、案内を待たずに執務室へ向かった。
扉を叩くと、すぐに中から返事が返ってくる。
「どうぞ」
中へ入ると、ヴァレリウスは机の前で書類を読んでいた。
アルナトを見ると顔を上げ、どこか満足そうに笑う。
「随分早かったですね」
「近くにいただけだ」
アルナトは扉を閉めると、そのまま机の前まで進んだ。
「何の用だ」
「おや。挨拶くらいしてはいかがです?」
「呼びつけたのはお前だろう」
ヴァレリウスは小さく笑った。
いつも通りのやり取りだったが、今日は妙に機嫌がいい。
アルナトは空いている椅子へ座ることもなく、眉を寄せた。
「次からは用件くらい書け」
「短い文しか送れませんから」
「あのご丁寧な文面をやめればもう少し書けるだろう」
「ああ、確かに」
悪びれる様子もない。
アルナトは面倒そうに息を吐いた。
「それで?」
「君に、少し珍しいものをお見せしたくて」
「……は?」
一瞬、聞き間違えたかと思った。
けれどヴァレリウスは楽しそうな顔をしたままだ。
また始まった。
そう思う。
珍しい古書を手に入れた。
失われた国の宝飾品が見つかった。
何百年前の魔道具が市場に出た。
この男が機嫌よく人を呼びつける理由など、大抵その程度だった。
「そのために呼んだのか」
「ええ」
「帰るぞ」
「まあ、そう言わずに」
ヴァレリウスは椅子から立ち上がる。
「それだけの価値がありますよ」
「俺にはない」
「見れば分かります」
「お前の『分かる』は信用してない」
それでもヴァレリウスは気にせず執務室を出ていった。
ここまで来て帰るのも馬鹿らしい。
アルナトは仕方なく、その後を追った。
廊下を歩きながら、何を見せられるのか考える。
絵か。
本か。
最近探していた古い武具か。
どれであっても、アルナトには大して興味がない。
前を歩いていたヴァレリウスが、ふと思い出したように口を開いた。
「以前、お願いした仕事の中に、あまり気乗りされていないものがありましたね」
「覚えていないな」
「君はたいていそう言います」
「わかっているのなら聞くな」
ヴァレリウスはまた少し笑った。
やがて廊下の先に談話室が見えてくる。
扉はわずかに開いており、中から人の話し声が聞こえていた。
ヴァレリウスがその前で足を止める。
「こちらです」
「人か?」
「ええ」
その返事で、アルナトはわずかに眉を寄せた。
ヴァレリウスが人間まで蒐集品のように扱うことは知っている。
才能や血筋、経歴。
普通なら本人の一部に過ぎないものを、あの男は物を見るのと大して変わらない目で評価する。
またそんな相手でも見つけたのだろう。
そう思いながら、アルナトは開いた扉の向こうへ視線を向けた。
最初に見えたのは、白に近い髪だった。
そこで足が止まる。
談話室の窓際に、一人の女が座っている。
細い肩に、長い白金色の髪。
その横顔には、嫌というほど見覚えがあった。
フィア。
一瞬だけ、思考が途切れた。
――なぜ、ここにいる。
浮かんだのは、それだけだった。
あの女が今どこにいるのか。
あの後どうしているのか。
考えないようにしていた。
フィアは自分ではなくシリウスを選んだ。
だから、それで終わった。
そういうことにしていた。
アルナトは無意識に視線を横へ動かす。
そこにはシリウスがいた。
右腕の動きが少し不自然で、怪我をしているらしいこともすぐに分かる。
さらにその向こうにはルカまでいる。
三人揃っている。
余計に意味が分からなかった。
フィアたちはまだこちらを見ていない。
何かを話していて、廊下にアルナトが立っていることに誰も気づいていなかった。
ヴァレリウスだけが、そんなアルナトの横顔を見ている。
普段ほとんど反応を見せない男が足を止めたことに興味を引かれたのか、ヴァレリウスの声がわずかに楽しげになる。
「覚えていますか。以前、私がお願いした仕事を」
アルナトはフィアから目を離さないまま答えた。
「何の話だ」
「聖女と思われる女性を見つけたら、傷つけず保護してほしい、と」
そこで、ようやく記憶が繋がった。
かなり前に頼まれた仕事だった。
教会も国も探しているという女。
面倒なわりに期限もなかったため、他の依頼を優先していた。
ヴァレリウスから話を聞いた時、自分は確かにこう返した。
――気が向いたらな。
そして実際にフィアを見つけた時、一度だけ、この屋敷のことを考えたこともある。
教会でも国でもなく、簡単には外から手を出されない場所。
フィアを置いていく先として、ヴァレリウスの屋敷も候補の一つにはなった。
結局そうしなかっただけだ。
そんなことを、ヴァレリウスが知るはずもない。
「君は、気が向かなかったようでしたね」
ヴァレリウスは満足そうに言った。
「でも、向こうから私のところへ来てくれました」
アルナトは返事をしなかった。
もう一度フィアを見る。
その隣のシリウス。
少し離れたところにいるルカ。
三人を順に見たところで、不意に山道ですれ違った馬車を思い出した。
濃い色の車体。
銀の金具。
紋章のない三台の馬車。
教会の者らしい一団は、山から下りてきていた。
アルナトはわずかに目を細める。
何を探していたのか。
今になって、少しだけ意味が変わった。
けれど、まだ分からないことの方が多い。
なぜフィアたちがクロウ邸にいるのか。
なぜシリウスは怪我をしているのか。
ヴァレリウスは何をどこまで知っているのか。
そして、ヴァレリウスは三人をどうするつもりなのか。
フィアはまだ、こちらを見ていなかった。
シリウスも、ルカも気づいていない。
アルナトは声をかけることもなく、しばらく三人を見ていた。
――なぜ、ここにいる。
結局、最初に浮かんだ疑問だけが、もう一度頭に残った。




