79話 客人ではなく
翌朝。
雨は弱まり、窓の外には薄い雲の切れ間が見えていた。
フィアの熱はほとんど下がり、シリウスの腕も少しずつ動くようになっていた。
それでも、三人の間には昨夜から残ったものがあった。
誰も口にはしない。
けれど、フィアには分かっていた。
シリウスはまだ迷っている。
フィアが言ったことも、きっと覚えている。
――ずっとは、違う。
それでもシリウスにとっては、ここにいる方が安全なのだ。
そのことは、フィアにも分かっていた。
ここにいれば、シリウスがまた自分を庇って怪我をすることもないかもしれない。
ルカも、追手を避けるために道を探し続けなくていい。
自分がここに残れば、二人を危険な目に遭わせずに済む。
そう考えると、昨日よりも胸の奥が重くなった。
「おはよう」
昼前になって、ルカが部屋へ戻ってきた。
いつもの軽い声だった。
「いい話があるよ」
フィアが顔を上げる。
「道のこと?」
「正解」
ルカは笑いながら椅子を引いた。
「さっき使用人さんたちに聞いたんだけど、このまま天気が崩れなければ、あと二、三日くらいで人は通れるようになりそうだって」
「そんなに早く?」
「作業がかなり進んでるらしいよ。馬車はもう少しかかるみたいだけど、僕たちが歩いていくなら問題ない」
フィアはほっと息を吐いた。
「よかった……」
「ここのみんなも良かったって言ってくれてるよ」
ルカは少し笑う。
「長雨の時期はこういうことが多いので気をつけてください、だって」
使用人たちは、何の疑いもなくそう話しているらしい。
道が直れば、三人は出ていく。
それが当然だと思っている。
フィアも、ほんの少し気持ちが軽くなった。
けれど、すぐ隣を見る。
「シリウス」
窓辺にいたシリウスが振り返った。
「はい」
「もう少しだって」
「……そうですか」
それだけだった。
フィアはそれ以上何も言えなかった。
ルカもシリウスを見たが、何も触れなかった。
昼を過ぎた頃。
三人は談話室へ向かった。
ヴァレリウスに、道が直り次第出発するつもりだと伝えるためだった。
談話室にはすでに茶が用意されていた。
ヴァレリウスは窓際の椅子に座り、三人が入ってくると穏やかに微笑む。
「フィアさん、お加減はいかがですか」
「もう、ほとんど大丈夫です」
「それは何よりです」
「ご心配をおかけしました」
「いいえ。どうぞお座りください」
三人が腰を下ろす。
少しだけ天気の話をしたあと、ルカが口を開いた。
「道の方、かなり直ってきてるみたいだね」
「ええ。そのようですね」
「あと二、三日くらいで人なら通れるって聞いたよ」
「私も報告を受けています」
ヴァレリウスは穏やかに頷く。
ルカも同じように笑った。
「だから、道が通れるようになったら僕たちも出ようと思ってる」
いつものルカだった。
声は軽く、表情も柔らかい。
警戒していることなど、知らない相手なら気づかないだろう。
フィアは、商人として誰かと話す時のルカはこういう顔をするのだと思った。
ヴァレリウスはフィアを見て、それからシリウスへ目を移した。
シリウスは何も言わなかった。
「その必要はないでしょう」
ヴァレリウスが言った。
ルカの笑顔は崩れない。
「急いでるわけじゃないよ」
「でしたら、なおさらです。もう少しこちらで休まれてはいかがですか」
「うん。でも、道が通ったら出るって話なんだけど」
ルカの口調は変わらない。
けれど、フィアには少しだけ分かった。
笑っている時ほど、ルカは相手をよく見ている。
ヴァレリウスは気にした様子もなく、茶器へ手を伸ばした。
「外へ戻ることは、あまりお勧めできません」
「どうして?」
ルカが尋ねると、ヴァレリウスは一度フィアを見る。
「外へ出れば、また教会に見つかる可能性がありますから」
フィアの呼吸が止まった。
「……教会?」
ヴァレリウスは、ごく自然に続けた。
「聖女である貴女を、彼らが諦めるとは思えません」
誰も動かなかった。
ほんの少し前まで聞こえていた雨垂れの音が、急に大きくなった気がした。
フィアはヴァレリウスを見る。
「……知っていたんですか」
「ええ」
あっさりした返事だった。
シリウスがわずかに身体を動かした。
椅子に座ったまま、フィアを庇うように少しだけ位置をずらす。
ヴァレリウスはその動きを見ても何も言わなかった。
ルカの笑顔だけが、少し薄くなった。
「どこまで知ってるの?」
「さて。どこまで、と言われましても」
ヴァレリウスは茶器を置いた。
「フィアさんが教会から姿を消した聖女であること。シリウスさんが、その時一緒に教会を出た守護騎士であること」
シリウスの目が細くなる。
「そして、お二人を教会が探していること。その程度でしょうか」
「その程度、ね」
ルカが笑った。
声だけなら先ほどと変わらない。
「いつから?」
フィアが聞いた。
「ここへ来た時から、知っていたんですか?」
「いいえ」
ヴァレリウスは首を振る。
「聖女が教会から姿を消したという話自体は、以前から耳にしていました」
「……」
「白金色の髪の女性と、銀髪の騎士。お二人を見た時に、もしやとは思いましたが」
ヴァレリウスの視線がフィアからシリウスへ移る。
フィアは、最初の夜に髪を見られたことを思い出した。
「確信したのは、先日のことです」
ルカが眉を上げる。
「何かあった?」
「シリウスさんには少しお話ししましたが、この辺りでは見かけない馬車がいたと聞きまして」
シリウスの表情が変わった。
ヴァレリウスはそれを見て続ける。
「その馬車は地滑りのあった辺りで、何かを探していたらしいです」
「……はい」
「特徴から、あれはおそらく教会のものでしょう」
フィアの指先が少し冷たくなる。
ヴァレリウスはシリウスへ目を向けた。
「貴方も、そう思われませんか?」
シリウスはすぐには答えなかった。
濃い灰色の車体。
銀色の金具。
何かを探していた者たち。
しばらくして、低く答える。
「……可能性はあるかと」
ルカがちらりとシリウスを見た。
そして、ヴァレリウスへ戻す。
「教会のものだと思ってたのに、それは昨日言わなかったんだ?」
その言葉にシリウスも少し目を伏せる。
ヴァレリウスは相変わらず柔らかく微笑んだまま言葉を続ける。
「ええ」
「どうして?」
ヴァレリウスは不思議そうにルカを見る。
「お知らせして、何か変わりましたか?」
ルカの笑みが止まった。
「……何かって」
「フィアさんはまだ熱があり、シリウスさんも怪我をしていた。道も通れない」
ヴァレリウスの声は穏やかだった。
「教会らしき者が近くまで来ているとお知らせしても、不安を増やすだけでしょう」
「だから言わなかった?」
「はい。余計な不安を与える必要はないと思いました」
悪びれる様子はなかった。
本当に、それが一番よいと思っているようだった。
フィアは何も言えなかった。
確かに、昨日教えられていたら怖かったと思う。
熱があって、シリウスも怪我をしていて、逃げることもできない。
知っていても何もできなかった。
それでも。
何かが違う。
うまく言葉にはできなかった。
「安心してください」
ヴァレリウスが言う。
フィアが顔を上げる。
「こちらから教会へ知らせるつもりはありません」
その言葉に、胸の奥がほんの少し緩んだ。
教会には渡さない。
その事実に、安心してしまった。
ヴァレリウスはそれを見ていた。
「ここにいる限り、人目を気にする必要もありません。教会の者が来たとしても、勝手に屋敷へ入れることはできませんから」
「……」
「だからこそ、ここにいるのが一番安全なのです」
シリウスがわずかに視線を落とした。
フィアはそれに気づいた。
「外へ戻ることはお勧めできません」
ヴァレリウスは続ける。
「ここでお過ごしいただけばよい」
ルカがゆっくり息を吐いた。
「でも、僕たちは出るよ」
ヴァレリウスがルカを見る。
「なぜです?」
「……なぜって」
「詳しい事情までは存じませんが、お二人は教会を離れたのでしょう。それなのに、再び見つかる危険を冒してまで外へ出る理由がありますか?」
ヴァレリウスは静かに続ける。
「それに、フィアさんを狙っているのは、教会だけではないのでは?」
シリウスの表情がわずかに硬くなった。
フィアは膝の上で指を組んだ。
「……私は」
ヴァレリウスがこちらを見る。
「ここにずっといるつもりはありません」
小さな声だった。
けれど、昨日よりははっきり言えた。
ヴァレリウスは怒らなかった。
「ですが、今すぐ決める必要はないでしょう」
「……」
「まずは完全に体調を戻されてからでも遅くありません」
その視線がシリウスへ移る。
「シリウスさんも、そう思われませんか?」
フィアもシリウスを見た。
一瞬だけ、目が合う。
シリウスはすぐには答えなかった。
「……フィア様のお身体が完全に戻ってから、考えるべきかと」
胸の奥が少しだけ痛んだ。
フィアは何も言わなかった。
シリウスが自分を心配していることは分かっている。
それでも、自分は昨日も言った。
ずっとは違う、と。
「シリウス」
ルカが静かに名前を呼んだ。
責める声ではなかった。
シリウスも何も返さない。
ヴァレリウスは、そんな二人を見ていた。
その表情が、ほんの少しだけ和らいだようにフィアには見えた。
「やはり、シリウスさんには分かっていただけるようですね」
フィアの胸の奥に、言葉にできない嫌なものが残った。
シリウスがヴァレリウスと同じことを考えている。
そう言われたように聞こえたからだった。
「無理に結論を急ぐ必要はありません」
ヴァレリウスはいつも通り穏やかだった。
「道が通るまで、まだ数日はあります。その間にゆっくり考えてください」
それ以上、話は進まなかった。
談話室を出たあと、三人はフィアの部屋へ戻った。
しばらく誰も口を開かなかった。
最初に話したのはルカだった。
「……どう思う?」
シリウスが窓の方を見る。
「何についてですか」
「全部」
ルカは椅子へ座る。
「君たちが誰なのか知ってた。あの馬車が教会のものだと思ってた。それで黙ってた」
「……はい」
「教会には渡さないって言う。それは助かるよ」
ルカはそこで一度言葉を切った。
「でも、その上でここに残れって言ってる」
フィアは黙って聞いていた。
ルカがシリウスを見る。
「……あの人、二人を帰すつもりないんじゃない?」
シリウスはすぐに答えなかった。
「……まだ、分かりません」
「そう?」
「実際に、何かをされたわけではありません」
それは事実だった。
扉に鍵はない。
庭へ出ることもできる。
護衛が増えた様子もない。
使用人たちも変わらず親切だった。
少し前、廊下を通った時も、女性の使用人が笑顔で、
「もう少しで出発できますね」
と話していた。
フィアは部屋の外へ目を向けた。
開いた扉の向こうを、使用人が一人通り過ぎていく。
いつもと同じだった。
窓も開けられる。
庭へも出られる。
門も閉じられていない。
道が直れば、その先は外へ続いているはずだった。
それなのに、昨日まで当たり前だったはずの、
道が直れば、ここを出る。
そのことだけが、もう当たり前ではなくなっていた。




