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many merry bad ENDs 聖女がたどる結末たち  作者: 源泉


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78話 見えない鍵


あの会話から、一日が過ぎた。


それでも、ヴァレリウスの態度は何も変わらなかった。


食事はいつも通り用意され、フィアの薬も欠かさず届けられる。

シリウスの傷を気遣う使用人もいて、朝食を運んできた男は包帯の巻かれた腕を見ながら尋ねた。



「腕の具合はいかがですか?」


「昨日よりは、だいぶ」


「それはよかったです。無理はなさらないでくださいね」



それだけ言うと、使用人は空いた食器を手際よく片づけ、今度はフィアへ目を向けた。



「お熱も、下がってきたようですね」


「はい。ありがとうございます」


「何か食べたいものがあれば仰ってください。厨房に伝えますから」


「大丈夫です」



そう答えてから、フィアは少し考え直した。



「……あの、果物があれば少し」


「もちろんです」



使用人は嬉しそうに頷いた。

本当に、どこまでも普通だった。


廊下を歩いても、誰かにつけられているような気配はない。

部屋に鍵を掛けられることもなければ、庭へ出るのを止められることもない。


屋敷の中では、昨日までと何も変わらない時間が流れていた。


変わったのは、たぶん自分たちの方だった。



――それでも、どこかへ行く必要がありますか?



昨日のヴァレリウスの言葉が、ふとした拍子に何度も頭へ浮かぶ。


必要があるかと聞かれれば、フィアにもよく分からなかった。


旅に出たのは、自由になりたかったからではない。

教会から逃げなければならなかったからで、追われている以上、立ち止まることもできなかった。


最初から行きたい場所があったわけでもない。


それでも、ここにずっといるのだと考えると、何かが違う気がした。


昼前になると、屋敷の者たちと話をしていたルカが戻ってきた。



「いい話があるよ」



フィアが顔を上げる。



「道?」


「そう。かなり作業が進んでるみたい」



ルカは椅子を引いて腰を下ろした。



「さっき使用人さんたちと話してたんだけど、このまま大きく崩れなければ、あと何日かで人は通れるようになるんじゃないかって。馬車はもう少しかかるみたいだけどね」


「本当?」


「うん。向こうも明るかったよ。『もう少しですよ、ルカさん』って」



そう言って、ルカは相手の口調を真似るように笑った。



「よかった……」



フィアも小さく息を吐く。


使用人たちにとっては、本当にただそれだけのことなのだろう。


道が崩れ、客人が足止めされ、だから通れるようになるまで屋敷に泊めている。

そして道が直れば、三人はまた旅立っていく。


そんな当たり前の流れを、彼らは少しも疑っていない。


フィアも、それを聞いて胸の奥が少し軽くなった。


今すぐではない。

けれど、ここを出られる日は近づいている。



「シリウス?」



フィアが声をかけると、窓の外を見ていたシリウスが振り返った。



「はい」


「道、もう少しだって」


「……そうですね」



返事は返ってきたが、ほんの少し遅かった。


昨日から、シリウスはいつもより口数が少ない。

怪我のせいだけではないことを、フィアもなんとなく感じていた。



午後、フィアが部屋で休んでいる間に、シリウスは自分の客室へ戻った。


包帯のずれを確かめていると、ほどなくして扉が叩かれる。



「シリウスさん。少しよろしいでしょうか」



ヴァレリウスの声だった。


シリウスが扉を開けると、廊下に立つヴァレリウスはいつもと変わらない穏やかな表情をしていた。



「何でしょう」


「少し、お話を」



シリウスは一瞬迷ったあと、彼を室内へ通した。



「昨日の件です」



ヴァレリウスは向かいに立ったまま切り出した。



「こちらで暮らすというお話について」


「……はい」


「貴方なら、分かるはずです」



シリウスが目を上げる。



「何がでしょう」


「ここなら、フィアさんを危険に晒さずに済むということです」



返事はしなかった。


ヴァレリウスはそれを拒絶とは受け取らなかったらしく、そのまま静かに続ける。



「昨日まで熱があった。貴方もまだ怪我をしている。」



事故もある。

病気になることもある。


それ以外にも、旅の途中で何が起きるかは分からない。



「貴方がどれほど気を配っていても、すべてを防ぐことはできないでしょう」



シリウスの視線が、自分の腕へ落ちた。


地滑りの時もそうだった。


フィアを庇うことはできたが、自分まで無傷でいることはできなかった。


もし、あれがもっと大きな岩だったら。

もし、自分が動けなくなっていたら。


その先まで考えかけて、シリウスは口を閉じた。


ヴァレリウスの言葉を、簡単に否定することはできなかった。



「ですが、ここなら違う」



ヴァレリウスの声は穏やかなままだった。



「ここでなら、フィアさんもシリウスさんも、無用な危険に身を置かずに済みます」



そして、少し間を置いて続ける。



「ここなら、彼女を守れます」



その言葉に、シリウスの返事は遅れた。



「……そう、ですね」



ヴァレリウスの口元が、わずかに緩んだ。



「貴方なら分かっていただけると思っていました」



シリウスは何も返さなかった。



「もちろん、今すぐ決めろとは申しません」



ヴァレリウスはそれ以上踏み込まず、静かに立ち上がった。



「少し考えてみてください」



そのまま部屋の出口へ向かう。



「そう言えば」



ヴァレリウスは一度立ち止まり、振り返らずに口を開く。


「先日の地滑りのあったあたりで、見慣れない馬車が何かを探していたそうですよ。濃い灰色の車体で、金具は銀色だったとか」


それだけを言い残し、ヴァレリウスは去っていく。


扉が閉まったあとも、シリウスはしばらくその場から動かなかった。



夕方前、シリウスがフィアの部屋へ戻ると、ルカもそこにいた。



「遅かったね」



ルカがそう言うと、シリウスは扉を閉めながら答えた。



「ヴァレリウスさんと話していました」



その一言で、ルカの表情がわずかに変わる。



「何の話?」


「昨日の続きです」



フィアがシリウスを見る。



「ここに残る話?」


「はい」



シリウスは、ヴァレリウスに言われたことを簡単に話した。

ここにいれば安全であること。


旅を続ければ、また危険に遭う可能性があること。


自分一人では防ぎきれないものもあること。

そして、ここならフィアを守れると言われたこと。


「それと、もう一つ」


シリウスは、地滑りのあった辺りで見慣れない馬車が何かを探していたらしいことも伝えた。


「馬車?」


ルカの表情が変わる。


「どんな?」


「濃い灰色の車体に、銀色の金具だったそうです」


ルカは少し考えたが、首を振った。


「それだけじゃ分からないな」


話し終えても、シリウスはヴァレリウスの言葉を否定しなかった。


フィアの指が、膝に掛けた毛布の端を少しだけ握る。



「シリウスは……どう思ったの?」



尋ねると、シリウスはすぐには答えなかった。


その短い沈黙だけで、胸の奥がわずかにざわつく。



「外を旅するより危険が少ないことは、否定できません」



やがて、シリウスは静かに言った。



「フィア様の体調もまだ完全には戻っていない。私も、この腕では十分に剣を扱えません。もしまた何かあった時、今の私では――」



そこで言葉が途切れた。


フィアはシリウスの腕を見る。


自分を庇って傷ついた腕だった。

ここにいれば、これ以上傷つかずに済むかもしれない。


それはフィアにも分かっている。



「シリウスは……ここにいたい?」



口にした声は、思っていたより小さかった。


シリウスがフィアを見る。



「私は……」



けれど、その先が続かない。


しばらく黙って二人を見ていたルカが、小さく息を吐いた。



「安全なのは分かるけど、それとここに住むかは別じゃない?」



シリウスがそちらを見る。



「安全だから少し休む。それはいいと思うよ。でも、安全だからずっと住むっていうのは、また別の話でしょ」


「……そうですね」



シリウスは頷いた。

ただ、その表情から迷いが消えたようには見えなかった。


フィアも、それ以上は聞けなかった。


その日の夕方、ヴァレリウスが再びフィアの部屋を訪れた。



「お加減はいかがですか」


「もう、だいぶ楽です」


「それはよかった」



いつもと変わらない声だった。


ヴァレリウスはフィアの様子を確かめたあと、道の復旧についても少し触れた。



「作業は順調に進んでいるようですね」


「あと何日かって聞いてるよ」



ルカが答える。



「ええ。そのようです」



ヴァレリウスは穏やかに頷いたが、そのまま話を終えることはなかった。



「ですが、やはり私は、ここに残られるのがよいと思います」



フィアは黙って彼を見る。



「道が通ったとしても、その先が安全とは限りません。シリウスさんともお話しましたが、危険というものは、どれほど気をつけても完全には避けられない」



シリウスは何も言わない。



「ここなら、必要なものはすべて揃います」



ヴァレリウスは今度はフィアへ視線を戻した。



「無理をして旅を続ける必要はありませんよ」



その言葉を聞きながら、フィアはゆっくりと部屋の中を見回した。


暖炉には火があり、寝台には柔らかな毛布がある。

卓の上には薬と水差しが置かれ、厚い窓は雨風をきちんと遮ってくれている。


そして、すぐ近くにはシリウスがいる。



何も嫌ではなかった。

この屋敷に来てから、助けてもらってばかりだ。


寒さから守ってもらい、食事をもらい、薬も医師も用意してもらった。

使用人たちも親切で、誰かに傷つけられたことなど一度もない。


ここが嫌なのではない。

だからこそ、自分でもうまく説明できなかった。



「フィア様」



シリウスの声がして、フィアは顔を上げた。

今度は、シリウスがまっすぐこちらを見ていた。



「フィア様は、ここにいたいですか」



ヴァレリウスがわずかに目を細める。

フィアはすぐには答えられなかった。


ここにいれば、安全なのだろう。

シリウスも傷つかずに済むかもしれない。


毎日暖かい部屋で眠り、追ってくる者のことを考えずに済むのかもしれない。



それでも。


ずっとここにいる。


そう考えた瞬間だけ、胸の奥に小さな違和感が残った。



「……ずっとは、違う」



フィアはゆっくりと言った。



「ここが嫌なわけじゃないの。でも……ずっとここにいるって決めるのは、違うと思う」



自分でも、それ以上は説明できなかった。


フィアはシリウスを見る。

いつもなら、シリウスはすぐに答えてくれる。


けれど今回は、何も言わなかった。


青い瞳がわずかに揺れる。


ここなら安全だというヴァレリウスの言葉も、自分の傷も、今聞いたフィアの答えも、その全部を考えているようだった。


ヴァレリウスはしばらく二人を見ていたが、やがて穏やかな声で言った。



「急いで決める必要はありませんよ。道が通るまで、まだ時間はあります」



ルカの笑みが少し薄くなる。


それにも構わず、ヴァレリウスはいつも通りの調子で続けた。



「少し考えてみてください」



そして丁寧に頭を下げる。



「それでは、失礼します」



扉が静かに閉まり、三人だけが残った。

フィアは隣にいるシリウスを見る。


聞きたいことはある。


けれど、何をどう聞けばいいのか分からなかった。


シリウスも、まだ何も言わない。

ルカも口を開かないまま、閉じた扉を見ていた。


やがて、窓を叩く雨音が少しずつ強くなっていく。


窓の外では、また少し強い雨が降り始めていた。

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