77話 美しい檻
フィアを部屋へ戻したあと、ヴァレリウスは執務室へ向かった。
窓の外では、まだ細かな雨が降っている。
机の上の書類へ手を伸ばしたところで、扉が叩かれた。
「旦那様、よろしいでしょうか」
三人を拾った馬車に乗っていた古株の使用人だった。
「どうぞ」
男が入ってくる。
「山道を見に行ってまいりました」
「状況は?」
「やはり、すぐには難しそうです。昨日崩れた場所以外にも何ヶ所か土が流れていましたね」
「そうですか」
予想していた答えだった。
使用人は少し迷ってから続ける。
「それと、昨日の地滑りがあった辺りで、見慣れない馬車を見まして」
ヴァレリウスの指が止まった。
「どのような?」
「濃い灰色の車体で、扉の縁だけ白く塗られておりました。金具は銀色で……家紋や印はよく見えませんでした」
「御者は?」
「黒い外套でした。その下に白い服が見えました」
それだけで十分だった。
ヴァレリウスは静かに目を細めた。
「その馬車の者たちは何を?」
「道を通ろうとしていたわけではないようでした。何人か降りて、崩れた斜面や周囲を調べていたのではないかと」
「何かを探しているようだった、と?」
「はい」
何かではない。
誰かだろう。
使用人は事情を知らないまま、安堵したように息を吐いた。
「しかし、本当によかったです。昨日のお三方が、もう少し先まで進んでいたら巻き込まれていたかもしれません」
ヴァレリウスの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……本当に」
あの地滑りがなければ、三人はこの屋敷へ来なかった。
これほど都合のよい偶然も、そうはない。
「馬車については、引き続き何かあれば教えてください」
「畏まりました」
「客人には話さなくて結構です」
使用人が少しだけ顔を上げた。
「体調を崩している方もいます。余計な心配をかける必要はないでしょう」
「そうですね」
男は素直に頷き、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
ヴァレリウスは椅子へ腰を下ろした。
先ほどの馬車の特徴を思い返す。
教会の馬車だ。
正式な儀礼用ではない。
人目を避けて動く時に使われるもの。
教会が、あの辺りまで来ている。
それならもう、間違いない。
昨日から抱いていた推測が、確信へ変わった。
フィア。
白金色の髪をした若い女性。
そして、銀髪のシリウス。
教会から姿を消した聖女と、共に教会を出た守護騎士。
聖女の失踪は公には伏せられている。
だが、ヴァレリウスはかなり早い段階から知っていた。
山奥に住んでいるからこそ、外の情報には金を惜しまない。
商人や旅人、古物商。
各地へ出る使用人。
必要なら、表では名を出せない仕事をする者たちにも金を払う。
政治のためではない。
世の中の、守り残すべきものを見逃さないためだ。
聖女については、以前から知っている。
実際に見たことも一度だけあった。
数年前の国の祝祭。
遠く離れた高い場所を歩く、白い装衣の姿。
今より少し若かったフィアは、大勢の視線を浴びながら静かに前を向いていた。
遠目でも分かる白金色の髪。
美しいと思った。
そして同時に、あまりに無防備だとも。
この国にただ一人。
代わりになるものはない。
失われれば、同じものは二度と手に入らない。
だから聖女が消えたと知った時、ヴァレリウスも動いた。
裏の仕事を請け負う者たちへ、何人も声をかけた。
聖女と思われる女性を見つけたら、傷つけず保護してほしい。
それだけだった。
だが、いくら金を積んでも簡単には請けてもらえなかった。
すでに教会側の依頼を受けている者もいた。
教会と敵対したくない者もいる。
国まで関わっていると察して、最初から距離を置く者もいた。
過去に何度か厄介な仕事を任せた男にも話をした。
能力だけなら信用できる男だった。
だが返ってきたのは、
『気が向いたらな』
という一言だけだった。
それだけ多くの者が水面下で動いているにもかかわらず、聖女は捕まっていない。
それも、ヴァレリウスには興味深かった。
無理に捕らえれば傷つく。
乱暴に扱えば壊れる。
生けたまま確保しようとするなら、慎重にならざるを得ない。
それほど脆く、それほど希少で、それほど守られるべき存在なのだ。
さらに、いつ頃からか足取りまで掴みにくくなったと聞く。
そこでヴァレリウスは、もう一人の男を思い浮かべた。
ルカ。
以前から何度か取引をしたことがある。
有能で、人の扱いが上手い。
旅にも慣れている。
ただの商人にしては、知っていることが多すぎるとも思っていた。
「……なるほど」
ヴァレリウスは一人、呟いた。
フィアを守るのはシリウス。
その二人を進ませてきたのがルカ。
守ることに関して、あの銀髪の騎士に不足はない。
だが、追っ手を避けながら旅を続けるなら、ルカのような人間がいた方がいい。
だからここまで捕まらずに来られた。
そして、この山まで辿り着いた。
聖女がいる。
この屋敷に。
長く探していた存在が、自分から門をくぐってきた。
だが、ヴァレリウスの脳裏に浮かんだのはフィア一人ではなかった。
昨日の食卓。
水へ手を伸ばそうとしたフィアより先に動き、止められればすぐに手を引いたシリウス。
今朝の石段。
フィアより一段下へ回りながら、必要がなければ触れない距離。
小さな咳にもすぐ反応し、額へ触れる前には許可を求める。
ヴァレリウスが尋ねれば、シリウスは「役目だから」と答えた。
けれど、フィアは違った。
彼が必要だと、そう言った。
国によって聖女に与えられた、ただ一人の守護騎士。
その騎士が立場を捨てても、今なお彼女のそばにいる。
古い聖堂に飾られた宗教画を思わせた。
白い聖女と、その傍らに立つ銀の聖騎士。
だが、目の前にいる二人は絵ではない。
実際に生きている。
聖女は騎士を必要とし、騎士は彼女のためにすべてを捨てた。
二人で一つ。
ヴァレリウスの口元が、わずかに緩んだ。
聖女だけを保護できればよいと思っていた。
今は違う。
あの銀の騎士まで含めてこそ、美しい。
教会へ知らせるつもりはなかった。
国へ知らせる理由もない。
一度失った者たちへ、わざわざ返す必要などない。
今はまず、二人を傷つけないこと。
それだけでよかった。
翌朝。
フィアの熱は昨日より少し落ち着いていたが、まだ下がりきってはいなかった。
朝食も食堂へは出ず、部屋へ運ばせている。
ヴァレリウスが様子を見に行くと、フィアは窓際の椅子に座っていた。
肩には薄い毛布が掛かっている。
その近くにはシリウス。
ルカは窓辺に立っていた。
「具合はいかがですか」
ヴァレリウスが尋ねると、フィアが顔を上げた。
「昨日よりは、少し楽です」
「それはよかった」
「薬も食事も、ありがとうございました」
「お気になさらず」
ヴァレリウスが椅子へ腰を下ろすと、ルカが窓から離れた。
「道の方も聞いてきたんだけど、やっぱりまだ無理そうだね」
「そう……」
フィアが少し残念そうに言う。
「昨日より水は引いてるみたいだけど、崩れたところが何ヶ所もあるって。急いで行く方が危ないよ」
「はい。その通りでしょう」
ヴァレリウスも頷いた。
「急ぐ必要はありませんよ。フィアさんもまだ熱がある。シリウスさんの腕も治っていません」
「ご迷惑をおかけします」
シリウスが言う。
「迷惑ではありません」
ヴァレリウスは穏やかに首を振った。
「むしろ、無理に出発される気がないようで安心しました」
ルカが軽く笑った。
「まあ、僕たちも今すぐ出るつもりはないよ。病人と怪我人を連れて山に戻るほど無茶じゃないし」
「それなら良いのですが」
ヴァレリウスは少し間を置いた。
そして、ごく自然に続けた。
「いっそ、このままこちらで暮らされてもよいのではありませんか?」
部屋が静かになった。
最初に笑ったのはルカだった。
「それはさすがに世話になりすぎじゃない?」
冗談を受け流すような声だった。
だが、ヴァレリウスは笑わない。
「私は構いませんよ」
ルカの笑みが、わずかに止まった。
「この屋敷は人目も少なく、静かに過ごせます。部屋もある。食事も用意できますし、必要なら医師も呼べます。警備にも不足はありません」
フィアは黙って聞いている。
「何か事情がおありなのでしょう」
ヴァレリウスが続けると、ルカの目が少し細くなった。
「こちらから外部へ知らせるつもりもありません。ここにいれば、余計な人目を気にする必要もないでしょう」
ルカは何も言わなかった。
ヴァレリウスはシリウスを見る。
「フィアさんが危険な道を歩く必要もなくなります」
シリウスの青い瞳が、静かにヴァレリウスへ向く。
「貴方も、怪我を負いながら彼女を守る必要はありません」
シリウスは答えなかった。
ヴァレリウスはそのまま続ける。
「もちろん、お二人を離すつもりもありません。必要なものはこちらで揃えられます。危険な道へ戻るより、ずっと安全でしょう」
それは事実だった。
フィアにも分かっているようだった。
すぐには断らない。
ここなら追われない。
雨の中を歩かなくていい。
医師もいる。
シリウスが傷つく危険も減る。
悪い条件ではない。
やがてフィアが、小さく口を開いた。
「……あの」
「何でしょう」
「……ここに住んだとしても、外に出たくなれば、出てもいいんですか?」
ヴァレリウスは少し考えた。
外へ出ることを気にしていたらしい。
「もちろんです」
そう答えると、フィアの表情がわずかに緩んだ。
「庭園はご自由に歩いていただいて構いません。裏手には温室もあります」
「……」
「使用人たちは定期的に街へ買い出しに出ます。ご希望なら一緒に行っていただいても構いませんよ」
フィアが瞬きをした。
ヴァレリウスは続ける。
「その際は護衛をつけましょう。念のためです」
フィアは黙った。
やがて、少し困ったように言う。
「そうじゃなくて……」
「はい?」
フィアは一度、シリウスを見た。
「ここを出て、また旅を続けてもいいんですか?」
今度はルカの笑みが消えた。
ヴァレリウスはようやく、質問の意味を理解した。
「旅を?」
「はい」
意外だった。
この屋敷そのものを離れて、また危険な道へ戻りたいということらしい。
「ここにいれば、安全ですよ」
フィアは答えない。
「必要なものは揃います。食事もある。医師もいる。病気になっても、すぐ診てもらえます」
ヴァレリウスはシリウスを見る。
シリウスは黙っていた。
「外へ出れば、また怪我をするかもしれません。病気になるかもしれない。危険なことがまた起きるかもしれません」
ヴァレリウスは穏やかに続けた。
「ここにいる限り、その多くは避けられます」
フィアが隣を見る。
シリウスを見ていた。
だが、シリウスはフィアを見なかった。
ヴァレリウスには、その沈黙が理解できた。
守る者ならば、考えるのは当然だ。
危険な外へ連れ出すより、安全な場所に置いておく方がいい。
少なくとも、ヴァレリウスにはそう思えた。
だがフィアの表情には、わずかな違和感が浮かんでいた。
ルカも、もう笑っていない。
三人の空気が変わったことには気づいた。
それでも、なぜそこまで警戒するのかは分からない。
ここには必要なものがある。
フィアが傷つくものもない。
シリウスが命を削って守る必要もない。
庭へも出られる。
街へも行ける。
それでもなお、危険な場所へ戻る理由が、ヴァレリウスには見つからなかった。
「それでも」
ヴァレリウスは静かに尋ねた。
「どこかへ行く必要がありますか?」
誰もすぐには答えなかった。




