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秀頼戦記  作者: 浮き草
プロローグ・日本編
8/8

沒落と復興

時代が下れば、人も移り変わる。人が移り変われば才も移り変わるのが常。父に力があるからと言って子に力があるわけではなく、父に頭脳があるからと言って子にもあるとは限らない。


話は変わるが、仙人の階位の力関係は、上から「神仙、真仙、上仙、高仙、大仙、玄仙、霊仙、至仙」になっている。さて、話を進めよう。


阿倍朝臣布勢御主人は類稀なる謀略家としての面と、大仙級の力で従二位右大臣にまで登る活躍をした。だが先祖よりの悲願である日本を我が物にする、という事が叶わないまま薨去する。


その子の阿倍朝臣布勢嶋麻呂はその才を受け継ぐ事もなく力も一番下である至仙級で、最終官位も従三位中納言に留まったが藤原北家祖房前公と共に長屋王を皇位につける画策をして失敗する。


阿倍朝臣引田仲麻呂、その才は非常に豊かで阿倍氏歴代最強とまで言われている。阿倍氏の分家で生粋の軍人である比羅夫の孫という立場から軍事にも明るく、歴代天師で三番目に強い力を持つといわれる上仙級の力を持つ真仙十三代張天師徳紹(光)に弟子入りし上仙級までの力を得る事が出来た。一方で科挙にも合格し順調に出世した。細かい事は他に譲るが、 下道朝臣真備に仙術の師匠となった他、天宝十四年(755)、安史の乱が勃発すると式神の呪で楊貴妃の身代わりを作って自宅に匿って二人の間に子どもが出来、その後ハノイの安南都護府に連れて行った。友上と名づけた。友上も玄仙級の力を持ち、情勢が不安という事で天平宝字七年(763)来日した。友上は下道真備の庇護の元に育ち、阿倍朝臣布勢粳蟲の娘婿となって阿倍総本家である布勢家当主となる道守を生んだ。


阿倍朝臣布勢粳蟲、布勢嶋麻呂の弟であるが才もなく従五位上に留まっていた。


阿倍朝臣布勢道守、阿倍朝臣引田仲麻呂の孫にして正統な嫡孫。粳蟲の養子として布勢家を継ぐ。藤原家嫡流恵美押勝の乱に加担するが、弓削道鏡の術比べに置いて不意を打たれて玄仙級の力を持つが戦死する。無官。


その後も変遷を続けたが、才というものは遺伝されず恵まれた物が無かったので段々と官位が下がり続けてきた。


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そしてあるいは無官、あるいは最高で六位と全くふるわず平安時代には京にも住めぬ程落ちぶれた時、難波の地で一人の怪人が生み出される事になった。その名は安倍朝臣晴明である。


才能は全くなかったが諦めない不屈の精神と努力で従五位下、で料理長・仲居長まで登り勤めた安倍朝臣益材が居る。この安倍益材がここまで上り詰めたその功績は凄いが、本人としては歴代安倍氏の悲願が遠ざかるを得ないこの状況に人一倍焦燥を感じていた。そして難波の邸宅に帰る途中の伏見で一人の女に出会った。本人が言うには九尾の狐と怪しげな事を言っていたが、証拠を見せると言われたかと思うと一気に和泉の信太まで転移させてみせた。


そして相手の求めるまま結婚し、延喜二十一年(921)に子どもが生まれた。するとその女は光を発して「我は荼枳尼天なり、この者の子孫は必ず栄えるであろう。汝の邸宅にある先祖伝来の書物、決して手放すでないぞ」と言い残して天に帰ったという。「これは期待できる」と思って安倍益材だったが、意外な事に彼からも全く力が感じられず怪物の片鱗もみられなかった。ところが彼は意外な所で凄まじい力を発揮するとともに、もう一人の化け物との邂逅を果たす。


安倍晴明が幼少の頃、一人の人物と出会う。その人物とは当代随一の陰陽師と言われた従五位下陰陽頭賀茂忠行である。


賀茂忠行は所謂階位は当時では珍しく玄仙級とトップクラスの力の持ち主だったが、何より当時安倍晴明の先祖で国内最強と言われた阿倍御主人よりも高位だった 役小角 の直系の子孫という強みがあった。彼は前鬼や後鬼等はまだ操れなかったが、この実力を生かして自分の先祖の弟子が創業に関わっていると言われる典薬寮の呪禁師を目指した。だが将来性の無さを見抜いて、なんと暦道を選んだ。宣明暦を必死に学んで改元のタイミング等で陰陽道だけでなく、暦道に置いても並ぶべきもの無しとなった。さらに彼は政治的にも怪物であった。典薬寮の中の呪禁師を廃止に追い込み、それまでそれぞれ天文道・暦道・陰陽道が分業制だったものを一つにまとめて独裁体制を確立し、陰陽頭にはじめてなった。


だが、唯一彼にはさっぱりな分野があった、それが天文道・占道である。いくら超常現象を操り暦道に明るくても、天文・占いは全く使い物にならなかった。それが味方した。なまじ安倍晴明が過去の阿倍氏同様陰陽等の力を頼んでいたならば、間違いなく出世できなかっただろう。だが、彼は『大唐開元占経』を誰よりも深く理解していた。


彼の才能をほれ込むと同時に恐れもした賀茂忠行は、安倍晴明に首輪をはめる為に天文道の宗家という立場を譲り天文博士につかせた。息子保憲の妹にあたる娘を娶らせて、陰陽寮二家体制、極官従四位下、加茂氏は中央省庁の、安倍氏は地方の国司の家柄という固定化に成功させたのだった。


超常現象としての安倍晴明はむしろマイナーだ。確実な事績は花山天皇退位を占った、確かにこの功績は非常に大きいがそれだけだ。弘法大師のようなスーパーマンでも無く、神に等しい大怨霊菅原道真を説得した三善浄蔵のような活躍もしなかったし、魔王平将門を調伏した寛朝僧正みたいな活躍もなかった。妖怪退治を成し遂げた多田源氏の方がまだ霊験があっただろう。だが、政治的に確実に影響力を伸ばしはじめたのは事実だった。


力なき呪術神の子どもは、違う意味での強運・政治的な化け物であった。だが安倍氏という血に流れる潜在的な力と、晴明個人に流れる力を感じ取った加茂氏によって首輪はつけられたままだった。


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時は流れ正中元年(1324)、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚した。これは土岐十郎経由と言われているが、実は当代の陰陽頭賀茂朝臣在弘の密告だった。この時代安倍氏はいくつかの流派に別れてバラバラの状態になり、賀茂在弘がその隙をついて独裁権力を手中に収めた。


だがこの時代の宮廷陰陽師も非常に苦しい時期を迎える。その発端が後醍醐天皇であった。後醍醐天皇は自身の正統性を主張し、息子に天皇位を譲る為に南都仏教復興運動勢力や、真言宗である興福寺を通じて高野山とも連携を深め始めた。さらに房中術の使い手で稀代の呪術師と言われた真言立川流の小野僧正文観への帰依が甚だしく、自身もその呪術を使うなど陰陽師軽視の立場に終始した。


だが、これには後醍醐天皇にも言い分がある。後醍醐天皇は正式に即位したため正統な天皇ではあったが、イコール後醍醐流が正統とは言えない。後世南北朝時代を『武家対朝廷』と政策によってイメージを植えつけられていたが、正確には後醍醐天皇対反後醍醐天皇の戦いである。


鎌倉時代は持明院統と大覚寺統の両統迭立が基本であり、後醍醐天皇は大覚寺統当主だと思われがちだ。だが大覚寺統当主で父の後宇多天皇からは、後醍醐天皇はあくまで中継ぎにしかすぎないと教えられてきた。


持明院統の花園天皇の時代から父親からは正式な後継者は後醍醐天皇の兄である後二条天皇の子息邦良親王であると教えられ、大覚寺統が大嫌いな花園天皇すらも後醍醐天皇はあくまで中継ぎであり内裏にしか過ぎないと言われていた。


その影響から大覚寺統内にあっても後醍醐天皇は孤立無援であり、天皇にとって敵である事に変わりはなかった。そう、後醍醐天皇や南朝は三種の神器を持っていたからやむなく正統なのであって、先帝の遺言や血筋、流れ的に言えばただの傍流であり三種の神器の不法占有者にしかすぎないのであった。


これは必然宮中でもそういう流れになっていき、皇族や一部の公家を除いて後醍醐天皇を支持する人間は居なかったのが現状である。そしてそれは陰陽師の世界でも、後醍醐天皇の為の祈祷を拒否する等あからさまな態度を取った。特に賀茂在弘は後の光厳天皇に対して太子と呼び邦良親王に対しても深く礼をする等尊重したのに対して、後醍醐天皇皇子に対しては居丈高になるなど無礼な振る舞いがあいついでいたのだ。


そして悪夢は起きる。禅宗京派の有力者であった赤松円心の蜂起。安達氏と縁が深く、高野衆(行人方)のリーダー格の家に生まれて万里小路氏の家司であった楠木正成の蜂起。そして決定的だったのが足利尊氏や佐々木道譽の裏切りだ。これによって建武の親政が成立し、後醍醐天皇の意思に反したものにはきびしい罰が下った。


だが時代は再び移り変わり足利尊氏が後醍醐天皇と敵対して京から追い出し、朝廷側は再びかつての活気を取り戻した。安倍一族のいくつかの流れは本家争いから南朝側についた。だが足利尊氏・義詮二代の将軍も動乱激しく、賀茂家も安倍家も衰退していった。だが安倍家はその血筋ゆえか、再び奇跡が起きる。


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玄仙級の力を持ち、政治的にも怪物だった男が生まれた。それが安倍朝臣有世である。先祖返りと言っても良い程才能に満ち溢れた安倍有世、両目がわずかに赤く光っている事から鬼の子とも言われていた。彼は鎌倉幕府の高時の時代に生まれたが、十八歳・北朝光厳天皇の康和四年(1345)に出仕した後に次々と実力を発揮する。


北朝後光厳天皇文和四年(1355)、二十八歳の若さで阿倍宗家の証である吉志舞の奉行に任じられる等、まさしく世に有世ありと示した。だが他の安倍一族からの抗議が洞院太政大臣公賢の元に殺到すると知るや、密かに反有世潰しをおこなうとともに散逸した安倍家伝来の書物や口伝を全て集め、返す刀で弟子もまばらにしかおらず警備体制も杜撰だった勘解由小路家に忍びいって前鬼・後鬼の場所を把握した。


北朝後円融天皇永和四年(1378)、運命的な出会いを果たす。それが三代将軍足利義満だ。彼の為に祈祷をおこなった事や彼との話から、有世が武家に天運が傾いている事を痛感して学んだ貴重な歳だった。翌年には義満自立のきっかけとなった康暦の政変を的中させた事で大変気に入られ、穢れた陰陽師という職種では異例の昇殿を許される。


北朝後小松天皇永徳四年(1384)、従三位公卿となり、さらに一代限りではなく公卿家を確立させるというまたも異例の昇進をさせた。


安倍有世は義満の側近としてつねに朝廷よりも室町を優先して儀式をおこない、明徳の乱や楠木正儀の変、明徳の和約や応永の乱等を次々と的中させて先手を打つ事が出来た。その功によって天皇だけがおこなえる五壇法などの国家行事的な祈祷を専任して行わせるまでになり、官位も従二位刑部卿、陰陽頭の独占が認められ、洛中に最も広大な屋敷を持つまでになった。


有世は子々孫々に対して「これからは武家の世である。武家の棟梁に我々の子種を植え付けるべく努力せよ」と遺言したという。そして再び子孫は試行錯誤しつつ失敗しながら、運命の時が来たのであった。


これでプロローグは終わりです。

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