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くもりのち、はれ  作者: 夏みかん
第十三章
80/127

今と昔の幻影-Shuto Side-(4)

珍しく定時で帰ることができた周人はもはやカラに近い冷蔵庫を潤すために駅前にある大型スーパーに立ち寄った。ここは野菜も肉もすこぶる安く、さらにタイムサービスもあってこの時間は多くの主婦でごったがえしていた。1人暮らしを始めて長い周人にしてみれば、1週間の献立を考えて食材を買うことなど造作もない。しばらくは定時が続きそうなのを見越して買い込みをした後、久しぶりにDVDでも借りてみようと自宅マンションのすぐ近くにあるレンタルビデオ店へと向かった。ここ最近、自分の忙しさもあってデートらしいデートも出来ていない上に由衣は恵のフォローや期末テスト、さらには夏合宿の準備で忙しく、明後日のデートが久々にまともなデートということになる。そこで午前中に映画を見た後で昼食を取り、ブラブラとウィンドウショッピングを楽しんで夕食、そしてゲームセンターに行くことになっていた。一通り洋画のコーナーをぶらついた周人だったが、結局めぼしい映画はみな借りられてしまっていたためにそのまま何も借りる事なく家路に着いたのだった。とりあえず朝しておいた洗濯を取り込み、ここのところ簡単な野菜の炒め物が多かった事を考慮して肉料理にした周人は手際よく夕食の準備をすると久しぶりに見るテレビのバラエティ番組を見てくつろいだ。そして9時過ぎにはお風呂から上がると、買っておいた缶ビールの栓を開けながら由衣の携帯に電話をかけた。とりあえず7月末の出張の件を伝える為だ。遠藤にはああ言ったものの、やはり実際若い女性と2人きりで出張となればどこか言い出しにくい。意味もなくドキドキしながらコール音を待つ周人は落ち着かない様子で体をそわそわさせながら由衣が電話に出るのを待った。


『もしもし・・・早いね』


相手が周人だと確認せずにそう言う由衣を由衣らしいと思いつつ、周人はまずどうやって話を切り出そうかと変に迷ってしまった。


「あぁ、ようやく仕事も落ち着いてきたもんでな。でさ、7月の30、31日で横浜に出張になったんだわ」


迷ったあげくにストレートにそう言う自分に苦笑する。


『横浜ぁ!?』

「なんでそんなに怒るんだよ」

『まぁ、私も合宿の日だけど・・・・』

「あ、そうか、じゃぁちょうどいいか」


そう言えばこの間電話したときに塾恒例の夏合宿に同伴すると聞かされていた事を思い出した周人はこれは都合がいいとにんまりしてみせた。


「合宿かぁ、じゃぁ最終日に塾に着くのは夕方か」

『うん・・・・じゃぁ、夜遅くなるの?』

「多分10時かそこらかなぁ、多分だけど」


出張がそんなに引っかかるのか、由衣の返事のトーンは低い。何かあったのかと思いつつ、まずは自分の出張の事から話をする事にした周人は意を決して口を開いた。


「でさ、新人で後輩の女性と2人なんだけど・・・・お土産は忘れずに買ってくるから」


理紗と2人で行く事を告げた瞬間、電話越しながら空気が変わるのを感じた周人はまるで目の前に由衣がいるかのように痛々しい表情を浮かべていた。


「帰ったらすぐに電話するから、ゴメンな・・・・・まぁ明後日楽しみにしてるし。会うの久々だもんな」


その言葉に対する由衣の返事は全て『うん』なのだが、それもどこか感情がないように思える。


「とにかく明後日、迎えに行くから」

『わかった』


低いトーンの言葉だったが、周人は何を問う事もせずに優しい口調で話し続けた。その後すぐに電話を切った周人だったが、これは予想以上に怒っているかもしれないと思いながら開けておいたビールを一気飲みして缶を握りつぶした。それをゴミ袋に入れながら大きなため息をつくとリビングとテレビの電気を消して早々と和室に向かうと布団の上に転がった。


「やっぱ、怒ってんのかなぁ」


小さくそうつぶやいた周人はここ最近の疲れもあってか、そのまますぐに眠ってしまったのだった。


話題のアクション映画は思った以上に面白く、あっという間に2時間が過ぎてしまった感じがした。桜町一の繁華街である桜ノ宮に来たのも久々な2人はここ最近はあまりなかった2人だけの時間を十分に満喫した。昼食はファーストフードで済ませ、午後からは由衣の好きな雑貨屋巡りをした。春にパーマを当てて髪型を変えた周人はそれまでよりかっこよさを前面に押し出したスタイルとなり、並んで歩く由衣にお似合いの男性といった感じになっていた。だがやはり美人で可愛い由衣は周囲の視線を浴びたが、周人も由衣本人も全くそれを気にしない。仲むつまじく手を繋いで歩く2人は初めてデートをした頃と何も変わってはいなかった。変わったのはより深くなった愛情ぐらいなものだ。昨年の『アリス誘拐事件』をきっかけに2人の心の距離は完全になくなっていた。言いたいことを言い、わがままも言う由衣に対し、周人はその全てを受け止めていたのだ。言いたいことを言えずに黙っているよりははっきりそれを表現しようと話し合った結果である。昔と変わらず自分の全てを受け止めてくれる周人を、由衣は心から愛していると言えた。大学でもかなりのイケメン、エリートたちから迫られても決してなびくことはない。外見や経済力では決して見向きもしない由衣は男子生徒たちから『鉄の女』と呼ばれていた。そんな由衣は夕食時に塾の男子生徒とある賭けをした結果、1日デートするハメになった事をすまなさそうに告白し、周人から心配だから尾行すると言われてやや舞い上がってしまった。そのテンションを維持したまま夕食後にプリクラコーナーに向かった2人は由衣のおねだりもあって周人の苦手とするラブラブチックなポーズ、頬と頬をあわせながら抱き合う全身プリクラを撮影したのだった。もはやこれは誰にも見せられないと思いつつもそれを喜ぶ由衣の顔を見た周人は自然と笑みをこぼしてそっと由衣の肩を抱いた。そんな周人に胸をドキドキさせながらも嬉しさを感じる由衣はレースゲームやリズムに合わせて太鼓を叩くといったゲーム存分を楽しんだ。そして時間も頃合いになり、由衣の家へと向かう車の車内ではちょっとした沈黙が降りてしまっていた。さっきまでがハイテンションだっただけに少し心配になった周人だったが、あえて何も言わずにやや混み合っている道路へと車を進めるのだった。


「その後輩って、可愛いの?」


おもむろに口を開いた第一声がそれだったせいか、周人は少し動悸を早めつつ何故か冷や汗のようなものを感じるのだった。


「オレはそう思わないけど、今風な感じで結構可愛いとは言われているみたいだ」

「ふぅ~ん」


意味ありげにそう言う由衣は前を見たままであり、すぐ前をのろのろ走る車の赤いテールランプを受けてその顔は朱に染まっていた。道は広く対面2車線あるのだが、両端1車線を駐車違反の車が占めているため、残りの1車線しか使えずに混み合っているのだ。


「その子は遠藤に気があってな、オレにはつらく当たってくるんだ」


全く進まなくなった前の車にため息をつきながらそう言った周人だが、横でシートに深く身を沈めて自分を見上げるように見つめている由衣の上目遣いの視線に少々たじろいでしまった。


「な、何?」


恐る恐るそうたずねた周人に何も言わずに前を指さす由衣。それを見て前を向いた周人は前の車が走り始めているのを見てあわててギアを入れるとすぐさまその後を追うように車を発進させた。


「で、さっきの視線の意味は?」


ようやく流れ始めた車にホッとした周人はさっきの質問を蒸し返す。由衣はシートの上でもぞもぞしながら態勢をきちんと座り直すように戻しながら小さなため息をついた。


「その子が危険な目にあわない事を祈るだけ・・・・そう思ったの」


今の言葉から由衣の心の中を理解した周人は小さく笑みを浮かべると2車線全てが使用可能になった道路をややスピードを増す勢いで加速させる。かつて自分も同じように周人を嫌っていながらレイプされそうになったところを救われて以降、周人を意識するようになり、ついには好きになったからだ。


「心配ないさ・・・もしそれで好かれても、オレにはお前しかしない。あの時とは違って、今のオレにはかけがいのない大切な人がいるからさ」


運転しながら顔を横に向けて笑顔を見せた周人に由衣はその言葉にやや顔を赤くしながらまたもシートに沈み込むような体勢を取った。


「わかってる・・・・」


ふてくされたような口調が照れ隠しだとわかっている周人はそれ以上何も言わずに車を走らせた。


「私も、デートしたらきっぱり切るから。私も周人しかいないから」

「ありがとう」


ぎこちないながらもはっきりそう言った由衣に優しい口調で礼を言った周人の胸を、何か温かいものが埋めていくのを感じるのだった。そのままあまり会話のない状態で由衣の家の前に着いた2人は別れを惜しむキスをした後、由衣は自宅に、周人も自宅に向けて車を走らせるのだった。車が角を曲がるまで自分を見送ってくれている由衣をミラーで確認していた周人は大通りへと車を進入させながら理紗との出張を考えて少なからず不安を覚えるのだった。


その日の天気は快晴であり、暑さもまた格別であった。天気予報も全国的に快晴と報じており、雨の気配はおろか雲1つない状態で青い空が遙か彼方まで広がっている。そんな夏の空を見上げながら桜ノ宮の駅前で理紗を待つ周人は由衣が向かっている塾の合宿所となる保養所のある方角を見やった。このいい天気の中、自分は暑苦しいスーツを着て何度もハンカチで汗を拭いている。きっと保養所へ着いたらプールにでも入って夏のひとときを満喫するんだろうなぁと勝手に想像しながら、一方で由衣に迫っていると聞かされている中学三年生の男子生徒にはその水着姿を見せたくないとこれまた勝手にやきもちを焼いていた。一泊の出張ということだが基本的にスーツで過ごすため、替えのシャツと下着程度しか入っていない鞄を手に時計を見やる周人は今が待ち合わせの時間5分前だと確認した。この桜ノ宮を出発するのが8時30分。急行電車で都心部へ出てから横浜行きの電車に乗り換えなくてはならない。予定では横浜の工場に到着するのはお昼過ぎとなり、どこかで昼食を取った後に工場内で視察が行われる運びとなっていた。本当であれば車で行きたいのだが、そうはいかない。周人の所有しているマシンであるエスペランサES―41B、通称ジェネシックは今開発している新型マシンのオリジナルである遠藤所有のエスペランサES―41Cフェニックスの兄弟機である。この2台はもともとレーシングマシンを基礎として開発されながら結局データ収集のみで役目を終えた試作マシンなのだ。ル・マン24時間耐久レースで投入された新型マシンのエスペランサNX―913通称アルカディアの派生型であり、ジェネシックとフェニックスをコピーした脅威の性能を誇るこのマシンの原型でもあるために、自分たちによって今開発されている新型機種以上に注目を浴びるのは目に見えていた。だから島原は車で行くことを禁止したのだ。それにジェネシックもフェニックスも試作機ならではの特徴を持っており、乗り手である周人と遠藤のくせが染みこんでしまっているのだ。今回新型車種の基本構造は本社の設計技師がデザインしているものの、車体のベースやソフト等はこの2機から転用している部分も少なくはないのだ。ますます気温が上がるのを感じながら電車での長旅を思って気持ちが重い周人は大きなため息をついてしまった。


「おはようございます。朝から素晴らしい挨拶をありがとうございます」


背後からそう声をかけられた周人は体をビクッと硬直させてからゆっくりと振り返った。そこにはさわやかな真っ白い半袖のシャツに黒いスカートを履き、さらにはマスカラで大きく開かれた瞳に薄いピンクのルージュでキチッと決めた理紗が立っていた。出張とあって派手な指輪やピアスは控えて来たようで、多少化粧が濃いものの、普段よりもおとなしい目のスタイルでやってきたようだった。


「おはよう。すまない、ちょっと暑さに参ってしまって」


自嘲気味にそう言った周人はさわやかな笑顔を見せたが、理紗にはそれが作った笑顔に見えていた。挨拶もそこそこにホームへ上がった2人はあらかじめ用意しておいた切符を全て分配した。万が一何かが起こってバラバラになっても確実に目的地に着けるようにだ。


「しかし、暑いね・・・・向こうも暑いんだろうけど」

「あまり暑い暑い言わないで下さい。余計に暑くなる」


ホームで電車を待ちながらそう話す2人だが、友好的に行こうとする周人と出来るだけ接触を断ちたいと思う理紗とは会話も合わない。仕方なく黙っていようと決めた周人はやってきた電車に乗り込むと1つ空いていた席に理紗を座らせようとした。


「私の方が若いから、木戸さんどうぞ」


座る前にそう冷たくそう言ったが周人は無視をし、理紗はその態度にムカッときたのか黙ってその空席に座った。そのまま相変わらず会話の無い状態で東京駅に着いた2人はすぐさま横浜方面へと向かう電車に乗り込んだ。そこは席も空いており、並んで座った2人だったがやはり会話はない。気まずい雰囲気にいささかげんなりしていた周人だったが、触らぬ神にたたりなしとばかりに沈黙を保ち続けた。そんな状態のまま、やがて電車は横浜駅に到着した。時計を見れば12時10分であり、ちょうど昼食の時間だ。工場はここからタクシーで20分程度。視察開始予定が午後1時半からなので今から昼食を取ってすぐさま向かえば十分に間に合う時間である。とりあえず駅前の和食屋に入った2人はそれぞれお昼の定食をオーダーし、料理が出てくるのを持つだけとなった。相変わらず沈黙が流れる雰囲気に知らず知らずため息を漏らした周人をジッと見据えるように見ていた理紗がおもむろに口を開いた。


「彼女、私と2人きりで出かけてるって聞いてどんな反応してました?」


せわしなく動いている厨房の中の男をぼんやり目で追っていた周人はいきなりのその質問に驚きつつ、理紗に目を向けた。理紗は肘を付いた手にアゴを乗せた体勢でやや上目遣いに周人を見ている。少し間をおいてちょっと肩をすくめる動作をしてみせた周人は今の質問に対し素直に答えを口にした。


「いい気はしてなさそうだったけど、これといって何も言わなかった」


そう言ってから出されていた水を一口飲んだ周人は無表情のまま理紗から視線を外すと再度厨房の方へと顔を向けた。


「どういうきっかけで付き合ったんです?」


あまり気持ちのこもっていない声色だが、興味があるといった感じは出ている。周人は小さな笑みを見せてから理紗を見やった。今の一瞬で見せたその笑みに何か惹かれるものを感じた理紗はそんな自分に嫌悪感を抱きながら周人から顔を背ける仕草をしてみせた。理紗の斜め前に置かれている15インチの古ぼけた黒いテレビがお昼の番組を映し出している。普段見ることのない番組だがどれも主婦層向きで、これといった興味のある事をしているわけではないその画面に目をやった理紗はさっきの周人の笑みを記憶から消すように心の中で念じた。


「彼女が中学生の時に彼女が通っている塾の講師のバイトをしてたんだ・・・・そこでいろいろあってね、お互いに惹かれた。その後すぐカムイに入社したオレはアメリカを拠点に外国暮らし。結局付き合い出したのはそれから3年後、去年の事さ」

「じゃぁ中学生に手を出したんだ?」


まずその『中学生』と言う言葉に不潔感を持ってしまう。理紗の中では美少女に迫るスケベオヤジという周人しかイメージできないのだ。


「いや、そういうんじゃないよ・・・お互いをただ純粋に好きになった、本当にそれだけなんだ」


小さく笑うその笑みの意味が理解できない理紗だが、純粋に彼女の事を好いていた、そして今でも好いている事がはっきりと読みとれた。理紗は表情を曇らせたままテレビから視線を外さない。そんな理紗に苦笑する周人はその中学生当時の由衣の姿を今の理紗の姿に重ねるのだった。あれこれ自分に悪態をつき、バカにしていた美少女がまさか数年後には自分の彼女になるとは思いもしなかったのは紛れもない事実だ。


「本当に純粋だったのやら・・・」


理紗はそうつぶやくように言うと料理を運んで来たおばさんの方を見るのだった。結局その後はまたも会話はなくなり、そのまま昼食を終えた2人はすぐにタクシーを拾って横浜の工場へと向かうのだった。


横浜の港に近い埋め立て地にその工場は存在していた。以前は最寄りの大きな駅から朝夕だけ運行のローカル路線の電車か、もしくはバスによって行き来されていたこの埋め立て地も今ではカムイの他に数社の工場が建ち並び、港の整備事業と商業区画の発展にともなって近くまで来ていた地下鉄を延長した為に交通の便はすこぶる快適になっていた。大型電機の量販店など、ここ数年で随分様変わりしたこの埋め立て地だが、十年前から建てられているカムイモータース横浜港工場だけはほとんど形を変えずにそこに存在していた。4つの大きな建物と3つの大型工場からなるここは周人たちが勤めている桜町池谷工場の約2倍近い敷地面積を持ち、主に市販車の組み立て作業が行われているのだ。基本的にカムイは車種によって工場を区分けしている企業であり、セダンタイプを都心部で、都心郊外ではレーシングマシンを開発しているのだ。島原が所属している関西支部では4WD車をメインとした工場が多く、その勢力は西日本に片寄っていた。関東地方にはエンジンの開発工場を多く、そして広い地域に持っているカムイが、レース用のエンジンはより広い敷地でテスト走行が可能な海外に重点を置いて開発が進められている。今回周人たちは市販車の新機種として高級感を持った一般のセダンタイプを開発しているため、その組み立てが行われているこの横浜港工場へとやって来たのだ。あらかじめ発行してもらっている許可証のパスを正門の守衛に見せた周人と理紗はそのまま設計セクター事務所と呼ばれる6階建てのグレーのビルへと向かって歩いた。1つ1つの建物が池谷工場とは違い、かなり大きい物となっている。桜の木が青々とした葉をつけている並木道を歩きながら、2人は工場内のスケールの大きさに圧倒されていた。アメリカの工場はここよりも遙かに敷地は広かったが、こうまで大きな建物が多く並んではいなかった事を思い出す周人はふとスゴウF1レーシングチームのメインスポンサー企業であるアメリカのクロスフォードインダストリー社令嬢、アリス・クロスフォードの顔を思い浮かべて1人苦笑した。昨年秋に周人を追って来日したアリスはボディガードを務める男に誘拐されたのだが、危機一髪のところで周人に救われていたのだった。あの事件以来アリスからは何の音沙汰もないが、逆にそれは周人にとってはありがたかった。アリスの来日で由衣との仲がぎくしゃくしたのは確かだが、それによってより一層絆が深まったのもまた事実である。そんな事をぼんやり考えている周人をチラッと見上げるようにして見やった理紗は小さなため息を漏らすと、やや歩幅を広げて早足になりながら目的のビルへと入っていくのだった。入ってすぐに受付嬢が2人座っており、その美人さに2人は目を見張った。どこぞの高級クラブに勤めているような化粧の濃い、それでいてはっきりした顔立ちの女性が可愛い笑顔とともに会釈をする。たしかに聖子も可愛いが、こちらはどちらかと言えば清楚な感じといったところか。おそらく工場長及び人事の趣味が色濃く反映されているなと思う2人は整った顔立ちをしている受付嬢に軽い会釈を返しながらエレベーターホールへと向かった。建物の構造は池谷工場のそれと似ている感じがしながら、周人たちは6階にある工場長室へと向かった。今まで暑い外にいたせいかやや冷房がきつく感じたが心地よい気持ちにはなれる。2人は6階の廊下の突き当たりにある木で出来た立派なドアの前に立つと2度コンコンとノックをした。中から女性の声で返事が返ってきた後、ゆっくりとドアは内側に向かって開き始めた。そのドアの向こうから姿を現したのはやはり下の受付嬢に似た感じの容姿を持つ美人秘書であった。受付の2人よりかは年上だが、かなりの美人である。ホステスのような濃い目の化粧を施しているその女性はにこやかに微笑むと2人に中に入るよううながした。かなり広めのその一室のそのさらに奥には大きな木製の机に黒い皮のソファが置かれており、周囲には多くの棚にぎっしりとファイルが並べられていた。机の上にはカレンダーやガラスの灰皿が置かれており、パッと見た感じでは社長室という感じとなっていた。実際池谷工場の工場長室に入った事がある周人にしてみればここの部屋は異常なほど贅沢になっている。おそらく個人の趣味なのだろうが、島原が言っていた若い女性が好きだという話からしてあまりいい趣味をしていないと思う周人はソファがくるっと回転してそこに座っている人物が姿を現すのを見て少しばかり姿勢を正した。


「やぁ、いらっしゃい。君が木戸君だね?噂はいろいろ聞いていますよ。社長からもね」


思っていたよりもすらりとした体型をした白髪混じりの男性はやや垂れ目がちの目をしばたかせた状態で椅子から立ち上がるとしっかりした足取りで手を後ろに組みながら周人の方へと近づいて来た。まるでテレビドラマを意識したかのような演出と話し方に明らかに不快感をあらわにした理紗をチラリと見やったその男は口の端を吊り上げるように笑みを浮かべるとまずは周人に手を差し出して握手を求めた。


「池谷工場から来ました木戸です。こちらはアシスタントの宮崎です。どうぞよろしくお願いします」

「ほぉ、これはなかなかのべっぴんさんだ・・・・ここの工場長を務めさせてもらっている永井だ。よろしく頼みますよ」


にこやかな笑顔を見せながら握手を交わす理紗と永井だが、理紗は人なつっこい笑顔を浮かべる永井がほんの一瞬見せた自分を値踏みするかのような視線に背筋が冷たくなるのを感じてしまった。上田に感じるものに似たその嫌悪感は全く消える気配を見せない。


「さっそくですみませんがニューマシンを見せていただきたく思います。できれば工場内も」


周人も今の視線を見ていたせいか、すっと一歩前に出て永井の視線を理紗から逸らすようにしながらそう切り出した。永井はまず必要な物以外の荷物を隣の部屋、応接室に運ばせると客用の作業服と帽子を秘書に用意させた。薄いブルーの作業服と同じ色合いの帽子を身につけた2人はまずすぐ下の階へと案内された。そこは車体の設計を行う業務のフロアとなっており、細かく区分けされるように立てられている白い板がいくつも見えた。その1つの区画に案内された周人と理紗はここでの開発責任者である工藤正一という四十代半ばのかっぷくのいい男性を紹介された。かつては香と一緒に仕事をしていたこの工藤は主に車体の設計を担当しており、周人のかつての上司の大神と双璧を成す切れ者として有名でもあった。永井に替わってこの工藤に工場を案内されることになった2人は愛想も良く、人当たりも良い工藤に好感を得つつ、永井がいなくなって良かったとホッと胸を撫で下ろした。


「可愛い助手さんですね・・・工場長の好みだから気を付けてね」


そっと理紗の耳元でそう言う工藤はウィンクをしてみせる。そんな工藤に嫌味のない所を見せられた理紗はにこやかに微笑むと周人をさておいて工藤に並んで歩き出した。


「新型の組み立てはほぼ終えています。問題はソフトですね。最近の車は電子機器を積みすぎて困ってしまう。お互いが干渉しあってすぐに誤作動するし・・・・」


周人にそう言う工藤は困ったように帽子の上からぼりぼり頭を掻くようにしながらそう言った。同感ですと短く答えた周人だが、その顔は穏やかである。とりあえず一通りの施設を見学し終えた2人を、工藤は目的地である一番大きな工場となっている組み立て作業場脇にある休憩ルームへと案内してくれた。


「歩きづめで疲れたでしょう?」


言いながら長テーブルに座るよううながした工藤は2人にコーヒーを用意してくれた。


「いえ、しかし広いですね・・・・施設の整い方がケタ違いですよ」

「組み立てがメインですからね・・・ここは」


長椅子の対面に座る工藤はにこやかにそう言うとアイスコーヒーを一口含む。説明しながらの案内のため、喉が乾いていたのだろう。


「この後すぐ試作機のある場所にご案内します。ところで、今晩はどうされるのです?」


そう言えばどうするかを聞かされていないなと思う理紗は何気なしに周人の方へ顔を向けた。島原は永井が女好きだと言っていたが、さっきの視線でまさしくその通りだと思う理紗は少々不安を感じていたのだった。


「今日は他にも行くところがありまして、2人で夕食を済ませて即ホテルです。明日もありますしね」


横に座る理紗がうまく嘘を言えるものだと感心したその言葉を聞いた工藤はなるほどとつぶやくように言うと苦笑を漏らした。


「うちの工場長は女癖が良くなくてね・・・その方がいい。秘書も受付も皆趣味で選んでいるのさ・・・・あの年で見境なくってみっともない」


明らかに永井を好いていないとわかるその言葉を聞いた周人は苦笑しながらうなずいた。理紗は永井の顔を思い出しながら身震いし、表情を曇らせる。


「まぁそれもあと2年の辛抱ですけどね。あと2年すれば定年だし」

「そうですか・・・」

「そうです。何にせよ、彼女は工場長の好みのタイプだけに気を付けた方がいいですね」


工藤は落ち着いた口調ながら目を鋭く光らせてそう言った。その視線の意味をくみ取った周人は黙ってうなずくとコーヒーを飲み干し、理紗は永井に迫られるのを想像して鳥肌を立てていた。


「ところで、2人はいい仲なんでしょ?」

「はい?」


突然話題を変えた工藤の言葉に周人も理紗も呆気に取られてしまう。ここまでまるで会話もなくやってきた2人は何故そう言われるかがわからないのだ。逆に仲が悪そうだと言われれば納得できるのだが、その逆を言われればその意図を探ってしまう。


「いえ、彼女とはそういう関係ではないです。仕事上の同僚ですよ。僕には彼女がいますし、宮崎にも想う人がいますから」


それを聞いた工藤は2人を交互に見やりながら不思議そうな顔をしてみせる。


「いや、あまりになんかわざとらしく話しないみたいだったから・・・・そういう関係を悟られない為かなぁなんて思ったんだけど・・・・・」

「単純に仲が良くないだけです」


言葉を選びつつそう言った工藤にピシャリとはっきり言いきった理紗は素知らぬ顔をしながらコーヒーを飲む。工藤はどう答えたものかと周人を見やったが、周人は小さな笑みを見せたのみで何も言わずにうなずくだけだった。


「人間関係もいろいろって事か」


納得したようにそう言うと、小さな笑顔を浮かべる工藤は行きましょうかと2人をうながすのだった。

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