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くもりのち、はれ  作者: 夏みかん
第十三章
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今と昔の幻影-Shuto Side-(3)

結局完全に徹夜をしてしまった周人はいつも自分が出勤してくる時間にようやく全ての書類を揃え、気分転換にとリフレッシュルームへと向かった。今日は島原と遠藤が会議でいないため、周人が苦手としている女性2人と仕事をしなければならない。本来であれば完全に徹夜をした場合、翌日は休暇を取るものだが、今の仕事量からそれは不可能に近かった。自動販売機の紙コップでのコーヒーが出来る間に軽く体をほぐすようにした周人はいくつかある丸テーブルにつくと胸ポケットからタバコを取り出して口にくわえる。そしてタバコの箱と同時に取り出した使いつくしているせいかややくすんだシルバーのジッポライターで火をつけた。傷が目立つそのジッポライターの両横には周人には似つかわしくないピンクのハートがやや立体的に飾られている。ひとしきり胸に煙を吸い込んだ後、ゆっくりとそれを吐き出すようにする。最近は基礎体力トレーニングの一環としてタバコの数も減らすようにしているだけに、この一服はたまらないほどにうまかった。ゆっくり楽しむようにタバコを吸いながらコーヒーを飲む。そうして朝の至福の時間を過ごし終えた周人はタバコを灰皿の上でもみ消すと残ったコーヒーを一気にあおるようにして飲み干し、空になったコップをゴミ箱に捨てながらリフレッシュルームを後にした。時計を見ればそれなりにいい時間になっている。自然とこぼれるあくびを噛み殺しながらエレベーターホールへと向かう周人は人通りの多くなってきた玄関ホールの前で一旦立ち止まった。すでに受付の席についている聖子に、なにやら大柄な男が話しかけているのが見えたのだ。しかも、明らかに聖子は困った様子を見せている。周人は小さなため息を鼻でつくとゆっくりした歩調でそちらへ向かっていった。大柄の男は天然パーマのようであり、一見してみればパンチパーマに近い状態となっていた。いつもと同じ白いポロシャツに黒のズボンを履いたその男は受付の机の上に腕を置き、体を斜めにさせながらにやけた顔を隠すことなく聖子に何かを一生懸命話しているのがわかる。聖子の表情から自分が嫌がられているとわからないのか、男の口は止まることをしなかった。


「おはようさん」


そんな男の会話など無視するかのようにそう挨拶をした周人にどこかホッとした表情を浮かべた聖子は困った顔をやや崩すようにしながらぎこちない笑顔で挨拶を返す。話を邪魔されたその男は肩越しに周人を睨むようにしながらも何も言わずにただそのままの態勢を維持していた。


「ねぇ、アドレス教えてくれないかなぁ?ダメ?ねぇ?ねぇ?」


体と顔に似合わない甘えた口調で聖子にそう迫る男はメガネをかけたいかにもモテそうにないといった容姿をしていた。その上この口調である。これではモテるわけがないと誰にでも理解できた。工場内でも悪い噂の絶えないこの男の名は上田直哉といい、現在この工場内でのリストラ最有力候補となっている。上司にはいいところを見せようとあれこれ画策して、それだけはなんとか逃れてきているのだが、はっきり言ってそれも時間の問題である。仕事のミスも多く、かといってそのフォローもしない。年も四十歳直前でありながらいまだに独身であり、恋人と呼べる女性もここ十数年いない状態だった。さらに三十代半ばで突然目覚めたかのように携帯メールにはまり、今では出会い系サイトを通じてメル友を増やしている状態にあった。そんな彼が今一番お気に入りなのがこの聖子なのだった。ことある事に仕事を抜け出して聖子に迫る上田の目的は言葉通りメールアドレスを聞きだして親密になろうというものだ。しきりに聖子に迫りながらも顔と胸とを交互に見やるその顔はどこか犯罪者にも似た印象を受けることもしばしばだ。


「アドレスは前から言ってますように教えられないんです」


困りながらもやんわりとした口調で断っているのは上田が怖いせいである。もはや目線すら合わせられずにややうつむく感じでそう言い返すしかない聖子はほとほ困り果てた感じでギュッと下唇を噛みしめた。


「上田さん」


その時、不意に背後から周人が声をかける。身を乗り出すようにして聖子の方へ体を向けていた上田はその声に対しやや苛ついた感じで肩越しながら周人の方へと振り返った。その瞬間、上田は額にとんでもない衝撃を受けておもわずガクンと膝から崩れ落ちるように床にへたり込んでしまった。呆然と目の前に立つ周人を見やるがその両手は下げられたままであり、彼が何かをしたようには思えなかった。それに上田にしてみれば突然額に衝撃を感じただけで、周人が何かをすればすぐにわかったはずだ。


「何やってんです・・・大丈夫ですか?」


怪訝な顔をしながら座り込んでいる上田を見やる周人はそう言うと腕組みをしてからさげすむような表情を浮かべて見せた。上田はその顔に怒りをあらわにするものの、受付の台を持って何とか立ち上がるのがやっとだった。


「大丈夫に決まってる!」


足がガクガク震えながらもかろうじて立つことが出来た上田は周人を睨むようにしたまま額にそっと触れてみた。だがそこには何の異常もない。


「真っ赤・・・ですよ」


驚いたような聖子の表情から、額がかなり赤い事は理解できた。だが、自分からは決して見えないその場所がどういう状態にあるのかが知りたい上田は聖子に気持ちの悪い笑顔を見せてから近くにあるトイレへとフラフラした足取りで向かっていった。


「ほんじゃオレもトイレに行ってから戻りますか」


聖子に小さな笑顔を見せながらそう言うと、周人は軽く片手を挙げて見せた。


「あの・・・・今の、木戸さんが?」


うつむいていたせいもあって何が何だかわからなかった聖子は恐る恐るそう聞いてみる。だが、周人は肩をすくめてみせただけで何も言わずにトイレへと向かっていった。


「何がどうなったんだろ・・・・」


小首を傾げる仕草を取りながらも表情を引き締めた聖子は次々に出社してくる社員たちに笑顔で挨拶をしていくのだった。


鏡の中の自分の額は赤い光を灯しているかのように点を描いていた。ズキズキ痛むわけではないのだが、そっと押してみればやはり痛みを感じる。何かが当たったとかしか思えないその赤い腫れが何がどうなって出来たか全くわからない上田はしかめっ面をしながらさっきの状況を思い浮かべていた。周人に名前を呼ばれて振り返った瞬間に額を中心に頭全体に衝撃を受けて目の前が真っ暗となった。そして気が付いたら尻餅を付いていたのである。その状況から判断しても周人が何かしらをやらかしたとしか思えないのだが、周人に変な動きはなかった。赤くなった額をさすりながらその原因を探っている上田の後ろを、悠然と歩いてトイレに入ってきたのはその周人であった。鏡を通じて周人を睨むようにしていた上田は便器の前に立った周人の背後に忍び寄ると、そこで仁王立ちするかのように腕組みをし、上からねめつけるように鬼の形相を浮かべた。用を済ませた周人は振り返りざまにその上田をチラッと見たのみで、すぐさま手を洗いに洗面台の方へと向かっていく。ますますその態度が許せない上田は腕組みしたまままたもや周人の背後に立つのだった。


「お前以外に考えられないんだよなぁ、さっきの」


手を洗う周人の背後で凄みをきかしたような低い声でそう言う上田はアゴを下げて上目遣いに鏡の中の周人を睨んだ。


「だから?」


キュッと蛇口を閉じ、ズボンのポケットからハンカチを取り出しながらそう言う周人は鏡の中の自分に視線を走らせているのみで一切上田の方を見ようとはしなかった。その態度に上田の怒りは最高潮をむかえ、腕組みを解くと皮膚の色が変わるぐらいにギュッと両拳に力を込めた。そのまま周人の振り向きざまにネクタイの結び目を掴むとグッと自分の方へと引き寄せる上田に、周人はされるがままに脱力した状態で上田の鼻先に顔を寄せただけだった。


「お前、みんなにチヤホヤされて調子こいてるんじゃねーの?」


息だけではなく唾すら吹きかけんばかりに怒声を張り上げる上田は、半分閉じた目をしながらやれやれとばかりにため息をつく周人を見てこめかみに青筋を立てた。


「噂以上に臭いますね、体臭と口臭・・・・女子社員の中で結構噂んなってますよ、あんた」


自分より先輩に言う言葉遣いではない上に、明らかにバカにしたその口調は上田の中で何かを弾けさせるには十分だった。


「ナメんなよ・・・これでも昔は周囲が手が付けられない程の男って評判だったんだからなぁ」

「で、今では女子社員に手を付けようってしてる・・・それにある意味、手を付けられないってのは昔から一緒なわけだ」

「ケンカの仕方も知らないガキが・・・」


もはや怒りも限界に達した上田が拳を振り上げようとした瞬間、周人はスッと音もなく右手を挙げると上田の顔の前にそれを持っていく。さらに円を描くような形を取るよう折り曲げた中指の先を親指で押さえて完全なる円形にするとそれを上田の額の傍に持っていくのだった。


「ケンカの仕方を知らないのはあんただよ。こうやって胸ぐらを掴んで引き寄せるって事は無防備に相手を自分の間合いに引き寄せてるって事を覚えておいた方がいい」


そう言った瞬間、周人は中指を弾けさせるように親指を離し、さっきから赤くなっていた額の部分に強烈なデコピンを喰らわせた。それもただのデコピンではない。まるで太いゴムを伸ばしきった上にそれを解放した時のような音、バチンッという物凄い音がトイレの中に響き渡ったのだった。上田はそのまま白目を剥き、大きな体を後ろに倒れ込ませるようにトイレの床に大の字になった。額はますます赤く腫れ上がり、明らかにコブとわかる突起になってしまっていた。


「唾飛ばしやがって・・・顔も洗わなきゃだめだな・・・」


周人はそうつぶやくと倒れ込んでいる上田を無視して再度手を洗うと今度は丁寧に顔を洗い出した。さっき吹きかけられた息と唾の不快感を拭うためである。そして綺麗に顔と手をハンカチで拭き終えた周人は倒れている上田を見て疲れたような表情を浮かべると小さなため息をついてみせた。


「さっきの一撃で大人しくしてればよかったのにさ・・・」


あの時、聖子に詰め寄っていた上田を背後から呼んだ周人は振り返るその瞬間に素早くデコピンを喰らわしていたのだ。振り向きざまであった事と、目にも留まらぬその手の動きで放たれたデコピンは上田の意識をほんの一瞬だけ奪っていたのだ。


「遅刻しないうちに起きろよ」


さも意識がある相手に向かって言うようにしてからトイレを後にした周人だが、上田は完全に意識を失っており、しかもここは来客者以外はほとんど使われることがないために、彼が目を覚ましたのは掃除を担当している用務員のおばさんに起こされた十時過ぎの事であった。


周人が自分の席に戻って3分もしないうちに理紗と香がほぼ同時に出社してきた。今日は遠藤がいないということもあってか、挨拶をする理紗の声もいつもにも増して素っ気ない。だがそんな事には慣れている周人はいつも通り挨拶をすると気怠そうに座る香にも挨拶をした。朝が弱いのか、香はいつも愛想がない。それでも島原にだけは元気良く挨拶をするのを知っている他のメンバーだがそこはあえて何も言わなかった。やがて始業時間となり、まるで日課のごとくガサガサとパンを食べる香を無視して仕事を進める周人と理紗だったが、パンを食べ終えた香の攻撃にいきなり憂鬱な気分にさせられてしまうのだった。


「木戸君、ちょっといいかしら?」


周人の作ったトレース用原稿を見ながらそう言う香の口調は明らかに不快感を表していた。いつもは周人に冷たい理紗もこの時ばかりは周人に同情する。特に島原がいない今日は香の独壇場だ。


「これ、すごくわかりにくいんだけど、どういう事かしら?」


突き返すように原稿を周人に向けて渡す香はふてくされた顔をしながらキツイ目ですぐ横にやってきた周人を見上げた。だが周人はそんな視線を気にすることなく丁寧な口調とわかりやすい言葉で一通り説明を済ませた。だが、それでも納得いかないのか香はそれを奪い取るように受け取ると放り投げるようにして原稿を机の上に置いた。


「ま、いいわ・・・・何かあればあなたの責任になるわけだし」


たしかに原稿を見ながらそれをパソコンのデータとして作成するのは香である。だが最終的にそれをチェックするのは原稿を作成した周人の仕事であり、間違いがあれば周人の責任になってしまうのだ。ふてぶてしい態度で再度トレース作業に戻った香にすみませんと言ってから席に戻った周人は今の事など忘れたかのように仕事を再開していった。そんな周人をチラッと見る理紗は凄いなぁと思う反面、どこか生意気な感じがして嫌悪感をあらわにするのだった。その矢先に電話が鳴り、理紗がそれを取って応対するとすぐさま香へと電話を回した。それを横目で見る香はめんどくさそうな明らかにうっとおしいといった顔をしたのだが、理紗の言葉を聞いてその態度を一変させた。


「島原主任からです」

「それを早く言いなさいよ!」


ひったくるように受話器を受け取り、点滅している1番のボタンを押す前に一つ咳払いをしてから電話に出た香は今さっき周人としていた会話からは想像もつかない可愛らしい声色で第一声を発した。


「はい、春木でございます」


思わずズッコケそうになる周人だったが、これにももう慣れっこである。理紗が遠藤に猛アタックをかけているのと同時に、香は島原に猛アタックなのはもはや周知の事実であるからだ。親睦会において遠藤の素性を聞いた理紗がその財力を目当てに猛アタックを開始したというのはよく覚えている。だが香が島原の前では大人しい女性を装っていることに気付いたのはここ最近の事であった。何がどうなってこうなったのかは誰にもわからない。だが三十四歳にして恋人もいない香にとって関西支社でも有望株な島原は年もそう違わないためにターゲットにしたのではないかと推測されていた。やれやれといった面もちで香を見やりながらも今が集中するチャンスだとばかりに仕事に専念する周人は今日こそ早々と仕事を切り上げて帰りたいと切実に願うのだった。


終業のチャイムが鳴る5分前から鞄に手帳やら財布、そして携帯電話を入れ始めていた香はチャイムと同時にパソコンの電源を切るとさっさと帰ってしまった。朝に香宛にかかってきた島原からの電話によって徹夜までとは行かなくてもそれなりに残業が決定した周人は完成したばかりの新作プログラムが入ったCDロムを持って席を立とうとした。


「お疲れ様でした」


朝同様素っ気ない挨拶をすると、いつものブランド物の鞄を手にした理紗はタイムカードを手にしたままジッと周人の方を見据えるようにしてみせた。


「何?」


さすがにその視線に気付いた周人がそう言うと、理紗はどこか小馬鹿にしたような目で周人を見ながらタイムカードを押した。


「別に・・・」


ガシャンという音を響かせて時間を記録した理紗はカードを元あった場所に戻すとさっさとオフィスを去っていってしまった。


「なんか頼んないのよ、あいつ」


自分の事は棚に上げ、香にあれこれ言いがかりを付けられてもまったく動じない周人にどこか腹立たしさを感じていた理紗は吐き捨てるようにそう言いながらエレベーターホールへと向かった。だがそこで周人の次に、いやこの工場内で一番嫌いな人物と遭遇した理紗はあからさまに不機嫌な顔をしてみせた。


「やぁ、今帰り?」

「見ての通りです」


周人に言うよりももっと冷たい、全く感情のこもっていない声でそう早口に言う理紗は決してその人物の方を見ようとはしなかった。ずれかけた眼鏡を直しつつ落ち着きなく瞳を動かしながらそっと理紗の横に立ったのはいまだに額の赤い上田であった。そしてやってきたエレベーターにサッと乗り込みつつ、この上田と密室で2人きりになることが嫌だと思う理紗だがとりあえず今は一刻も早くこの男と離れたいという思いでいっぱいだった。理紗に続いてどこか不審な動きでエレベーターに乗り込む上田を一瞬だけチラッと見やった理紗はその顔から感じる違和感に首をひねった。操作ボタンのすぐ脇に立った理紗に対し、上田は扉を挟んで反対側、ちょうど扉の合わせ目に鏡を置いた状態で向かい合わせの位置にたたずんでいた。チラチラ自分を見やる上田の視線に悪寒を感じながらももう1度違和感の元であるその額に目をやった。やはりそこは赤くなっており、まるで丸い赤いシールを貼り付けたかのような状態となっていた。その理紗の視線に気付いた上田は赤い額をさすりながら横目でジトッと理紗を見ながらこういう状態になってしまった経緯を勝手に話し始めた。


「いやぁ、これさ、朝に君んトコのグループの木戸のヤツにやられてね。あいつ、会社で先輩に暴力ふるいやがってさぁ・・・・」


聞いてもいないのにそう説明されたが、あの周人がそんなことをするはずがない、出来るわけがないと思っている理紗にとってみれば自分が嫌っている男の言い訳などどうでもいい。しかも周人の名前を出されてさらに気分が悪い理紗は早くエレベーターが着くことだけを願い続けており、上田の話など半分も聞いていなかった。


「そうですか、ま、災難でしたね」

「本当に災難だったよ・・・しかも誰も信じてくれないんだよね」


結局用務員のおばさんに起こされ、10時にオフィスにやってきた今朝は遅刻扱いされた上に額に視線を注がれ続けた上田はこれみよがしに周人にやられたと言いふらしたのだが、誰も、特に女性陣には全く信じてもらえなかった。絶対に彼がそんな事をするはずがない、よしんばしたとしても自分が先に手を出したのではないのかと言われる始末である。しまいには誰も相手にしなくなってしまったのだ。これを見越しての周人の攻撃だったのか思う上田は今日一日イライラしながら過ごしたのだった。


「参ったよ・・・オレは何も悪くないのにさ」


そのつぶやきはエレベーターの扉が開くのほぼ同時であった。理紗は上田にお疲れさまと素っ気なく言い放つとさっさとエレベーターを後にした。その背中を追うように早足で歩く上田は駅まで一緒に帰ろうと声をかけようとしたのだったが、理紗はたまたま出くわした別の課の同期の女性社員と一緒になり、その女性を苦手としている上田は渋々自分の車が置いてある駐車場へと1人寂しく向かうのだった。


この日は残業者がほとんどいないせいか、フロア全体がかなりしんと静まりかえっていた。ざっと見渡す限りだが、周人から見える残業者はわずかに3人ほどである。ようやく自身の仕事も一段落してあとは帰るのみとなった周人が椅子に座った状態で背伸びをしながら少し離れた柱にかけられている時計に目をやれば時刻は午後9時20分であった。今日は早く帰れるとパソコンの電源を落とそうとマウスに手を伸ばし、帰り支度を整える。今日も徒歩で西桜花中央駅までの道のりを歩かねばならない周人だったが基礎体力作りの一環としているため、苦ではない。そして会社を後にし、自宅近くのコンビニで夕食の食材を買って自宅に帰り着いたのは10時半過ぎとなっていた。簡単な炒め物を作り、それを食べながらふと何かに思い当たってテーブルの上に置かれた携帯電話を見やるが、いつもなら来ているはずの由衣からのメールがない。何かあったのかと思いつつまずはメールを送った周人は返事を待つ間に夕食を平らげ、さらに洗い物を片づけていると突然流し台の脇に置いていた携帯電話が着信を告げる発光とバイブの振動を始めて流し台へと動いていくため、あわててその電話を拾い上げた。電話の液晶の小窓を覗けば、『由衣』と表示され、メールではなく電話の着信を告げていた。一旦心を落ち着かせてから電話に出た周人はこんな時間に電話がかかってくることをやや不審に思っていた。何かあったのかと心配しながらなるべく落ち着いた声を出す。


「もしもし」

『あ、周人?私、由衣』


思っていたより落ち着いた口調の由衣にホッとした周人だったが、続けざまに発した由衣の言葉に表情を曇らせるのだった。


『実は今日、恵さんが倒れたの・・・今塾長が家まで送ってったトコなんだけど、仕事引き継いでやらなきゃいけないから、今日は徹夜かも・・・』


その言葉を聞いて少なからず動揺した周人は軽くタオルで手を拭くと洗い物を中断してリビングの絨毯の上に座った。以前から忙しく、恵が無理して頑張っているとは聞いていた周人だが、まさか倒れるとは思っていなかった。それに塾での忙しさ、精神的な疲れも知っている経験者の周人にしてみればどこか他人事のような気はしなかった。逆に言い換えれば、いつ自分もそうなるか、また由衣もそうなるかもしれないという危険性をはらんでいるという事になる。


「そうか・・・無理しすぎたわけだな・・・・」

『うん、だから当分メールとかいつもの時間にできないかも』

「それはかまわないよ」


元々自分のわがまま、忙しさで由衣との電話やメールも制限してしまっていた周人にとって、それに関してとやかく言えた義理はない。とりあえず今は恵に続いて由衣までもが倒れる事態だけは避けて欲しいと願うしかなかった。


「お前も、無理するんじゃないぞ」

『うん、私は無理しないから。というかぁ・・・周人に言われたくないけどね』


真剣な口調の周人に対し、由衣の口調は苦笑が混じったものになっていた。その返事を聞いて小さな笑みを浮かべた周人はそのまま塾長である康男に電話を代わってくれと要求した。恵の容態の詳細と今後の事について話しておきたかったのだ。


『・・・というわけでな、無理させてしまった。すまないと思っているよ。もちろん吾妻さんには無理はさせないから。倒れさせたら君に殺されかねないからね』


軽い挨拶を交わした後、簡単に恵が倒れた経緯と容態を説明した康男はそう言いながら真剣な顔をしていた。実際由衣を倒れさせでもしたら周人が黙っていない事は明白である。さすがに殺しはしないだろうが逆鱗に触れる事は必至だ。


「青山さんにも無理をさせないで下さいよ。彼女も大事な友達ですし、由衣の親友でもあるんですからね」


少々キツイ言い方をしながらも、周人はさっきの康男の発言に苦笑していた。さすがに自分をよくわかっていると判断できたのは自分が『魔獣』と呼ばれていた頃をよく知っているせいだと思いながら、また冗談抜きで周人の由衣への愛情を知っているからだとも思えた。


『わかっています、申し訳ない・・・・』


最後に康男はそう言うと、見えない電話の向こうの周人に向かって頭を下げた。その後すぐに由衣へと電話を代わった康男は東塾へ向かう準備を整え始めた。


『じゃぁ、ゴメンね、連絡遅れて・・・』

「気にするな、仕方ないさ。まぁ気を付けてな。でも、まさか1人で徹夜じゃないだろうな?」

『まさか!三宅君も一緒だよ』


過去に未遂とはいえ何度か襲われている由衣を心配しての事だったが、やはり1人で徹夜させるほど康男はバカではない。それに光二という人物を少なからず知っている周人は一応納得し、ホッと胸を撫で下ろした。本来であればすぐさま駆けつけて手伝ってやりたいのだが、自分も昨夜徹夜しており、さらに残業までして疲労も大きい。とにかく今は自分も休みが必要だと判断した周人は光二の人間性に全てを委ねて任せることにした。


「じゃぁしっかり頑張れよ、無理しない程度にな。それと三宅君に伝言だ。『襲うならそれなりの覚悟を持ってどうぞ』ってな。何かあればすぐ連絡をくれ」


冗談交じりの伝言を交えつつそう言った周人は最後の言葉だけはやや強めにそう言った。光二が自分の親友である哲生が師範を務めている合気柔術の道場に通っていることはその哲生から聞かされて知っている。だが、まだ始めて半年程度の腕前ではどこまで戦えるかはわからないためそう言ったのだ。由衣は今の周人の言葉に感謝しつつ、おやすみなさいの挨拶をして電話を切ったのだった。周人はしばらく携帯電話を見つめたあと、マナーモードを解除して着信メロディが鳴るようにしてから洗い物の続きをし、風呂を洗いにいくのだった。


周人たちの頑張りで新車種の開発は順調に進み、予定以上の仕上がりとなっていた。遠藤が担当した車体へのソフト書き込みも、周人の予想以上の働きで納期よりも2週間近い仕上がりを見せていた。横浜支部の工場で組み上げが進む試作1号機も間もなく完成となっている。後はそれによるバグ取り等があるだけでこれからは少々暇になってくるだろう。そんな矢先、周人は理紗と共に島原によって会議スペースへと呼ばれていた。いくつかある会議机のうち、一番最小人数である4人が座れるスペースへと案内された2人はどこかぎこちない態度ながら椅子に座るのだった。


「さっそくやけど、7月の30日、31日で横浜へ行ってもらう事になった。工場での試作機視察及び問題点の抽出が仕事や」


言いながら横浜での現在の進行状況が記載された用紙を配る島原は渋い顔をしている理紗を見やって苦笑した。


「宮崎さんには木戸のフォローをしてもらうのと同時に問題点提議の記録をしてもらう」


肘をついて手を合わせるようにした島原は鋭い視線を理紗に向けながらやや低い声でそう言った。上司の命令で、しかも真剣な口調で言われればいくら今時の若い女性とはいえ行きたくないとは言えない。渋い面をしながらも小さくうなずいた理紗の横では数ページある書類に目を通しながら横目で一瞬理紗を見た周人がいた。


「この量なら1日で終わりませんか?」


書類を見た限り1日で終わりそうな内容であったのだが、島原の返事は違った。


「オレもそう考えたんやけどな、向こうの工程上、31日にソフトの書き込み及び問題点提議の現場会議を行うんやって」

「つまり30日はまるっきりの視察、問題点に関しては31日に、という事ですね?」

「そういうこっちゃな」


周人の言葉に理紗も渋い顔を解く。出張自体は悪くない。だがその相手が遠藤ではなく周人だというのが嫌なだけだ。しかし会社からの命令であれば異議を申し立てる事はできても人選をやり直すことはしないだろう。特に島原はそういう性格だ。


「向こうの工場長は若い女性が大好きや。夜も食事に誘われるかもしれへんけど、うまくごまかして逃げとけよ。へたしたら触られるだけではすまされへんかもしれへんからな」


島原は理紗に視線を向けながら真剣な面もちでそう言った。怖い事を言われた理紗は明らかに困ったようなビックリしたような表情を浮かべて島原を見つめている。ただでさえ周人に対してどこか危険を感じている理紗にしてみれば、その工場長から逃れたとしても周人が何かをしてくるのではないかと危惧してしまったのだ。だが横に座る周人は涼しい顔をしたまま了解しましたと短く答えたのみで、あとは一切そのことに触れなかった。結局その後すぐに話は終わり、通常業務へ戻った2人だがその日1日理紗の表情が晴れることがなかった。


「遠藤君、このデータやっぱりおかしいんじゃないかしら?」


いつもと違う落ち着いた、しかもどこか気取った声でそう言う香はうっすらと笑みすら浮かべてそう言った。背筋がゾゾゾっと寒くなるのを感じながら引きつった笑みを浮かべた遠藤はすぐさま香の席へとすっ飛んでいく。そして画面を覗き込むようにしてマウスとキーボードを操作した遠藤は画面上に浮かんでいたエラーをいともあっさりと消してしまったのだった。


「まぁ、こんなに簡単に消せるなんて、すごいわねぇ、さすが遠藤君」


両手を合わせ、マスカラで全開の目をパチパチさせてそう言う香に愛想笑いを浮かべた遠藤は島原がいる時のこの態度よりはいつもの偉そうな態度の方がまだましだと頭を抱えた。自分が気に入っている島原がいるときはいつもこうしたブリッコをするのが香だ。要するに、島原には自分がこういうしおらしい女性ですとアピールするために大人の寛大な女性を見せ、その島原がいない時にはいかにもやる気がない本当の勤務態度で職務を行った上に何かと周人と遠藤につらく当たるのだ。これには浮かない顔をしていた理紗も片眉を上げて横に座る香を睨むようにする。席に戻った遠藤は目を細めて何かを周人に合図し、それを受け取った周人は首を回してから背伸びをし、椅子から立ち上がった。肩を回しながらため息をつく周人は目を細めて遠藤を見てから財布を取り出し、それを見た遠藤は小さくうなずきながらパソコンの画面に視線を移した。


「遠藤、休憩がてらコーヒーでも行く?」

「ん?ああ、そうだな、そうするかな」


パソコンから周人へと視線を戻した遠藤はそう言うとさっさと立ち上がり、周人と共にエレベーターホールへ向かって行った。いつもであれば2人でいなくなることを極端に嫌う香の阻止があるのだが、今は島原がいるために何も言わない。逆に今は邪魔者である2人がいない方が香にとっては都合がいい。これ幸いと理紗も2人の後を追おうとした矢先、島原に呼び止められて急ぎの仕事を与えられた理紗は明らかに不機嫌な顔でキーボードを叩くのだった。


「あらあら、そんなに強く叩くと壊れるわよ」


にこやかにそう言う香に向かい、すみませんと冷たく言い放った理紗は心の中で『ブリッコ二重人格ババァ』とののしるのだった。


ショールームの脇にある休憩室でそれぞれ冷たいものを購入した2人は自動販売機の一番近くにある白い丸テーブルに腰掛けながらほぼ同時に大きなため息をついた。


「あのババァ・・・気持ち悪いんだよ」

「だなぁ・・・何とか正体を暴きたいよなぁ」


島原もバカではないため、今見せている香が明らかに淑女を演じているのは知っているだろう。だが普段は悪態をつきまくり、さらには嫌味しか言えない女なのだという事までは知らないはずだ。しかも決してボロを出さない徹底ぶりにはほとほと参っている2人はまたもや同時にため息をついた。


「しかし、宮崎さんと2人で出張なんて、美人の彼女が聞いたら怒るだろう?」


何の前触れもなく話題を変えた遠藤に疲れた表情を見せた周人は由衣を語るときに言う『美人の彼女』という言葉に違和感を拭えずにはいられなかった。確かに由衣は美人である。性格も良く、自分の可愛さを鼻にかけない性格もあってか理想の女性像としては申し分ない。


「怒りはしないさ、仕事だからな・・・・けど、別の意味で頭が痛いよ」


肘をつきながらオレンジジュースを口にした周人の表情は暗い。その理由を悟った遠藤は逆ににんまりした笑みを浮かべるとグレープジュースを一口飲んだ。


「けど、チャンスじゃないか。気に入られるにはじっくり話しあえばいいんだから」


コップを置きながらそう言う遠藤に冷たい視線を向けた周人は体の向きを変えて足を組むと遠藤に対して斜めになった。


「よく言うぜ・・・話し合いになる前にボロカス言われるのがオチだ」


誰のせいでこういう事になっているかを理解していない遠藤の言葉にやや苛つきながらも、とにかく自然な流れで2日間を過ごすことを心に決めたのだった。遠藤にしてみれば理紗と周人がいい感じになれば由衣との隙間が出来る。そしてその隙間をうまく利用すれば自分が由衣に近づくことが出来る、単純にそう考えたのだ。


「しかし、あれだけ言われてよくキレないなぁ・・・」


さらに一口ジュースを飲んでから遠藤はしみじみそう言った。周人はその台詞を聞いてからオレンジジュースを口に含み、小さな笑みを浮かべて見せた。もし自分であればとっくに怒鳴りつけていると前から思っていた遠藤は、これを機にその疑問を口にしたのだった。


「昔聞いたなぁ、どこかで同じ台詞を・・・・」


コップを口につけたまま小さくそう言った周人の言葉が聞き取れなかった遠藤は怪訝な顔をしながら一気にジュースを飲み干した。


「慣れてるのさ。昔似たような子がいてね・・・だからさ」


少しばかり遠い目をしながら薄い笑みを浮かべる周人の表情からは優しさが溢れていた。そんな表情から昔の彼女か何かがそうだったんだなと思いつつ、今の彼女である由衣がいい子だからいいじゃないかと少し腹立たしい気持ちになるのだった。


「いいじゃないか、今の彼女がすごくいい子なんだから」


心の中だけでは飽きたらずにそう口にした遠藤は胸ポケットで震える内線用のPHSを手にしながら立ち上がると、見下ろすように周人を見やった。そのまま電話に出た遠藤はあわてた様子で休憩室を後にすると瞬く間に見えなくなってしまった。そんな遠藤の後ろ姿を見送った周人はオレンジジュースの入ったコップを見つめながら苦笑じみた笑みを浮かべてつぶやきを漏らすのだった。


「その『美人の彼女』がそうだったって知ったら、あいつ、どうするかな」

周人はジュースを飲み干すと手で紙コップを握りつぶし、ゴミ箱に捨てながら今休憩室に入ってきた年輩の男性に明るい声で挨拶をしてからそこを後にしたのだった。

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