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くもりのち、はれ  作者: 夏みかん
第三章
18/127

見えない気持ち(5)

夏の暑さを少しでもましにしようと、せっかくの夏休みということもあって有志を募ってプールへ泳ぎに行く計画を立てた康男は夏休みも残りわずかとなった8月24日に実行に移すことにした。結局西校の生徒のみの参加となったが、意外と参加人数が多くなったため、近くの市民プールから車で小1時間ほどのところにある大型プール施設へと変更された。小学生21人、中学生18人という大所帯のため、監視する保護者として周人と新城、恵、そして貴史と八塚も参加することになった。大きな施設であるそのプールは近隣の町だけではなく、結構遠くからも人がやってくるほどの規模を誇っている。バスでも乗り付ける事が出来るため、一行は塾のバスで出発することになった。由衣と美佐も参加し、聡子やあやといった普段授業に真面目に来ない生徒たちもこういうイベントには参加していた。このプールの売り物たる開閉式ドームが完全に開ききって快晴の空から降り注ぐ日光を浴びてまばゆく輝いている。大型のウォータースライダーや波の出るプールなど、大小あわせて7つのプールが楽しめるここは大人でも楽しめる娯楽施設として有名だった。そのためなるべく多くの監視者が欲しかった康男だが、貴重な1日を子供たちとは過ごしたくないという理由で何人かのバイト講師に断られていたのだ。だが周人たちは快く返事をし、康男はありがたい気持ちで一杯になったのだった。新城は恵が来ることを聞いてから参加を決めたが、それを知らない女子生徒たちは新城の参加に大いに盛り上がった。各々水着に着替えてプールサイドに出てきたところで康男が簡単な注意事項を説明した。そして小学生には周人と八塚を、中学生には恵と新城、それに貴史をそれぞれ当て、引率者に任命した。集まるべき場所を今いる場所を本部にし、そこに必ず康男がいるという風にした。夏休みとあってさすがに人が多いが、それでも平日な為幾分ましではある。さっそくウォータースライダーに向かう事になった中学生たちは新城と恵を急かしていた。もちろん女子生徒は新城に、男子生徒は恵にべったりである。そんな中、由衣は薄い赤色で何かしらの模様が入った膝まであるパンツを履いた周人を何気なしに見た。新城も恵も合宿の時と同じ水着であり、由衣もまた同じであった。普段の周人からは想像出来ないその体つきは上半身の筋肉は引き締まり、たくましく割れた腹筋も素晴らしい。腕もそれなりにがっしりしている。あの時は暗かったせいと激しく怯えていたせいか気付かなかったその体つきに自然と目がいってしまった。たしかに新城も良い体つきをしているが、引き締まったという点では周人には及ばない。そして右腕には赤いみみず腫れのような4センチほどの筋が見て取れる。縫ったせいもあって傷の痕だとありありと分かるそれを見る由衣は痛々しい思いに胸が痛んだ。これを見ただけでもその傷の大きさがわかるだけに、なおのこと周人の優しさが身にしみるのだ。小学生の女子もそれを指摘したが、周人はバイクで転んだせいだと笑いながら説明していた。由衣は合宿の時とは違い、今日は自然と水着姿を披露出来ていた。事件から日が経っているせいか、はたまた周人がいるせいかはわからない。だが安心して水着になることができたのだ。どうやら小学生は波の出るプールに向かうようだった。小学生を引き連れて歩いていく周人の背中を見やる由衣の横顔を、髪をポニーテールにした美佐がジッと見つめるようにしている事に気付いた者は誰もいなかった。こうして二手に分かれたチームが一つになったのは昼を回った12時半頃のことであった。


2つのベンチをつなぎ合わせ、その前に敷物を敷いて買ってきた焼きそばやらおにぎりを頬張る。男女を問わず小学生に人気がある周人の横に座った恵は子供たちに優しい周人を見て嬉しくなるのだった。新城は由衣たちに女子中学生に囲まれて身動きが取れず、差し出されるおにぎりを順番に食べていかなくてはならないハードな昼食となっていた。そして昼からも同じパートに分かれて楽しんでいたのだが、不意に由衣が1人で康男の座るベンチにやって来た。とぼとぼとやって来て何も言わずに腰を下ろす由衣の元気のなさは昼食を取っていた時には考えられないほどである。何かあったのだとすぐにわかった康男はバスタオルを投げかけ、何も言わずに大勢の人で賑わうプールを見やった。由衣はゆっくりした動作でそのバスタオルを羽織るようにしながら膝を抱えるようにして座り直した。


「さっき・・・流れるプールで知らない男の人に抱きつかれるようにされて・・・偶然だったんだろうけど、すごく・・・・怖かった」


あの事件の事を思い起こすその事故に、由衣は疲れたような表情をしていた。だが、今の康男にはどうすることも出来ない。気にするなと言うのが精一杯でしばらく会話もなくただプールを眺めているだけの2人だったが、向こうから近づいてくる周人に気づいて同時にそちらを向いた。そこにいる由衣の姿に一瞬怪訝な顔をして見せた周人だったが、ベンチの背もたれに掛けてあった自分のバスタオルを手に取って濡れた髪を拭くと、それを肩から掛けながら由衣の目の前に座った。


「暇ならウォータースライダーに行かないか?」


バスタオルを肩からかけた状態で顔を拭き、あぐらを組んで自分を見ている周人の顔は何故か由衣をホッとさせた。


「小学生は?いいの?」

「今はオレより八塚が人気でな・・・まぁ、君の場合はオレより新城の方がいいんだろうけど、そこは我慢してオレでどうだ?」


ややにんまりした顔でそう言われた由衣は少し離れた所にある大きな青いウォータースライダーを見やった。そしてしばらく考え込むようにしていたのだが、おもむろに立ち上がる。


「いいよ、一回だけなら」

「よぉし!んじゃ行くか!」


そう言うと元気良く立ち上がり、バスタオルを椅子の背もたれに掛ける。由衣もゆっくり立ち上がると康男の横に濃いピンクのバスタオルを置き、2人は並んでウォータースライダーの方へと向かっていった。そこはここからでもかなり混雑している様子が見える。康男はそんな2人を見送りながら微笑ましい表情を浮かべて由衣のバスタオルを広げて周人のバスタオルの横に掛けた。


「彼女の中で、木戸君の存在がかなり大きくなってきているなぁ・・・こりゃ青山さんには悪いが、一波乱も二波乱もありそうだ」


そうつぶやく康男の顔は何故か嬉しそうであった。


会話もなくただ並んで歩いているだけの周人と由衣を怪訝な顔をしながら見ているのは恵であった。プールサイドに腰掛けて、はしゃぐ生徒たちを見ながら一息ついていたのだ。とはいえ、周人たちとの距離はかなりあるために声をかけるところまではいかない。最近そう険悪でもない関係を見せているせいか釈然としないものを感じながら2人が向かう先を見やる。おそらくウォータースライダーだろうと予測を付けたが、女子生徒を連れて離れた場所に新城がいるために男子生徒の面倒を見なくてはならない恵はここを動くことができない。最近急接近するかのようによく会話しているあの2人にどこか危機感を覚えていた恵はその光景を見て胸の中で黒いものがうごめくのを感じていた。


大きく螺旋を描きながらそびえる高さ50メートルはある階段を上りながら、悲鳴を上げて滑り降りていく姿の見えない女性の声を聞いていた。縦横無尽に絡み合うようにしてそびえているウォータースライダーは混み合っていて、スタート地点に行き着くまでにはまだまだ時間がかかりそうだった。それを証明するかのように階段の中程まで順番待ちの人で埋め尽くされている。由衣を先に行かせ、周人がその後に立った。前にいるのは子供であり、甲高い声で何やらカードゲームの話をしているようだ。相変わらず暗い表情でたたずむ由衣を、周人は何も言わずに眺めていた。オレンジに白いワンポイントが入ったワンピースタイプの水着を着ている由衣のスタイルは良く、一緒に周人と並んでいれば決して中学生には見えないだろう。髪は耳の後で小さなおさげを2つぶら下げているせいか、そういった部分は年相応の可愛らしさが目に付くが大きめの胸にキュッと絞られた腰のあたりからしてもどこかのモデルのようにしか思えなかった。ここへ来るまでも、そして今こうして並んでいても、男性の視線は少なくとも1度は必ず由衣の方へと向けられていた。そんな由衣から視線を外して下を見下ろすと、まるで砂糖水にむらがる蟻の如くプールに人がひしめき合っているのが見えた。ここから確認できるのは遠くのベンチに座る康男が小さく見えるぐらいであり、あとは誰がどこにいるかなど見当もつかない。


「9月いっぱいで西から撤退する事になったよ」


不意にそう言う周人のその言葉に、前を向いたままの由衣が俯き加減な顔を上げた。実際は驚きの表情をしているのだが、後ろ姿しか見えない周人にはそれが見えないため、いつもの由衣の反応としか思っていなかった。


「そう・・・やっとか」


由衣は素っ気なくそう答えたのだが、内心は穏やかではなかった。何故だがわからないが胸が苦しくなるような感覚に襲われる。


「まぁ、撤退つっても授業をしないだけで、機材を運んだりするだろうからちょくちょく行くかもしれないけどな」

「そう・・・別に来なくていいよ」

「んじゃ、そうするよ」


苦笑を混じらせたその答えに由衣は振り返った。周人は睨むようにして自分を見つめる由衣から視線を外した。その頬の傷に、由衣は見入っていしまった。


「どのみち、年内でこのバイトも終わりだしな」


手すりにもたれかかるようにしてスライダーを見上げるその表情に変化はない。至って普段通りの顔だ。由衣は胸の前で拳を握った。そうすることで胸のうずきがおさまるような気がしたからだ。


「このまま塾に就職するのかと思ってた」

「まぁ、それも考えたけど、大きな会社からも誘いを受けててね、結局そっちに行くことにしたんだ」


由衣を見ながらそう答えた周人は自虐的な笑みを浮かべて肩をすくめてみせた。どのみち高校に行けばこの塾とはお別れである由衣にとって、周人や新城との別れは必然的にやってくる。あれほどいなくなって欲しいと願って止まなかった周人の存在がいざいなくなると分かると寂しい気持ちになっていくことがどこか複雑だった。


「ここで生徒に教えていくのも悪くないと思っていたけど、その会社で自分を磨くのも悪くはないと思ってね・・・すんげぇコネを使うんだけど、それでもいいかなってさ」

「そう・・・・よかったじゃん」


由衣は再び背中を向けてそう言った。自分でも気付かないほど暗い表情をしている、そう気付いたがゆえの行動だった。


「高校は行けるレベルより高い所を選んだ方がいい。同等のレベルで、もし成績が落ちたら目も当てられないからな・・・」


ゆっくりゆっくりとスローペースで上がってきた階段も、もうすぐ一番上に辿り着く。気が付けばものの3分ほどで滑ることができる位置までさしかかっていた。


「今言うのも変だけど、頑張れよ」

「当たり前!」


その相変わらずな素っ気ない答えに苦笑を漏らしながら、周人は由衣の後ろ姿を見つめていた。その後ろ姿に、おおよそ由衣の性格とは一致しない印象を持たせる短い髪の少女の姿を重ね合わせ、周人は悲しげな表情を浮かべた。やがて順番が回ってきた2人は、係りの人が前の小学生を送り出すのを見ていた。この高さからぐるぐる回って下まで行くのにどれぐらいの時間がかかるかもわからない周人は無意識に生唾を飲み込んでいた。正直言うと、こういう系統の物は苦手なのだ。そして係員に指示されて先に周人がスタート位置に座る。そしてそのまま由衣を振り向いた。


「後にくっつけ。抱きつかれるより抱きつく方がいいだろ?」


一瞬ためらっていた由衣だが、周人の後ろに座ると意を決してそのまま抱きつき、固まったようにして動かなくなってしまった。背中に当たる柔らかい感触を感じている周人はそんな由衣を見てから腰の横に添えるようにしてある両腕をおもむろに掴み、自分の腹の前でがっちり組ませた。由衣にしては珍しく、されるがままになっている。その手を周人の右手が上から覆うように置かれた。


「行くぞ?」


由衣は周人の体に自分の体をべったり密着させてうんとうなずいた。胸を背中に押しつける格好だが、相手が周人だと思えば不思議と嫌悪感もない。逆にいやに広く感じるその背中に安心感を覚えるほどだ。あれほど男性に触れることが怖かった自分が落ち着き払っていることに驚いたが、心地良い気持ちが胸を覆っていくのも感じていた。やがてスタートしたスライダーは曲がりくねりながら猛スピードで2人を運ぶ。時には振り落とされそうになりながらも水しぶきをあげて滑空していくのが心地良かった。そして数十秒後、2人は滑り降りてプールに滑り込むようにしながら水しぶきを大きく巻き上げてその中へと飛び込んだ。水中に消えて一瞬の後、水面から同時に顔を出し、髪を掻き上げた2人はその場で顔を見合わせて大笑いをした。そのままプールサイドまで水の中を歩き、そこでもまた笑いあう。端からみれば仲の良いカップルにしか見えないその2人は、水から上がるとプールサイドに座り込んだ。


「あそこまで強烈とは思わなかったから・・・あ~あ、ビビった!」

「もぅ~、途中で変な悲鳴あげるから笑っちゃったじゃない!」


思い出したようにケラケラと笑い出す由衣を見ながら、周人は淡い微笑を浮かべていた。その表情を見た由衣は胸の鼓動が高鳴るのを感じる。優しいその微笑に、由衣の心は激しく揺れ動いたのだ。


「さぁ、行こうか?みんな待ってるだろ」


周人はそう言いながら立ち上がった。そして頷いた由衣も立ち上がると周人の左手をそっと握りしめる。


「先生、ありがとう。元気出た!」


素直なその言葉と行動に少々戸惑いながらも、屈託のないその笑顔にドキッとしてしまった周人はポリポリと頬を掻いた。由衣は康男の元へ戻る途中で見かけた新城の所に走り去ったが、周人は新城に体当たりを喰らわしてプールに落とす由衣を見ながら微笑を浮かべ、そのまま康男の元へと歩み寄った。


「どうだった?」

「ひとまず大丈夫でしょう」


ペットボトルのお茶を飲みながらそう答える周人を見上げる康男は心から周人に感謝していた。


「アフターケアも大変だな?いっそのこと付き合ってやったらどうだ?」


康男は周人から差し出されたお茶を受け取りながら冗談ともつかない言葉を言うと同じように口にする。日に焼けると真っ赤になって晴れ上がってしまう肌をしているために1日中こうしているしかない康男だが、さすがに暑い今日は喉がよく乾いた。


「オレが出来るのはこの程度ですよ・・・というか、ここまでです」


周人はそう言うと、遠くで無邪気にはしゃぐ由衣や美佐の方を見やった。


「それに、あの子がそれを望んでいないし、何より、オレには無理です」


そう言い残すと、向こうの方で手を振っている八塚の方に歩み去って行くのだった。その後ろ姿を見やりながら、康男は深々とため息をついた。


「彼女ならば、とも思ったんだけどね・・・・君の心を癒せるのは・・・」


意味ありげにそうつぶやいた康男は残ったお茶を全て飲み干すのだった。


帰る予定時間である午後3時まであと1時間ほどに迫った頃、恵が休憩しに康男の元にやって来た。オレンジ色したバスタオルを羽織り、ペットボトルのオレンジジュースを飲む。疲れた表情を見せながら髪から滴を落とすように顔を振った。そして濡れた水着を気にするようにしながら、康男から少し離れた位置に腰を下ろした。


「疲れるばかりで申し訳ない」


康男はそんな恵にポテトチップスの袋を手渡した。小さめの袋だがまだ開封されておらず真っ新の状態であった。恵は軽く頭を下げて袋を受け取ると中のお菓子を頬張る。今日の日差しは一段ときつく、まだ白さを残していた肌はすでに赤くなってきていた。


「楽しんでいますよ。スケベ心を出しまくりの男子を撃退してきたから、ちょっと疲れたけど」


そう言いながら笑顔を見せた。康男は苦笑しながら申し訳ないと今度は仰々しく頭を下げた。調子に乗った男子生徒が流れに任せて密着してきたのだ。近くにいた新城がそれを見て怒ったてくれたおかげで少しお尻を触られた程度ですんだため、恵もそう気にしていない。それよりも気になるのはさっき見かけた周人と由衣の事ばかりである。あの周人の家での鉢合わせ以来、幾度となく仲良くしている2人が目に付いており、それが恵の危機感をあおっていた。どうみても15歳には見えないその大人びた、そして可愛らしい容姿をしている由衣が新城を好いているということは見て取れていた。だが、それが果たして本当かどうか最近は疑わしくなってきているのだ。今も新城たちと一緒にはしゃいでいるが、周人とスライダーに行くちょっと前まではかなり様子がおかしかった。だが周人とスライダーから帰ってきた後は普段通りの由衣に戻っている。その上、確かに新城のそばにはいるのだが、以前のような目に見えての行動が目に付かなくなってきているのだ。それよりも周人と2人で物静かに何かを話している時の方が自然な感じに見えてしまう。変に嫉妬するのはよそうと思ってはみるものの、そうすればするほど逆に気になって仕方がないのだ。


「さっき木戸クンと吾妻さんを見たんですけど、何かあったんですか?」


何気なしに投げられた質問の真意を察した康男はどう答えるべきか悩んでいた。その様子は恵にも伝わり、さらなる不信感をあおり立てる。


「あの怪我を負った原因は吾妻さんにあるのは知っています。何があったんですか?」


お弁当を食べる際に周人の右腕に出来た傷跡をはっきり見ることが出来た。思っていたよりもひどいその怪我を負ったのは由衣が原因であることは知っている。自分の方に体を向けながら真剣な、それでいて鋭い視線が康男に突き刺さる。


「あの子を助ける為に?それともあの子に?」

「助けるため、とだけ言っておく。これ以上は言えん」


康男はそうきっぱり言うと少し表情を崩して見せた。


「これで勘弁してくれ・・・この件に関しては木戸君の要望で一切口にしない事になっているからね」

困った顔でそう言われては何も言い返せなくなってしまった恵は悶々とする気持ちを和らげるためにバリバリとお菓子を頬張る。ちょっとすねたようにしながらも、何とか自分を納得させようとしている様が見えた康男は苦笑しながらプールの方を見やった。と、向こうから少女を背負った周人がやってくるのが見えた。どうやら小学生の女子を背負っているらしい。何かあったのかと康男が近寄ったが、周人はそれを制しながらベンチに二年生の伊藤美紀を座らせた。


「足がつっちゃったみたいなんです・・・美紀ちゃん、もう痛くないよね?」


だが美紀は俯いたまま少し暗い表情をしていた。足がつった上におぼれそうになった為、いまだにその恐怖心が抜け切れていないのだ。恵もそばに寄るが、反応は同じであった。


「少しここで休もうな?」


その言葉に美紀は小さいながらもうなずいた。周人は美紀の横に座るとお茶を差し出せば、美紀はそれを飲んで一息つくと幾分か表情を和らげた。


「私がみてるから、木戸クン、行っておいでよ」


恵にそう言われて少し考え込んでいる周人の手をおもむろに美紀が握りしめる。そんな美紀の手にもう片方の手に重ねると優しい笑顔を見せた。


「大丈夫!行きゃしないよ。良くなるまでここにいるからさ。良くなったらまた先生と一緒に遊ぼうな?」


その優しい言葉と笑顔に美紀は少しはにかんだような笑みを見せてうんと声を出してうなずいた。その様子に康男も恵もホッと胸を撫で下ろした。


「っつーこったから、青山さんは行って、あんまりほっといたら新城がくたばっちまう」


そう言われた恵はお菓子で汚れた手をタオルで拭くと美紀に手を振ってから新城たちがいるプールに向かった。さっきまでモヤモヤとしていた気持ちは今の周人を見て消し飛んでいる。


「やっぱり木戸クンは優しい!」


そうつぶやき、こみ上げてくる笑みを押し殺しながらプールに飛び込むのだった。その後10分ほどで美紀は調子を取り戻し、見舞いに来た数人の友達たちと浅いプールで周人と共に時間まで楽しんだ。まだまだ陽が照りつけてはいるがバスで帰る時間を計算に入れれば午後3時という時間は妥当であった。集合時間きっちりに全員が集まり、康男が最後の点呼を取り終えると雑談しながら更衣室にそれぞれが向かう。女子生徒によってほとんどプールから上がれずに休憩できなかった為、かなり疲労の色が濃い新城と貴史を除き、皆わいわいと騒ぎ、ふざけ合いながら着替えを済ませていった。やはり女子たちの着替えが遅いため、先に着替えを済ませてアイスを買って食べていた新城が同じくアイスをくわえている周人の横に座った。腰掛けている駐車場を区切る白いポールは焼けて熱かったが、ズボンの上からだからか、さほど気にするほどではなかった。だが日なたに置いてあった為、バスの中は蒸し風呂のようであった。それは康男がクーラーを全開にして汗だくになりながらバスから出てきた事で容易に想像がつく。


「青山さんの水着姿、カメラ持ってきて撮ればよかったのに」


嫌味を含めてそう言った周人だったが、意外にも得意げな顔をした新城は自分のリュックから防水の施されたデジカメを取り出してブラブラと見せつけるようにした。


「みんなとも撮ったけど、ツーショットもばっちりだ。まだまだ撮れるから私服のヤツもGETだな」


してやったりという口調でそう言う新城にあきれた顔を見せる周人の元に駆け寄ってきたのは女子の中でもいち早く着替えを済ませた由衣であった。新城と由衣のツーショット写真は15、6枚はあるだろう。ここへ来て嫌な予感に襲われた新城だったが、意外な言葉が由衣の口から飛び出した。


「新城先生、メモリが余ってるなら木戸先生と一緒に撮してくれる?」


言いながら強引に周人の腕を引っ張った。戸惑う2人をよそに周人の腕に絡みつくように自分の腕をくっつける。明らかに戸惑いを隠せない様子を見せていた周人だったが覚悟を決めたのか、カメラを構える新城の方を向いた。


「いい顔しといてね?」


由衣は小さくそう言うと、残った手でVサインをした。周人はあきれたような笑顔を見せ、この瞬間をシャッターに納めた新城も苦笑を漏らした。だが、プールの出口でその光景を見ていた恵はズカズカと大股でやってくると、新城の横に立って由衣を睨んだ。だが由衣はそんな恵に対してフフンと鼻で笑うような表情を浮かべた後、すぐに周人から離れると今出てきた美佐たちの方に行ってしまった。ぶつけようのない怒りを抑えつつ、やや怖い顔を新城の方へと向けた恵は口調も厳しく新城に写真を頼む。


「私も木戸クンと1枚欲しいんだけど、いい?」

「ああ。その後でいいからオレとも頼むよ」

「うん、いいわよ。じゃぁ、よろしくね」


言いながらさっき由衣がいた所に立ち、同じように腕を組んだ。さすがにこれにはムッとした顔を見せた新城の心中を察してか、痛々しい表情を浮かべた周人は小さくすまないとばかりにゼスチャーをした。別に周人が腕を絡ませた訳ではないためにそれ以上嫌な顔をしなかった新城を大人だと思いつつ、後々何か言ってきそうな予感を覚える周人は苦笑いを浮かべてカメラを見やる。


「んじゃ行くよー」


その合図に表情を引き締めた周人と、笑みを浮かべた恵の写真を撮る新城の胸中は穏やかではなかったのは言うまでもない。さらにその後、追い打ちをかけるように自分と撮るべく並んだ恵は腕を組んではくれなかったのだった。


帰りのバスの中、意外な組み合わせが隣同士に座っていた。運転席のすぐ近くに恵と周人、そして後方に貴史と由衣、さらには八塚と美佐という組み合わせだった。新城はあやたちに捕まっており、バスの中でも苦痛にさいなまれていた。由衣は貴史と今流行のバラエティー番組について、八塚と美佐はマンガの話、そして恵と周人はほとんど会話らしい会話もなく座っているのみだったがバスは順調に帰路へと着いていた。昼間の疲れからか、恵は早々に船を漕ぎ始め、今では周人に寄りかかりながら小さな寝息を立てていた。あれだけプールに入っていたのにいい匂いが周人の鼻をくすぐる。華奢な身体を周人に預けるその寝顔はいつもと違った可愛さを見せていた。そっと顔にかかった髪を撫でるようにして離してやる。周人は微笑を浮かべながら窓枠に肘を付き、窓の外に目をやった。まだ明るい外の景色は都会の風景を遠くに見せている。不思議と眠くならないまま30分ほどが過ぎた頃、通路を挟んで反対側の空いている座席に由衣が座った。どうやら貴史も眠ってしまったらしい。いや、ほとんど全員が疲れからか眠っているようだ。


「寝ないのか?」


恵を起こさないように小さな声と大きな口の動きで由衣にそう語りかける。それがちゃんと伝わった証拠に由衣はコクンとうなずくと肘掛けに手を付いて周人を見つめた。何故か肩にもたれかかって寝息を立てている恵を羨ましく思ってしまう。こういう風に出来るのは自分だけだというような意識が心のどこかに浮かんでいる。それはあの助けられた日に自分がしていたその密着が自分だけに許された特権のように思えたのだ。そのまま由衣は何も言わずにずっと周人を見ていた。あんなに嫌悪していたはずなのに、あんなに追い出したかった相手なのに、今は少しでもそばにいたいのだ。あやに寄りかかられるようにして眠る新城を振り返ったが、窓際にいるせいでこの位置からでは全く姿が見えない。と、不意に周人が何かを投げてよこした。咄嗟に受け取ったその小さな物はアメであった。すでにころころと口の中で転がしながら笑う周人と同じように由衣も包みを開けてそのアメを口に投げ込んだ。リンゴの味がするそのアメをなめて周人を見ると、うまいだろと言わんばかりの笑みが見て取れた。その時、少し動いた恵の頭を押さえるようにそっと優しく手を添える周人を見た由衣の中で言いしれない嫉妬心が目を覚ました。無理矢理にでも恵を引き離して自分がそこに行きたい衝動にかられてしまう。そして由衣は合宿の時の美佐の言葉を思い出していた。


『木戸先生の事、好きになっちゃう?』


ただじっと周人を見つめながらその言葉を何度も何度も噛みしめる。だが、まるで恋人のように寄り添う恵を抱くようにしている周人の姿を、由衣は見れなくなってしまった。好きなのかどうかなど自分でもまだよくわからないのだ。新城のそばにいたいという気持ちも強くある。自分の気持ちに混乱してしまった由衣はただ俯くことしかできなかった。口の中のアメが苦く感じるのは何故だろう。あの事件が起こしている錯覚なのかもしれない今の感情を整理できるほど、由衣は大人になっていなかった


バスがさくら谷に到着したのは午後5時ちょうどであった。すでにここまでの道程で何人かの生徒は送って行っている。車で来ている周人と新城はそれぞれ八塚と恵を送っていく事になっていた。恵はすでに目を覚ましている。新城もあくびをしながらも起きていた。そうしていると由衣の家が近くなってくる。荷物をまとめ終わった頃、いつもの集合場所であるバス停の前に停まった。

「新城先生、写真よろしくね」

わざと耳元に顔を寄せてそう言うと周人の方へ向かった。通路に立った由衣はそのまま恵を無視して周人を見つめるようにすると、ちょっとすねたような照れたような表情を浮かべた。


「じゃぁね、先生。気を付けて帰れよ!」

「ああ、君もな」


そう答えた矢先、不意に差し出された手を見つめる周人は小さく笑うと自分も手を差し出し、恵の目の前で由衣と握手を交わした。その握手にどういう意味があるかわからない恵は怪訝な顔を見せていたが、それが見えているはずの由衣は完全に無視をしている。


「うん、ありがと。今日の悲鳴はサイコーだったよ!じゃぁね」


そう言うとピロッと舌を出してウィンクしてから早足で出口に向かった。運転席に座る康男に軽く挨拶するとバスを降り、バスから離れるようにしながら手を振った。やれやれという顔をする周人を横目で睨む恵は言いようのない嫉妬に駆られていた。


「随分と、仲がおよろしいことで!」

「そうかなぁ?まぁ前に比べればね」

「そうね」


そう言うと今の気持ちを表すかのように下唇をやや突き出すようにして見せた。大人げないとは思いつつ、言いようのない不安を拭い去る事ができない恵の精一杯の気持ちの表れであった。


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