幸せの意味(3)
オーダーしたパスタが3人分とも一気に運ばれてきたためにお互い待って時間を合わせる必要はなかった。由衣は明太子のパスタ、成海は梅と青じそ、そして隆弘はミートソースである。食べながら支店長である浦安の悪口や他愛のない世間話をしていても、由衣はどこか上の空であった。成海は隆弘を前に、由衣の横に座って話しに夢中になっているせいか、その由衣の様子には気付かない。いや、普通にしていれば全く気付かないであろうほど自然な感じの由衣だが、彼女を好いている、又、今の由衣が何を考えているかを知っている隆弘だけは違和感を覚えずにはいられないのだ。粉チーズを多めにふりかける隆弘の手つきを見ながら、周人はわずかな量しかかけないのになぁとぼんやり考えている由衣はバッグの中でメロディを奏でるスマホに気付いてあわててそれを取り出す。隆弘がそれに意識を取られて由衣を見た行動は、今、彼と一生懸命話をしていた成海にしてみれば心外であり、不機嫌そうにパスタに付属しているサラダをパクついた。由衣は取り出したスマホのメロディが周人からのものではないことに落胆し、やってきたメールの相手を確認する。
「恵さん?」
そう独り言を言いながら携帯を開いた由衣はそこに書かれている文章に驚きの表情を浮かべた。そこには由衣が何者かに狙われているからと、しばらくは光二にボディガードを依頼した周人のことについて書かれていた。これにより周人の言った『守れない』という言葉がさらに深く胸に突き刺さる由衣は食欲すら失いかけたが、成海や隆弘の視線を感じてそそくさとスマホをしまうと目の前のパスタにパクついた。
「友達?」
「はい・・・もうすぐ出産なんですよ」
「同い年で?」
「年上です、5つ・・・・」
「へぇ、元カレと同じ年じゃない?」
「はい・・・・」
そう答えるのが精一杯の由衣は無表情でパスタを食べるが、正直味もわからない。成海の言った『元カレ』という言葉がいやに胸に刺さった由衣は心の中の痛みをよりはっきりと認識していた。そんな由衣を見てこちらも胸が痛い隆弘は、『別れた』と言った由衣の言葉がただ単にケンカをした事による怒り任せの感情から出た言葉であった事を再認識し、あわよくば自分が彼氏にといった甘い考えを心の中から打ち消した。と、今度はけたたましい音楽と共に成海のスマホが鳴り響く。それはメールではなく電話のようで、あわてた様子でそれに出た成海は気を使ってか、口元に手を当てて小声で話を始めた。そんな成海を横目に順調にパスタを平らげていく由衣を気にしながらも隆弘もペースを合わせていく。やがて電話を切った成海は猛烈な勢いでパスタを食べ尽くすと急用が出来たからと言ってさっさと帰ってしまった。何が何だかわからないで呆気に取られた2人は代金をもらってないことに気付いて顔を見合わせて笑ったが、結局由衣が断ったにもかかわらず隆弘のおごりということで話は決着したのだった。
ひとしきりウィンドウショッピングを楽しむ理紗を見ながら、周人は誰かを探すようにして行き交う人の波を見つめていた。夕食を取るために桜ノ宮に車を止め、時間的に夕食まではまだ早いのでこうしているのだ。どこかで由衣の姿がないものかと人ごみを気にする周人を見ながら、理紗はチクチク痛む心を押さえつつ周人を連れ回した。周人自身、理紗が自分を心底嫌っていると思ってはいなかった。4年前、遠藤にアタックをしていた頃の彼女が本気で自分を嫌っていたのは知っている。だが、あれ以降、理紗がその姿勢を貫くためにそういう態度を取っていると何となくだがわかっていたため、何も言わずにそのままの状態でいたにすぎない。実際彼女は仕事もでき、面倒見もよく、女性ながら次の主任に抜擢しようかと思わせるほどの頑張りようだった。もし本当に周人を嫌っていたならばこうまで仕事ができるキャリアウーマンにはなっていなかっただろう。今日の理紗にはそういった刺々しさもなく、自然に自分と接しているように思える周人はこれこそが彼女の本当の姿なのだと認識し、小さく笑みをこぼした。そして適度な時間になり、2人は落ちついた雰囲気の洋食屋に入った。夜の8時ともなれば普通ならば混雑しているのだが、平日の遅い時間とあってかすぐに席へと案内された2人はそれぞれおすすめの定食をオーダーし、心地よく冷えたおしぼりの感触を楽しみながらホッと一息ついたのだった。
「でも、いいんですか?彼女をガードしなくて」
突然そう言われて困った顔をする周人は一旦水を飲んで間を置いてからその答えを口にした。
「まぁ、オレより守れる人に頼んだから、大丈夫だよ」
「そうじゃなくって、木戸さんが守らなくていいんですか?」
強い弱いは関係なく、他人ではなく彼氏である周人自身が守らなくていいのかという意味であることはすぐに理解できた。
「・・・できればそうしたいけど、残念ながら今のオレじゃ彼女を守れないよ」
「ホントに、その・・・・別れたんですか?」
あまりに歯切れの悪い言い方から悪いと思いながらもそう聞いた理紗は、その返事次第では自分の気持ちが大きく揺れることを把握しているために構えるようにして返事を待った。
「ケンカして、別れると言ったのは彼女の方だったし、何よりオレも引き止めなかった・・・怒りに任せたといっても、後味悪いね」
苦笑気味にそう言う周人の言葉に、理紗の胸はチクリと痛んだ。結局2人とも怒りから来る感情のままに別れという言葉を出した挙句の今なのだ。つまりは本当の意味での別れ話になったとは言いがたい。おそらく由衣も今ごろは徐々に怒りが冷めて冷静になり、後悔しているだろう。そう思う理紗は大きなため息をつきながら肘をテーブルについてその手にあごを乗せ、やや軽蔑じみた目つきをしながら周人をじっと見つめた。さすがにその目つきにたじろぐ感じの周人は場の空気に負けてややしゅんとしたようになった。
「ちゃんと話しなきゃダメですよ・・・・子供じゃあるまいし・・・」
呆れた口調でそう言う理紗にますますしゅんとなった周人は落ち着きなく手を組み合わせる仕草を続けていた。
「いや、わかっちゃいるんだけど・・・こうタイミングを逃すとさぁ・・・その・・・」
「好き・・・・なんでしょ?今でも」
「まぁ、ね」
少し照れたようなその返事にズキンと心が痛む理紗は予想していた答えだったのだが、やはりショックは大きい。
「連絡は取ってなさそうですね、その調子じゃ」
「うん・・・ちょっと、いろいろ考えてしまうからさ・・・しかもこういう状況だし、離れていた方が、その・・・いいかなぁとか思ったりして」
仕事においては決断力もあり行動力もある周人にしては珍しいほどに消極的だった。歯切れが悪く、いい訳じみた答えにイライラしてしまった理紗はあからさまなため息をつくと睨みつけるような視線を周人に浴びせた。もはや上司と部下の立場は完全に逆転してしまっている。
「本当にこのまま別れてしまったら、一生後悔しますよ?」
「わかっちゃいるんだけどね」
「わかってないわよ」
怒ったようにそう言ってそっぽを向いてしまった理紗に困ったという顔をするしかない周人はタイミングよく運ばれてきた料理を見て美味そうだねというが、無言の理紗にあっけなく無視されてしまった。だがこういう風に理紗に無視されることなどもはやしょっちゅうなため、周人は構わず箸を手にいただきますと食べ始めた。そんな周人を見てもはや呆れたのを通り越した理紗も食事に集中した結果、2人はその最中も、食べ終わってからも、車に乗ってからも全く会話をすることがなかった。
自分の自宅から一番近い電車の駅を降りた由衣は向かっている西の方の夜空を見上げていた。星も月も出ていない空が時折まばゆく光っているのはライトで照らしているからではない。今にも降りそうな雨を抱えた雲で埋め尽くされた黒い夜空が遠くで光る雷光を発しているのだ。
「こりゃ降りそうだなぁ」
「やっぱいいですよ、送ってくれなくても・・・結構近いし」
同じように空を見上げる隆弘にそう言う由衣は本当に申し訳なさそうだった。送ると言う隆弘に対して何度も大丈夫だと断りを入れた由衣だったが、結局隆弘は強引ともいう感じで由衣が最寄りの駅としているさくら谷駅で一緒に降りたのだ。曇った空は光るのみで音もしない。それが余計に不気味さを感じさせる空を見ながら2人は車の交通量も多い幹線道路沿いを歩き始めた。ややゆっくりした歩調ながら由衣は隆弘が以前に自分が襲われたことを知っているのではないかと思えるほど強引なまでのこの行為に戸惑いつつも、実際あの人数で自分を救えるのは周人や哲生といったかつて『キング』の軍団を倒した連中か、はたまた周人に強いと言わしめた光二くらいしか思いつかなかった。実際今ここで襲われでもしたら、おそらく隆弘ではどうしようもないだろう。そう思えばこそ、いかに周人の存在が心強いかと再認識させられてさらに落ちこむ由衣は周人が『守れない』と言った言葉の重さをあらためて噛みしめるのだった。確かに守れないと言われたことはショックだった。由衣にとって周人の存在は絶対的であるがゆえに、その心に負った傷は深かった。それ以上にケンカしてから一切の連絡がないことの方がよりショックなのだ。由衣は『守れない』と言った周人のその言葉の意味をもう一度じっくり考えてみた。それは『弱くなったから守れない』ではなく、『守る』と誓った自分が『守れなかった』ということからきた彼の心の弱さを表現したものだったのだ。4年前の佐藤純一郎の時も守ってくれたのは光二であり、全てが終わってからのこのこやってきた周人を責めた由衣だったが、実際はそれ以上に周人は自分自身を責めただろう。かつて恵里を失った自分が今度こそ守りぬくと誓いながら、一番守らなければならない時にそこにいなかったのだ。そしてその思いが、『そばに居てもいつかは弱くなって守れなくなる』という気弱の連鎖反応を引き起こしたのだ。守りたい時にはそばに居ず、そばに居る時には守れない、そういうジレンマを抱えているという意味があの言葉には込められていたのだ。怒りで何も見えていなかった由衣は今更ながらにその言葉の意味を知り、歩きながら目に涙を溜めていく。そして歩く振動でその涙が耐え切れずに下へと流れ落ちた。会いたい気持ちがそれを加速させ、由衣の涙はあごから落ちてTシャツを濡らした。
「君は素直ないい子だよ」
その言葉に由衣は涙に濡れた顔をそのままに隣を歩く隆弘を見やった。隆弘は自分を見ることなく前を向いたままで歩いている。
「上司の言う事はしっかり聞くし、間違ったことははっきり指摘する。一生懸命で笑顔も絶やさず、仕事もきっちりこなしている。なにより、美人だがそれを鼻にかけず、誰にも優しい本当にいい子だ」
隆弘が何を言おうとしているかがわからない由衣は立ち止まり、少し行き過ぎてから立ち止まった隆弘はここでようやく由衣の方を見た。何を思って隆弘が自分をこうまで褒め称えたのかは全くわからない。そういった思考すらまともに働かない由衣の頬を伝う涙は止まることを知らないかのように流れつづけている。時折しゃくりあげるようにして泣く由衣はまるで小さな子供のように見えた。
「でも、今の君は素直になるべきところで素直じゃない・・・この意味、わかるよね?」
優しく、ゆっくりとそう言う自分にうなずく由衣を見て小さな微笑みを浮かべる隆弘は1歩だけ由衣に歩み寄ると瞬間的に光る空を見上げた。
「君がどれだけ彼氏を好きか知ってる・・・ついこの間までは、それも感じられなかったけど・・・・でも今、この瞬間は以前と同じだ、彼を大好きでいる、違うかい?」
空から顔を戻して由衣を見た隆弘の表情に変わりはない。優しい笑顔は消えることなくそこに存在しているのだ。由衣は泣くのをグッとこらえようとするが、そうすればするほど次から次へと涙が溢れてくる。
「素直に好きだと言いなさい。そして、ごめんなさいとね。君は素直ないい子だ、きっとできるさ」
優しいその言葉に、由衣の中で何かが弾けた。もはや感情を抑えきれずに両手で顔を押さえながら声を出して泣く由衣はしゃくりあげ、肩を揺らして泣きつづける。隆弘は何もせずにただじっと立ったまま泣きじゃくる由衣を見て自分の想いがこれで終わったことを悟りながらも後悔はしなかった。決してカッコつけたわけではなかったのだが、人に偉そうに言いながら素直じゃない今の自分を誇らしく思う隆弘は失恋した気持ちよりもどこかすがすがしい気持ちが胸を埋めていく感じを心地よく思うのだった。
『何より、好きな人の泣き顔は見たくないから』
そう思う隆弘の心はこれでいいと自分を納得させなくとも、由衣への恋心を断ち切れる心の強さを手に入れられたことを嬉しく感じていた。
桜ノ宮の地下駐車場に止めていたせいか、そこからの出口となっている長く急な上り坂を出たところで突然大粒の雨が車体に当たり、雨が降っていることをここで初めて認識させられた2人は光る空を見上げる姿勢を取った。駐車場へ向かう途中では降りそうだった空をしていたが、よもやこんなに早く降るとは思っていなかったのだ。会話のない車内をカーステレオから流れるバラードが雨の夜を演出している。結構激しく降っている雨でぼやけるような赤いテールランプもどこかロマンティックな感じをかもしだす中、2人の間にはそれとはかけ離れた雰囲気が漂っていた。ここから理紗の家までは10分もあれば余裕で到着だ。そう混んでいないまでもやたら赤信号にひっかかる中、黙り込んでいた理紗がここでようやくその重い口を開いた。
「彼女の涙雨かもね」
その言葉にまだ変わりそうもない赤信号を見てから理紗の方へと顔を向ける。理紗は前を向いたまま前の車のテールランプに照らされて赤くなった横顔を見せているままだ。
「かもね・・・」
「だったら仲直りすべきです」
「・・・・わかっちゃいるさ」
視線を落としながらそう言う周人だが、実際にわかっているかと言われればそれもわからない。
「わかってないわよぉ・・・」
つぶやくようにそう言う理紗の口調は本当に寂しそうなものだった。実際周人は何もわかっていない。自分がどれほど周人を好いているかを。その想いが理紗の口調を寂しくし、押さえ込んでいる感情を押しのけようともがき始めた。
「わかってないよ・・・木戸さんは・・・なぁんにも」
その言葉の意味を知りたくて口を開こうとした矢先、後ろの車にクラクションを鳴らされて前を見た周人は既に青に変わった信号とずいぶん前に行ってしまっているすぐ前にいた車を見てあわててギアを入れて発進させた。
「今の木戸さんを見るのは嫌です」
「今のって・・・・」
理紗の家に続く路地のような道の入り口へと車を進めた周人は一旦その入り口脇に車を止めた。エンジンはそのままにしてあるためにエアコンがちょうどいい涼しさを提供しつづけている。やや弱くなった雨足だが、それでもいつもの音量のステレオでは聞き取りにくいまでに自己アピールの雨音を響かせつづけていた。
「木戸さんは、凄いんです・・・高木青空すら足下に及ばないほど強くって、本社の遠藤さんよりも仕事ができる。部下を気遣い、優しくて・・・あれこれ文句を言う私や相楽さんにも怒ったことがないぐらいに・・・・」
規則正しく動くワイパーの音に重なってそう言う理紗の言葉からは尊敬を超えた感情が見え隠れしている。
「でも、そんなウジウジした木戸さんは・・・嫌いです」
ここで理紗はようやく周人の方へと顔を向けた。手を伸ばせばすぐに触れられる距離にある愛しい人の顔を触れることは許されない。それが許される存在は理紗ではないのだ。そしてまた、理紗ではその存在になることも永遠になかった。それを知っていながら、理紗は薄い笑みを浮かべながら心の中の押さえ込んでいた感情を開放した。
「私の好きになった木戸さんはね、心の強い人なんです。たかだかケンカした彼女に仲直りの電話ができない、そんな弱虫じゃないの」
思わぬ告白に周人は驚きと動揺を隠し切れない。理紗は小さく微笑むとギアの上に置いている周人の手にそっと自分の手を重ねてみせた。これぐらいは神様も、そして由衣も許してくれると思えたからだ。これが理紗に許された精一杯の幸せだった。女性特有の柔らかい感触と人の温もりが手を通して全身に伝わっていく。
「私が誇れる人なんです、木戸さんは。昔、『下の下』のサイテー男しか愛せなかった私が、心から好きになった『上の上』の人・・・だから、私が誇れるままの木戸さんでいてください。あの彼女を好きなあなただから、私は好きになったんだもの」
4年分の想いを込めて、理紗は自分なりの言葉で周人を励ました。決して叶うことのない想いを、絶対に言う事はないと自分に誓った周人への想いを込めて。いつしか雨は小ぶりになっていた。理紗は丁寧な仕草でシートベルトを外すとバッグを片手に周人を見つめた。もしも2人が恋人同士であったならば、おそらくここでお別れのキスをしたであろう。だが、2人の関係は上司と部下、しかもそれ以上には絶対に発展するはずもない関係。
「今日が無理なら明日にでも!仲直りするまでは私も口をききませんからねぇ!」
わざと意地悪くそう言うと軽くベーっと舌を出す。きっと自分が口をきかなくても周人には何ら問題がないと思いつつもそう言った理紗に向かって素直にうなずく周人を見てから車を降りる。小雨も徐々に上がりつつあり、ほとんど濡れることはない状態になっていた。
「お疲れ様でした。んで、ありがとうございました・・・・じゃ、また明日」
にこやかに微笑みながらそう言うと車を降りた理紗はやや早足で約五十メートルほど先にある自宅へと向かった。もはやその背中を見送ることしかできない周人は真剣な顔をしながら小さく理紗の背中に向かって頭を下げた。角を曲がって姿を消した理紗の姿を確認してから車を器用にUターンさせた周人はスピードを速めつつ家路へと急いだ。理紗は去り行く車のエンジン音を聞きながら曇った夜空を見上げるようにしてみせた。雨はもう止んでいる。不思議と涙も出ず、すっきりしたような心境の理紗は自分でも思わぬ告白だったのだが、ずっと心に潜めていた想いを出すことができてよかったと思えていた。その理由として自分が言った言葉に嘘偽りがなかったせいだと思える理紗はこれで周人を完全に吹っ切れると、軽くジャンプするような感じで歩きながら家の門をくぐったのだった。
ひとしきり泣いたせいか、心に落ち着きを取り戻しつつある由衣はお風呂上りの濡れた髪もそのままにピンクのパジャマ姿でベッドに腰掛けていた。結局泣き止むまで何も言わずにただじっと待っていてくれた隆弘に感謝の言葉を述べて帰ってきた由衣は見送ることもできずにすぐに玄関をくぐったことを少々後悔していた。そしてお風呂から上がった今、その手にはスマホがしっかりと握られており、おずおずと指を動かしてそのスマホのホームボタンを押す。周人の顔が壁紙となっているその画面を見つめながら1つ深呼吸をし、少しドキドキしてきた胸を落ち着けるようにしてみせた。かつて中学生の頃にデートの誘いの電話をしていた時もこうだったと思い出しながらボタンに手をかけた瞬間、突然軽快なメロディが鳴り響いたために驚きのあまりスマホを落としそうになってしまった。あわてて画面に表示されている『塾長』という文字にムッとした表情を浮かべたのは自分を驚かせたことから来たものだった。
「もしもし?」
『どうも、大山です。夜分遅くにすまんなぁ』
久々に聞く康男の声だが相変わらずなことがこの口調からうかがい知れる。そのせいか、驚いたことから来た怒りもスーッと消えていった由衣の心を表すかのように表情はやわらいで微笑を浮かばせていた。
「いいですよ、どうせ暇ですし」
本当は周人に対して仲直りの謝り電話をしたかったのだが仕方がない。それに今日は既に十時を回っているし、ここまで音信不通だったのだ、別段明日でもいいと思えた。最悪メールをすればすむ話でもある。
『そうか。でさ、この土曜日、西塾まで来れないかな?急遽君たち世代が集まることになってね、長く連絡を取ってない者に参加を呼びかけてるんだが』
「土曜日なら・・・・空いてますけど」
カレンダーを見ながらそう言う由衣だが、銀行は休みで出勤でもなく、今現在として誰とも会う予定も出かける予定もない。実際は隆弘と映画の約束が入っていたのだが、それは先程、隆弘の好意でキャンセルとなっている。
『木戸君も呼んで一緒においでよ。青山さんも来るよう三宅君には言ってあるしさ。っても君たちはよく会ってるんだろうけど』
「もう『青山さん』じゃないでしょ・・・・・でも、どうしようかなぁ」
苦笑気味にそう訂正をうながした後、いやにトーンが下がる由衣はもしそれまでに周人との仲が修復できなければ最悪1人で行かなくてはならないと考えていた。そうなれば康男にも悪い報告をしなくてはならないのだ。昔、自分の恋を実らせるためにあれこれ動いてくれた康男に対し、『ケンカして別れました』との報告はしづらい。何やら真剣に考え込む由衣の異変を察してか、康男は電話の向こうで小さく苦笑を漏らした。
『なんだ、ケンカでもしてるのかい?』
普通であれば『都合が悪いのかい?』と聞くところを、まるで事情を知っているかのようにズバリ言い当てた康男を凄いと思う反面、この人もまた光二と同じ相手の思考が読める『変異種』ではないのかと勘ぐってしまう。だが康男は限りなく『それ』に近いただの人間だ。ただ『隠れ変異種』の異名はとってはいるが。
「・・・・・今ちょっとモメてるだけです」
静かな落ち着いた口調でそう言う由衣だが、内心はドキドキものである。実際はもめているのではなく、ケンカで半分別れたに等しい状況だ。
『そうか、まぁ付き合って長ければ長いほどモメ事の1つや2つはあるさ』
「ですね・・・」
『でも、あまり結婚結婚って木戸君を追い詰めるなよぉ?』
「な!・・・・だ、誰に聞いたんですか?」
あわててそう言う由衣の声と言葉に驚いた康男は絶句してしまった。はっきり言って冗談だったのだが、まさかズバリ言い当てた自分を凄いと思いつつもこれはまた困った問題に首を突っ込んでしまったとも思える。こういう問題に関してはアドバイスが難しいからだ。
『・・・・オレって『変異種』なのかな?』
「・・・・かも」
『そうか、でもきっと木戸君のことだ、向こうから折れて謝ってくれるよ』
「・・・最初は私もそう思った。でももう2週間以上経つけど・・・・・・全然連絡ないんです・・・・私も全然しなかったし・・・・もうホントにダメかも・・・」
さっきまで落ち着いていた心がまたもグラついて再び悲しい気持ちになってしまう。あれほど顔も見たくなかった周人の顔が浮かび、もう会えないかと思ってしまうと涙が勝手に出てきてしまうのだ。子供のような泣き声を聞きながら、康男は由衣の心情を察して小さな微笑を浮かべてみせた。結局彼女は周人を好いている。それがわかったからだ。
『心配ないよ・・・木戸周人という人間の心の深さは君が一番よくわかってるはずだろ?』
「でも・・・・・」
『彼は彼なりに悩んで答えを出そうと必死にもがいてるんだよ・・・だから気持ちに整理をつけるまでは連絡をしない、そういう感じじゃないかな?』
5年付き合ってきた由衣と同等か、それ以上に周人という人間をよくわかっている康男の言葉は何よりも重かった。誰よりも周人を理解し、信頼している康男の言葉に由衣の心は徐々にだが癒されていった。
『で、どういういきさつでケンカになったか、良かったら話してくれないか?』
ゆっくりと優しい口調でそう言う康男の言葉にうなずいた由衣は事の発端から順を追って話をしていくのだった。康男ならば適格なアドバイスをくれる、そういう願いもそこに込められていた。
何度か電話をしてみるがずっと話中だった。思わぬ告白を混ぜながら激励をくれた理紗と別れて自宅に帰り、すぐ電話をかけたのだがどうもタイミングが悪い。もはや素直に謝ろう、自分の中の不安をぶちまけようと思って決意を固めての電話だったのだが、何度かけても電話中だった。仕方なくため息混じりに風呂へと向かった周人はまだお湯すら張っていないことに気付き、やれやれとばかりな仕草を取ってから風呂を洗ってお湯を張った。その間に再度電話をしてみるがやはり話中だ。元々神様という存在などアテにも信じてもいない周人は恨みだけをもってその神様に文句を言う。結局恵里を奪い、今また由衣までもを奪おうとしている神様に対しての怒りはふがいない自分に対しての怒りでもあるのだが。一瞬自宅に電話しようかと思いつつもケンカしていることが彼女の両親に露呈するのも困る。しかも夜の十時を回っているためにそれはそれで失礼かもしれない。そんなジレンマにさいなまれつつスマホを握ったままリビングのソファに腰掛けた瞬間、マナーモードにしていたバイブの振動が包み込むようにしていた周人の手を震わせる。あわてた周人はそれを落としそうになりながらも相手が誰かを確認した。スマホの画面には『菅生社長』と表示されていた。その相手を見てさらにあわてた周人はすぐさま電話に出た。
「はい、木戸です」
『菅生です、夜分にすまんな』
「いえ・・・構いませんよ、1人ですし」
その言葉に苦笑しつつ、菅生はすぐに本題に入った。
『明日なんだけど、本社に来れないか?』
そう切り出した菅生の言葉からも、そして会社にではなく周人の個人携帯に直接かけてきたことからしても仕事に関することではないなと判断した周人は小さく微笑みながら業務上問題がないかと頭に思い浮かべたが、今の状況からして全く問題はないとした。
「構いませんけど・・・なんです?」
『たいした用事じゃないよ・・・ただの暇つぶし』
大企業の社長の台詞じゃないなと思いつつもこれこそが菅生要という人物だと思える周人は苦笑混じりにOKを出した。社長と従業員という立場であるこの2人だが、プライベートでも何度か食事をしている間柄である。もちろんそれは菅生が周人という個人を気に入っているせいもあるが、目下ケンカ中の恋人である由衣のファンであるからが大きなウェイトを占めているといえよう。モデルの仕事を止めてからも由衣のファンを公言している菅生は既に2人の子持ちである。美人の妻がいながら文句を言われないのかと思う周人だったが、由衣を気に入っているのはその妻である優子も同じなのだ。
『何時でもいいからさ、明日は会議も何もないし』
「では、伺う前に連絡します」
『もし急用が入ればその時はいいからさ』
「はい」
『では由衣ちゃんによろしくな』
「はい、おやすみなさい」
『ああ、おやすみ』
実に簡潔に話は終了し、周人は苦笑を浮かべたまま通話を切る。由衣によろしくと言われたが、今の状態ではいつそれを伝言できるか全くわからない。
「しゃーない、朝一で里中に電話するか・・・」
そうつぶやきながらふと理紗の顔が頭に浮かんだ。全く考えもしなかった告白を受けたわけだが、その理紗の気持ちに今まで全く気付かなかった、いや、素振りすら見せなかった彼女の凄さを思い知らされる。どれほどの期間を好きでいたのかは知らないが、毎日顔を合わせていながらよくその想いを表に出さなかったなと感心せざるをえない。自分の叶わぬ想いを込めて激励してくれた理紗のためにもなんとか仲直りしようと思う周人だったが、いまだ由衣は話中だ。待っているよりも先に風呂が沸いてしまったので仕方なく風呂場に向かうと、もう一度リビングのテーブルの上に置いてあるスマホを見てから浴室へと足を踏み入れるのだった。
全ての始まりから今に至るまでを泣きながら康男に説明し終えた由衣は既にティッシュの箱を1つ空にしてしまっていた。はまりにはまった超人気ドラマでさえ半分に留めたのだったが、これはもはや新記録である。怒りの反動で不安が津波のごとく押し寄せたせいか、今の由衣の心は暗く沈んでいた。
『ま、どっちもどっちだなぁ・・・』
そんな沈んだ由衣を慰めるにはかなり軽い言い方だったが、由衣は気にすることなくすでに涙でびしょ濡れのハンカチで目元をぬぐった。真っ赤に晴れ上がった目は痛々しく、明日の出勤に差し障ることは間違いない。
『とにかく、会って自分の正直な気持ちを打ち明けることだね。きっと彼も君と同じ気持ちでいるさ』
「だといいけど・・・」
隆弘にも言われた台詞を聞きながら消え入りそうな声でそう言う由衣に仕方がないなと思う康男はここでとっておきのアドバイスをすることにした。
『昔、あるカップルが大喧嘩をしたことがあってね、男性は謝るタイミングを計っていたがどこか意地になっていた』
突然誰かの体験談を話し出した康男に対して何を言い出すのかと思う由衣だが、自分がよく知っている康男という人間は何の脈絡もなくこういった話をしない。それがわかっている由衣は何も言わずにその話に耳を傾けた。
『そんなある日、男はとりあえず謝ろうと考えてアルバイト先から一旦1人暮らしをしているアパートに戻ってみると・・・・』
由衣は泣くことも忘れてその話に聞き入っていた。そして由衣はその康男の話を全て聞き終え、お礼の言葉を言って電話を切った。もうすでに夜中の十二時近いこともあるため、とりあえず寝ることにする。ベッドに入りながら今聞いたとっておきのアドバイスを明日にでも実行してみようと考え、康男に感謝しながら今日のところは周人に対して何の連絡も取らずにおくことに決めたのだった。




