幸せの意味(2)
周人の前にはすでに料理の入った入れ物はなく、あるのはお茶の入ったコップだけとなっていた。みさおは今ようやく全てを食べ終えて水を口にしている。『計画』の全容を知られているショックからか、はたまたそれが自分のペースなのか、かなりゆっくりした食べ方だったみさおは何度もチラチラ周人を見ていたことからおそらく前者が正解だと言えよう。
「今さっきあなたが話ししたこと・・・・・」
「誰にも言わないよ。言えるわけもない・・・できれば忘れたいね」
ため息混じりにそう言いながらも口元は笑っていた。今の言葉が何故か信じられるみさおは少しほっとした様子で運ばれてきたアイスレモンティーを一口飲んだ。
「しかし、とんでもねぇな・・・・・でもまぁ、お前さんも大変だな。たしかに王を産む『聖母』かもしれないけどさ」
「選ばれたのよ・・・」
『リジェネレイト計画』の全貌が明らかになったことで周人の疑問は吹き飛び、もうみさおに話を聞くことはないと思っていた。たしかに何故みさおが聖母なのかという疑問はあったが、別段そこまで知りたいとは思わなかったのだ。
「選ばれた?」
「そう・・・『キング』の遺伝子やその超人的能力を保ったまま、それらをより高めることができるDNAを持った女性を、彼らは探してた」
「ま、どうやって調べだしたかは知らねぇけど・・・それで一致したのが、君か」
「もちろん父親は『キング』こと久我晴海、その子を産む役目を担ったのが私。でもセックスしたわけじゃないわ・・・体外受精よ。受精卵にも遺伝子的な手を加えてあるの」
「長年『変異種』を調べた結果の集大成・・・それが人工的に『変異種』を生み出そうということになった。しかも実の親がそれならやりやすい・・・ってか?」
その言葉にみさおはうなずいた。自分が何故こうまで素直に周人に話をしたかはわからない。だが、心のどこかで聖母となる自分を否定していた部分がそうさせているのかもしれないと思える。
「『キング』の子を『キング』として生み出そう・・・ふざけた話だ」
今日始めて怒りをあらわにした周人を見たみさおは政府関係者から見せてもらったデータの中にあった周人の項目の中で『キング』を倒した理由に『磯崎恵里・死亡』の欄があった事を思い出していた。恋人を『キング』に殺された結果、復讐するために『キング』を倒した『魔獣』の話は数度とはいえ福山から聞いている。
「遺伝子操作の結果、わずか5年でクローンは十五歳までに成長するそうよ・・・」
「たった十五歳で『キング』かよ」
苦笑気味にそう言うが、さっきまでのやわらいだ雰囲気の周人はそこにはいなかった。やや軽い口調とは裏腹にどこか緊張感が感じられる。
「けど、当面の問題は『ゼロ』だな」
ため息を混ぜながらそう言う周人が表面に汗をかいたようなコップを手にしようとした時、すぐ隣にある大きめのガラス窓から見える由衣の姿を目に留めてあわてた様子でそっちに見入る。あまりの勢いに何事かと同じようにそちらを見やったみさおが見たものは、かなりの美女を連れて歩く男の姿だった。
「由衣・・・」
小さくつぶやく周人は苦々しい顔をしながらも窓から顔を逸らしただけでその姿を目で追うこともせずにそのまま座っていた。そんな周人を見て小首を傾げるみさおだったが、別に何も言うこともなくただぼんやりと周人を見つめているのだった。
仕事を終えた由衣は帰り道も同じの隆弘に誘われて夕食を共にすることにした。隆弘は西桜花中央駅から桜ノ宮まで電車で通勤しているのだが、自宅から最寄りの駅である西桜花中央駅までの2キロほどを車で通っていた。よって帰りは車で送るということでとりあえず西桜花中央駅まで行き、飲食店が混み合う時間を避けるためにゲームセンターやウィンドウショッピングで寄り道をした後にイタリアンレストランで夕食を取ったのだった。ここ最近、あの焼肉の会以来めっきり仲良くなった2人は昼食もちょくちょく一緒にしていた。由衣にしてみれば自分の中にいる周人へのあてつけも半分あったのだが、単に別段何も考えていないだけの事だった。対して隆弘はその行動が自分に気が向きつつあると判断しての舞い上がりで、自分の中だけでは既に半分彼氏気取りでいたのだ。実際この週末も映画に誘ったのだが、由衣は快くOKをくれている。話を黙って聞いている成海ににらまれつつも有頂天な隆弘は毎日がバラ色の生活を送っているのだった。だが、由衣の中では寂しい気持ちを紛らわすための事だと理解していながらも、まだ意地を張っている部分もある。なにより一切の連絡をしてこない周人に対して怒りと、少しばかりの不安があるからであり、別れると宣言して自分でもそのつもりでいたのだが、実際は周人ならばきっとすぐに自分の元に来てくれると思っていたのだ。今日も隆弘に対して数回とはいえ周人と呼びそうになった自分もいる。十五歳の頃からはや9年も想い続けた人をそう簡単に切り離せるほど、由衣の心は強くなかった。
「知り合い?」
「彼女だ・・・・いや、元彼女か」
かなり落ち込んだ寂しそうな言い方をした周人はさっきまでとは違ってもうすでに見えなくなった由衣の姿を追うように何度も窓の外へと目をやった。そんな周人を見てかつての自分をそこに重ねるみさおは心の痛みを感じながらレモンティーに差し込まれているストローに口をつけた。
「未練があるなら・・・そう言えばいいのに」
「え?」
レモンティがほんの少し減るぐらいしか口にしなかったみさおのその言葉に窓から視線を戻した周人は憂いに満ちた表情をしているみさおに怪訝な顔をしてみせた。
「私もね、昔元カレと小さな事でケンカしたの・・・もう2年も前だけどね。お互い謝るタイミングをなくして、結局未練がありながらそのまま別れた。でも、どうしても仲直りしたくて勇気を振り絞って電話したら、そのわずか1日前に亡くなってた」
淡々と話してはいるが、表情は暗い。かつて大切な人を理不尽な事から失っている周人にしてみれば、そのつらさは痛いほどよくわかる。そして、今の話からしてもいつ由衣とそういうふうになるかなど、それこそ神様しか知らないことなのだ。みさおの話を重く受け止めた周人は顔を伏せがちにしながら恵里を失った時のことを思い出していた。恋人の死という現実を受け入れられずに涙すら出なかった自分が初めてその事実を受け入れられたのは葬式の翌日だった。胸が痛み、吐き気までもよおしながらミカの胸の中で泣いた。勝手に涙が溢れ、喪失感でいっぱいになった。復讐など頭の片隅にもなくひたすら寂しさ、つらさ、痛さを抱いて泣いた。もう2度と、そういう目には遭いたくないと思える。
「2年かかってようやく現実を受け入れ、前に進もうとした矢先に福山という男が現れて、この話を持ちかけた。『日本を変える王の聖母にならないか?』って・・・結構悩んだけど、私は条件をつけてそれを承諾したの」
「条件?」
「私の両親は莫大な借金を残して蒸発したわ・・・たかだか小娘1人に到底払える額でもなく、その1人娘を置いて、捨てて逃げたの・・・自分たちだけで。結果、借金取りに風俗に売られそうになった私を救ってくれた福山には感謝してるけどね」
自分の質問とは違う話ながら周人は黙ってうなずいた。彼女もまた悲痛な思いを抱えて生きているのだ。
「福山に言ったわ、両親を探し出して欲しい・・・そしてこの手で殺したい。何の罪にも問われずにね。それが条件よ。もちろん多額のお金も手に入る」
「・・・・悲しい話だな」
「そうかしら?」
わざと強がっている風にしか聞こえない言葉だったが、それ以上周人は何も言わなかった。そしてそんな周人に対して少なからず好感を得たみさおはアイスティーを一気に飲み干して持っていたバッグから財布を取り出した。
「いらねぇよ・・・おごる」
「・・・同情?」
おごると言って財布を出すみさおを制した周人に冷たく投げかけた言葉は重く感じられたが、周人にはみさおに対する同情心などたったの一欠けらもなかった。たしかに同情すべき話ではあるが、彼女の『願い』が周人の心から同情を奪っているのだ。
「同情する気はないよ。ただ、こういうのは男のおごりだろ?元々、一緒に食おうって誘ったのはオレだしな」
すました顔でそう言う周人にほんの少しだけ小さく微笑んだみさおはそのまま取り出した財布をしまうとおもむろに立ち上がった。だが、今のみさおの表情に本当の彼女を見た気がした周人も立ち上がると2人でレジへと向かう。周囲にしてみればカップルに見えるだろう2人のその心は店に入った頃よりもほんの少しだけ近づいた気がしていた。
「不思議な男ね・・・私が自分の身の上話をしたの、計画に参加してからあなたが初めてかもしれない」
「そりゃ光栄だ」
素っ気ない返事もまた周人らしいと思うみさおは先に店を出た。そこにはガーティが待っており、支払いを済ませて出てきた周人を少なからず驚かせた。
「じゃぁね・・・」
「あぁ。ま、気を付けよう、お互いにな」
「そうね」
そう言って小さく笑いあう2人に何があったのかと思うガーティは彼女と会ってからこうまでやわらかい雰囲気を感じることは無かったと思いながら同じような雰囲気を持つ周人をじっと見ていた。そんな視線に気付いた周人はガーティに対しても小さく微笑むと2人に背を向けた。
「ごちそうさま」
去り行く背中にそう言うみさおを振り返ることなく片手を挙げてそれに応えた周人はそのまま駐車場に向かって歩くスピードを上げた。
「この子が彼の子供なら・・・良かったなぁって思えるよ」
独り言のようにそう言いながら下腹部をそっと撫でるようにするみさおは一瞬見せた悲しげな表情をすぐにかき消すと、周人が去った方向とは反対方向に向かって歩き出した。そんなみさおについていくガーティはさっきから自分たちを見ていた百メートル近く離れた場所にある歩道橋の上に立っている自分と同じ外国人の男の方へと目をやった。
「あのボディガード、この距離でオレに気付いたか・・・・それにしても、あれが高原みさおか・・・・まさか『ジャバウォック』と接触とは、これは願ったり叶ったりかな?」
短い金色の髪が夜の闇に栄えるその外人、ゾルディアックは英語でそう言うときびすを返して去っていった。そんなゾルディアックの気配が消えたのを確認したガーティはいよいよみさおの身に危険が迫ってきたと判断し、自分を緊張させていつでも襲撃に備えられるようにするのだった。
全ての電気が消えた部屋が明るいのは唯一点いている部屋の角に置かれたテレビのせいである。だが部屋の主には深夜の番組特有の笑い声と司会者の毒舌がスピーカーから流れる音も耳には入っていない。ただ点いているだけのそのテレビを見ることもなくベッドの上に座っている淡いブルーのパジャマを着た由衣はスマホを両手で包み込むようにしたまま呆然とカーテン越しに見える窓の外の暗い景色、星もない曇った空を見ているだけだった。結局今日も周人からの連絡は何も無かった。もはや生きているのか死んでいるのかもわからない。鳴らない電話をギュッと握り締めながらも自分からは絶対連絡を取らないと誓っている由衣だが、こうまで連絡の無い事実に不安が心の中を絞め付けた。確かに怒りに任せて放った『別れる』の言葉だったことは認める。売り言葉に買い言葉で別れると言ったことも事実だ。それでも周人ならばすぐに謝ってくるとたかをくくっていた自分もいたせいか、もう十日以上何の連絡も無い事が心の中に痛みを生じさせているのだ。周人の母静佳は自分たちは必ず結婚すると宣言した。宇宙最強の能力といえる『真理眼』を持つ静佳が見た未来は絶対である。だが、果たして本当に絶対と言えるのだろうか。今や由衣はもう何を信じていいかわからなくなっていた。昼間はまだ強気でいられるのだが夜はダメだった。怒りを寂しさやつらさが凌駕し、耐えられないほどの痛みが胸を打ち付ける。ため息とともにベッドに転がった由衣は見慣れた天井を見るのも飽きてそっと目を閉じる。そのまま上手い具合に手の位置にあったテレビのリモコンを操作して電源を落とせば暗闇と静寂が部屋を包み込んだ。再度ため息をつく由衣はもうどうしていいかわからず、自然と流れ落ちる涙もそのまま眠りにつくのだった。
寝入りばなを起こされたせいか、やや不機嫌そうに起き上がった周人は焦点の定まらぬ目を凝らしながらゆっくりと立ち上がるとまず最初に寝室となっている部屋の電気を点けた。突然明るくなったために開くことが出来ない目を閉じ、さらにこれ以上ないあくびをしながら少し離れた位置にある着信を告げるメロディを奏でる電話の子機を取りながら枕元のデジタル時計を見れば午前2時を回ったところだった。寝ている夜中に鳴り響く電話のメロディほど心臓に悪いものはない。こんな時間に電話を、しかも家の電話にかけてくる者になど心当たりがない周人は寝ていましたと言わんばかりの声で電話に出るのだった。
『ごめんなさいね、起こしてしまって・・・私、千江美よ、福山千江美』
やや低いトーンは周囲を気遣ってのことか、自らを名乗った千江美の言葉に自分の意識が急速にはっきりしてくるのを感じながら和室に敷いてある布団の上に腰を下ろした。
「全くだぜ。で、こんな真夜中に叩き起こしたってことは、あんまりいい知らせでもないんだろぉぅ?」
語尾がおかしいのは言いながらあくびをしたせいだ。そんな周人にクスッと笑った千江美はその通りよと実にわかりやすい返事をした。
『例の『計画』なんだけど、どうやら2人目の適格者が判明したそうよ』
その『計画』が『リジェネレイト計画』のことだとわかる周人だったが、千江美が教えてくれたのはその名前だけであり、計画自体の全容は聞かされていない。その言葉から連想される意味と最初に接触した際のみさおが残した『聖母』という言葉から照らし合わせた結果の自己流の理解であり、今日みさおに会ってその考えが正しかったと判明したばかりだ。そしてこのタイミングでの電話ともなれば、今日みさおと接触したことはすでに知られていると理解できる。
「2人目?高原みさお以外に適格者がいたって・・・彼女が遺伝子的に最も適しているんだろ?」
『そう・・・でもいたの、適格率90%以上の女性がね』
「しかし、オレの情報は逐一筒抜けか?」
今言った周人の言葉の意味をちゃんと理解できている千江美はまたも小さく笑うとそのことについての答えを明かしてくれた。
『高原みさおに関しては逐一その監視者であり能力者であるガーティ・ジョドーから連絡が入るの。彼女が今日何をして何を話し、誰と会ったかね』
「なぁるほど・・・・プライバシーって言葉は彼女にはないってわけだ。さらに彼女と接触した人間のそれもな」
今の話からすればみさおが接触した人物がどこの誰かという事細かいことまで調査されていると考えていいだろう。どのみち周人の個人データは政府が持っているために調査など不必要だろうが。しかし、その情報を千江美が完璧に把握しているところがまた凄い。一体どうやってその最新情報を手にしているか知りたいものだと思う周人だが、それはそれで余計なことに首を突っ込みそうであえて言葉にしなかった。
「で、2人目って誰だ?」
『神島千絵・・・波島の観光案内所に勤める二十二歳。つい先日まで東京に来ていたそうよ。あの『渋谷の狼』とともにね』
「『渋谷の狼』?たしか・・・・え~と・・・・・なんたらセイ?だっけか」
4年前に今やハリウッド進出の超アイドル赤瀬未来から聞かされたその名前、彼女が今もなお想い続けているであろうその人物の名前だが、やはり『渋谷の狼』で認識しているために全く出てこない。かろうじて思い浮かんだその名を口にする周人に三度目の苦笑をする千江美はそれも仕方がないかと思ったのだ。
『黒崎星よ・・・・・ま、名前が出てこなくても仕方ないかもしれないけど。とにかく、彼女が2人目の適格者』
「計画の詳しい全貌を知りたい」
そう言った周人の言葉に対し、受話器の向こうながら無理そうな千江美の雰囲気を悟ったため、そのことが困難であると判断した周人はあきらめることにした。
『やってやれないことはないけど・・・・・・・』
「無理ならいいさ、ありがとう」
『ゴメンなさいね。とにかく、2人目が見つかったことで間違いなく『ゼロ』が動くわ、気を付けて』
「わざわざ忠告とは・・・・あの『破滅の魔女』とは思えねぇな」
『私が知る限り、全てに決着をつけられる人間はあなただけ・・・だからね』
「光栄だよ」
茶化した言い方ではなく、真剣にそう答えた周人に電話の向こうの千江美は淡い笑みを浮かべていた。実際多方面に顔が広い千江美がこうまではっきり自分しかいないと言ってくれたことは素直にうれしいのだ。
『2人目についても、計画についても夫と話してみるわ』
「そうしてくれ・・・はっきり言ってその計画には致命的な欠点があるからな」
『そうね・・・ゴメンね、夜遅くに』
「いや、いいさ・・・・・また何かあれば頼むわ。じゃぁな、おやすみ」
『おやすみなさい』
その言葉が終わった直後に電話は切れた。こういった遅い時間に電話をかけてくるということがどういうことかはすぐに理解できた周人は子機を置くとしばらく腕組みをして考え込んだ。盗聴や夫の目を気にしながらも危険を承知で夜中にかけてきた千江美の情報、そしてみさおの話から『リジェネレイト計画』が順調に進みつつあることは明白だ。それに反発する『ゼロ』が動くのも目に見えている。『リジェネレイト計画』の発動は『プロジェクト・ゼロ』の終焉を意味するのだ。
「ってことは、彼女が危険だ」
自分が『ゼロ』ならその計画を壊すためにまずそのキーとなるみさおを殺すだろう。そして次の適格者も。そして人を殺すことを目的とした木戸無双流ならば武器など使わなくとも暗殺などたやすい。そうとわかっていながらどうすることもできない周人はさっき千江美が言った言葉をもう一度頭の中で反復して見せた。
「全てに決着をつけられるのはオレだけ・・・・つまり、オレも彼女に次いで危険なわけか・・・」
そうつぶやくようにしてから由衣の顔が頭に浮かぶ。自分の身が危険ということは由衣の身にも危険が迫っているということになる。木戸周人最大の弱点は吾妻由衣、これは実に簡単な方程式だ。
「やるしか・・・・ないのか?」
誰に聞くでもなくそうつぶやいた周人は結局朝まで眠ることなくいろいろなことを考え込んでしまったのだった。
毎週水曜日は全社で定時退場日と定められていた。つまりは基本的に水曜日は定時で帰るようにされているのだが、忙しい部署にとってはそんなことなど関係ない。実際つい先日までは忙しかった周人などは毎日週末も関係なく遅くまで残業していたほどだ。結局いまだに由衣との連絡を絶っている周人だが、それは本意なことではない。実際いろいろなことがありすぎて今のまま距離を置いているほうが何かと動きやすいのだ。このまま行けば政府や『ゼロ』と衝突する日も近いだろう。そうなれば余計な心配を増やすのみで由衣の負担は大きくなってしまうのだ。へたをすれば本当にこのまま2人の関係は終わってしまうかもしれないが、周人はそのことを頭の片隅に置きながらもなるべく考えないように努めていた。仕事も順調にこなし、定時で帰る支度も万全でスマホを見るが、やはりなんの着信もメールも来ていない。ホッとしていいのか悲しんでいいのかわからない周人は結局悲しげな顔をしながら深いため息をつくしかなかった。
「そんな暗い顔じゃ、幸せは逃げていきますよ」
そのきつい素っ気ない言い方は間違いなく理紗だ、何よりその声で振り返らずとも分かる。
「もう逃げてるさ」
スマホをカバンにつめながら苦笑混じりにそう言う言葉が重く感じられる理紗は心の奥がチクリと痛むのを感じながらお気に入りの白いバッグを手に持った。
「送ってってやるよ。ボディガードを依頼した里中を出張に出しちまったしな」
急な仕事で本社に行かせた龍馬はそのまま遠藤たちと飲みに行くとの連絡があった。周人も本社に出張の際にはそっちの部署の人間と交流を兼ねた飲み会をすることが多いのだ。理紗も敵のリストに記載されているためにいつ狙われるかわからない、その護衛たるべき龍馬がいない今日は周人がその役目を担うのことにしたのだった。
「じゃ、お言葉に甘えちゃおうかな」
いつになく可愛らしい口調でそう言う理紗の微笑みは恋する乙女のそれだったせいか、お世辞ではなく可愛いといえた。
「じゃぁ、飯でも食ってくかい?」
黒い大きめのかばんを肩からかけた周人は車のキーを手にそう言うと理紗を伴って歩き出した。すでにグループのメンバーたちは早々と退社している。
「主任のおごりなら喜んで!」
さっき見せたものとは違う笑顔でそう言う理紗に苦笑する周人はうなずきながらエレベーターホールに差し掛かった。いつもと違ってどこか親密に見える2人の様子を、すでにそこにいたはやねが目を細める感じでじっと見ているのが気になるが、とりあえずいつもの感じで素っ気なさを出す理紗はさすがにまずかったかなと内心ドギマギしていた。結局やってきたエレベーターの中には3人だけとなり、ますます気まずい。このまま周人と同じ駐車場に向かうとさらに事態をややこしくしそうな気がした理紗はどうしたものかとチラッと周人を見やる。だが周人はそ知らぬ顔ですぐ目の前の扉を見ているのみで背後からジッと自分に対して突き刺すような視線を浴びせているはやねなど気にもしていないようだった。やがてエレベーターが1階に到着し、まず周人が、次いではやねと理紗がほぼ同時にフロアに降り立った。
「お疲れ様ですっ!」
怒ったような口調のはやねは早口でそう言うとさっさと建物を後にしてしまった。そんなはやねに挨拶を返しつつもホッと胸をなでおろす理紗に苦笑した顔を見せる周人はややゆっくりした足取りで建物から出て行くのだった。
黒いボールがツヤツヤのフローリングの上をそれなりの速度で進んでいくと十本が逆三角形状に並べられた独特の形状をした白いピンにぶち当たり、その衝撃でまるで爆発したかのようにして後方に飛び散った。自分たちが座る目線の上にあるモニターに派手なCGのあとに『STRIKE!』と表示され、そこに座っている2人の美女から拍手が巻き起こった。ガッツポーズを見せるそのストライクを出した隆弘は得意げな顔をしながら次の順番の成海にタッチした。
「絶好調ですね」
「応援してくれてる人が美人だからさ」
いつになく上機嫌の隆弘は普段言えないそういった言葉もさらっと言える自分に満足していた。
「ありがと!」
背後でそう言う声に振り向きつつにこやかに笑ってみせる隆弘だったが、内心ビクついているのは言うまでもない。最近銀行の近くにできたボウリング場に偵察を兼ねてやってきた3人は意外と空いていたために急遽プレーをすることとなったのだ。とりあえず1ラウンドごとに優勝者に対して最下位の者がジュースをおごっていたのだが、2ゲームこなして隆弘が2連勝、成海が2連敗であった。特に隆弘は絶好調なのか、スペアとストライクを連発して高スコアを叩きだして2人を驚かせた。実際こうまで好調なことに一番驚いていたのは自分だったが、ここ最近いい感じの由衣にかっこいいところを見せられて大満足である。短めのスカートという出で立ちは由衣も成海も変わりなかったが、どうしても由衣の方にだけ目が行ってしまうのは惚れた男の弱みかもしれない。この施設は大きなゲームセンターもあり、プレー後にはそこでプリクラを撮る予定にもなっていた。現在2位の由衣と今から投げる成海の差はわずかに8ピン、これをストライクすれば逆転し、グンと差も広げられる。祈る気持ちと同時に放たれたオレンジ色のボールは先程の隆弘のスピードに比べればかなりゆっくりながら確実にまっすぐに進んでいく。そしてど真ん中にぶち当たったボールは置かれているピンを押しのけるようにして奥へと進んでいった。連鎖的に9本が倒され、最後の1本がグラグラ揺れている。これが倒れるのと倒れないのとでは大違いな為、成海の祈りは叫びとなった。
「倒れろっ!」
その叫びが天に届いたのか、ゆっくりとピンは横へと倒れこんだ。歓声が上がる中、飛び上がって喜ぶ成海は由衣にしてやったりという顔をしながら戻ってきた。
「あ~、よかったっ!」
本当によかったようなややゆっくりした口調は心からそう思っているといえるものだった。そんな成海に小さく微笑んだ由衣は自分の番が来たために立ち上がると自分の選んだ青いボールを見やった。その瞬間ふと何気なしに昔デートした光景が頭に浮かぶ。上手いのか下手なのかよくわからない周人はボールをとっかえひっかえしていたことを思い出した由衣は小さく微笑むとボールを掴んで構えを取った。そして何も考えずにボールを投げた。あまり綺麗なフォームではないがそこそこのスピードでボールはまっすぐに突き進んでいく。もはやボールではなく投げる際に見えるきわどい太ももへと自然に目が行く隆弘だったが、それは隣のレーンでプレーしている男性3人組も一緒だった。
「ダメッ!」
そう叫んだ横に座る成海の声で我に返った隆弘が見た光景は全てのピンが倒れている状態だった。そう、由衣もまたストライクを取ったのだ。
「イェイ!」
愛らしい笑顔を振り撒きながら振り返ったVサインの由衣だが、そこに周人の姿がないことがいやに現実的に思えた。何故かそれが凄く悲しいことだと思えてしまった由衣は笑顔も掻き消えた状態で2人の元に戻ってきた。
「ホッとしました」
「チッ!」
笑顔が消えたことが不自然に見えないよう胸に手を当ててホッとしたような表情を浮かべた由衣に成海が悪態をつくが、由衣は心が重く感じられて仕方がなかった。結局由衣はことあるごとに周人とのデートの記憶を今に重ねた結果成績は振るわず、最下位に転落してしまったのであった。そんな由衣が気になる隆弘は落ち込んだ様子の原因が今のプレーには関係ないことを、なんとなくだが感じているのだった。
結局3ゲームでボウリングを終えた3人は6階建てのこのビルの2階と3階にあるメダルゲームとプリクラのコーナーに向かった。ここはUFOキャッチャーもあって大人のためのアミューズメントスペースとされている感じがした。4階はビデオゲームや体感ゲームなどがあって若者やカップルでにぎわっている。5階と6階がボウリング場となっており、1階はパスタのお店とカラオケになっていた。数あるプリクラの中から1つを選んだのは成海であり、最初は3人で撮った後に隆弘と成海、そして隆弘と由衣のカップリングで撮ることとなった。3人で撮ったプリクラには落書きやらスタンプ処理でキラキラに仕上げられ、次いで由衣が外に出て成海と隆弘が残る。どこかイヤそうな隆弘を横目に、由衣は周人と初めてデートした時のことを思い出していた。半ば強引にデートさせ、お姫様抱っこをさせた挙句に頬にキスをしたそのプリクラは今でも大切に保管されている。今思えば好きでもないのによくあんなポーズをとらせてくれたと思う由衣はまたも悲しい気持ちになってしまった。ここ最近、いやに周人のことを考える自分がいる。別れを口にし、本当にそうしてやると思っていた由衣は絶対に自分からは連絡を取らないと誓っていた。いや、正確には周人から必ず謝りの電話があると信じていたのだ。だが結果は半月経つのにまるでそんな気配はない。今や本心は仲直りしたい気持ちが大きい由衣にとって、それは少なからずショックなことだった。いつも優しい周人がこうまで連絡を取らないとなれば、本当にもう関係が終わってしまうと思えてならない。いや、終わってもいいと思っていた自分の気持ちが落ち着いてくるにつれ、そうなることの恐怖がじわじわと心を絞めつけているのだ。言い換えれば自分は周人が好きだと再認識しているに等しい。今にも溢れてきそうな涙を必死でこらえる由衣はバッグからスマホを取り出してみる。それを見ればつい最近まで夢中になって見ていたドラマの主演を勤めた俳優の笑顔があった。由衣はボタンを操作して元にしてあった周人の写真を取り出すとジッとその照れたような笑顔を見つめた。ますます会いたい気持ちが心を絞め付ける中、プリクラの撮影を終えた2人が出てきたためにあわててスマホをバッグにしまいこんだ。
「電話?」
めざとく見ていた成海の言葉に友達からのメールだと答えた由衣は隆弘をうながしてカーテンで仕切られた個室状の撮影場所に入る。やや緊張する隆弘に対し、由衣は淡々とした様子でお金を入れるとてきぱきとパネルを操作していった。最新機種だけあって様々な見たこともないスタンプや機能がある。少しばかりそれに夢中になっていた由衣はハッとした様子で後ろを振り返った。
「ごめん、しゅう・・・・・・あぁ~、そのぉ、夢中になってた」
思わず周人と言いかけた由衣はあわてた様子でごまかすように可愛い顔と仕草でテヘっと笑った。思わぬ可愛い顔を見せられてやや赤面する隆弘だったが、間違えられたことがわかるだけにその胸中は複雑である。確かに今、由衣は自分の彼氏の名前を言おうとした。それが理解できるだけにそうドキドキしない隆弘だったが、くっつくようにして並ぶ由衣のコロンの香りを鼻にして興奮度が一気に高まっていった。だが、思わずこのどさくさにまぎれてギュッと抱きしめたいと思う隆弘を冷静にさせたのはさっき由衣が間違えて言いかけた言葉を頭によぎらせたせいだった。結局そのままの状態で撮り終えた隆弘の心は嬉しさ半分悲しさ半分であり、別れたと言いながらもまだ彼氏を好きでいる由衣の本心を知ったような気がしたために仲良く撮られたプリクラを見てもそれほど感動しなかった。




