笑顔の条件(5)
明かりといえば外からもれるネオンの光や街から溢れている夜を彩る文明の光のみであり、部屋自体の照明は消されていた。二十帖ほどの広さを持つこの部屋は赤いふかふかの絨毯に高級そうな木目調のテーブルと黒い皮製のソファ、それとアルコール類が多彩に陳列された棚がいくつかあるのみでテレビもなければラジオやステレオすらなかった。あるのは部屋の片隅に置かれたFAX付き電話ぐらいなもので、電化製品は無いに等しい。頭上にある照明は5つの花が咲いたような状態で電球がぶら下がっているその上に5枚の羽が付いたファンがあるタイプのものだが、これが使用されたことはこの部屋の主が今の人物になってからわずかに数度、すでに3ヶ月はこの部屋に住んでいてわずかに数度しかないのだ。時計すら無いこの部屋にあるソファに腰掛けているのは男だった。かなりの長髪をうなじのところで縛っているため、後ろから見れば女性にも見えるが、その筋肉質な体、そして鋭い目つきは間違いなく男性のそれだった。たくましい筋肉を惜しみなく見せているのは男が全裸であるせいだ。引き締まった体はただ1つの欠点もないほどに鍛え上げられているように見える。男はテーブルの上に赤ワインを注いだグラスを置くと持っていた数枚つづりの紙を1枚めくる動作をしてみせた。
「・・・話にならんな」
その言葉を聞いて体をビクつかせたのはこの部屋の中にいたもう1人の人物だった。もし今、人が入ってきたとしてもおそらくその人物には気付かないであろう。なぜならばその人物は長髪の男の前にひざまづいているからだ。入り口に背を向ける格好でいるために完全に死角になっているその人物は女性である。しかも全裸に首輪をされ、その首輪には太い鎖がつけられているのだ。部屋の一角に打ち付けられている鉄の輪に繋がれたその鎖は重く、こうして座っているだけでも首が痛いほどだ。女性は薄明かりの中でもかなりの美人とわかり、年もまだ十六、七といったところだろう。ついさきほどまで長髪の男に奉仕させられていたその女性の目は虚ろで、まるで意識がないようにも見えた。
「成果がまるでダメだ・・・・やはり、自分たちが動かねばならんか・・・」
気だるそうにそう言うと投げ捨てるように書類の束をテーブルの上に置く。そのままワイングラスを手にとって一口飲むと、男はぼうっとしている女を強引に引き上げて膝の上に置いた。
「やはり、どんな女も3日で飽きがくるな・・・・・」
女の顔をまじまじ見ながらそう言う男に、女はただただ怯えるばかりである。援助交際をしようと渋谷に出かけてこの男を引っ掛けた矢先、ここに連れ込まれて男のされるがままにその欲望を受け止めた。泣くことすらもう忘れたその少女は、今や怯えるという感情しか持っていないのかもしれない。
「木戸周人の女が欲しいな・・・」
そうつぶやくと邪悪な笑みを浮かべる男、木戸百零は怯える少女に対して再び自分の本能のままに欲望を開放して襲い掛かるのだった。
たまたまだったのか、それとも神の思し召しか、昨日の競馬のメインレースで大穴を当てた隆弘はごきげんな様子で更衣室を出た。自分が狙っていた馬番を書き間違えた結果、その馬が勝ったおかげで思わぬ大金を手にしたのだった。もはや焼肉ぐらいいくらでもおごってやれるほどのお金をゲットした隆弘は自分の席についてからさっき勝ったスポーツ新聞の競馬欄を見てニヤついた顔を消せずにいた。
「おはようございます」
「おう!」
ご機嫌な様子はその返事ですぐにわかる。いちいち馬券など確かめなくともこうまでわかりやすい表現をしてくれれば勝ったか負けたかなど一目瞭然だ。そう思う由衣はどこか吹っ切れたような笑顔で以前同様隆弘の見ている新聞を覗き込んだ。
「その様子からして勝ったんですね?」
「まぁね」
「大金?」
「いや、まぁ、それなりにね」
まさか四十万円近く勝ったなどとは言えない隆弘は得意げな感じでそう答える。
「じゃぁ、今週末、焼肉ですね」
「あぁ、そうだな・・・・・・・って、吾妻さんは行かないんじゃ?」
その言葉に一瞬苦々しい顔をした由衣だったが、すぐさま小さな微笑へと変えてみせる。
「行きますよ」
「いいの?彼氏は?」
恐る恐るそう聞く隆弘にすました顔をする由衣はやや口を尖らせながらそれに関しての答えを口にした。
「もういいんです・・・別れましたから」
信じられない言葉を口にした由衣はあっけに取られるようにポカーンとアホっぽい表情を見せた隆弘に小さく微笑むと、楽しみにしてますと言い残して席へと向かった。
「別れた?マジで?」
無意識的にニヤけてくる顔を隠そうともせずにそうつぶやく隆弘だったが、あれほど彼氏を大事にしていた由衣に何があったかが気になってしまう。だがこういったプライベートな話は聞きにくいことだが、焼肉を食べながらならば可能かもしれないとアゴに手を置いて神妙な顔つきとなった。
「おはようございます」
「あー、おはよう」
隣の席につく成海の挨拶もそっちのけな感じの隆弘はそそくさと新聞をしまうと両肘をついた手にあごを乗せて由衣の背中を見た。そんな隆弘の視線を追って同じく由衣を見た成海はムッとした顔をしてから横目で隆弘を見やる。
「吾妻さん、どうかしたんですか?」
「ん?今週末の焼肉に来るって」
「え~!」
隆弘の言葉に明らかに不満の声を上げた成海は唇を尖らせてむくれる仕草を取った。上手くいけば隆弘の心をつかめるかもしれないと思っていただけに、隆弘が好意を寄せている由衣が参加となればそれは全てが台無しになることを意味している。
「でもあの子、彼氏が・・・」
「別れたそうだよ」
「別れたぁ?」
予期せぬ言葉に驚きを隠せない成海もまた由衣の背中を見た。普段と変わりなく隣の席の女性と世間話をしている姿に何ら異常は見当たらない。
「・・・・・あんなにラブラブを強調してたのに?」
由衣は飲み会の誘いなどをよく断ることが多かった。彼氏がいるから、という理由でだ。休みに何をしていたかと聞けばデートなど、彼氏との順調さ具合はそのさりげない日常会話からも窺い知れたのにだ。その由衣が彼氏と別れたとはにわかに信じがたい。嬉々としている隆弘をよそに、目つきを鋭くして由衣を睨む成海は真相を知りたいと思う好奇心が溢れていくのを自分の中に感じるのだった。
由衣と周人が別れた、正式には大喧嘩をしてから4日が経っていた。その間はもちろんメールも電話も一切ない。思い出すことはあっても腹立たしさが寂しさを上回るために後悔も懺悔の心もなくなっていた。もはや愛想をつかした感じの由衣は今まで付き合った男性が周人しかいないことも問題の1つとして、これからは積極的に接していこうと思い始めていた。その第一歩が隆弘主催の焼肉の会である。スマホの待ち受け画面も周人ではなく、今流行のドラマの主人公のそれに変更されている。自室の机の上にあった写真立てもすでに引き出しにしまわれている徹底ぶりだ。自分から周人を消そうと躍起になっている由衣だが、それは周人に対する精一杯のあてつけかもしれなかった。そしてあの大喧嘩をした翌日、夜9時に桜町へと舞い戻った龍馬は理紗と別れてからその足で周人の家へと向かい、詳細を話していた。リストと写真、マスクを見せて当時の状況を説明した龍馬はリストにある知った名前の人物への注意勧告を行った。周人は首謀者の名前こそ明かさなかったが、最悪のことを考えて警視庁の秋田と接触してみようと考えていた。そしてそのさらに翌日、光二とも話をした周人は由衣のことには一切触れずに今後の対策を練り、とりあえずは相手の出方を待つ方向で決着した。周人から何やら妙な違和感を覚えた光二だったが、むやみやたらと他人の思考を読むことを封印しているために何の力も使わずに帰路についた。これは光二が結婚したからではなく、恵という存在にだけ能力が発揮しないことからそうしようと決めたのだ。いまだに妻である恵だけの思考は読めないでいる。おそらく世界でただ一人、その能力が使えない相手であろう恵の思考が読めたならばこうも幸せな生活は送れていなかっただろう、そう思っているのだ。余計な考えを読まず、場の雰囲気や言葉からそれらを察することこそ人間なのだと気付いた結果だった。周人が何を思い、悩んでいるかは知らないが少なくとも相談を受けない限りは何もしないことを決めた光二は襲撃事件に関してだけの話をして帰っていったのだった。それから3日、週末を久々に1人のんびり過ごした周人は少々寂しさを感じながらも自分から謝ることはしないと心に決めていた。自分の気持ちも理解しないで罵った彼女をどうしても許せないのだ。自分がどんなに悩み、考え、苦しんでいるかもわからないような由衣など由衣ではないとし、意固地になっているのかもしれない。
緑豊かな土地が広がる光景は何故にこうも人の心を和ませるのか。真夏の猛暑を避けるために人は海を目指すのだが、同時に山をも目指すのはそういった癒しの効果を求めているからなのかもしれない。さわさわと優しい風が夏の熱気によって熱い皮膚に心地よい優しさを与えてくれている。木陰がきつい日差しから身を守り、体の火照りをやわらげてくれる。流れる汗すら心地いいと感じる秋田はいつも冷房の効いた部屋にいるためにこうも汗をかくのは久しぶりのことだと木陰のベンチに腰掛けながら大きく発達した真っ白な入道雲を見上げた。いつもより青く見える空はまぶしく、白い入道雲が自分をアピールしているのもこの広い空においては小さなことだろう。ネクタイをゆるめつつハンカチで額の汗をぬぐう秋田の目に、かつて同じ職場で現場を駆けた女性の姿が飛び込んできた。ゆっくりした足取りでやや斜面となった芝生の上を歩いてくるその女性は秋田を目に留めると優しい微笑を浮かべてみせた。
「お元気そうですね、秋田さん・・・いえ、今は秋田副総監とお呼びすべきかしら?」
五十を越えているようには見えない若々しさはここでの生活が充実しているからからもしれない、そう思う秋田はベンチから立ち上がるとにこやかな笑みを返した。
「君になら呼び捨てにされてもいいさ・・・それに、お元気そうなのはあなたの方だ、江坂さん」
2人はガッチリと握手を交わし、約十年ぶりとなる再会を祝した。かつて若かりし頃はお互いに刑事として凶悪犯とも渡り合った実力を持っていた。やがてトントン拍子で出世した秋田とは違い、家庭に入りながらも刑事を続けていた江坂登志子はそのニ足わらじの生活のせいで離婚となり、引き取った子供との生活を優先して四十歳を前にして引退、その後2人の娘を嫁に送り出してからは娘たちに負担をかけないようこの精神病院で住み込みをしながら数々の患者と接して生活してきたのだった。今ではこの精神病院における最大の患者、かつては『キング』と呼ばれた久我晴海の世話をしている。ここは政府が管理している病院であり、何より精神を病んだ凶悪犯を多数収容している特殊な病院である。よって面会に来るものは家族ではなく、警察や弁護士、検事などといった職業の者たちばかりだ。中には福山たちのような政府の高官まで来ることがある。だが、秋田がここへ来たのは1週間ほど前にこの登志子から連絡をもらったのがきっかけだった。ベンチに腰掛ける2人は側から見れば熟年夫婦のような印象を受ける。実際2人の間に一時期的な恋愛感情があった事もある。だが、結局はお互いに別々の人と結婚している過去を持っていた。
「娘さんたちは元気かい?」
「えぇ・・・孫が2人で、もう私もおばあちゃん・・・それも悪くはないけどね」
微笑む登志子に自然と笑みが漏れる秋田は自分の息子ももうすぐ結婚だと告げた。秋田には子供が2人いる。まだ二十一歳の息子が今時珍しい大和撫子のような彼女を自分に紹介したのはつい先日の事だ。下の娘はまだ高校生であり、遊びざかりのせいか家にいることが少ないとぼやいた。
「で、本題だが・・・・・久我晴海は?」
「入院した当時から何も変わってないわ・・・どんな治療を施そうとも、結果は同じ。回復の見込みはゼロよ」
かつて『キング』と呼ばれ、権力、金、力、女全てを手にした男はたった一撃をあごに受けた衝撃で脳に損傷を受けて廃人と化した。その後この施設に運ばれた彼は何の感情も表さない人形となったのだ。人に促されればおとなしくトイレにも行くし風呂にも入る。それ以外は話すこともなければ怒り、悲しみ、笑うことすらしないのだ。あらゆる治療法、医療器具、果ては気孔による施術を駆使したが結果は全て同じだった。その気孔による治療を試みた中国の医師が『強い念が彼を拘束している』と告げて去ったことはこの病院の伝説とまでなっているほどだ。その念とは彼を倒した男のものなのか、はたまた彼が今までに殺してきた者たちが恨みを抱いている怨念かはわからない。入院から十二年、もはや回復は不可能とされた彼の心中を知る者は本人を入れてもいないのかもしれない。
「結局は、1人の男の執念がそうさせているんだろう」
感慨深げにそう言う秋田はまるで獣のような目をした少年の顔を頭に思い浮かべた。
「彼の人生は波乱ですね・・・・十二年前までは好き勝手生きてきた。そして今、人の手を借りなければ何も出来ないなんて」
悲しげにそう言うのはずっと彼を看てきた登志子にだけ許される言葉なのかもしれないと思う秋田はここでようやく本題に入った。
「福山が来たのはいつ?」
「最初に姿を見せたのはちょうど5年前かしら・・・久我に何かの治療を施したけど、結果は同じ。それから、次に現れたのが3年前、久我から何かしらのサンプルを取って帰ったらしいけど、私はたまたまその時にいなかったから・・・」
5年前とは、当時福山が防衛庁の官僚に入るか入らないかと言われていた時期であり、彼がその持論『第二のキングによる裏社会の整備』をうたった頃だ。世界がテロの脅威に悩まされていた頃に提唱されたその計画はテロを生む裏社会の統制と情報管理という2つを1人の人間の指示によって組織された部隊で整備するといったものだった。この時はあまりに馬鹿げた計画と却下されたが、結局4年前に当時の政府における最高官僚の1人にして現首相の大沼が福山と密談して『プロジェクト・ゼロ』を立ち上げたのだった。その1年後に何故またここへ来たのかはわからない。3年前といえば大きな闇の組織を『アーク』が潰した時期でもあり、その功績を最大に評価された頃なのだ、ここへ来る理由などないはずだ。
「そして3ヶ月前、私の不在に便乗して彼を3日間強制的に連れ出した。結果、精神不安定状態となった彼が完全に元に戻ったのはついこの間よ」
「さらについ先日も夜中に様子を見にやってきた、か」
登志子の話を聞いて深く何かを考え込んだ秋田はつい先週の会議の席で福山が提唱した対『アーク』用計画の全貌と今の話を照らし合わせれば全てが繋がることは間違いないと判断できた。
「再確認するが、久我の再起、復活の可能性はないのですね?」
「今の医学では不可能です」
「だが、ヤツは彼を復活させようとしている・・・しかもとんでもない方法でね」
悲壮な顔をしながらそう言う秋田からただならぬ雰囲気を感じ取った登志子の表情も強張る中、秋田は緑豊かな景色へと目をやりながらひとつ深呼吸をして自らを落ち着けるようにした。
「先日、極秘会議で福山が提唱した新たな計画・・・・『リジェネレイト計画』こそ、久我晴海こと『キング』を復活させる最後の手段だ」
そう前置きした秋田はその恐るべき計画の全貌を登志子に話して聞かせるのだった。
秋田と登志子が接触している頃、防衛庁舎のビル内にある会議室では険しい顔の福山がみさおを前にして座っていた。小会議室というだけあって小さめの横長机を2つ合わせた物に椅子が8脚あるのみの簡素な部屋だ。こういった小会議室は全部で5つあり、中会議室と呼ばれるやや大きめの場所が3つ、かなり広くて設備も良い大会議室が2つ、その上ホール状の会議室まであるのだが、今はわずか3人しかいないためにこの小会議室を使用しているのだ。部屋の中には福山、みさお、そしてガーティの3人しかおらず、お茶もなければ紙切れ1枚用意されていない。
「最近、勝手に行動しているらしいな・・・」
「確か契約では自由に動いていいはずね」
「そうだ。だがな、勝手にいろんな人物と接触しろとは言ってない」
腕組みして首を斜めに構えた福山は睨むようにしてみさおを見ているが、当のみさおはそんなことなど全くお構いなしだ。
「たまたまよ・・・」
「お前は我々の計画の鍵だ、何かあっては困るのだよ」
「あら?鍵はこの子じゃなくって?」
そう言いながら自分の下腹部を指す。ニヤつくみさおの態度が気に入らなかったのか、思わず立ち上がった福山は両手をテーブルに叩きつけながらぐっと顔をみさおの方へと向けた。
「調子に乗るなよ・・・借金で風俗に売られかけていたお前を助けてやったのが誰か忘れたわけではないだろう?」
「フン、じゃぁどうする?ポイ捨てする?そうなればこの子もおじゃんね」
「適格者はお前だけではない・・・つい最近判明したのさ」
強気な態度で出ていたみさおの表情が今の言葉で強張った。
「どういうこと?世界中捜しても、適格者は私だけだったはず」
「もう1人いたんだ・・・『聖母』となりうる人物がね」
「だ、誰?」
「お前が知る必要はない」
そう言うと勝ち誇った顔をする福山はテーブルから手を離すと自分が座っていた椅子に掛け直す。動揺がありありわかるみさおは顔を青くしながらも強気の態度でそっぽを向いた。
「ガーティ、このバカ女が暴走した場合、怪我をさせても構わないから即座に連れてくるんだぞ」
その言葉にうなずいたガーティはさらにそこからうやうやしく頭を下げた。
「お前が死んでも替わりはいる、そのことを忘れるな」
不敵な笑みを残して会議室を出た福山は小さく喉を鳴らして笑い声を上げるとポケットから1枚の紙切れを取り出した。
「適格指数93%・・・・・神島千絵、か」
そこに書かれている文字を声に出して読んだ福山はそのまま紙を握りつぶすと懐から業務用の携帯電話を取り出し、みさおがいる会議室の隣にある会議室に入って鍵を閉めた。ここは会議室だけあって完全に防音であり、盗聴されないよう特殊な電波が流れている。よって普通の電話では通話できないのだが福山のそれは特別仕様である。
「私だ・・・例の2人目の適格者を連れて来い。何なら拉致してもかまわんさ・・・騒ぎになればどこかの国の責任にすればいい」
そう言って電話を切った福山は立ったまま壁にもたれるとタバコを取り出して火を点けた。その時、隣の部屋からみさおが出て行く音が聞こえてくる。ドアが閉まり、足音が遠のくのを聞いてから胸いっぱいに煙を吸い込んだ。
「適格指数99%のみさおに比べれば落ちるが、保険は必要だからな」
言いながら煙を吐く福山はまだ幼い娘と小さな息子の顔を思い浮かべる。
「見てろ、お前たちが安心して暮らせる社会を作ってやるからな」
そうつぶやくように言うとタバコを吸いきり、部屋を出て行くのだった。
毎年この日ばかりは会社を休んででも必ずここに来ていた。だが今日は土曜日であり、会社も休みだったこともあっていつもはとんぼ返りするのだが今年は実家で1泊する予定でいた。暑い日ざしも和らぎ始めた黄昏時にしてはセミの声がかなりやかましく、夏本番を告げている。汗をかきながらも手を合わせ、目を閉じてじっとしている周人がいるのは墓地である。今日は恵里の命日であり、今でも鮮明に記憶に残っている十二年前に起きた事件の日でもあった。変わり果てた恋人の姿を発見した日、生まれて初めて絶望と言う言葉の意味を知った日でもあるこの日は毎年つらい思いをしていたのだが、由衣がそばにいてくれてからはそれもなくなっていた。だが、今年の墓参りは少し違った。ケンカして別れてからすでに1週間経つがいまだに連絡を取っていない。こうまで由衣の声も聞かずにいることは付き合いだして5年経つが初めてのことである。徐々にだが冷静になりつつある周人は今はとりあえずお互いが頭を冷やすことが大事だとそっとしており、とりあえずは自分自身の中の問題を解決する術を模索しているのだ。
「じゃぁな、恵里、またお盆に来るよ・・・・また1人かもしれないけどな」
そう言い残し、墓石に背を向けた周人は流れてくる汗を腕でぬぐうと夕焼けに染まりつつある空を見上げた。
「恵里、本当に由衣のそばにいてくれてるのか?」
もちろん誰も答えることはない、答えを求めてそう言ったわけではない。周人はため息をつくとうつむき加減で再度墓石を振り返った。
「あいつを、頼む・・・・このまま本当に別れることになっても、ずっとあいつを守ってやってくれ」
周人はそう言いながら悲しい笑みを浮かべて見せた。怒りの感情があっても由衣を愛する気持ちは変わらない。一時の感情に任せて大声を出したことも反省している。だからこそ、修復が不可能な関係になったとしても、それでも願うのは彼女の幸せだ。何故その素直な気持ちを彼女にぶつけないのかと、そう思っているのか、恵里は沈黙したまま何の答えを返すことはなかった。
ダイニングにいる男3人のうち、夕食が並ぶ食卓を前に憮然とした顔を見せている男性は2人。詳しく言えば、残った1人の男をその2人が睨んでいるのだ。暑いせいか今日の夕食はそうめんであり、あと煮物がいくつか用意されていた。残すところはお茶だけとなった食卓を見ながらその視線を合わそうとしないのは周人であり、そんな周人に対して明らかに不満な顔を向けている2人は父親の源斗であり、祖父の鳳命だった。その理由はただ1つ、1人で里帰りしたこと、つまりは由衣の不在である。
「なんで由衣ちゃんは来んのじゃ?」
もうこの質問はのべ8回目である。もはや返事をするのも面倒な周人はお茶を運んできた母親の静佳からそれを受け取ると横に座る静佳とも目を合わせなかった。
「さぁ、ではいただきましょうか?」
場の空気など関係ないのんびりした口調でそう言う静佳の合図で皆一斉にいただきますを口にした。
「ホントにケンカ別れしちゃったの?」
お茶碗を手にした静佳の言葉に黙ってうなずく周人は手を伸ばしてそうめんを取ろうとしたが、わざとらしい源斗の動きによって阻止された。
「何すんだよ!」
「・・・・・たまたまだ」
明らかにわざと邪魔をしたのだが、ここはこらえた周人は源斗が取り終えるのを待って再度箸を伸ばすものの、今度は鳳命によって阻止された。
「こらジジィ!」
「由衣ちゃんを連れて帰らなんだバツじゃ!」
鳳命のその言葉に黙ってうなずく源斗を見た周人はため息をつくと強引にそうめんのはいった器ごと自分のそばに持ってきて出し汁の中に入れた。
「知るかよ・・・何度も言ったろ?ケンカ中だって」
「即、謝りなさい」
きっぱりそう言いきる源斗を無視してじゃがいもの煮物を食べる周人に片眉をピクリと動かす源斗は隣の鳳命をチラッと見て何やら目で会話した。
「なんだよ」
「お前が悪いから今すぐ謝ってこい!」
ケンカの原因については何も話してない。なのにこうも一方的に自分が悪いとされれば腹も立つ。大体何故息子である自分を擁護しないのかが不思議だ。
「いやだ」
「お前な・・・あんないい子は他にはいないぞ?大体、仲間の中で結婚してないのは・・・柳生君はまぁ、婚約してるからといいして・・・・お前だけだぞ!」
とっさに十牙の事を思い出した源斗はそこだけ声を小さくしたが、最後ははっきりと言い切った。
「だから?んなのオレの自由じゃん」
「あの子はいい子じゃ・・・・・・フラれて後悔するのはお前じゃ!」
そうご飯粒を噴き出しながら怒鳴った鳳命にうんうんとうなずく源斗。怒りで身を震わせる周人の横では黙々とご飯を食べている静佳だけが異様に落ち着いた様子でいるのが浮いている。
「ワシはあの子以外の嫁は認めないからな」
まるでダダッ子のようにすねたような口調でそう言う源斗に、もはや周人の怒りも限界に近かった。
「まてよ?ということは・・・ワシにもチャンスが巡ってきた!」
その言葉に源斗は不思議そうな顔をし、周人は青筋を立てながら睨むように鳳命を見た。静佳はそんな男連中を無視してそうめんをすすっては注ぎ足している。
「ワシが由衣ちゃんと結婚できるぅ!」
「マジ?」
「アホか・・・」
鳳命の思わぬ言葉に親子してあきれるが、当の本人は大真面目なのだ。できれば由衣と結婚したいと本気で考えている鳳命はできちゃった結婚を夢見るファンキーな老人である。
「ボケたじいさんはおいといて・・・・お前、本気で結婚する気あるのか?由衣ちゃんも待ってるだろうに」
「わかってるよ!でも今は、ダメだ・・・」
「何で?」
「答える必要ないよ」
「ワシは父親だ・・・権利はある」
「ないね」
もはやにらみ合うどころではなく、怒る源斗と周人とが一触即発の状態にある中、静佳は突然パチンと両手を合わせて大きな音を出すと3人の目を引いた。
「蚊」
そう言ったのみで何もなかったかのようにそうめんをすする静佳をボケーッと見ているだけの男3人がハッと我に返ると、ついさっきまで何でもめていたかわからなくなってしまっていた。それ以前に自分がどうしていたのかすら思い出せない。
「ワシ・・・何か怒ってたような気が・・・、おかしいな」
「そうじゃな・・・ワシは、そうじゃ、そうめんを食べたかったんじゃ!」
「・・・母さん、おかわり」
さっきまでピリピリしていた場の空気は和らぎ、静佳が両手を叩き合わせた一発のせいで何事もなかったかのように食事が再開されていく。だが3人はどこか釈然としないまでも何をしていたのかがよく思い出せずに無言で料理を平らげていった。それに真相を言っても信じてもらえないだろう。あの一瞬で静佳が3人から怒りの感情を抜き去り、もめていた時間を吹き飛ばしたという事実を。
風呂からあがった周人は鳴らないスマホを手にボーっと窓の外に見える庭を見ていた。小さい頃はよくここで源斗と鳳命から木戸流の基礎を叩き込まれたものだったことを思い出す。つらくても苦しくても、痛くても寒くても容赦なく自分を鍛えてくれた意味をもう1度ここで噛みしめる周人はホームボタンを押して待ち受け画面となっている由衣の画像を見た。とびきりの笑顔を見せる由衣がこの笑顔を再び自分に向けてくれる可能性は低いだろう。ため息と共に落ちこむ周人は背後に人の気配を感じてそっと後ろを振り返った。
「母さんか・・・」
パジャマ姿の静佳はそっとコップに入った麦茶を差し出すとそのまま周人の隣に座った。礼を言ってそれを受け取った周人は一口すすると横で同じように麦茶を飲む静佳の方をチラッと見やった。
「何も、言わないんだね」
昔からそうだった。復讐にとらわれていた自分を責めて幾度も衝突した源斗と違い、静佳はいつも何も言わずに周人を見守ってきた。今回に関しても結婚結婚と口にする源斗とは違い、一切そういうことを口にはしなかった。
「あなたが思うように行けばいいの。由衣ちゃんと結婚するもよし、別れるもよし。でもね、素直に自分の心を話しなきゃだめよ」
まるで自分の心のうちを見透かしたような言葉に、周人は目を丸くした。静佳はいつもそうだった。悩みがあっても決して口にしない周人にまるでその悩みを最初から知っていたかのような適切なアドバイスをくれるのだ。
「わかっては・・・いるんだけどね」
「なら、そうしなさい。素直に、ね」
そう言い残し、静佳はキッチンへと去っていった。その後ろ姿を見る周人は静佳だけにはかなわないと思いながらも、どうしたものかと思案する。確かに素直に自分の中の不安を口にすれば由衣も理解してくれるだろう。だが、それだけでは周人自身が先へと進めないのだ。
「簡単なことが・・・・できないなんてな」
そうつぶやきながら再度スマホの待ち受け画面を見やる周人の目から涙がこぼれ落ちる。肩を震わせて声を殺してむせび泣く周人を月明かりが優しい光で照らしだしていた。月の光には癒しの効果があるというが、今の周人の心を癒せるものは月の光ではなく遠くにいる最愛の人しかおらず、その最愛の人の存在が大きな悩みでもあるのもまた皮肉であった。そんな息子を感じながら、静佳は月明かりしかない真っ暗なキッチンに立って小さなため息をついた。
「この障壁を乗り越えた時、あなたは本当の強さの意味を知るの・・・そして、もうすぐ目の前にまで迫っている悲劇と絶望があなたに答えを示してくれる・・・・・頑張りなさい、周人」
つぶやくようにそう言うと、窓越しに見える半分だけの姿をさらす月を見上げる静佳の目は悲しさに満ちているのだった。




