笑顔の条件(3)
自分たちのフロアの休憩室には行かずに1階にあるショールームの脇に設けられている休憩コーナーへ向かった2人に会話はない。エレベーターの中でも、歩いている廊下でもだ。だがこれは今に始まったことではない。もう何年もずっとこの調子なのだ。ピンクを基調とした独自のユニフォームともいうべき制服に身を包んだ若い受付嬢に軽い会釈をした周人はつい先日寿退職した早坂聖子のことを思い出しながら休憩ルームのドアをくぐった。歴代受付嬢の中でもトップクラスの人気を誇った彼女がいなくなり、独身男性社員の多くが失意にくれたのは言うまでもない。そんな彼女が一時期周人を好いていたことなど誰も知らないのもまた事実だ。休憩室の中には何組かの人間が雑談を交わしており、2人は適当に飲み物を買うと自販機から一番離れたテーブルについた。相変わらず会話がないそのテーブルの2人だったが、周人が胸ポケットからある物を取り出すとその様子は一変した。
「はい、これ」
「何です?って・・・・うわっ!ちょ・・・・これ!」
そう言うなりひったくるようにしてその物体を取り上げた理紗は顔を真っ赤にしながらその物体、写真と周人とを交互に見やった。周人が取り出した写真は昨日の展示会で臨時コンパニオンを務めた際の理紗の写真だった。デジカメで取られたその写真をいつプリントアウトしたのか、赤面する理紗にいたずらっ子のような笑顔を見せる周人は紙コップに入ったジュースを一口飲んだ。マイクを手に、にこやかな表情の理紗が襟のあるビキニのような白地に赤いポイントの入ったコスチュームを身にまとったその写真は1枚ではない。全てが違う構図ながら6枚もあるのだ。
「オレのお気に入りは一番最後かな」
自分を見ないでジュースのコップを口につけながらそう言う周人を睨む理紗は素早く1番下にある写真を引き抜いて誰の目にも留まらぬように覗き込むようにして内容を確認する。そこに写っていたのはマイクを右手に持って何かを言いながら左手を大きく広げたものである。表情もにこやかで華々しさを感じさせる1枚だ。確かに他の5枚に比べて生き生きとした印象がもてる写真だが,ミニスカートからあらわになった太ももがきわどく写っている唯一の写真でもあるためにそれはそれで複雑だった。
「これで全部ですか?」
恐る恐るそう聞く理紗に普通にうなずく周人は恥ずかしそうにしながら写真を見ている理紗を見ていたずら心がふつふつと湧いてくるのを感じていた。
「でも、いつ印刷を?」
「昨日の夜に、家で」
「家っ?家って・・・木戸さんの?」
焦りが混じったその言葉にこれまた素直にうなずく周人。家で1人、これらの写真を印刷している周人を想像して恥ずかしいやら嬉しいやら何やら複雑な心境になってしまった理紗は写真を見ながら時折赤くなった顔を周人に向けた。
「なんかさ・・・印刷しててムラムラきちまったよ」
「そ、そんな事言ってると彼女に怒られますよ!」
「バレなきゃいいんでないかい?」
「バレなきゃって・・・・・・」
もはや反論する思考すら麻痺してきた理紗はキッと周人を睨むのが精一杯だった。そんな理紗の反応が楽しい周人だが、さすがにこれ以上は本気で怒りそうだと判断して冗談だと謝った。
「データのメモリは会社のサーバーに入れてるから好きにすればいいよ。それ以外は消去したし。印刷は1枚ずつしかしてないからそこにあるので全部だし」
「ホントに、これで?」
こわばった表情でそうたずねる理紗に苦笑しながらうなずく周人はジュースを全て飲み干した紙コップを握りつぶした。
「1枚記念にもらったのを除いてね」
さっきのうなずきを見て安堵の表情をしていた理紗の表情がゆがむ。そんな理紗を可愛いらしいと思う周人だったが意地悪もここで終わりとばかりにゴメンと謝った。
「嘘だよ・・・でも、記念に欲しいなと思った事は本当だけどね」
それは素直にそう思った。特に最後の1枚などはあの展示会の中にたくさんいたコンパニオンの中でも群を抜く屈指の可愛さだ。
「・・・この写真、変なことに使ってないでしょうね?」
「・・・・使ってません、神に誓って」
胸に手を当てて頭を下げるその大げさな態度があやしいが、理紗は今の言葉を信じた。それにあれだけ美人の彼女がいるのにそれはないと自分でも思えたからだ。だが周人が自分の写真を気に入ってくれたことは素直に嬉しい理紗は気持ちと一緒に表情も緩み、周人への想いがますます加速していくのを自覚できないまま心も緩んでいくのだった。
その日は珍しく定時で会社を出た周人はそのままの足で哲生の家に向かった。用件はもちろん昨夜の襲撃事件の顛末を聞くためだ。ほぼ同じ時刻にN県にいる十牙と桜町にいる哲生が同じような格好をした黒づくめの集団に襲われている。さらにはみさおの出現に千江美の言葉と不可解な事が多く、裏で何かが起こっていることは明白なのだ。険しい表情のまま車を飛ばすこと約1時間で哲生の家があるマンションの駐車場前に到着した。哲生の家は桜ノ宮からやや東に行った住宅街にあるマンションである。結婚するまでは桜町の隣にある東雲町で当時恋人で現在妻であるミカと同棲をしていたのだが、結婚を境に桜町へと引っ越してきたのだ。もちろん職場である撮影所や道場にも近いことが一番なのだが、ここからならば由衣や周人の家も近いという理由もあった。ただ2人して実家のN県から遠く離れてしまったことだけが気になる要素ではあったのだが。ともかく、そのマンションの真下に位置する駐車場に着いた周人は鎖による電子ロックを前にしてスマホで哲生の家に連絡を入れてロックを解除してもらうよう要求した。ほどなくして1階に姿を見せたのは相変わらずの童顔に笑顔を見せたミカと、その胸に抱かれている1歳ぐらいの赤ん坊であった。ミカは持っていたリモコンでロックを解除しながらゲートを開放するようにして徐々に鎖がたるんでいくそこをまたいで道路に出た。車をゆっくり進めながら開け放った窓から顔を出す周人は2人に笑顔を向けて礼を言った。
「サンキュー!おう、かけるぅ!元気かぁ?」
そう言われたミカの胸の中でしっかりと母親の服を掴んでいる赤ん坊は嬉しそうに手足をばたつかせた。
「いらっしゃぁい」
相変わらずの間延びした声でそう言いながら息子の手をとってひらひらと振るミカは歳月を感じさせないほどに若く見えた。というよりも学生の頃からなんら変わりが無いようにしか見えない。まだ子供のようなミカだけが時間が止まっているかのようだ。
「おいっす・・・すまねぇな、急に来て」
「ううぅん、いいよぉ・・・翔も喜ぶしねぇ」
言いながら愛しい息子を持ち上げ、周人の方へと持っていく。
「かけるぅ、ひっさしぶりだなぁ!」
手を出す周人に笑いながら手を差し出す翔は嫌がることなく抱っこされてキャッキャと喜んだ。哲生とミカの愛の結晶である一人息子、佐々木翔は1歳2ヶ月であり、顔つきはどう見ても女の子なのだがそのやんちゃっぷりはしっかり男の子であった。この年にしてはやや長めの髪型のせいもあるのか、よく女の子に間違われるせいもあって、最近ミカの趣味も重なって女の子のような格好をさせられることもしばしばだった。だが今日は男の子らしい格好をしている。周人のほっぺたをペチペチ叩く翔を抱いたままマンションのエントランスをくぐった周人はミカが扉を押さえているエレベーターへと乗り込むと9階を押すその手つきを見やった。
「テツは帰ってるんだな?いいよなぁ、あいつは」
「サラリーマンしてる方が絶対いいよぉ・・・稼ぎも安定するしねぇ」
「そうだろうけど・・・月三十万もあるんだから十分だろう?」
「子供はお金かかるんだから・・・しゅうちゃんもそのうちわかるよ」
周人は今の言葉にそうだなと答えるのが精一杯だった。そんな周人に小首を傾げるミカだったがあえて何も言わない。ミカは昔からそうだった。天然で余計なことを言うくせにこういったことに関しては何も言わないのだ。かつて恋人である恵里を亡くし、復讐のためにケンカに明け暮れる周人を止めたい気持ちがありながら、その想いを知っているがゆえに何も言わずにただじっと待ちつづけていたこともある。そんなミカに少し感謝しながらも周人は抱いている翔の温かさを感じて少し心が癒される気がするのだった。そんなこんなで9階のフロアにたどり着いた3人は一番奥にあるドアの前に立った。『佐々木』と銘打たれた表札の下には苗字よりもやや小さい字で『てつお&ミカ』と記され、その横に『かける』と書かれた可愛い字のシールが貼られている。何度それを見ても何故か笑ってしまう周人はミカにうながされて玄関をくぐった。マンションだけあって狭い感じがする玄関だが、実際はそうでもなく、そう見せている犯人は大きな下駄箱のせいだろうと推測できる。玄関に対して、また住んでいる人数に対しても大きすぎるその下駄箱を横に見ながらフローリングの廊下を行く周人は腕の中で下ろせと暴れる翔を自由にしてやるとよたよた歩くよりもそっちの方が早いのか這うようにして奥にあるリビングの方へと突き進んでいった。そんな翔に先導されてリビングに入った周人は黄色い大きめのソファに寝そべりながらテレビを見ている哲生に声をかける。
「ウッス、邪魔するよ」
「おう、早かったな・・・」
言いながら身を起こす哲生はおもちゃをひったくって遊んでいる息子の体を足で絡めとり、身動きが取れない状態にしてしまう。もちろん自由になりたい翔はジタバタ暴れるが哲生が足を離す気配は全くなかった。
「嫌がってるじゃん」
「まぁ、見てろ・・・すんげーから」
何が凄いかわからないが、母親であるミカもそれを咎めることなくキッチンで夕食の支度をしている。こういうのが日常茶飯事なのかなと思う周人が怒り狂う翔を見て小さく驚きの声を上げた。なんと翔の左手がぼんやりと輝いているではないか。その手を哲生の足に数度叩きつけた結果、哲生の足が赤い小さな紅葉を浮かび上がらせた。そこでようやく翔を開放した哲生は赤くなった足をさすりながら周人の方を見てニヤリと笑う。
「こいつ、天才かもしんないわ・・・・1歳そこそこで気を練れる子供なんて聞いたことがないからな」
「とんでもないな・・・でも危険だろ?」
確かに今はいい。だがよその子とケンカでもしてこれを使えば間違いなく相手へのダメージは大きすぎるだろう。怒りに任せて気功を使えば小さな子供など致命傷になりかねない。
「普段はオレが『オレの気』で抑えてるから発動は無理だよ。でも、将来が楽しみだな・・・鍛え方によっちゃぁ多分オレより強くなる。念願の木戸流を倒すのはこいつかもしれないなぁ」
「今のお前ならオレより強いだろ・・・」
「そう思ってたけどな・・・今は・・・正直自信がない」
言いながら立ち上がった哲生はミカが用意した缶ビールを手に取ると1つを周人に手渡した。車で来ている周人だが、それを手にとって開封するとお互いに缶と缶をぶつけて乾杯をした。
「まぁ、話は飯を食いながらだ・・・ガキンチョがいるからゆっくり話もできないかもしんねーけどな」
そう言うとすでにいくつかの料理が並び始めたテーブルの上を見る。てきぱきした手つきで夕食の支度をするミカをたいしたものだと思う周人は結婚前にアルバイトをしていたミカと比べてそう思ったのだ。ミカは同棲をしていた頃、アパートの近所にあるラーメン屋でバイトをしていた。2、3度行ったことがある周人だったが、その時のことはおそらく忘れようがないだろう。注文の取り違えはもちろん、運ぶ先まで間違う始末。レジをさせれば打ち込みを間違い、皿を下げればフラフラする。結局落ち着いて食事もできなかった周人だったが、ミカはその店の看板娘として人気を呼んでいることも知っていた。若い男性はミカのその大きな胸に、おじさんたちは愛想のいいその性格を気に入っていたのだ。実際天然の限りをつくしたミカを危なっかしく思う客たちも、そんなことなどにメゲないミカのファンになっていったのだ。店のマスターもそんなミカを気に入っており、結婚を機会に止めると言うミカを真剣に引き止めたほどだったのだ。そんなミカがいい匂いを漂わせる料理の数々を用意できている。哲生の話からしても最近めっきり腕を上げた味も自慢できるものだと言う。元々ミカは家事、特に料理は苦手だったため、猛勉強、猛特訓して今に至っているのだ。そんなミカの出来たと言う言葉を合図に周人と哲生が席につき、翔を抱いたミカも椅子に座った。いただきますの合図もミカが仕切り、いつもより豪華な夕食が開始された。何度かこの家に遊びに来たことがある周人だが、やはりミカの料理の腕前はかなり上がっていた。しばらくは他愛もない話に花を咲かせていたが、食べながら船をこぎ始めた翔を寝かしつけに席を立ったミカを合図に本来の目的であった話へとなだれ込んだ。
「全身黒、全員が武器を所持に加えて閃光弾まで持つ武装・・・ヤンキーじゃない。もっと大きな組織だ」
だいたいの流れを聞く限り、今言った哲生の言葉に賛同できる。だが、何故今になって十牙やこの哲生を襲うのかというのが最大の謎だ。そんな謎を解く鍵だと思えるみさおと千江美の話を聞かせた周人は表情を曇らせる哲生に意見を求めた。
「どう思う?オレ的には・・・『ゼロ』がオレたちを排除しようとしてるんだと思うけど・・・」
「同感だな・・・そいつらにとっちゃオレたちが最大のやっかい者だからな。だが、問題は何故今になってか・・・どういう理由があってか、だな」
「おそらくは・・・政府の『リジェネレイト計画』、これだな」
「自分たちの存在、権力を脅かすその『なんとか計画』を知り、その計画の鍵となるべき女が動いているのを知ったヤツらが先手をうった・・・・ってか?」
「オレが思うに・・・あの女も政府の思惑を超えたところで動いているような気がする」
周人のその言葉に哲生は不思議そうな顔をしてみせる。だが周人はそんな気がするのみで根拠も何もないと答えた。だがなまじその考えが外れでもないと思える。
「ただムカツクのは・・・あれしきの人数と装備でこのオレ様が倒せると思ってるところだな、ナメやがって」
腕組みして憤慨する哲生に苦笑する周人だが、心の中の不安がより一層大きくなっていくのを感じるばかりだ。そんな周人に気付かない哲生に対し、翔を寝かしつけて戻ってきたミカはいち早くそれを察知し、自分の席に戻っておかずをつつきながらその話題を口にした。
「しゅうちゃん、今さぁ、何か悩んでる?」
口をもごもごしながらでもはっきり聞こえたその言葉に周人はとぼけた顔をするが、哲生はともかくミカはだまされない。
「いや、別に・・・」
「由衣ちゃんにもこの間会ったんだけど・・・様子がちょっとおかしかったから」
ミカが真剣な口調で話をする際には気の抜けたような間延びした言い方はしない。本人は意識していないのだろうが、こういう口調になった時のミカはかなり真剣なのだ。その真剣な言い方からして由衣も悩みを抱えていることが伝わってくる。しかもその原因はだいたいながら想像はつく。
「なんだ、ケンカでもしてんのか?」
「いや、そういうんじゃないんだけどさ」
歯切れが悪いと自分でも思いながらお茶を飲んで間を取る周人。
「ただ、まぁ、いろいろあるだろ?付き合っていればさ・・・」
「結婚・・・しないの?」
ズバリ今2人の心の中にあるモヤモヤの原因を言い当てるミカに周人はドキッとしたが、それは表情にも出さないで無表情を保ちつづけた。
「するさ、そのうちな」
「彼女、もういいかげん待ってるのも疲れてんじゃねぇの?」
冗談でそう言う哲生にムッとした顔をしてみせたのはミカだった。
「やめなさい!」
低い声でピシャリとそう言われれば数々の強敵を倒してきた無敵のコンビもタジタジとなってしまう。
「いや、実際疲れてるかもしれないな・・・・でも、まぁ、すぐにじゃないけど、結婚、するから」
「ならいいんだけどね・・・」
そこで会話は途切れたが、相変わらず暗い雰囲気が漂う。
「ま、十牙んとこみたいに逆プロポーズだけはかっこ悪いから避けるべし!だけどな」
場の重い空気を読んだのか、はたまたこいつも天然が伝染してきたのか、さっきまでの暗い雰囲気は今の言葉で一瞬にして吹き飛んだ。昨夜襲われた十牙と千里は婚約中だが、プロポーズの演出に凝るあまりになかなかそれをしようとしない十牙に対して千里がついにブチ切れ、自分から結婚するか、別れるかを選択させたのだ。もちろん結婚する気がありありの十牙は即結婚すると返事を返したが、キレたら手のつけられない暴れん坊が実に情けない話だ。しかし高校三年生の時から付き合って十一年、よくこうまで長く付き合ってこれたなと思う周人は既に結婚している仲間たちを見て正直うらやましいと感じていた。自分もプロポーズをするのは簡単だと思っている。間違いなく由衣は二つ返事でOKをくれるだろう。だが、今の周人にはそれを口にすることはできない。抱えている悩みを打ち消さない限り前には進めないのだ。そしてその解決方法があるにはある。だが、それは新たな悩みを増幅するために実行できない。十牙の話で盛り上がる中、ミカは時折周人を見ながら何かを探るような目つきになるのだった。
食後のコーヒーも終えた周人は蒸し暑い夜の風を浴びながら愛車であるダブルワンの横に立っていた。時刻は間もなく午後十時である。たかだかビール一缶で酔うわけもないのだが、さすがにこう時間が経てばアルコールも検出されないだろう。ねっとりとした夜風だが、額の汗にはちょうどいいかもしれない。
「とにかく、お前も要注意だぞ」
「わかってるさ・・・そん時は1人捕まえて吐かせる」
笑いながら車に乗り込む周人だが、一瞬表情が強張る。そんな周人を見ながら、ミカは周人の異様な雰囲気を何とかするにはどうすればいいかを思案し、一度由衣とも話をしてみようと心に決めた。
「じゃぁ!ごちそうさま!翔によろしくな」
言いながら車を発進させる周人は見送る2人に手を振りながら徐々に車を加速させて大通りへと出て行く。そんな車を見送る哲生は一度『ゼロ』と接触してみたいと思うが、妻子ある身ではそうも動けないことを歯がゆく思った。そう思った瞬間、哲生は周人の悩みとやらが何かを悟り、表情を暗くしてしまった。
「あのバカ・・・・」
「ど~したのぉ?」
「悩みだよ、お前の言ってたあいつの悩み、わかったよ」
その言葉に、ミカは涼しい顔を返すのみで驚く顔を期待していた哲生をがっかりさせた。
「今ごろぉ?」
「え?お前わかってたの?」
「そりゃぁね・・・だってしゅうちゃんだもの」
「へ?」
答えになってないじゃんと思う哲生は自分を置いてさっさと帰っていくミカの背中を見ながら険しい表情に戻していく。
「こりゃ、自分で解決っつーか、答えを見つけるまでは結婚できねーわなぁ」
つぶやく哲生は曇った夜空を仰ぐと悲しげな顔をしてみせた。
「バカたれが・・・」
最後にそうつぶやきを漏らし、もう既にマンションの中に入ってしまっているミカの後を追うのだった。
昨夜は周人の帰宅が遅かったせいもあり、簡単な電話のやりとりだけだったのだがそこでもやはり周人の様子がおかしいことが伝わってきていた。何がどうおかしいと説明しにくいのだが、どこかよそよそしい感じがしてならない。そんなことを考えれば自然とため息が漏れてしまうが、銀行の窓口業務の女性は不機嫌な顔や無愛想な表情もしてはいけないのだ。由衣は気を引き締め直してロッカーの扉の裏にある鏡を見た。表情もなくそこにいる自分ににっこり微笑みかければ鏡の中の自分も同じく微笑むのはあたりまえだ。気持ちを切り替えて更衣室を出た由衣は胸元のピンクのリボンを整えながらフロアへと入っていき、既に出社してきている面々に笑顔で朝の挨拶をしていった。
「おはよう」
「おはようございます」
電車の駅で購入したスポーツ新聞の競馬欄から由衣へと顔を向けて挨拶してきた隆弘に向かってにこやかに微笑みながら返事を返す由衣は開いているページを見て真剣な表情へと変えていく。競馬に興味でもあるのか覗き込むようにして新聞を見ている由衣の髪の毛が隆弘の目前まで迫ってきてなんともいえないいい香りが鼻をくすぐる。間近で見る由衣は化粧気がなくとも可愛く、年甲斐もなくドキドキさせられた隆弘はその頬に触れたい欲望を必死に抑えながらどうしたものかと困った顔をするしかなかった。
「調子はどうなんです?」
「ちょ、調子って?」
「競馬ですよ」
すぐ目の前の由衣が自分の方を向けば、少し顔を前に突き出すだけでキスさえできる距離にある。彼氏がいるとわかっていながらそのまま自分にキスをしてくれるのではないかとわけのわからない考えを起こす隆弘は顔を赤くしながらその質問に答えた。
「さ、最近はいい感じだよ・・・儲かって仕方がない。な、なんなら今度勝ったら何かおごろうか?」
ぎこちない機械的な言い方だったことが自分でも失敗したかなと思うが、由衣は何の反応も示さないでじっと自分を見ているのみだ。
「いいですよ・・・・私はいつでもね」
目の前の由衣の口は全く動いていない。期待していたその返事は由衣の口からではなく、背後から聞こえてきた。聞きなれたその声は振り返らずとも誰かはすぐにわかった。
「おはよう、新村さん」
「おはようございます。で、どうします?」
「なにが?」
成海の言った言葉の意味がわかっていながらあえて聞き返す。由衣の顔が離れていくのを残念に思う隆弘は成海と由衣とを交互に見ながら困った様子を押し殺したせいで流れてくる変な汗を背中に感じていた。
「おごってくれるんでしょう?」
「競馬で勝ったらね」
「じゃぁ、今週末勝ったら来週焼肉どうです?」
成海のその提案に隆弘はどう答えたものかと必死で頭の中をフル回転させる。ここで断れば自分が由衣のみを誘った、つまりは由衣を好いていることがバレてしまう。かといってここでその条件を飲めば、別にイヤというわけではないが成海とのデートが確定してしまうのだ。
「でも、勝ったかどうかってどうやって知るんです?」
素朴な疑問を口にした由衣の言葉に成海もハッとなった。確かに隆弘が勝ったかどうかなどわからない。嘘を言われても確かめる手段はないのだ。余計なことをと思う隆弘だが、そこであることがひらめいた。
「んじゃぁ、月曜日に買った馬券を見せるってのはどうだい?」
その意見に成海は一瞬納得しかけたが、ん?とばかりに表情を変えた。
「でも2つ馬券を用意して負けた方を差し出しても私たちにはわかんないじゃん」
これまた鋭いと思う隆弘は自分が由衣のみを誘いたいというよこしまな考えを貫こうとしている姿勢を見抜かれているのかとドギマギしてしまい、もはや思考はマヒ状態にあった。
「わかった、そしたら勝とうが負けようが焼肉おごるってのは?もちろん他の連中には内緒で」
もうそれしか言えない状況に納得し、そう提案した隆弘に成海は嬉々とした表情でOKを出した。
「吾妻さんは彼氏に怒られちゃうから来ないよね?」
彼氏のいる由衣を気遣っていると取った隆弘とは違い、『邪魔だから来るな』という成海の心情をストレートに理解した由衣はそうですねと返事をした。その返事に明らかに落胆する隆弘、嬉々とする成海、呆れ顔の由衣はゆっくり近づいてくる人の気配に気付かないでいた。
「ほら、もうすぐ始業開始だぞ・・・席につけ」
そう言いながらやってきた支店長の浦安は右手で由衣の、左手で成海のお尻をギュッと掴む。触るのではなく、揉むといった方が適切だろうそのセクハラ行為を目の当たりにしても、隆弘は何も言えずに新聞をしまうことしか出来ない自分を情けなく感じてしまった。由衣はキッと浦安を睨むとお尻を動かして触っている手を振り解いて自席に向かい、成海は手で叩き落として隆弘の横の席に座った。浦安はそんな2人を見てフンと鼻を鳴らすと一番奥にある支店長席へと向かっていった。それを確認してから成海は隆弘にそっと耳打ちする。
「焼肉、楽しみにしてますから」
正直、浦安に対して何も言わなかった自分を責められると思っていた隆弘は今の言葉と笑顔に少し癒された気がしながらも、自分からは背中かしか見えない由衣がどう思っただろうと不安にかられながら始業開始のチャイムと同時に開店をつげる機械のアナウンスを聞くのだった。
隣合わせに座った電車のシートは2人が向き合う4人掛けだったのだが、今は2人しかいない。おそらくピークの時間を過ぎているからだろう、車内もラッシュというべき込み具合ではなかった。白いシャツに黒のスカート姿の理紗は窓枠に肘をつき、その手にあごを乗せてぼんやりと駅の中の様子を見ているのみであり、横に座る龍馬は何やら難しそうな本を読んでいる。間もなく出発の時間が迫り、出入りがあわただしくなってきた。前の座席には旅行に行くのだろう老夫婦が座り、ガイドブックを見ながらあれこれ話をしている。理紗はチラッとそのガイドブックに目を走らせ、老夫婦の目的地が波島であることを知った。いつかは素敵な彼氏と行ってみたいと思いながら、かなわぬ恋心を抱えた自分がそれを実現する日はいつのことやらと小さなため息をついた。やがて電車はゆっくりと走り出し、一路東京へ向けて快適に飛ばし始めた。結局東京に着くまでまったく会話をしなかった理紗と龍馬だが、それに関しては何の問題もないのであった。
薄暗い部屋には窓が1つもない。あるのは頑丈であることが一目でわかる鉄で出来た扉があるのみだ。しかもドアにも窓がなく、広い部屋の中を照らすべき明かりは人工的に作られた照明のみだったが、その照明の8割は消されてしまっている。そして今この部屋の中にいるのは総勢6人。いや、ドアの両脇に立っている緑色の制服に身を包んだ腰から拳銃を下げている物々しい雰囲気の警備の2人を含めた8人だ。大きな木で出来た立派な丸テーブルを等間隔で囲むようにして設置してある椅子はもはやソファといった方が正しいかもしれない。テーブルの上には写真付きの書類が同じ種類、同じ枚数を各自の前に置かれており、全員が黙ったままその書類に目を通している状態にあった。
「『ゼロ』に見える不審な動きか・・・・・・問題あるんじゃないかな、福山君?」
白髪頭の小柄な老人がメンバーの中で一番若い福山にそう疑問を投げかけるが、福山は全く動揺した様子も見せずに両肘を付き、手を組み合わせる仕草を取った。
「確かに問題ありです。特にアメリカのブラックマーケット、中国や北朝鮮の武器商人から大量の武装兵器を仕入れている事、あと裏社会における組織と不穏な密談を繰り返しているところなどが挙げられます」
福山はそう言うと渡してある書類の中からその項目が書かれている部分を指定した。全員が指定されたページをめくるとうなるようなため息を漏らす。どうやってこの情報を掴んだのか、そこには過去3年間で『ゼロ』が集めたとされる武器の種類や、政府に内密で接触した組織のことが事細かく記されていた。
「これはゆゆしき問題だろう?これでは何のための『プロジェクト・ゼロ』かわからんよ」
「確かに、表立って見れば問題です」
明らかに髪を黒く染めているとわかる黒ぶちメガネをかけた初老の男性の言葉を素直に認めた福山に全員から鋭い視線が飛んだ。だが相変わらず涼しい顔の福山の口元に小さな笑みが浮かぶと意義を唱えようとしたメンバーもその口を閉ざすしかない。
「ですが、彼らが集めた武器、そしてそのネットワークを一網打尽にすれば・・・それは国家の財産になります」
「確かにそうだ・・・だが、相手は君が選んだ最高にして最強の存在だろう?」
「そうですね・・・ですが、その最強を演出しているのは我々です」
バーコード頭にしみだらけの顔をした老人の言葉をあっさりと覆す福山に対し、鋭い目つきを向けたのは秋田だった。
「そしてその我々こそが、最強なのですよ」
「だがヤツの暴走をいつ、どうやって止めるんだ?」
年にしては不釣合いの筋肉質な腕を組みながらそう言う秋田は、福山以外の人間が凍りつくほどの光を目から放っている。それを受けても涼しい顔の福山は手元にあったリモコンを操作して薄暗いせいでわからなかったスクリーンの電源を入れて壁の一角を輝く白へと変化させた。
「ご存知の通り、素手ならば『ゼロ』たちにはかないません。かといって銃火器も『D』によりその機能を障害され、無効にされてしまいます。また、『変異種』の能力に対しては『Xi』によってこちらも全て無効化されます」
スクリーンには『アーク』のメンバー4人のデータが動画によって映し出されている。メンバーたちはその映像を見ながら4人の能力の高さに舌を巻くしかない。『ゼロ』はその格闘能力の高さ、『ゼット』もまたしかり。『D』に関しては全ての機械に障害を及ぼす能力を持ち、『Xi』に至っては『変異種』の能力を全て無効化できるのだ。
「そこで考案されたのが・・・この『針』です」
立ち上がり、書類の中にある『針』による記述が書かれたページを持ち上げて全員にそこを見るように指示した。一斉に書類がめくられる音がし、秋田はこれこそが以前に福山が言っていた『よく鳴る鈴のついた首輪』だと判断した。
「これを脳内に打ち込めば彼らの脳全てをコントロールできます。しかも相手は打ち込まれたことすら自覚なしに」
「どうやって打ち込む?」
長めの白い髪にはまだ黒い髪が残ってはいる。だがはたから見れば白髪だろう。細い目をさらに細めてそう言う初老の男は秋田以上に鋭い目をしながら福山にそうたずねた。
「彼らを眠らせ、それぞれ隔離して打ち込みます。居場所さえわかればどうとでもなりますし、逆にこちらから場所を指定しておびきだせばいい」
「もし失敗した場合は?」
「テロを装い、彼らを抹殺します。具体案は後日にでも」
その言葉にざわつくメンバーを見渡しながら椅子に腰掛ける福山は全員に割り当てられている水を一口飲んだ。
「やはり、『キング』以外に王はありえないのか?」
つぶやく長い白髪の男に対し、福山は小さく口元を歪めて笑う形を取った。
「総理、王は滅びません」
そう言われたさっきの男、日本の最高権力者、内閣総理大臣である大沼大地は今の福山の言葉に対して表情で疑問を現した。
「手はうってあります、次の手を」
そう言ってスクリーン脇にある機械をリモコンで操作した福山はそこに1人の女性の姿を映し出した。ショートカットの髪は茶色く、見た目かなりの美人である。しかもスクリーン上に映し出されている姿は全裸の全身像なのだ。白すぎる肌もまた美人さの度合いを上げているその女性こそ、あの高原みさおであった。
政府の高官、しかも大沼首相が懇意にしているメンバーのみを集めた秘密会議も終わり、わらわらと人が出て行く。1人椅子に座ったままじっと何かを考えるように白いだけのスクリーンを見つめている秋田はさきほど聞いた恐るべき計画に対する対応方法を思案しているのだ。自分の考えを、いや、誰もが想像すらしなかったことを実行に移そうとしている福山の計画は先日電話をもらった江坂登志子からの連絡でなんとなくながら想像はできていた。だが、今聞いた話はその想像すら大きく超えていたのだ。秋田は深々とため息をつくと大沼と話し込んでいる福山の脇をすり抜けながら部屋を後にしようとした。
「しかし、君もとんでもないことを思いつくものだ」
「そうですね・・・でも私はこの国を何とかしたいだけです、総理と同様に」
その言葉に大沼は苦笑するも、福山は真顔のままだ。確かにこの国を変えようと改革路線を立ち上げている大沼だが、自分的にはこの地位を落とさずにいかにして引退後にこの国を牛耳ることが出来るかを狙っての改革を唱えているにすぎない。今は改革という言葉で国民から支持を得て、金と権力を持つことのみを考えているのだ。だが、福山は違う。本気でこの国を変えたいと願っているのだ。今の世界に安全な場所や国などない。狂ってしまった世界の武装勢力に対抗するには自己防衛しかない。そのために対テロリスト組織として『アーク』を結成させたのだ。その『アーク』がもはやテロリストと化せば再び絶対的な王、しかも自分たちに絶対服従を誓う王を作り出さねばならない。自分たちが掴めきれない裏社会を統べる存在が必要なのだ。だがそれは言い換えれば政府の無能さを証明していることと同じなのだが。
「きれい事だよ・・・お前の言っている事はな」
そうつぶやきながら去っていく秋田は一度登志子と会う必要があると判断し、ポケットから携帯電話を取り出すと外のまぶしさに目を細めるのだった。




