心の隙間(5)
もはや考え事をしていても無意識的に足は動く、それはどれだけ毎日毎日同じ事を繰り返しているかの証明かもしれない。夕べは由衣と別れ、家に帰って入浴し、すぐ寝た。その時間はおそらく午後十一時過ぎだろう。だがそこからが問題だった。なかなか寝付けずに苦しみもがき、結局眠ったのは明け方で睡眠時間はほとんど無い。その原因が展望台での出来事のせいかとも考えたが、あれしきのことで興奮して寝られないのは中学生ぐらいなものだろう。大きなあくびを噛み殺しつつエレベーターホールに立つ周人はなかなか降りてこないエレベーターの位置を表す電光表示を見ながらボーっとした様子で呆けている。まるでボケ老人のたようにたたずんでいた周人だったがすぐ横に立った女性を認めて眠い目をはっきり開いて朝の挨拶を交わした。
「おはよう」
「おはようございます」
素っ気ない挨拶こそがこの人物の普通だった。自分にだけは素っ気ないのはこの4年間ずっと同じなため、もはやなんとも思わない。
「寝不足ですか?」
チラッと横目で周人を見たその女性の問いに対し、あくびで返事してしまった周人はしまったと思いつつそっとその女性である宮崎理紗の方へと目をやった。やはりというか何というか、軽蔑のまなざしが痛い。だが、そこからプッと噴き出す笑いを見せた理紗を珍しいと思いながら、周人は表情を引き締めてようやく降りてきたエレベーターに乗り込んだ。時間も早いせいか、ほぼ毎朝2人だけの時間がここにあった。
「午後からのミーティングで寝ないで下さいよ?主任が寝てたら私まで怒られるんですから」
「・・・気をつけます」
しゅんとなる周人の後ろ姿を見つめながら、毎朝こうして会えることに嬉しさとつらさを感じながら、理紗はどうしようもない想いを抱えてもう4年も経つ自分を情けなく思っていた。意味も無く嫌っていた自分が周人を好きになりながらも由衣との間に入り込めずにその密かな想いを封印してきたが、4年間ずっと同じ部署であり、2年前に主任となった周人の補佐としての役目を担ってきた理紗は常に周人と行動を共にしていた。出張も、会議も、たいがいの事を一緒にやっているのだ。グループも女性3人、男性3人に増え、仕事のできる周人が来年の春にはまた昇進するというもっぱらの噂も嘘ではないだろう。実際周人は仕事のできる男であり、かつ面倒見もいい。そんな周人に対する想いを封印し、ずっと悪態といえる素っ気ない態度を取りつづけている理紗にも限界が近づいてきていることは自分でもわかっていた。その優しさ、凄さを一番近くで見ているのだ、恋心が膨らんでも仕方がないと言えよう。いっそのことさっさと結婚でもしてくれればと思いつつ、してもきっと好きでいるだろうというジレンマを抱えて毎日を過ごしていた。それでも周人と一番近い位置で接する事ができる事に満足していた。由衣を除いて次に一番近い位置にいると思っていたからだ。だが、近いだけで触れることはできない。エレベーターを降りて前を歩く周人の後ろ姿を見ながらため息をつく理紗はいっそのこと告白したら楽になるのかなと考えつつも余計みじめになりそうでそれはそれでいやだと答えを出した。結局自分でもどうしていいのかわからないのだ。
「おはようございます」
「おはよう、早いな・・・相変わらず」
6つの机を3つずつ向かい合わせた島の窓側に縦に置かれた周人の席、その右側に座っているのが理紗であり、今挨拶をしてきた男性社員がその向かい側に座っていた。いつも早めの周人よりさらに早く来ているその男はこの春から横浜支社から異動してきた里中龍馬である。去年の秋から大幅な人事異動があり、周人の同期でライバルの遠藤修治は本社へ、横浜支社から来ていた春木香が元の部署である横浜支部へと帰っていた。そしてこの春に新入社員である相楽はやねと共にこのグループにやってきたのがこの龍馬なのだ。後のメンバーは理紗を含め、古巣のメンバーを何名か残してあるのだった。
「おはようございます」
「おはようございます」
目の前に座る理紗の挨拶に無愛想な口調でそう挨拶を返す龍馬だが、彼にとってこの無愛想が普通なのだった。極端に無口で必要最低限以外の話はしない。周人と同じ年のこの龍馬が唯一普通に話せるのがその周人であり、疑問に思った理紗が周人にそのことを聞いたならば『実は以前に彼とは面識があってね、それでだろう』と実に簡単な答えが返ってきたのみだった。顔も俳優的な二枚目であり、同じグループはおろかフロアの中でも女性社員からの人気は高い。それゆえ告白した者も多かったが皆あっけなく玉砕していた。その上でまともな日常会話ができる相手が周人のみとなればホモ説も流れて当然だった。そんな龍馬に何故か嫉妬心が芽生え始めている理紗だが、本来その嫉妬心を向けるべき由衣にはそういった感情は湧いてこなかった。やはり由衣には心から負けを認めているからだろう。3人の間に会話が無く、周人はうつらうつらとうたた寝、理紗はメールのチェック、龍馬はインターネットでニュースを読んでいるといった三者三様の状態にあった。そうこうしているうちに始業10分前となり、わらわらと出社してくる社員たちでフロアの密度が増していった。
「おはようございまーす」
ショートカットの理紗とは対照的な長い髪をパーマにしているその髪の色はオレンジがかった茶色だった。暑いのか袖の無い赤いTシャツにぴちぴちのジーンズ、ピンクのバッグを持った相楽はやねの登場に皆挨拶を交わす。理紗の隣の席である自分の椅子に腰掛け、斜め前に座っている龍馬ににこやかに微笑むが、当の龍馬はチラッとはやねを見ただけで終わってしまった。しゅんとなりながらも自分のパソコンを立ち上げるはやねは目を閉じて眠っているような周人を見て理紗にそっと耳打ちをした。
「主任、寝不足ですか?」
「みたいね」
そうとだけ答えた理紗はキーボードを叩いてメールの返事を返していた。
「きっと彼女とエッチしまくってたんでしょうねぇ」
起動した画面を見ながら何気なくそう言うはやねの横では今の言葉に渋い顔をする理紗がややきつめにキーボードを叩く。由衣に嫉妬心はないが、もし今、はやねが言ったような理由で寝不足ならそれはそれで腹が立つし複雑な心境になる。そうしていると残りのメンバーも一斉にやって来てすぐに始業時間となった。理紗は周人の体調が少々気になりつつも普段どおりの自分で接し、周人も寝不足を感じさせない動きで仕事をこなしていった。忙しいせいかあっという間に定時となり、残業確定の周人、理紗、龍馬以外のメンバーは談笑しながら帰り支度をはじめていた。
「相楽さん、さっきの資料すぐに手直しできる?」
帰る気満々のはやねは周人にそう言われて明らかに不快な顔をした。
「あー、できますけど、今からですかぁ?」
やる気が無いという言葉と口調が早く帰りたいのにという彼女の心境を露骨に表現している。
「そう、今すぐ・・・今日中に送らないとマズイんだよ」
その言葉に膨れっ面を見せるはやねを無視してパソコンと向き合う周人に舌を出したはやねは消したばかりのパソコンの電源を入れながらイラついた表情を隠さない。周人が赤ボールペンで訂正個所を示した二十枚ほどの資料をはやねに差し出すと、まるでひったくるようにしてそれを受け取る。新人にあるまじき行為だが、周人は何も言わずに席へと戻った。
「相楽さん、今の態度ははっきり言って不愉快だわ!主任に謝りなさい。主任も主任です!今の彼女の態度は上司としてちゃんとしかるべきでしょう?」
キッと2人を睨みつけてそう言う理紗に全員が凍りつく。さすがの龍馬も驚いた顔をしながら理紗を見ているほどだ。
「すまない・・・」
周人は申し訳なさそうにそう理紗に謝った。確かに理紗の言う通りなのだが、これまたはやねはいつも周人に対してこういう態度を取るため、もう慣れっこになっていたせいもあった。はやねも周人を嫌っているためにそうしたのだが、理紗を尊敬しているために素直に謝った。
「すみませんでした、主任」
はやねの言葉に片手を挙げた周人は鳴り響く電話を手に取ると製作現場の主任と話を始めた。帰宅組のメンバーは自分たちにも理紗の雷が落ちないうちにさっさと撤収し、残ったのは残業の4人だけとなった。手直しが思ったより少なかったはやねは1時間ほどで帰り、次いでその1時間後に龍馬が帰っていった。いつもの3時間残業の2人が残り、会話もなくただキーボードを叩く音だけが響き渡る。やがて周人が休憩に席を外すも、理紗は画面と向き合ったままだった。そうして10分後、不意に後ろから声をかけられた理紗は左手の脇に置かれた紙コップに目をやり、それから椅子を動かして背後に立つ周人を見やった。
「さっきはすまなかった・・・君に嫌な役をさせてしまったね」
バツが悪そうにそう言いながら謝る周人に、理紗は普段見せない柔らかな表情を見せた。
「いいです・・・あの子がああいう態度を取って平気なのは私に原因がありますから」
理紗の後ろにある壁にもたれながら買ってきたコーヒーを飲む周人は表情で疑問を投げかけた。はやねの悪態と理紗の関係がわからないのだ。
「私がいつも木戸さんにうるさく偉そうに言うから・・・あの子も木戸さんをバカにしてるんです」
「そうかな?ただ単に今時の子なんだろ」
そう言ってコーヒーをすする周人は黙ったまま視線を落とした理紗に困った顔をしてみせる。
「そうかもしれないけど・・・でも、きっと私が・・・・・・私ももう少し言い方を変えます」
「変えることないよ」
コップを口に持っていったままそう言う周人を見上げる理紗を目だけで見ながらコーヒーを飲み干した周人は紙コップを握りつぶして真横にある青いプラスチックのゴミ箱に捨てた。
「君の言っている事はいつも正しいよ。言い方も別に悪くない。仕事もできるし、ホント、誰よりも頼りにしてるんだぜ?」
そう言って淡い微笑を浮かべる周人にやや頬を赤くした理紗は照れた顔を見られたくなくてうつむいた。好きな人にこうも誉められては、職場ではそれを決して出さないと決めている理紗もさすがに自分の感情を抑えきれなくなってしまう。
「そんなこと言うと、彼女さんに怒られますよ」
「え?仕事の事で自分がどう思おうが彼女は関係ないよ」
少し笑いを含んだ感じでそう言うと自分の席に戻る周人にコーヒーのお礼を言う。
「ありがとうございます・・・・・」
「どういたしまして」
芝居がかったその周人の言葉にいつもの調子が戻ってきた理紗は今の雰囲気ならば冗談でも聞きたいことが聞けると判断し、ありったけの勇気を搾り出した。
「わ、私って・・・・・魅力ないですか?」
唐突に話の流れ上全く関係の無い質問をしたことにあらためて気が付いた理紗は恥ずかしさから顔を真っ赤にしていたが、決して周人から目をそらさなかった。そしてその態度から今の質問が真剣なことを悟った周人は真顔になってその質問に答えた。
「十分魅力的だと思う。今まで彼氏がいないことが不思議なぐらいさ」
「ホント、ですか?」
彼氏がいないのはあなたのせいだと心の中でボヤきながらも嬉しさを押し殺す理紗。
「嘘は言わないって。君は美人だし、よく気が利くし、仕事もできる」
「木戸さんには冷たいですけどね」
その言葉に声を出して笑う周人に対し、照れから悪態をつく自分に苦笑を漏らす理紗は視線を画面に戻してしまった。だが、好きな人に自分を誉められて嬉しい理紗はより強くなってしまった周人への想いに気付かず、ご機嫌な様子で仕事を再開するのだった。
約束の時間に遅れないようにと早々と会社を出た由衣だったが、桜ノ宮駅中央改札口の柱の前で息を整えた。待ち合わせの午後6時に間に合うよう考えて5時半に会社を出れば10分で到着するはずが、ドラッグストアに立ち寄って思わぬ時間を費やした結果、走ってギリギリの時間になってしまったのだ。幸いにも相手の姿はそこに無く、6時を告げるこの駅を象徴する巨大な時計が音楽を奏で出し、子供連れの親子たちが立ち止まってその時計から出てくる小人たちのパフォーマンスに見入っていた。この小人たちが出てくるのは十二時から三時間おきであり、見る機会はそうなかった。そんなパフォーマンスを見ていた由衣は背後から肩を叩かれてあわててそちらを振り返った。
「ピッタリでゴメンって感じかな?お久しぶり!」
そこにいるのは赤いマタニティドレスを着た青山恵、いや、今や三宅恵となった人物の姿であった。かなり大きなお腹からして臨月が近くなっていることが誰の目にも明らかだ。
「ううん、私も今来たところだから」
そう言って微笑む由衣に恵も笑顔を見せる。美人の恵は顔がふっくらしても美人の度合いが減少していない。短めの髪は若干の茶色味を帯びているが、二十九歳となった彼女にはピッタリの落ち着いた雰囲気を持たせていた。とりあえず目当ての場所、和食を専門としたお店に入った2人はおすすめの定食をオーダーしてひんやりしたお手拭の感触に癒される表情を浮かべた。由衣が恵に会うのは実に3ヶ月ぶりだ。妊娠が発覚し、安定期を迎えた際に連絡を受けて会ったきり、メールや電話のやりとりは頻繁にあれど実際にこうやって顔を合わせるのは久しぶりのことだった。
「でもよかったの?お腹のこともあるけど、光二君の晩御飯とか」
水を飲んでいる恵にそう言うが、当の恵は涼しい顔でうなずくだけだ。
「心配ないって。由衣と食べてくるって言ったら塾長と居酒屋にでも行くって言ってた。どのみち恒例の合宿の支度で忙しいみたいで最近は帰るのが遅いし、徹夜もちょくちょくだから」
「そっか・・・合宿かぁ、懐かしいなぁ」
遠くに思いを馳せるような顔をする由衣に対し、いたずらっぽい笑みを浮かべる恵に気付いた由衣は怪訝な顔をする。だが、恵は何も言わずに再度水の入ったコップを口にした。
「なに?」
「いやぁ・・・思いを馳せるのは中学生の時か、はたまた大学生の時かって思っただけ」
目を伏せがちにそう言う由衣はわざとムッとした表情を見せる。中学生の時に生徒として参加した合宿の事はともかく、大学生の時に付き添いとして行った時の事は極力思い出したくない事だ。嫌な思い出が頭をかすめる中、ややふてくされたように水を飲む由衣に苦笑する恵はこの子は変わらないなぁと心から思えるのだった。
「変わんないわね、ホントあんたは」
思うだけではなく口に出してそう言う恵の言っている意味がわからない由衣は不思議そうな顔をして恵を見た。
「恵さんも変わらないと思うけど・・・結婚しても、子供ができても」
「そっかな?結構図太くなったし、それ以外にも結構変わったって思うけどね」
「変わらないよ・・・結婚して1年経つけど、塾で教えてもらってた頃からずっと」
「・・・そんな頃から変わってないって、それって人間として問題アリじゃない?」
そう言う恵に首を傾げる由衣。たしかに大学生の頃から変わらないというものそれなりに問題があるかもしれない。
「結婚生活って・・・どう?」
由衣は恵を呼び出した本題に入るべく、まず遠回りしてそこへ行くように質問を投げた。今日、恵を呼び出した最大の目的はもちろん周人の事だ。1人悩みを抱え、結婚するということを避けているような彼の事に対してどう接すればいいか、すでに結婚している一番身近で相談できる、しかも信用できる恵にアドバイスをもらおうと考えてのことだった。
「どうって・・・まだ1年だからねぇ。一緒に暮らしてる分、いい所も悪い所も見えてってな感じで」
恵が結婚したのは今からちょうど1年前だ。4年前に交際を始めた光二と順調に愛を育んで3年目にプロポーズされてそのまま結婚した。現在妊娠8ヶ月の身重だが、元気が人一倍の恵はつわりもそう少なく、今では出産準備に忙しい毎日を送っていた。また、結婚してからも続けていた塾の仕事だが、妊娠発覚と同時に塾長である康男は早々と産休を取らせた。マネージャーとして頑張ってきた恵だったが、正直これを機会に辞めようと思っていた。実は一度は手放した東塾の再建を2年かけて実現した康男が西塾のマネージャーを恵に、両塾のトータルマネージャーに光二を指名して塾の基盤を再構築したのだ。現在康男は自分の後継者として光二を育て、その光二もメキメキと実力をつけてきている。佐々木流の師範としても頑張っている光二を公私から支える恵は子供が生まれたら専業主婦になろうと考え、つい先日その意志を康男に伝えたのだが、復帰を熱望する康男はその返事を保留にしていた。欲を言えば周人と由衣にも塾の経営を手伝って欲しいところだが、周人はカムイモータース池谷工場のレーシングマシン開発部ソフト設計グループの主任となり、由衣は桜坂銀行に勤務となればあきらめるしかない。特に周人は社長である菅生要の信頼も厚く、その菅生がいずれは重役にと考えているほどの実力を発揮している。
「木戸クンは元気?」
「うん、元気。あ、この間はすみません・・・・光二君、怪我大丈夫ですか?」
周人とも久しく会っていない恵だったが、先日周人との試合をした後の夫の姿を見て元気なのはわかっていた。
「あぁ、平気平気!顔が少し腫れてたけど、もうそれもほとんどないし、お腹にキツイのを一撃喰らったて言ってたけどそれも平気そうだから。それにしても今の言い方、なんかすでに妻の台詞だったわよぉ」
「え?いや、そんなつもりじゃ・・・でも光二君、凄く強かったんですね・・・話聞いてビックリしちゃった」
「みたいね。骨の2、3本は覚悟してたんだけどねぇ。木戸クンが手を抜いたのかとも思ったけど、真剣勝負にそれもないと思うしね」
夫である光二のことも、そして周人の事もよく理解している恵の言葉から、やはり周人のことを相談できるのは恵しかないと確信できた。そうこうしている間に料理が運ばれてきた。恵はうどんとカツ丼の定食を、由衣は一口トンカツの定食だ。
「で、今日の主旨は世間話、じゃないよね?」
さすがに鋭い恵の言葉に一瞬ご飯を掴む手を止めた由衣はそのご飯を飲み込んで一息ついてから本題を切り出した。
「実は・・・相談があって」
か細い声でそう言う由衣の様子からかなり深刻な相談だと思った恵は一旦食べる手を置いて話に集中する体勢を取った。
「なにさ?」
「周人のことなんだけど・・・」
由衣が周人との事で相談してくることなど珍しい。しかも電話ではなく、直接会っての相談だ。そのことからも由衣の中の悩みが大きいことがうかがい知れた。
「最近なんだけどね、結婚とかの話を全くしないの。ううん、しないんじゃなくて、避けてるって感じ」
「結婚ねぇ、まぁそろそろ話をしてもいい時期ね。付き合って5年でょ?」
その言葉にうなずきながらも表情は暗い。恵から見てもこの2人の結婚はまず間違いないだろうと思っていた。お互いに運命の人だという認識があり、自分や光二、康男など、周囲の目から見てもそれが間違いでないことはわかっている。
「避けてる、か・・・・・他に気付いたこととかない?小さなことでもさ」
「悩んでるっぽいの・・・1人で何かを考えて、悩んで・・・結婚するとかしないとかする話の前にそういう雰囲気を感じると話題を変えたり黙ったり」
確かにそれはおかしいと思う恵はとりあえず食事を再開する。由衣もつられて再開するが、食べる速度は極端なほどに恵の方が早かった。
「避けて悩んでる・・・か。あの木戸クンにしては弱気というか、珍しいというか」
その言葉にうなずく由衣の箸が止まる。確かに由衣が知る限り大抵の事に真っ向から挑む周人がこうまで露骨に悩み続けていることは珍しかった。
「結婚する意志は見せてるの?」
「最近はそれもないみたいな・・・」
その言葉に、周人が由衣との結婚を悩んでいる原因を可能な限り探る恵はある1つの仮説にたどりついた。だが、あくまで仮説なため、どこまでそれを由衣に話していいかわからない。普段の由衣ならばストレートに言っても問題はないだろう。しかし今の由衣はそのことに関してかなりナーバスになっているため、オブラートに包んで言わなければ余計に落ち込んでしまうだろう。
「結婚するってことに関して、相手があんたである限り問題ないと思う。ただ・・・彼には複雑な過去があるから」
「でも、それは・・・」
「確かにもうそれに関しては彼の中で決着してる。でも、もし心の奥底にあったものが表に出て来てるとしたら?」
「奥底にあるものって?」
高校時代に愛した女性を殺された過去は由衣の出現によって吹っ切れている。それは由衣にもわかっている。何より、その死んだ彼女は今、由衣の守護神として自分を守ってくれている。だからこそ、恵の言う『心の奥底にあったもの』が何なのかわからないのだ。
「私も、光二もそうだったと思う。結婚するって事に関して必ずしも明るい未来だけが待ってるわけじゃないよね・・・大丈夫かな?ホントにうまくやっていけるかな?って漠然とした不安はあったの」
「不安?」
「そう。でもこの人とならってその不安はぎゅっと押し込まれていて消えてしまっていた」
「う~ん・・・私にはないけどね」
由衣はお箸でトンカツをつつきながらそうつぶやく。確かに由衣にとって周人と一緒になることに不安はないだろう。強く、優しく、エリート社員。何より由衣を大事に想い、一心に愛してくれている。
「でも木戸クンにはあるとしたら?」
「不安が?私と結婚することで悩まないといけないほどの?」
「じゃなくって・・・あんた、合計何回危険な目に遭った?何回木戸クンに救われた?」
そのことと周人の不安が結びつかない由衣は過去のことを思い出してみる。まず最初に周人を気にするきっかけとなった中学三年生の夏に同級生に襲われたところを周人に救われた。2度目はバイト講師で『変異種』である大木雅史に襲われ、これも危ういところで周人に救われている。次に、これは直接的には関係ないのかもしれないがアメリカの大企業の令嬢であるアリス・クロスフォード誘拐事件において周人が真犯人であるゾルディアックと戦い、勝利して事なきを得た。そして大学時代に塾の教え子であった佐藤純一郎に襲われた際、この時は光二によって救われている。そう考えれば自分がかなりの頻度で危険な目に遭っていると言えよう。にもかかわらずこうまで無事なのも周人と光二の強さのおかげなのだ。本来であれば犯され、殺されるかずっと娼婦のように扱われているかのどちらかだっただろう。
「でもそれとどういう関係が?」
「確かにこれまでたくさんの危険な目に遭ったのはあんたが可愛いからってのがその最たる原因だよ」
確かにそうだ。可愛いからといって得したこともあれば危険な目に遭ったことも事実。だが、それは全部自分の責任だ。周人には無関係に近い。これから先もそういった危険な目に遭うことを考えれば一概に無関係とは言えないが。そこまで考えてハッとなった由衣は表情をこわばらせて目の前で冷静な目をしている恵を見やった。
「気付いた?そう、あんたがこの先、結婚しても危険な目に遭う可能性はあるの。そして結婚すればその責任を全て彼は背負ってしまう」
そう言って水を口にする恵に対し、由衣は顔を青くしてジッとしていた。その話が本当であるならば彼が悩んでいるのは全て自分のせいなのだ。
「でもね、それはどこの家庭でも同じ。私がそういう目に遭えば光二もまた同じぐらい傷つき、泣いて、助けられなかった自分を責めるわ。逆もまたしかりだけどね」
「じゃぁ・・・」
「問題は彼が『魔獣』と呼ばれた過去にある」
その言葉を聞いてようやく由衣は全てを理解した。
「やっと気付いたみたいね?そう、あんたがあんた自身の可愛さによって傷つけられた場合、同じように心に傷を負う。恵里さんを失った彼には耐えられないかもしれないけど、あんたが死なない限り彼はあんたを癒しつづけるでしょう、それこそ全てを捨ててでもね。だけど、そうじゃなしに自分のせいでそうなったとしたら?」
もしも自分が襲われ、傷ついた場合、周人はその優しさをもって全力で癒してくれるだろう。もし自分が殺されれば、復讐した後必ず後を追って来るに違いない。2度も愛する人を失うことに耐えられないだろうから。だが、周人が『魔獣』であるために自分がそうなったら、最大の弱点である自分を餌にされたとしたならば、周人はどうするのだろう。自分のために愛する人が危険な目に遭い、ボロボロにされたとしたら、彼はどうするだろう。
「私を想って、悩んでるの?」
「私がそう思うだけで実際は違うかもしれないけどね・・・そうなることが怖いのかもしれないって思っただけ」
確かに今導き出した結論は仮説であり、実のところそう深刻なことで悩んでないのかもしれない。だが、恵が出した仮説はなによりも信憑性があった。
「1度きちんと話をしなさい。あんたもそこから逃げてるんだから。木戸クンの悩みはあんたの悩み、そう考えてちゃんと向き合って話をする!」
きっぱりそう言った恵はすっかり冷めてしまった食事を再開していく。妊婦だからか、恵本人がそうなのか、勢い良く平らげていく様は見ていて気持ちがいい。そんな恵を見てゆっくりながら由衣も箸を手にとってトンカツを口へと運んでいった。
「結婚してても、相手の考えなんてわかんないんだから」
「え?」
食べる手を止めた恵はもごもご口を動かしながらそう言った。
「ウチの人が何を考えて何を悩んでいるかなんて、聞かなきゃわかんないもんよ」
何か思い当たる節があるのか、恵は箸を置いて大きなため息をついた。
「あいつ・・・最近中三の女の子に迫られているんだって。昔の誰かさんが新城クンに迫ったような感じで・・・」
そう言われた由衣は困った顔をするしかない。今の話から、その女子生徒がどういう感じで光二に迫っているか手に取るようにわかるだけに、由衣は小さく苦笑を漏らした。
「まぁ、絶対大丈夫とは思うんだけど、妻の妊娠中の男性はいろいろあるみたいだからね」
「光二君に限ってそんな・・・」
「魔が差すってこともあるしね・・・かといって言い寄られてるっていう報告はないし。聞いたのは塾長からの電話だったから余計にムカつく」
そう言って今度は恵の愚痴が炸裂し、その悩みを由衣が聞く羽目になった。だが、そんな恵のおかげで胸の中のモヤモヤが晴れ間を見せ始めたことに由衣は感謝し、ちゃんと周人と向き合って話をしようと心に決めたのだった。
東京では名の知れた大型展示場がある埋め立て地ではレーシングマシンの博覧会が行われていた。もちろんF1からル・マン、GTなど各マシンがかなりの規模で展示されており、マニアたちは火曜日から日曜日までの実施日のうちで第1日目たる今日を選んできていた。平日の火曜日にこうまで客が入るのは予測していなかった主催側は嬉しい悲鳴を上げ、夏休み初日となる土曜日から2日間での客入りのみを期待していただけに笑顔が絶えなかった。もちろんカムイからも新型マシンであるフォルテストラGX―0909やエスペランサZ―000などといった人気車種を展示していた。そしてここで初お目見えとなるのが周人たちが開発に携わった最新型マシン『マッハゲイザーGSX』である。このマッハゲイザーはF1用に開発された機種であり、昨年成績が振るわなかったことを受けてカムイがその技術の粋をつぎ込んだ意欲作だ。カムイ独特の変わった形を取るフロントウイングをさらに進化させたその機体は多くのマニアたちをうならせた。
「大盛況ですね・・・」
平日とはいえ初日であるために様子見でやって来ていたのは周人と理紗である。ソフトを開発したことにより招待された2人は会社での仕事を龍馬に任せて出張してきていたのだ。このゲイザーに関してはソフト設計は周人たち池谷工場の面々が行い、開発は関西支部の島原部長の指揮によって開発されていた。その関西支部のメンバーは金曜日に出張してくるが、面識がある周人とは会えない日程となっていたために島原との再会はできそうになかった。昼時となって朝一番から来ている周人と理紗は昼食を取るべく外に出ようとしたが、機体説明を行っていたコンパニオンの体調が急に悪くなり、急遽理紗が借り出されることになってしまった。とりあえずコスプレは回避できると聞いて渋々ながらOKした理紗だが、レースクィーンのコスチュームほど派手ではないにしろコンパニオンのコスチュームはそれなりにきわどい。だがスタイルのいい理紗はその服を着ても何らおかしいことはなく、記念にということで周人は持ってきていたデジカメで数枚写真を撮り、理紗を激しく赤面させた。その後とりあえず昼食を待っていようと思ったのだが、あまりの人の集まり具合は理紗の効果なのか、とにかくしばらくの間理紗は拘束されそうなので先に済ませようと会場を出た周人は曇った空を見上げながら蒸し暑さから流れてくる汗をぬぐった。売店もいくつか出ているのだが混みすぎているため、散歩がてら少し離れた場所にあるファミリーレストランを目指した。出張とは行ってもただの見物であり、することは無いに等しい。よって少々時間がかかる昼食だろうが誰にとがめられることはないのだ。理紗には携帯のメールで向かっているファミレスを知らせ、観光客も多い海沿いの道を潮風を受けながらゆっくりと歩いていく。こういう所をデートするのも悪くないと思いながら歩く周人の前方からやけに背の高い男とやけに露出度の高い服を来た背の低い女が歩いてきた。男は紺色のポロシャツにジーンズを履いて薄い黒のサングラスをしている。そして女は紫色した短いキャミソールからおへそを出し、かなり短いデニムのパンツをはいていた。
「ナンパされる最後のチャンスなのに・・・めぼしい男がいない!」
「ここへ来たいって言ったのは君だろ?」
「だってもう夕方には飛行機の中だよ?絶対男をゲットするんだ!」
「・・・・あきらめろ」
怒ったようにヒステリックな声を上げる女性に対し、男の口調は落ち着いたものだ。しかし背の高さの差が30センチはあろうそのデコボコカップルのその会話は距離がある周人には聞こえていない。やがてキョロキョロする女性を横にサングラスの男が周人とすれ違う。お互いにどこかで見たような気がしながらもそのまま何事もなくすれ違った。
「今の人、カッコよくない?」
「だったら追いかけて行けばいい、オレは帰る」
「ム~!」
素っ気ない言い方にふてくされる女性にげんなりした顔をする長身の男は飛行機の時間を気にしながら歩く速度を速め、そんな男についていく女性は相変わらずの落ち着きの無さながら離れないようにするのだった。
1階部分は駐車場となっており、2階部分が店舗なのはもはやファミリーレストランの法則なのかもしれない。そのファミレスをあと20メートルの距離にまで近づいた時、今歩いている海沿いの道にある白いベンチに腰掛けていたショートカットの茶色い髪をした女性がおもむろに立ち上がった。黒いシャツにデニムのミニスカート姿のその女性はやや小柄だが由衣に勝るとも劣らない美人である。そんな美人が自分の前に立ちはだかるようにして道のど真ん中に立った。
「こんにちは、木戸周人・・・・『魔獣』さん」
「・・・・どうも」
やれやれという感じの返事をする周人に意味ありげな微笑を返す美女は1歩前に踏み出すと周人の足先から顔までを値踏みするかのように見ていった。
「思ったよりと言うか・・・データとはずいぶん違う感じね」
「そりゃ悪かったね・・・ご期待に応えられずに」
そう言った素っ気ないとぼけた返事もまたデータにあった凶悪なまでの強さを感じさせない印象を与えた。この男が本当に伝説の男かどうかもあやしいが、かまわず女性は話を続けた。
「そうね、でも期待外れじゃない分、よかったかも」
「で、オレに何の用かな?」
さらに1歩詰め寄る女性との距離はわずか1メートルほどとなっていた。
「私は高原みさお・・・あなたと同じ年よ」
遅れた自己紹介だったが、周人は表情であっそうという感じの返事を返したのみでなんのリアクションも取らなかった。これによって周人という人物に興味が沸いてきたみさおは腕組みをするとこの間会った黒崎星の方が『魔獣』らしいと思えてきていた。
「で、何の勧誘かな?」
「よくわかったわね・・・」
冗談か本気かもわからない周人の言葉に本当に驚くみさおは小さく微笑むと率直に話を進めようと決めた。
「あなたに来るべき『新たなる王』の補佐を勤めていただきたいの」
いきなりわけのわからないことを言うみさおだが、周人の心の中で響く『王』という言葉がかつて『キング』と呼ばれた最強の男にして最大の敵の姿を思い出させた。
「興味ないね・・・それに『王』は『ゼロ』なんだろ?」
「フン、『ゼロ』は『かりそめの王』・・・所詮は今だけの存在。私の言う『王』は5年後に現れて日本を変える存在となる」
具体的に5年後という数字まで言葉にしたみさおに言い知れない何かを感じた周人だったが、今現在最強の『ゼロ』を『かりそめの王』と言った言葉がいやに引っかかった。
「何故オレを補佐に?」
「強いから。多分生まれてくる『王』の次にね。それに片っ端から声をかけてるのよ・・・かつて『キング』に関係した者たちにね」
「で、成果は?」
「まずまずね・・・」
嘘か本当かはわからないが、こうまで自信に満ち溢れてそう言われれば本当にそう思えてしまう。みさおの口元に浮かぶ邪悪な笑みが意味するところはわからないが、今の周人には一切興味のない話だった。
「そうか・・・ならオレが補佐しなくてもいいだろ」
「でもあなたは『キング』を倒した最強の存在、おそらく『ゼロ』よりも強いわ」
「・・・・興味ないね、どいてくれ」
みさおの鼻先まで迫る周人は迫力のない声でそう言った。いつもならば背筋も凍る鬼気で相手を威嚇するのだが、今はそれが逆効果と判断したのだ。
「後悔するわよ?」
「お前の話に乗った方が後悔するね」
そう言いあってにらみ合う2人は1分ほどその場で動かなかった。だが、みさおが道を譲るかたちで周人の前からどくと、そのまま周人は無言で歩み始めた。
「もうすぐそこまで『闇』が迫って来ているわ、気を付けて」
その言葉に一旦歩みを止めた周人が振り返る。
「どういう意味だ?」
「仲間になるなら教えてあげる」
「ならいい」
周人はみさおに背を向けるとやや足早に去っていく。そんな周人の後ろ姿を見ながら唇を噛むみさおはいつ現れたのか、サングラスをかけた色黒な外国人男性を横に小さく微笑んだ。
「『魔獣』も所詮は伝説ね」
「アノオトコ、ツヨイ・・・アノオトコ、ホンモノノ、ユウシャ」
「もういいわ・・・行きましょ、ガーティ」
片言の日本語で周人を高評価するガーティが気に入らなかったのか、みさおは苛立った様子でそう言うとさっさと歩き出してしまった。そんなみさおと周人とを交互に見やったガーティはゆっくりとみさおの後を付いていくのだった。
自分の中の大きな不安がより現実に近づいてきている事を知らされた今のみさおの言葉に表情を曇らせる周人は、心の隙間に挟まっている物が意外と大きいことに重たい気持ちとなっていた。そのせいか、ファミレスの階段を上がる足取りも重く、ため息ばかりが漏れた。みさおの言った『闇』が『ゼロ』と関係していると考えてまず間違いないと直感しただけに周人の中の悩み事は加速をつけて大きくなっていった。昼時にもかかわらず人が少ないのは意外だったが、喫煙席は全て埋まっていた。気持ち的に一服したかったが仕方なく、禁煙席へと案内された周人は食欲が薄れていたがミートソースのスパゲティをオーダーする。みさおが政府に関係しているのか、はたまた裏社会に関係しているのかはわからないが、『新たなる王』という言葉から前者の可能性が高いと判断できる。もう何度目かもわからないため息を深々とつく周人が水の入ったコップを手にしかけた時、横の席の客からの視線を感じて何気なしにそちらを見やった瞬間、思わず目を見開いた。
「大きなため息を何度もつくスーツ姿だから、リストラされたサラリーマンかと思ったわ。でもまさか、あなただったとはね」
そう言いながら微笑んでいる女性は肩まで伸びた髪をパーマで巻きつつ、黒が多めの茶色い髪をしていた。シックなグレーのシャツに黒のスカートは周人がその人物を知っている昔から変わらない印象を受ける。口元のほくろが女優のような顔立ちの彼女になんともいえない色香を添えているのもそうだ。女性は2人掛けのテーブルに座りながら生後1歳程度の赤ん坊が眠るバギーを脇に、これまた3歳ぐらいの女の子が乗ったまま眠っている赤いバギーを向かい側の席の所に置いていた。
「江崎・・・・千江美・・・」
うめくようにそうしぼり出すのが精一杯なのか、心の中の不安がさらに増大していくのを感じつつ、周人は目を見開いたままただその女性の顔を見つめることしか出来なかった。




