心の隙間(4)
今や国内家電電機メーカーでトップをひた走るブラッケイプコーポレーション、通称ブラコ、その社長黒崎誠二は星の叔父である。亡き星の父親である黒崎誠一が建てたこの会社を、彼の死後、大手産業メーカーに発展させたのがこの誠二だ。誠一が亡くなったのは星が小学生の時だ。元々持病の心臓病を悪化させて入院するも、3日後にあっけなく死亡した。早くに母親を亡くしていた星は身寄りがなくなり、この誠二の下へと引き取られるも叔母やその息子たちの嫌がらせにあって家を飛び出していた。そこから彼が渋谷を仕切る『渋谷の狼』と呼ばれるようになるのだが、それはまた別の物語である。とにかく、今回の帰京の大元となっている誠二を前に、豪華な白いソファに腰掛けた星と千絵は少し緊張した面持ちで目の前に座るスーツ姿の誠二に釘付けとなっていた。
「おかえり、とまずは言わせてもらうよ。どうだい、十二年ぶりの東京は?」
「ただいま。そうですね・・・・変わったようで変わってない、そんなところですか」
やや目を伏せがちにそう言う星ににこやかな笑顔を見せた誠二はまず形式的に2人に名刺を差し出した。
「今回ここへ呼んだのは君が新たにオープンさせる『フリーダム』の2号店の話だ」
言いながらその2号店の概要をまとめた資料を用意する誠二と千絵。店の外観や中身を設計した図面などが応接用の大きめのテーブルに並べられていった。
「一応スポンサーという形を取って出資させてもらうのだが・・・いいかね?」
「ええ。問題ありません」
「毎月売上の30%を返済、もちろん電機製品は全て御社の製品を使用します。新たに増設されるホテルの新館の機器も含めまして」
さっきとはうって変わった仕事のできる女性の姿を見せる千絵に、星はどっちが本当の彼女かがわからなくなっていた。まだ知り合って半年程度しか経っていないせいもあるが、元々波島の観光案内所で働いている千絵は数多くの旅行会社との提携をこぎつけた凄腕である。二十二歳ながらその才能は天性のものだと言えよう。だがひとたび仕事から離れれば精神年齢はさっきのような中学生レベルにまで落ちてしまうのだ。だがその千絵の話で契約の話は着々と進み、当初予定されていた三時間の時間を四十分も短縮できたのだった。
「よし、では今から2年後にはオープンだな。いよいよ独立かぁ・・・後は綺麗で気立てがいい嫁さんをもらうだけだな?」
誠二は口元をほころばせながらくわえた外国製のタバコに火を点けた。
「先に店を軌道に乗せる事が目標ですけどね」
星は森崎が用意した2杯目となるアイスコーヒーを口にしてからそう答える。
「黒崎さん、モテるのに片っ端からフっちゃいますからねぇ」
もはや仕事を終えた千絵はノーマルモードになっている。ヘタな事を言い出す前に退散するに限るが、夕食は誠二と一緒にする約束をしているために今ここで歯止めをかけても同じである。
「そうなのか?やはりアレか・・・今でも彼女を好いているのかい?」
あんたが言い出すのかよと心の中で突っ込む星は表情を変えずにコーヒーをゆっくりと飲み干した。
「彼女って赤瀬未来?」
あまりにズバっと言い当てたせいか、あと一口というところでコーヒーを噴き出してしまった星はズボンからハンカチを取り出してむせる自分を必死に抑えた。
「ほぉ、有名なのかい?」
「有名といいますか・・・噂で。っても1人から聞いただけなんですが」
紫杏のヤロウかと心の中でボヤきつつ、なんとか息を整えた星は深呼吸を2、3回してから反論に出た。紫杏とは名前を高木紫杏といい、同じグランドホテル波島内にあるレストラン『フリーダム』でチーフウェイトレスを務める美人だ。一時は星と親密な関係になりかけたが仕事を優先する星から紫杏が離れていったのだ。元々寡黙な星と口やかましい紫杏とでは馬が合わなかったと言われているが。そんな紫杏は5年前に映画の撮影でやってきた未来と星が今でも心で結ばれている事を知っていたのだ。
「別に・・・彼女とは何もないですよ」
「じゃぁなんで彼女がお前のピアスをしてる?」
その言葉にコップを下げに来た森崎も手を止めて驚いた顔を星へと向けた。
「いや・・・あれは・・・違いますよ」
「そうだったんだ・・・・・こりゃスクープだ!」
千絵を睨みつつ、自分からその話題を振り撒いておいてスクープはないだろうと思う星だが、ここは無難に完全無視を決め込んだ。もはや森崎を含めた3人が星に注目するが、星は黙ったまま窓の外の景色を見ているだけだ。
「まぁ、冗談はさておき・・・どんな店にしたい?」
唐突に話題を変えた誠二だが、場の空気を読んでの事だと星には理解できていた。今の誠二の言葉によって森崎もコップをトレイの上に乗せて一礼すると表情を引き締めて去っていく。千絵も仕事の話に戻ればすぐさまモードが切り替わり、雰囲気がガラリと変わった。
「オーナーの名を汚さないように、腕を磨きながらお客のニーズに合わせた料理を提供したい・・・」
本心からそう思う星にオーナーが独立の話を持ちかけたのは半年前だ。この数年でメキメキと腕を上げた星は下の人間を使うことも覚え、知らず知らずのうちに統率力や経営力も身につけていた。もはや自分が教えることは何も無いと判断したオーナーである青島玄吾が2号店を出すことを思案し始めた矢先、たまたま仕事で来ていた誠二とこの話をしたのがきっかけで出資の話もとんとん拍子で進んでいったのだ。もちろん星も二つ返事でOKし、今日、こうして本契約に来たのだ。もう島から出ることもないと思っていた星が意外な形で舞い戻った東京だったが、千絵の強い要望で観光の日にちも入れて3日間の滞在となっている。もちろん勝手に家を飛び出した誠二の家には行くことは無い。そう考えての誠二の計らいで今日は景色も抜群な高級レストランでの食事が待っているのだった。
「すまんがこの後会議があってね・・・6時にここのロビーに来てもらえるかい?受付の女性には伝言しておくから」
そう言われて壁に掛けられているいかにも高そうな時計へと目をやった星は今が3時半であることを確認した。
「じゃぁ、僕たちは観光してきます」
「渋谷へね」
「そう・・・・・・・・って、なに?」
「渋谷へね」
「いや、2度言わなくても・・・・」
渋谷だけには行きたくなかった星は島で愛用しているサングラスを持ってきて正解だったと思った。確かにあれから十二年経っているが、今でもまだ自分を知る者、恨みを抱いている者も少なからずいるだろう。
「渋谷!」
「わかったよ・・・・」
「詳しい?渋谷は」
「・・・まぁ、それなりにな」
千絵の強引な言い方に閉口しつつ苦い顔をする。かつて『渋谷の狼』と呼ばれ、渋谷の街を束ねる渋谷クローサーを仕切っていた星が渋谷を知らないわけがない。それを知っている誠二はこみ上げてくる笑いを必死で抑えつつ咳払いをして心を落ち着けた。
「では6時に。遅れたらスマン」
「こっちが遅れないようにしますよ」
そう言いながら立ち上がる星は出資される者として誠二と握手を交わす。同じように千絵もそうしてから森崎に先導されて部屋を出て行った。ようやく静かになったオフィスでタバコを取り出しながら1人思い出し笑いをする誠二はゆったりとした煙を吐き出しながら窓の外から見える景色へと顔を向けた。
「雑誌に載ってたぞぉ・・・・女優を辞めたとしたら何をしたいかってね」
誰に言うでもなく1人そう言う誠二は頬を緩めたまま煙を吸い込む。そこから先は声に出して言わなかったが、誠二は吸い込んだ煙を鼻と口からゆっくりと吐き出しながらその雑誌の記事を頭に思い浮かべていた。
『女優を辞めたらですか?』
『あーしたい、こうしたいなぁとかないですか?』
『そうですねぇ・・・普通にOLとか、あとナースもいいかなぁ』
『お嫁さんとか?』
『それって辞めなくてもなれますし』
『そっか』
『辞めたら、そうだなぁ・・・南の島にある小さくても美味しいレストランのオーナーの奥さん、とかいいかもしれないですね』
『・・・はぁ?』
日影とはいえ、結構強めの風が無ければ熱気でこうして寝転んでいることもできなかっただろう。やや坂になった芝生の上に寝そべる周人の横では規則正しい可愛い寝息をたてている由衣がいる。朝不機嫌だった由衣も気分転換できたのか、今ではいつものとおりだ。そしてその不機嫌の理由がわかっていながらどうすることもできない自分を情けなく思う周人は流れていく雲を見ながら小さなため息をついた。
「逃げているって、わかっちゃいるんだけど・・・」
プロポーズを待っている由衣にその気持ちを伝えるのは簡単だ。だが心に引っかかるもの、不安を抱えている以上その言葉はまだ言えない、そう思う周人はどうすればその不安を殺せるかをここ何ヶ月も考えつづけていた。由衣との結婚自体は何ら問題など無い。自分にはこの人しかいないと思っている気持ちに嘘は無かった。
「自業自得・・・・か」
吐き捨てるようにそう言うと目を閉じる。
「木戸百零・・・『ゼロ』、か」
顔も知らないいわば遠い親戚に当たる存在、そして今の日本の裏社会を仕切る新たなる王、『2代目キング』との異名を持つ『ゼロ』こと木戸百零の噂は茂樹の弟にして日本最大最強の暴走族『ミレニアム』の2代目総長千早芳樹から聞いて知っている。今や『キング』と『魔獣』の死闘は伝説となり、しかもそれは強いヤンキー同士のケンカぐらいにしか認識されていないことが腹立たしいと芳樹がぼやいていた。たしかに今の若者にとってその程度の認識でしかないことは当事者である周人にしてみればラッキーな事だ。今や絶対的強さで各街を仕切る『ゼロ』率いるたった4人の秘密部隊『アーク』の噂は全国的に広がりつつあった。もちろん裏社会や闇でだけの話だが。それでも、今でもまだ『魔獣』の真の強さを知る者、恨みを抱く者、尊敬する者は多いのだ。おそらくそれはこの先何十年にわたって継がれていくだろう。
「いっそ『魔獣』は死んだ事にしてくれ・・・・」
つぶやく周人がため息混じりにそう言う言葉をぼんやりとした意識の中で聞いている由衣だったが、その意味する事がわからずにまた眠りに落ちていくのだった。
奇抜と言うよりは水着に近い格好の少女や、他国の民族のような格好をした男たちが平然と闊歩する街、それが渋谷という街を象徴しているのかもしれない。少し前までは少年少女たちが問題を起こし、そういったものに群がる大人たちが犯罪を犯してきた街でもある。売春、ゲイ、麻薬、魔性の魅力を持つこの街に多くの少年少女たちが集まってきていたのも2、3年前までのこととなっていた。『ゼロ』が政府の名の下に裏社会の管理と統制を行い始めてからまずはっきりとその成果が現れたのがこの渋谷だった。犯罪組織を潰し、麻薬のルートを断絶させる。売春組織を統制させ、風俗自体の整備を裏から行ったのだ。それはかつて『キング』がその圧倒的恐怖で統制を敷いていた頃とほとんど変わらない。だが決定的に違うのは『キング』が絶対的恐怖による統制、逆らうものは本能のおもむくままに容赦なく叩きのめしてきた統制とは違い、『ゼロ』のそれはいわば取引に近かった。行動力と説得力、なにより駆け引きの上手さでそれら組織のトップと話し合い、決別すれば組織ごと潰すのだが、そうでない場合は犯罪すれすれの行為までは見逃してきたのだ。結果『ゼロ』はそういった組織と裏のネットワークで繋がっており、自分たちの身の回りの世話をする『ペット』と呼ばれる少女たち、しかもとびきり可愛い少女たちを手に入れることができたのだ。それもこれも、家出娘をそそのかして売春をさせている組織とつながりがあるからだ。その上外国人による闇の組織とも接触し、ネットワークを構築する。それは『ゼロ』の片腕たる『ゼット』の力によるものだった。かつてアメリカ海軍の大佐であったゼットことゾルディアックは裏社会ともつながりがあった。日本政府が国を追われた彼を保護し、『ゼロ』の相棒として自由を約束させた背景もそこにあるといえよう。着々と裏社会の整備を行っている『ゼロ』を高く評価している政府だったが、彼らの真の思惑まで知るはずもなかった。この渋谷も外国人と日本人の裏組織が争うことなく平和的に活動できているのも『ゼロ』のおかげだが、逆を言えばいつかは『ゼロ』を倒して自分たちがトップに立つという野望を持っているのもまた事実である。
「あいつ・・・時間もなくなってきてるってのに」
つぶやく声にため息を混ぜているこのサングラスをかけた黒崎星もかつてこの渋谷を束ねていた集団の頭を張っていた男である。十二年前、当時十七歳の星がこの渋谷の街をまとめていたのだが、『魔獣』こと木戸周人によって倒されたことがきっかけで街を追われ、今の仕事であるコックを波島でする結果となったのだった。そんな古巣へ思いも寄らぬ格好で舞い戻った星は2度と踏むことはないと思っていたこの渋谷の地をなるだけ早く離れたいと思っていた。その理由は2つある。1つはここは自分にとってもはや吹っ切った土地であり、過去との決別をした自分がいるべき場所ではないこと。もう1つは叔父である誠二との夕食の時間が迫っていることである。この場合後者の方がウェイトを占めているのだが、その原因である同行者の千絵の買い物がさっぱり終わらないのだ。たしかに南の島から来た彼女にとってここは魅力的だ。だが、買い物のための日程は明日明後日もある。時計とにらめっこしながら少々イラついてきた星が心を落ち着かせようとすぐ近くにある自動販売機へ行きかけた時、目の前にショートカットの小柄な女性が立ちはだかった。白と水色のチェック柄のシャツに短めのデニムのスカートを履いた茶色い髪のその女性はかなりの美女である。通り過ぎる若者たちが冷やかすような口笛や視線を浴びせる中、その女性に対して何の感情もない表情で見下ろす星は女性の脇をすり抜けてその背後にある自動販売機に小銭を投入した。
「トレードマークのピアスはもう必要ないみたいね、狼さん?」
缶コーヒーのボタンを押せばガコンという音と共に選択したコーヒーが取り出し口に落下してくる。ゆっくりした動作でそれを取り出す星は一瞬だけチラッと女性を見ながらコーヒーの栓を開けた。
「誰だ?」
低い声は地声だ、別に凄みを利かせたわけでもない。
「あなたにチャンスをあげる者ってところね」
見た目二十代半ばといった感じだが、この落ち着きようは星と同年代、三十代手前かもしれない。両耳の5連の丸い真珠のピアスが太陽の光を受けているのか髪の隙間からまばゆい光を星へと向けていた。
「間に合ってる、お断りだ」
実にシンプルな返事は言い換えればさっさと消えろと言っている。そんな星に小さな、それでいて可愛らしい笑い声を漏らす女性に対し、星は視線すら合わせずに千絵が消えて二十分は経つブティックの方へと顔を向けていた。
「黒崎星、元渋谷クローサーのリーダーで『渋谷の狼』と呼ばれた男。十二年前に『魔獣』と戦うもあっけなく敗れ、以後、元関東夜叉会組長青島玄吾と波島へ渡り、グランドホテル波島のレストラン『フリーダム』で副料理長として勤務。現在2号店出店のため、出資者である叔父の黒崎誠二に会いに古巣へ舞い戻った」
星のこれまでのキャリアをまるで歌うように言い放った女性は相変わらずにこやかな表情を崩さない。対する星はただの1度も女性を見ることなく、また、表情すら全く変えずにブティックを見たままだった。今回の帰郷の理由まで知っていた相手にすら興味はないようだ。
「興味なしってところかな?」
「あぁ」
そう返事をしてコーヒーを飲む星はやや目が透けて見えるサングラスを外すとYシャツのポケットにしまいこんだ。
「じゃぁ興味のある話に変えましょう」
そう言われた星はサングラスのない眼で女性を睨むように見下ろす。その仕草に小さく微笑む女性の顔は魔女的なあやしい雰囲気を出し始めていた。
「もう1度この街を支配してみない?」
何を言い出すかと思えばといった表情を見せた星は小さく喉を鳴らして笑うと、一気にコーヒーを飲み干した。
「面白い冗談だな」
「冗談じゃないわ・・・今から5年後には実現する。この国は根本から大きく変わるわ。新たなる『王』によって」
興味なさげだった星の顔色が変わるのを見た女性はほくそ笑むような表情を星へと向けるとさっきまで見せなかった鋭い目つきへと変貌させた。
「『王』?新たなるって・・・・・・・『キング』?」
クスッといたずらな笑みを見せながら鋭い目つきを変えない女性は無意識的に自分の下腹部へと左手をやった。
「そう、あなたにはもう1度チャンスが与えられるの。この街の支配者としての自分をもう1度取り戻すのよ。その気になれば渋谷だけじゃない、新宿、池袋も含めてこの辺一帯を支配できるわ」
冗談で言っているようには聞こえないその話に星は片眉を上げる。
「誰なんだ、あんた一体」
「聖母よ」
「聖母?」
意味不明なことを言うが、この女性から底知れない何かを感じる。星は自分を見つめるこの女性からオーラのようなものを感じて汗が流れ出すのを不思議な感覚でとらえていた。そう、このオーラは知っている。この恐怖を伴ったオーラを感じたことは過去にたった1人だけだ。
「答えを聞きたいわね、黒崎星」
暑さのせいではなくにじみ出てくる汗をぬぐうことなく、星はじっと女性を見つめつづける。女性もまた星を見上げながら不敵な笑みを消さないでいた。
「断る。あんたの話が本当だとして、俺にはもうその器は無いし、興味もない。俺はただの料理人だ、それでいい」
きっぱりそう言った星に苦笑にも似た笑みをこぼす女性は大げさな動きで肩をすくめると星に背を向けた。
「みたいね・・・もうあなたには過去の強さは無い・・・データどおりか。じゃぁ、失礼するわ。もう会うこともないでしょう、あなたはチェックから外れるでしょうしね」
小馬鹿にした口調だが、星は何も反論しなかった。実際自分でも言ったとおり、かつての強さはもう持っていない。持っているのは超一流の料理の腕前だけであり、それでいいと思っている。だが、この女性が何者で何を企んでいるかは知りたい、そう思う星は去っていこうとする女性の腕を掴もうとした。だがその瞬間、真っ黒なサングラスをかけた男が星の腕を掴んでいた。いつ自分と女性との間に入ったのかもわからない。そもそも近くにこんな男がいたならばいくら衰えたといっても気付いたはずだ。背丈も170センチに満たないサングラスの男は日本人ではない濃い顔立ちをしている。
「さよなら、狼さん」
振り返ってそう言うと女性は口の端を吊り上げる笑みを星へと残し、歩き始めた。
「ガーティ」
サングラスの男の名前がそれなのか、掴んでいた星の腕を放したその男は2、3歩下がると早足で去っていく女性の後ろ姿を見やった。それにつられて女性の方を向いた星はそのわずか一瞬ほどで男の気配が消えたのを感じてすぐに顔を向けたが、信じられないことに男の姿はもうどこにもなかった。女性が人ごみに消えたのをただ呆然と見送った星に大きな袋を3つ抱えた千絵が近づいて来た。
「どうしたの?ボケーっとしてたけど」
その言葉にようやく我に返った星は苦々しい顔を見せた後、サングラスをかけて時計を見やった。
「なんでもない。さ、行くぞ。遅れては申し訳ないからな」
そう言うと千絵の背中に手をやって前に進むよううながし、横に並んで駅へと向かう星は今向かっているのと反対方向、女性が消えた方向を振り返った。
「今の俺には関係ないが・・・何かが起こっているのも事実か」
誰にも聞こえないように心の中でそう言う星は満面の笑みで紙袋を抱える千絵に苦笑しつつ、歩く速度を速めるのだった。
「明日は代官山ね」
「あぁ」
「今買った服着て、絶対いい男みつけて彼氏ゲットだ!」
「・・・・・・はい?」
「彼氏!そのために東京まで来たんだから」
自分の出す2号店の契約のためじゃないのかよと思う星はがっくりうなだれながらさっきの女性よりこの千絵の方が恐ろしいと思うのだった。
夕食は和食を主としたファミリーレストランで済ませた2人はまだ時間も早いこともあって夜景が楽しめる小高い丘に車を止めて自分たちが住む町の景色を楽しんでいた。日差しが強かったせいもあって、日焼け止めをしたにも関わらず少々焼けている感じがする。キラキラ輝くパチンコ店のネオンや行き交う車のヘッドライト、対面する赤いテールランプが光の川を演出していた。カーステレオから流れる音楽は最近電撃的な出来ちゃった結婚で世間を騒がせた黄味島悠斗の新曲だ。ゆったりとしたメロディに片思いの心情を歌った歌詞はぴったりとマッチしており、今年1番のヒットを記録している。また少し前に悠斗の元マネージャーがIT関連の社長と結婚したことも話題となっていた。一時期は赤瀬未来との熱愛が何度も報じられたが、未来が別の男性との熱愛を2、3度スクープされてからはそれもなくなっていた矢先の電撃結婚だった。これで人気を落とさない悠斗もまたスーパーアイドルといえよう。そんな悠斗のラブバラードをバックに、幻想的な夜景を見つめる由衣は同じようにその景色に見入っている様子の周人を横目で見やった。今日一緒にいて周人から愛情を感じる事は多かった。今までの由衣ならばそれで満足していたのだが、今は違う。相変わらず結婚を全く口にしない周人に不信感を抱きつつ、それでも何も言えない自分にも苛立ちを感じている。ジレンマだけが大きくなり、不安と焦りが不信感を加速させていた。そんな由衣の視線を感じてか、周人が顔を由衣の方へと向けた。
「どうした?」
「なんでもないよ」
本当は何でもなくないのだが、由衣は笑顔でそう言った。実際は聞きたいことがある。自分をどう思っているのか、結婚したいと思っているのか、何を悩んでいるのかを。だがあえて何も言わない由衣はそれを悟られないようにするのが精一杯だった。とにかく今は周人が悩みを解決してくれるのを待つしかない、そう考えていた。
「1つだけ聞いてもいいかな?」
しばらくの沈黙を置いて周人がそう声をかけた。隣に止まった赤いスポーツカーの中では夜景を見ながらいちゃつくカップルがいて気を散らせたが、由衣は周人の方に体ごと向く体勢を取った。
「なに?」
「出会った頃から今までで、オレって変わった?」
何を思ってそう言ったかはわからないが、少なくとも抱えている悩みが何かという疑問を解決するヒントにはなりそうだった。由衣は真剣に周人を見つめながら表情を緩めると小さな微笑を浮かべてみせた。
「変わったところもあればそうでないところもあるよ。優しいところは全然変わらないけど・・・時々何を考えてるかわからないところが変わったかなぁ」
率直にそう言った由衣に目を丸くした周人は少々噴き出す感じで苦笑を漏らすと夜景へと視線を戻した。
「何で笑ったのよぉ!」
やや不満げな顔で頬を膨らませる由衣に苦笑ではなく微笑へと変化させた周人は夜景を見たまま顔を動かさない。
「変わらないよな、お前は」
ますますムッとした表情を見せる由衣の方をここでようやく向いた周人は笑みを消すことなく言葉の続きを口にする。
「ズバッと物を言うところさ」
「そうかな?」
むくれた顔を元の可愛らしい顔に戻しながらそう言う由衣に周人は心の中で詫びた。確かに由衣の言う通りだった。自分の中の悩みを、特に今抱えている悩みを由衣には話をしていない。相談したくないのではなく、しずらいのだ。そこをズバリ言い当てられてはもはや笑うしかなかった。
「ホント、変わらないよ・・・・・・・はっきり物を言うところが薄れてきてはきてるけど、それでもお前は変わらない。十五歳の、あの頃の吾妻由衣に美人の度合いが増した、それだけだよ」
「それって良いことなのかな?」
「あぁ、良いことだと思うよ。あのまま嫌われていたまま、町のどこかで再会しても遠くから君を見るだけだったろうからね」
「そうかなぁ?きっと無関心で『あ、吾妻さんだ、さよならー』で終わりだと思うよ」
小さく笑いながらそう言う由衣だが、きっとそうだろうと思う。亡くした恋人磯崎恵里の件もあるが、あのまま由衣が周人を好きにならずに嫌ったままなら、所詮は自分がバイトで教えた塾のOB程度の認識でしかないだろう。そして由衣もまた馬鹿にした感じで周人を見下していただろう。ろくな大人にならないで。
「きっとイヤな女になってただろうなって、自分でも思うよ。あの時周人に助けてもらわなければ、好きになっていなければ、素直な自分を取り戻してなければね」
由衣はシートに身をうずめるようにしてそうつぶやいた。今から思えばあの時の由衣は思い返すだけで自分自身が恥ずかしい感じがする。顔とお金と車で男の価値を決め、人の中身を見ないで馬鹿にし、嫌っていた。そして木戸周人という人物に出会い、その優しさに触れていなければ想像もつかないバカなことをしでかしていただろう。
「他の人とも、付き合いたいって思った事ないのか?」
意味があってそう聞いたわけではない。ただ、そう思ったから口にしたのだ。由衣にもそれがわかっているだけに、変に考えずに答えを口にした。
「ないよ、全然。高校でも大学でも銀行でも・・・・そういう人もいなかったし、思ったこともないよ」
付き合って5年、出会ってからは9年経つにも関わらず由衣の人生の中で周人以上の人はいなかった。人は出会い、別れて運命の人に導かれていくと聞いたことがあるが、由衣はいきなりその相手を引き当てた貴重な女性なのかもしれない。
「・・・高校の時、いいなぁって思った人がいたんじゃなかったっけ?」
目を細めてそう言う周人はビクッとしている由衣を見てやらしい表情で口の端を吊り上げた。
「あ、あれは・・・そうかなぁって思ったけど、誰かさんに似てたから錯覚しただけ」
「ほぉ・・・」
ますます目を細める周人に膨れっ面を見せながら頭を叩きにかかる由衣をそっと引き寄せた周人の鼻先にシャンプーかコロンのなんとも言えないいい香りが漂ってくる。ゆっくりと目を閉じた2人の唇が今まさに触れようとしている。
「いやん!」
悩ましげな声に目を開けて思わず飛びのく形で助手席に戻った由衣と、驚いて窓の方に顔を引いた周人の視線は助手席側に止まっている赤いスポーツカーの方へと注がれた。シートが倒された車内に上半身裸とおぼしき女性の肩口が見え隠れし、押し殺したあえぐような声が少し開いた窓から漏れているようだった。
「・・・・・行こうか?」
「・・・・・うん」
気まずい雰囲気の中、ギアを入れてバックする周人はなるべくスポーツカーから離れるようにしながら車をUターンさせてアスファルトの道路へと戻す。そして逃げるように加速するダブルワン。見てはいけないものを見たような気がしている2人はどう会話をしていいかわからない。そのまましばらく会話のない車内には軽快な音楽を奏でる新人アイドルの歌声のみがこだまするのだった。




