心の隙間(3)
「いくら政府の偉いさんだからって、こんな時間に来るのは常識的におかしいでしょう?」
ヒステリックな感じではないのだが、明らかに不快感をあらわしている中年女性の声が自分たちが歩いている靴音以外何もない廊下にこだました。コの字型を取っている建物全ては白で統一された壁に廊下となっており、これぐらいであればまだそこいらの建物などでよく見られる光景だったが、ひときわ異彩を放つその窓に特徴があった。4階建ての建物全ての窓ガラスは格子によって出入りが出来なくなっていた。しかも窓自体のガラスもかなり分厚く、並大抵のことではビクともしない作りとなっているのだ。天井に据え付けられている蛍光灯にも細かい格子状のカバーが取り付けられており、あきらかに破壊されないように工夫されているのがわかる。そしてこの建物最大の異様さを表現している場所の前に立ったのは男女合わせて総勢6人だ。天井から床、そして壁までを鉄の格子が二重の壁となってその6人の行く手を遮っているのだった。電子キーらしいカードを取り出した警備員がカードを差し込むスリットのカバーを小さな鍵を使って開き、それからようやくそのカードを差し込んだ。さらにそこから腰に下げた大きな鍵をカード差込口のすぐ下にある鍵穴に差し込む。しかしその鍵をすぐには回さずにまずさっきのカードを引き抜き、それから鍵を回せば手前にある扉が左へ、奥にある扉が右側へと別々に開いていった。何重にも施された厳重な開錠に全員の緊張も知らず知らずのうちに高まっていった。廊下の両側にある部屋の扉も電子ロックによる二重の施錠がされている。鉄の扉の上側にのみ小さな横長の窓があり、そこから中の様子が見られるようになっていた。しかもそのガラスは特殊な防弾ガラスである。
「手前から奥へと順に凶悪の度合いが増していきます。もっとも、皆精神に異常をきたした元凶悪犯ですがね」
白衣を来た初老の男が義務的な説明をするが、説明を受けた当の本人たる福山は何の反応も見せなかった。何のアポも取らずに突然午後十一時を回ってから来訪した福山の目的はある人物を見るためであった。あわてふためくこの精神病院の院長をよそに、用件だけを簡単に伝えた福山は目当ての人物の世話をしている中年女性である江坂登志子の嫌味にも全く表情を変えなかったのだ。
「ご存知のとおり、ここには民間には極秘の犯罪者たちが数多く収容されております。もちろんその大半は逮捕拘束の後、過度の実験によって精神に異常をきたした『変異種』ばかりですが」
「あぁ、知っている」
汗をかきかきそう説明する院長の言葉すらどうでもいいのか、スーツ姿の福山は一番奥にある部屋を見据えたままだった。
「この人にそんな説明は不要です・・・」
そっけなくそう言う登志子に苦笑じみた顔を向けた院長だったが、それもそうだとそれ以上は何も口にしなかった。
「ここです」
2人いる警備員の1人が目当ての部屋の前に立ってそう言うと、残った警備員は腰の警棒に手をかけながらドアの真横に立った。白衣を来た四十代とおぼしきメガネをかけた男が目線にぴったりの位置にある小窓のカバーをスライドさせて開き、横へ移動して福山をそこに立たせるような仕草を取った。小窓は縦十センチ、横三十センチほどのものだが、中の様子を見るには十分な大きさだった。
「あいかわらず、ですな」
ベッドに腰掛けているのはかなりの巨体を持つ男だ。白いベッドに白いシーツの布団、それ以外には何も無い。まさに殺風景この上ない白い空間には白い簡素な服を来た髪の毛の1本すらないスキンヘッドの大男がいるのみだ。しかしその視線は斜め上にある壁と天井との境界線をぼんやりと見つめているだけであり、ベッドの上に座っているだけで全く動く気配すら見せないでいる。意識があるのかないのかすらもわからない状態だった。
「以前にも報告しましたが脳の損傷は現在の科学力、医学をもってしても解析及び治療は不可能です」
「どこをどうやられてこうなっているかすら検討もつきません。アメリカからの最新機器でも不明でして、収容から今日までの十二年間で回復の兆しは全くなしです」
2人の医師からそう説明された福山は小さく微笑むとドアから離れ、自分を睨むようにして見つめている登志子に目をやった。
「何か進展は?」
「3ヶ月前にあなたたちが勝手にここから連れ出してから精神状態が不安定気味だったけど・・・・今は元通り、ずっとあのままよ。変わらない」
「なら良かったですね」
「何を企んでいるの?」
「私のやることに逐一ケチをつける君や秋田さんには話しても無駄でしょう?時が来ればわかりますよ」
福山はそう言うとさっさと元来た廊下を戻っていった。一体何がしたかったのか全くわからない院長はただその後をついていくしかない。結局福山は施設を出るとそのまま車に乗り込むとさっさと帰っていった。もはや首を傾げるしかない病院関係者はホッとしたせいか、襲ってくる眠気に負けてあくびをかみ殺すばかりだ。
「いったい彼に何をしたの?何を確かめに来たの?」
既に去って見えなくなった車の方向を見据えながら、1人そこにたたずむ登志子はじっと何かを考えながらこれは秋田に報告すべきだと考えをめぐらせるのだった。
由衣が周人からのメールに気が付いたのはお開きとなる直前に行ったトイレの中でだった。時間は既に午後十一時を迎えようとしている。皆話に夢中になりすぎて時間の感覚を失っていたのが遅くなった原因だった。とにかく簡単な返事だけを返し、用を済ませて席へと戻る。割り勘ということだったが半分を隆弘が支払い、残りを9人で分ければ由衣の支払った額はかなり少なかった。
「中途半端なおごりですまない」
そう言って店の外で謝る隆弘に全員から感謝の言葉が飛ぶ。そのままその場で解散となり、皆それぞれ家路へと着くべく電車の駅やタクシー乗り場へと向かって散り散りになった。残念なことに成海と隆弘は帰る方向が真逆なために店の前でお別れだ。対して由衣は家の方角が同じなため、電車も同じならば降りる駅も2つしか違わない。もちろん2人の間に何もなく他愛の無い会話をしながらそれぞれ帰ったのだが、成海はよからぬ妄想を膨らませながら家路に着いたのだった。
ここ最近は天気が悪かったせいで屋内でのデートが多かった。ボウリングや映画、ゲームセンターなどにはもう飽き飽きしていたところ、ようやく休日に晴れの天気が重なった。それはそれで嬉しいのだが、本格的夏日となるといった天気予報は見事に的中、家で支度をしているだけで汗が流れてくる。支度といっても由衣は化粧らしい化粧をほとんどしない。就職してから少しだけそれに時間をかけるようになっていたが、それでも成海や美子など、他の同僚たちの化粧の度合いからすれば由衣の化粧などないに等しかった。マスカラもろくになければファンデーションすら微々たるもの、ややキラキラしたルージュを引く程度で事足りている。髪型も肩甲骨辺りまで伸びた髪を軽くパーマをしている程度で、ふんわりした前髪も由衣には似合っていた。今日は暑いので日焼け止めを塗った肌を露出するノースリーブタイプのTシャツにミニスカートだ。ヒールの低いサンダルを選んだのは今日出かける場所が繁華街ではなく、自然に囲まれた大きな公園だからだった。山の谷間に人工的に作られたそこは噴水から流れる川で水遊びが出来、子供向けの簡単なアスレチックコースもあって家族連れで楽しむことができるのだった。しかも広々としたパターゴルフ場もあり、プールや温泉、宿泊施設まである豪華さだ。さらにここの利用料金はそれぞれの施設に設定されているが、基本的に駐車場代しか払わなくてよい良心的な場所でもあった。場所も由衣の家から車で三十分程度と近場だ。いつも通り約束の時間ぴったりにインターホンが鳴り、周人が迎えに来た事を告げた。すでに荷物もまとめてある由衣はその小さめのバッグをひったくるように掴むとやや駆け足で廊下を進んですばやくサンダルを履く。そしてドアに手をかけたその時、由衣の予想をはるかに上回る速さで玄関先へとダイブしたのは母である実那子であった。さっさとスリッパを履くと由衣が開いたドアから由衣よりも先に外へと飛び出す。もはや怒りを通り越してあきれるしかない由衣はキラキラと目を輝かせて周人に挨拶する母親の脇をすり抜けるようにして周人の横に並んだ。
「おはようございます」
「おはよう、周人君。今日は暑いわよぉ、気をつけてね」
「はい、ありがとうございます」
「もう!そんな他人行儀な挨拶止めてよ!もうそういう関係でもないでしょ!」
その実那子の言葉に人が聞いたら誤解されるぞと思いつつ、もはやあきれるのを通り越して情けないと思う由衣はさっさと車の前に立って周人をせかした。
「早く行こうよ!」
「おう。じゃ、行ってきます」
そう言った瞬間、不意に近づいてきた実那子はそっと周人の耳元で何かをささやいた。それに対してなにやらぼそぼそ返事を返す周人に苦笑じみた顔をしてみせた実那子は怪訝な顔をしている娘に手を振った。周人はすぐさま運転席に向かうとすばやく乗り込み、それを見た由衣も助手席に乗り込んだ。この周人のためだけに特別に作られた車『シューティングスター・ダブルワン』ももう4年目に突入だが、全く問題ない走りを見せつづけている。手を振る実那子に頭を下げてから車を発進させた周人は由衣の家の前の道路を左折して大通りへと向かった。
「何言われてたの?」
大通りへと出て順調に走り出してからそう切り出した由衣の方をチラッと見た周人は3つ先の信号が赤に変わったのを認めて徐々にだがスピードを落としていく。
「出来ちゃった結婚でもいいわよってね」
その言葉にガックリとうなだれながら、冗談か本気かはわからないが結婚に関して賛成だという実那子の心は十分に理解できた。もう何年も前から由衣に対して早く結婚しろと言っていた実那子だけにそう考えて間違いはないだろう。父秀雄も寂しさ全開の顔ながら周人ならば文句はないとも言ってくれている。そして何より自分も周人と結婚したいと思っている。ただ、問題があるとすればそういう話を全くしない周人にある。
「で、なんて返したの?」
この返事に周人の本心が隠されていると思う由衣は少し緊張気味にしながらそう聞いた。
「ん?まぁそれはないですよってね」
「それだけ?」
「あぁ、そんだけ」
実にあっけない回答に由衣は心底失望してしまった。今の返事からまるで結婚の意志がないとしか取れなかったのだ。確かに由衣はまだ二十四歳と若く、周人も二十九歳でまだまだ若いとは言える。だが付き合ってもう5年ともなればそういう話も本人たちの間でちらほら出るはずだ。するならする意思がある、する気が無いならそうはっきり言って欲しいのだ。由衣は結婚願望が強いわけではない。ただ周人となら結婚しても絶対うまくやっていけると思っているし、何より4年前に初めて周人の実家に行った際に周人の母親である静佳から周人と結婚する未来を予言されている。しかもそれはただの予言ではない。『変異種』と言われるいわゆる異能力者たち、超能力者とも言われる遺伝子的に変異を起こした人種であるその変異種たる静佳の能力は時間と空間を支配し、現在過去未来を見通すことができる宇宙最強といっても過言では無い『真理眼』である。その静佳が未来において周人と由衣は結婚する未来の映像を見ているのだ。あれから4年、どれぐらい先で結婚するかはわからないが、その未来を知っているだけに由衣は周人との結婚を何度も頭の中でシミュレートしていたのだった。だからこそ、歯切れの悪い周人を見ればイラつくし、はっきりして欲しいと思うのだ。
「できちゃった結婚はイヤなんだ?」
不満げにそう言う由衣に困った顔をする周人は青に変わった信号を見てゆっくりと車を発進させる。
「子供を理由に結婚したくないだけだよ」
確かにそれに関しては由衣もそうだ。自分のことをそう好きでもないのに子供が出来たからといって結婚してすぐに離婚している同級生も知っているだけに自分もその意見に賛成だった。だが、『だから普通に結婚したいんだ』ぐらいの言葉が欲しかった由衣の中でまた少し周人に対する不信感が大きくなっていく。静佳の予言どおり結婚するのは自分から何度も結婚を叫んだ結果だとしたらそれは悲しいことに思えてしまう。それっきり黙りこんでしまった由衣の心情を、実は周人は理解していた。だが周人の中にある1つの不安というか、ある悩みが由衣の期待している言葉を飲みこませていたのだ。確かに周人自身も結婚相手としては由衣以外に考えられない、いや、むしろ由衣こそが運命の女性だと理解している。だからこそ、周人の中の不安が結婚に対して歯止めをかけてしまっているのだ。
「もう少し、我慢してくれ・・・・・」
つぶやくようにそう言う周人を横目で見た由衣は本来の意味である『もう少し我慢してくれたら必ず答えを出すから待っててくれ』ではなく、『ごちゃごちゃ言わずに黙って待ってろ』という風に取ってしまい、ますます結婚に対する周人の姿勢に不信感を倍増させてしまったのだった。
目的地に着いてもやや不機嫌そうな由衣だったが、緑溢れる自然が開放的な気分にさせてくれたのか徐々にだが笑顔が見え始めた。ともすればはしゃいで嫌な事は忘れようとしているのかもしれないが、大人も滑れる長大な滑り台や簡単なアスレチックも楽しんだ。涼しい風が心地いいサイクリングをし、買っておいたお弁当を食べてくつろぐ。そうしているうちに由衣の心も和らぎ、結婚の事は頭の隅に行っていた。周人もそんな由衣を見てホッとしながらいつも通りに接していた。そして昼食後はソフトクリームを賭けてパターゴルフで勝負することとなった。この公園自体がそう混んでないせいか、すんなりとプレーできる状態にある受付を済ませ、ボールとスコア表、そしてパタークラブを受け取ると比較的日影の多い緑溢れる広い芝生が目の前に展開された全18のコースへと飛び出した。ここはかなりの広さがあって十分楽しめること間違いない。由衣は自分がミニスカートであることも忘れてはしゃぎ、周りでプレーしている家族連れのお父さんたちの視線を集めた。中にはCMで由衣を知っている人もいたが、由衣自身はそういった視線を無視するかのようにプレーに没頭していた。その結果僅差で由衣が接戦をものにし、周人からソフトクリームの景品を授与されるに至ったのだった。
緩やかで広い段差の頂上には5つの鐘が五角形を描く形で尖塔状の屋根に設置されていた。『幸せを呼ぶ鐘』と名づけられているその鐘のふもとから噴水を通じて小さめの川が4つの大きな段を描きつつ一番下の池状の溜まり場へと注がれているここでは小さな子供たちが真っ裸に近い状態で水浴びをしていた。ここから少し離れた場所には大きめの川があり、そっちでも幼稚園児や小学生が水着姿ではしゃいでいる。もちろん川といっても子供が立って膝の位置までがせいぜいの人工的に作られたものであるが。パターゴルフで一汗をかいた2人が向かったのがこの『幸せの鐘』の近くにある噴水の川だった。今日は暑いとわかっていた周人は膝までの短パンにサンダル履きのラフな格好だ。日差しの照りつけるその川の中にサンダルを脱いだ素足をつけるだけで自然と汗が引いていく。距離にして幅わずか50センチ程度の真向かいに座った由衣もまたサンダルを脱いで足をつけた。足首までが浸かる程度で水もぬるいが、それでもかなり気持ちがいい。一番の下の溜まり場では小さな子供たちがキャッキャ言いながら水をかけあったりしている姿が見えていた。
「家族連れには、ぴったりな場所だなぁ」
今いる位置からでは見にくいが、その溜まり場にいる数家族を見てつぶやく周人の口元も心なしか緩んでいるように見えた。
「昨日、結構派手にやったみたいね」
何気にそう言いながら由衣が周人の唇の右端を指差した。そこには少し切れた痕が見える。朝会った時から気になっていたのだが、不機嫌さ全開だった由衣は今の今までそれに触れずにいたのだった。機嫌が直ってからもチャンスはあったのだが、いつも周人が由衣の右側にいるために気付かなかったのだ。
「派手って事は無いけど・・・それなりにね」
周人と光二の試合に関しては事前に関係者のみに知らされている。だが、立会人兼審判の哲生以外のギャラリーを不要とした当事者たちの意思によって試合の観戦は許されなかったのだ。一応結果は哲生からメールにて関係者に通知されて知っているものの、実際どういった展開で周人が勝ったかまでは知らないでいた。
「まぁ勝つってわかっていたけどね・・・決め技は天龍昇?」
「その通りでございます」
大学での就職活動のため、3年間アルバイトをしたさくら塾を辞めた由衣だったが、光二や塾長である大山康男とは今でもしょっちゅう連絡を取り合っていた。できるなら塾に就職をと何度も懇願されたが、由衣も周人と同じく塾だけではない世界で働きたくなり、今勤めている桜坂銀行への就職を決めたのだ。今現在でもバイトしながら就職活動をしているかつての同級生もいる中、ほぼ一発で就職先を決めた由衣をルックスだけで選ばれたとか、体で取ったやらねたみや陰口も叩かれたが本人はそんな声を無視して素直に喜んだ。実際就職先がなければ塾でという保険とも取れる約束をしていた由衣の就職に、康男は複雑な心境ながら心ばかりのお祝いをしたのだった。また周人からもお祝いにとデスクトップタイプのパソコンが贈られている。光二からも最新ゲーム機が贈られ、由衣は自分が最高の人たちによって見守られていると改めて実感したほどだった。そんな光二と周人が試合をすると聞いたとき、是が非でも見たいと思ったのだがダメだと言われてふてくされた事もあった。だがキャリアと実力からして周人が光二に負けるとは全く思っていなかった由衣が決め技を言い当てた事は自分でも驚くべきことだった。何故なら由衣が口にした天龍昇は木戸無明流の奥義であり、周人が強敵を倒す際に使う最も得意とする技だったからだ。つまり周人がその技を使ったということは光二がかなりの強敵だったということがわかる。合気柔術を始めてわずか4年の光二が伝説の『魔獣』とそこまで戦えると知った今、やはりその戦いを見たかったと思う由衣は強引にでも行けばよかったと今更ながらに後悔した。
「光二君、大丈夫だったの?」
「腹に一撃だし、気硬化まで使ったみたいだからね・・・心配ないよ、多分」
「でも意外・・・そんなに強かったなんて」
「強いさ。元々素質がズバ抜けていた上にあの能力、あの師匠。実際本気になってもなかなか倒せなくて正直焦ったぐらいだ」
どこまで本気かわからない口調でそう言うが、この周人がそう言うのだから間違いないのだろう。
「今日ぐらいまでは痛みを伴うだろうけど・・・骨も異常ないだろうし、顔が少々腫れてる程度さ」
「で、周人は唇を切ったわけ?」
「口の中も切ったし、血も吐いた」
「うそ!」
「ホントだ・・・言ったろ?強かったってさ」
「見たかった・・・・」
がっくりうなだれながらそう言う由衣に苦笑する周人はあのタイミングで放たれた『絶』をどうやってかわしたか、実は自分でもよく覚えていなかった。無我夢中でやったことだが、これを喰らえば死ぬかもしれないという悪寒が背筋を走った瞬間、『絶対に死ねない』という思いがあの電光の動きを可能にしていたのだった。
「でも、恵さん、今ごろ大変じゃないかなぁ・・・」
何気なしにそうつぶやいてからハッとなった由衣は周人との事を相談できる人間がいたことを思い出した。今口にした恵ならば適切なアドバイスをくれるのではないかと思ったのだ。流れる水を見つめながらにんまり笑う由衣をどこか不気味な様子で見やる周人は昨日の光二を見る限り追い抜かされるのも時間の問題だと感じつつ、それはそれでいいと夏の雲が浮かぶ青い空を見上げるのだった。
巨大なビルが立ち並ぶ新宿のビジネス街。都庁がある事で有名なこのビジネス街には巨大なビルが数多く立ち並んでいる。まばゆい太陽の光が全面ガラス張りの側壁に反射にしてさらにまぶしさを増した状態で地上に降り注ぎ、天高くそびえる人が作りし巨塔の偉大さと存在感を存分に知らしめていた。そんなビル街の1つ、25階建ての全面ガラス張りのビルこそが目当ての場所であった。波島という美しい自然をそのままにしたリゾート地には決してありえないその光景に言葉を失っていた千絵は、そのビルのロビーに入ってさらに目を丸くした。波島で一番豪華なグランドホテル波島など到底及ばない巨大な規模をもったロビーは3階までが吹き抜けになっており、会社らしい黒いエレベーターが4機も設置されていた。その上受付カウンターにインフォメーション、さらには超巨大なスクリーンまである。ちんけな映画館など及ばない規模の大きさをもつスクリーンには会社の案内がCMに起用したタレントによって紹介されていた。今や赤瀬未来と双璧を成すと言われる人気アイドル茅ヶ崎一香がCGを交えた会社の案内をさまざまなコスプレで演じているのもワイドショーで話題になったほどだ。だが、ライバルと言われる赤瀬未来は昨年出演したハリウッド製作の時代劇映画によってたちまちその演技力が世界に評価され、今ではハリウッドに一番近い日本女優とされていた。もちろん事務所もハリウッドでの映画の仕事を優先させ、国内でのCMもセーブした結果、保険会社で1件、お茶の会社で1件、そして自動車メーカーのカムイの3社のみとなってしまい、合計10社にまたがる一香に大きく水を開けられる結果となってしまった。確かに国内でのCM露出は極端に減ったが、それでも知名度はまだまだ未来の方が遥かに上だ。そんな未来が夢に向かって大きな一歩を踏み出した事を、星は嬉しく思っていた。そしてその星もまた、自身の夢が現実となるまでもうすぐそこまで迫ってきている。今回の東京来訪はその夢への第一歩のためなのだ。自分が勤めるレストランのオーナーから贈られた高価なスーツを身にまとった星は受付で社長である黒崎誠二への面会を申し出る。もちろんアポを取っている上に約束の時間10分前ともなれば話はすんなりと進んでいった。もう決して帰って来る事はないと思っていた東京に実に十二年ぶりに舞い戻った星だったが、今回の帰京は苦痛なものではない。むしろ喜ぶべきものなのだ。
「すごいね・・・・東京って」
自己最高の都会が沖縄の那覇ともなれば花の都大東京は異世界に近い。見るもの全てがカルチャーショックな千絵に苦笑しつつ星は受付の美女に案内されて高速エレベーターへと案内された。千絵も黒を基調としながら白も混じったスーツを着用し、長めの髪を可愛らしく2つに分けてまとめていた。緊張ありありの千絵を横にリラックスした様子の星を見上げるようにする受付の女性は元モデルだけあって背は高いほうだ。実際160センチそこそこしかない千絵に比べればかなりの背丈がある。にもかかわらず彼女が普通に見えるのは180センチある星のせいだろう。見事なくらいに大中小並んだ人間も珍しい。やがてエレベーターが下りてきて扉が開く。中には受付の女性が着ているピンクのスーツと同じデザインながら黒に色を変えたスーツ姿のこれまた美しい女性が姿を現した。
「ここからは秘書の森崎がご案内します」
受付の女性はそう言うと2人をエレベーターの中へとうながした。堂々とした様子で中に入る星に対し、千絵は腰が低い感じで中に入る。
「ではご案内いたします」
透き通るような声でそう言った社長秘書の森崎は軽く会釈してから最上階のボタンを押した。音もなく扉が閉まり、一瞬揺れたあとエレベーターが静かに動き出した。
「すっげー!」
ビルの外側面を走るエレベーターはかなりの高速だが、かなり静かだ。そしてガラス張りの壁面が見事なでの景色を提供してくれた。見渡す限りのビルの群れ。人工物で覆い尽くされた地面が地平の彼方まで続いている。その景色を見てワーキャー言う千絵にさすがの星も恥ずかしさで顔を赤くした。やがてゆっくりとした動きで空中に静止したエレベーターのガラスでない部分、ドアの部分がスッと開いて到着を告げた。
「最上階でございます」
そう機械的に言う森崎は閉じないようにドアを抑えながら丁寧な仕草で2人を外へとうながした。飛び跳ねるように出て行く千絵に苦笑する森崎にますます恥ずかしそうな星が会釈をして返す。モデルのような綺麗な顔立ちをしている星に一瞬ながら胸がときめいた森崎は咳払いを1つして気を取り直すと正面に位置する社長室の前に立った。そして4度ノックしてドアを開くと2人を招き入れる仕草を丁寧で、そして機敏な動作で行う。
「ありがとう」
一言森崎に礼を言って失礼しますと声を発し、社長室へと足を踏み入れる星。
「お名前は?」
不意に自分の目の前に立つ千絵からそう聞かれ、見下ろす格好の森崎は左胸についている自分の名札を見てから千絵の目を見た。
「森崎です」
「それは知ってます、下のお名前です」
何故そこまで聞くかわからない森崎は首を傾げながらもにこやかな表情を消さなかった。
「みふみ・・・森崎美文です」
「ありがとう、美文さん!」
千絵は屈託の無い笑顔を見せながら勝手に森崎の手を握って握手をし、それから失礼しますと大声で挨拶しながら社長室のドアをくぐっていった。そんな千絵の後ろ姿を見送ってからドアを閉めた森崎は強引ながら握手をされた右手を見つめた。確かに赤瀬未来の主演映画で有名になった波島から来た田舎者だが、心は凄く純粋に思えた。正直最初は小馬鹿にした部分もあったのだが、最後の千絵はそんな自分が恥ずかしくなるような本当に純粋な笑顔を見せてくれたのだ。森崎は自嘲気味な笑みを見せると2人と社長のためにコーヒーを入れるべく応接用のキッチンへと向かう。その表情はさっきの千絵にも似た純粋に見える微笑が浮かんでいるのだった。




