第八話 水守の里からの招待
朝食の片づけを終えた頃、居間に置かれた電話が鳴った。
銀澪はちょうど、庭へ出るために羽織を手に取ったところだった。
窓の外では柔らかな日差しが池を照らし、山から吹き下ろす風が木々の葉を揺らしている。今日は庭の落ち葉を集め、それから黒凪に教わった水の制御を少し練習する予定だった。
電話の音に気づいた黒凪が、台所から顔を出す。
「あら。こんな時間に誰かしら」
「僕が出ましょうか?」
「ありがとう。でも、私が出るわ」
黒凪は濡れた手を布巾で拭き、電話の画面を確認した。
その瞬間、金色の瞳が少しだけ大きくなる。
「あら、水葉じゃない」
聞き覚えのある名前に、銀澪は顔を上げた。
数日前、黒凪のもとへ手紙を送ってきた龍人。
水守の里に住み、山々の水脈を調べているという、黒凪の古い友人だった。
黒凪は通話を開始し、電話を耳へ当てた。
「もしもし、水葉? 久しぶりね」
『久しぶり、黒凪。朝からごめんなさい。今、少し話せる?』
受話器から、落ち着いた女性の声が聞こえた。
「ええ、大丈夫よ。どうしたの?」
『あなたからの返事、読んだわ。それで、ちょっと確認したいことがあるの』
黒凪の表情が、わずかに引き締まった。
「水脈のこと?」
『そう。特に、あなたの屋敷の裏にある湧水の記録について』
銀澪は静かに羽織を置いた。
邪魔をするつもりはなかったが、自分にも関係する話だと分かると、そのまま庭へ出る気にはなれなかった。
黒凪もそれに気づいたらしい。
軽く手招きし、銀澪へ隣の椅子を示した。
彼が腰を下ろすと、黒凪は通話をスピーカーへ切り替えた。
「今、銀澪も一緒にいるわ。話を聞いてもらってもいいかしら」
『ええ、構わないわ。むしろ、その方がありがたいかもしれない』
少しの間があった。
『初めまして、銀澪さん。水葉といいます。黒凪から少しだけ、あなたのことを聞いているわ』
突然話しかけられ、銀澪は姿勢を正した。
「あっ、初めまして。銀澪です。よろしくお願いします」
『ふふ。そんなにかしこまらなくても大丈夫よ』
穏やかな声だった。
黒凪とはまた違う、落ち着いた話し方をする女性らしい。
『黒凪から、あなたが水の流れを感じ取れると聞いたの。それも、普通の龍とは少し違う感覚で』
「……はい。ただ、まだ自分でもよく分かっていなくて」
『それで十分よ。分からないことを、無理に説明する必要はないわ』
水葉はそこで一度言葉を切った。
『実は、こちらでも新しい記録が取れたの。あなたたちが観測した湧水の異変と、ほぼ同じ時間帯に、水守の里でも似た現象が起きていたのよ』
黒凪が顔を上げた。
「同じ時間帯?」
『ええ。完全に一致しているわけではないけれど、数分以内に集中しているの。偶然と片づけるには、少し気になるでしょう?』
「……そうね」
『それから、手紙に書いてあった古い水脈図のことも確認したいの。私のところにも似た記録が残っているから』
黒凪の指が、膝の上で小さく動いた。
銀澪はその様子を横目で見た。
彼女が書庫で古い地図を調べていることは知っている。
ただ、その内容については、まだ詳しく聞いていなかった。
『そこで、一つお願いがあるんだけれど』
水葉が続けた。
『よければ、こちらへ来てもらえないかしら。黒凪だけじゃなくて、銀澪さんにも』
銀澪は思わず黒凪を見た。
「……僕も、ですか?」
『ええ。もちろん、無理にとは言わないわ。あなた自身の話を、あなたの言葉で聞きたいの』
水葉の声は、あくまで穏やかだった。
『それに、実際の水脈を前にした方が、確かめられることもあると思うの。ただし、あなたの力を無理に試してもらうつもりはないから、その点は安心して』
銀澪は少し考えた。
龍人たちの暮らす里。
そこには以前から興味があった。
黒凪以外の龍人と話せる機会も、今の自分には貴重だろう。
けれど、一つだけ気になることがあった。
「あの、水葉さん」
『何かしら?』
「僕はまだ、自分がどうして龍になったのか分かっていないんです。それでも、里へ行って大丈夫なんでしょうか」
電話の向こうで、少しだけ沈黙が流れた。
やがて水葉が答える。
『……銀澪さん。水守の里に暮らしている龍たちだって、自分のことを何もかも知っているわけじゃないのよ』
「……え?」
『生まれた土地を知らない者もいるし、一族の記録が途切れている者もいる。事情はそれぞれ違うわ』
その声は静かだったが、はっきりとしていた。
『だから、分からないことがあるという理由だけで、あなたを拒むつもりはないわ』
銀澪はゆっくりと息を吐いた。
「……そうですか」
『ええ。ただ、里の人たちにも生活があるから、秘密に関わる場所へ入るときには案内が必要になるけれどね』
「分かりました」
黒凪が隣で微笑んだ。
「どうする、銀澪?」
銀澪は顔を上げた。
金色の瞳が、穏やかにこちらを見つめている。
行くかどうかを、黒凪は自分に決めさせてくれていた。
銀澪は少しだけ考え、それから頷いた。
「……行ってみたいです」
黒凪の口元が緩む。
「そう。なら決まりね」
彼女は電話へ向き直った。
「聞こえたかしら、水葉?」
『ええ。もちろん』
電話の向こうから、小さな笑い声が聞こえた。
『それじゃあ、明日はどう? 里の方も、ちょうど落ち着いているから』
「明日ね。私は大丈夫だけれど……銀澪?」
「僕も大丈夫です」
『よかった。では、お昼前くらいに来てもらえるかしら』
水葉は少し声を和らげた。
『久しぶりに黒凪にも会えるし、楽しみにしているわ』
「私もよ。じゃあ、また明日ね」
『ええ。気をつけて来てちょうだい』
通話が終わった。
黒凪は電話を置き、銀澪へ顔を向ける。
「……というわけで、明日は少し遠出になりそうね」
「はい」
銀澪は頷いた。
胸の奥に、わずかな緊張が生まれている。
けれど、それ以上に楽しみだった。
この世界で、黒凪以外の龍と初めて会う。
しかも、その龍は何百年もの間、水脈を研究してきた人物だという。
自分の知らない龍の世界を、少しだけ知ることができるかもしれない。
そんな期待があった。
「……黒凪さん」
「何?」
「明日、よろしくお願いします」
銀澪がそう言うと、黒凪は小さく笑った。
「ええ。こちらこそ」
そして、少しいたずらっぽい表情になる。
「でも、あんまり興奮して尻尾を出さないようにね?」
「……そこは気をつけます」
「ふふ。念のためよ」
銀澪は苦笑した。
こうして、二人の初めての遠出が決まった。
◇
その日の午後。
銀澪は書庫の入口に立っていた。
黒凪から、話しておきたいことがあると呼ばれたのだ。
開け放たれた扉の向こうでは、黒凪が大きな机の上に地図を広げている。
「どうぞ、入って」
「失礼します」
銀澪は一礼して部屋へ入った。
書棚には古い記録が整然と並び、乾いた紙の香りが漂っている。
何度見ても、個人の家にあるとは思えないほど立派な書庫だった。
「……今日は、この地図を見せたくて」
黒凪は机の横へ移動し、銀澪にも見えるよう場所を空けた。
広げられていたのは、以前見せてもらった水脈図だった。
山の地形と地下水の流れが、細い線で描かれている。
「これ、前にも見た地図ですよね?」
「ええ。ただ、あのときは一部分しか説明していなかったの」
黒凪は少しだけ目を伏せた。
「……実は、その後に気になるものを見つけたのよ」
そう言って、地図の端を指差す。
そこには、三つの谷から伸びる水脈が描かれていた。
青い線は山の奥へ向かい、やがて一か所で交わっている。
銀澪はその先を目で追った。
「……ここで、全部つながっているんですね」
「そう。少なくとも、この地図ではね」
黒凪は頷いた。
「問題は、その場所に描かれている印なの」
銀澪は身を乗り出した。
水脈が集まる場所には、小さな円形の紋様が描かれていた。
円の内側には、二匹の龍が向かい合うような姿がある。
さらに、その中央には、月のような形が刻まれていた。
「……龍の紋様?」
「ええ」
黒凪は机の引き出しから、小さな木札を取り出した。
そして、地図の横へ置く。
銀澪は二つを見比べた。
「……似ていますね」
「そうでしょう?」
木札にも、二匹の龍が向かい合う紋様が彫られていた。
細かな部分は違っているものの、全体の構図はよく似ている。
「これは、祖母が残してくれたものなの」
「……お祖母さんが?」
「ええ。昔、山へ入るときに持っていくよう言われていたわ」
黒凪は木札を指先で軽く撫でた。
「ただ、その意味を詳しく聞いた記憶がないのよ。少なくとも、今の私には、この地図の印との関係が分からない」
銀澪は地図へ視線を戻した。
二匹の龍。
月。
そして、山の奥で一つに集まる水脈。
確かに、気になる組み合わせだった。
「……黒凪さんは、何か心当たりがあるんですか?」
「少しだけ。でも、確かなことは何もないわ」
黒凪は一度言葉を切った。
「昨日までは、もう少し調べてからあなたに話そうと思っていたの。けれど……」
彼女は銀澪へ向き直った。
「あなた自身に関わることかもしれないのに、私だけが知っている状態もよくないと思ったのよ」
銀澪は静かに聞いていた。
「……もっと早く話すべきだったかもしれないわね」
黒凪の声には、わずかな迷いがあった。
銀澪は地図を見つめたまま、少し考えた。
「……黒凪さん」
「何?」
「僕、分からないことは分からないままでもいいと思っています」
黒凪が顔を上げる。
「もちろん、ずっとそのままでいいとは思いませんけど……今すぐ答えが出ないなら、仕方ないじゃないですか」
「……そうね」
「だから、調べてくれているのは嬉しいです。ただ、もし僕のことで気になることがあったら、確かなことじゃなくても話してもらえると助かります」
銀澪は少しだけ笑った。
「その方が、一緒に考えられるので」
黒凪はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと頷く。
「……分かったわ」
彼女は地図へ目を戻した。
「じゃあ、これからは私が調べていることも、できるだけ共有するようにするわね」
「はい」
「ただし、古い記録には間違いや誇張もあるから、何でも信じ込まないこと」
「分かりました」
黒凪は小さく笑った。
「……よろしい」
二人は再び地図を覗き込んだ。
銀澪は木札を見つめながら、ふと尋ねた。
「……これ、水守の里にも同じようなものがあるんでしょうか」
「それを、明日水葉に聞いてみようと思っているの」
「……なるほど」
銀澪は頷いた。
地図の紋様は、まだ何も語らない。
けれど、昨日まで黒凪だけが抱えていた疑問を、今日は二人で考えている。
そのことが、銀澪には少し嬉しかった。
◇
翌朝。
二人は早めに朝食を済ませ、屋敷を出発した。
銀澪は先日買ってもらった黒いジャケットを羽織り、白銀の髪を軽く整えている。
角と尻尾は完全に隠していた。
一方の黒凪は、落ち着いた色のシャツに濃紺の上着を合わせ、細身のパンツと歩きやすい靴を身につけていた。
髪型はいつものショートウルフだが、今日は前髪を少しだけ横へ流している。
車の助手席へ座った銀澪は、シートベルトを締めてから窓の外へ目を向けた。
「……水守の里って、どれくらい遠いんですか?」
「車で一時間半くらいかしら。山道が多いから、少し時間がかかるの」
「……結構遠いですね」
「そうね。でも、道は悪くないわよ」
黒凪はエンジンをかけ、ゆっくりと車を走らせた。
屋敷を出ると、見慣れた林道が続いている。
銀澪は窓から流れる景色を眺めながら、少しだけ深呼吸した。
今日は、これまでとは違う一日になる。
そんな予感があった。
山道を下り、街の外周を抜ける。
やがて道路は田畑の広がる平地へ入り、その先で再び山間部へ向かった。
窓の外には、低い山並みが幾重にも続いていた。
ところどころに小さな集落があり、古い民家の屋根が木々の間から覗いている。
銀澪はその風景を眺めながら、何度も感心したように息を漏らしていた。
「……綺麗なところですね」
「この辺りは、昔から大きく変わっていない場所も多いの」
「そうなんですか?」
「ええ。もちろん、道路ができたり、家が建て替わったりはしているけれどね。山の形や川の流れは、昔とよく似ているわ」
黒凪は前方を見つめながら続けた。
「私が若かった頃は、ここを歩いて越えたこともあったのよ」
「……歩いて?」
「ええ。車なんてなかった時代だから」
銀澪は思わず目を丸くした。
「……何日くらいかかったんですか?」
「道にもよるけれど、二日ほどかかったこともあるわね」
「二日……」
「今なら、こうして車で行けるでしょう? 便利になったものよ」
黒凪は少し笑った。
銀澪は改めて窓の外を眺める。
山々を縫うように続く道路。
その下には川が流れ、ところどころに橋が架かっている。
今では当たり前の風景だ。
けれど、黒凪にとっては、その一つひとつが時代の変化を示しているのだろう。
「……黒凪さんって、いろいろな時代を見てきたんですね」
「そうね」
黒凪は小さく頷いた。
「でも、長く生きていると、昔のことばかり懐かしんでいても仕方ないと思うようになるわ」
「……どういうことですか?」
「昔には昔の良さがある。でも、今には今の良さがあるでしょう?」
黒凪は前方の道路へ視線を向けた。
「私は、どちらも大切にしたいの」
銀澪はその言葉を静かに受け止めた。
そして、少しだけ笑った。
「……僕も、そういう考え方は好きです」
「そう? なら、よかった」
二人は穏やかに微笑んだ。
◇
水守の里へ近づくにつれ、道路は細くなっていった。
周囲には杉林が広がり、山の斜面から流れ落ちる水が小さな沢を作っている。
やがて、古い石橋が見えてきた。
その向こうには、小さな集落が広がっている。
瓦屋根の家々。
段々に整えられた田畑。
木造の集会所。
そして、山の斜面を流れる幾本もの水路。
銀澪は思わず身を乗り出した。
「……ここが」
「ええ」
黒凪は車の速度を落とした。
「水守の里よ」
集落の入口には、小さな木製の看板が立っていた。
そこには、普通の地名と地域の案内が記されている。
龍人に関する特別な文字は、どこにも見当たらなかった。
銀澪は少し首を傾げた。
「……普通の村に見えますね」
「普通の村だもの」
黒凪は当たり前のように答えた。
「龍が暮らしているからって、空に城が浮かんでいるわけじゃないのよ?」
「……いや、そこまでは思ってませんけど」
「本当に?」
「……少しだけ期待してました」
黒凪は声を出して笑った。
「もう。あなたらしいわね」
銀澪は照れくさそうに笑った。
車は石橋を渡り、集落の中心へ向かった。
道沿いには小さな商店があり、店先では年配の男性が野菜を並べている。
その向こうでは、数人の子どもたちが自転車に乗って遊んでいた。
どこから見ても、静かな山村の風景だった。
ただ、銀澪には一つだけ気になることがあった。
水の流れだ。
里へ入ってから、周囲の水音が妙にはっきりと聞こえる。
道路脇の水路。
田畑へ引き込まれた水。
そして、地面の下を流れる地下水。
それらが複雑に重なり合い、まるで一つの大きな流れを作っているようだった。
「……黒凪さん」
「何?」
「この里、水が多いですね」
「ええ。名前のとおり、水に恵まれた土地だから」
「……それだけじゃなくて」
銀澪は少し考えた。
「何となく、水の流れが……集まっている感じがします」
黒凪は一瞬、銀澪へ目を向けた。
しかし、すぐに前方へ視線を戻す。
「……そう」
その声には、少しだけ考え込むような響きがあった。
「その感覚、あとで水葉にも話してみて」
「……はい」
銀澪は頷いた。
車は集落の奥へ進み、やがて大きな木造建築の前で止まった。
古い屋敷のようにも見えるが、入口には新しい案内板が設置されている。
看板には『水守郷土資料館』と書かれていた。
「……資料館?」
「ええ。水葉が普段、記録を管理している場所よ」
黒凪は車のエンジンを切った。
「さあ、行きましょうか」
銀澪は頷き、助手席の扉を開けた。
山の空気が、ふわりと流れ込んでくる。
◇
資料館の入口には、古い木製の門があった。
黒凪が呼び鈴を押そうとした、そのときだった。
「……黒凪?」
門の内側から、女性の声が聞こえた。
二人が顔を上げる。
そこには、一人の女性が立っていた。
年齢は、人間に換算すれば二十代後半から三十代前半くらいだろうか。
深い青緑色の髪を、後ろで緩く束ねている。前髪は少し長めで、耳元には細い銀色の飾りが揺れていた。
瞳は、澄んだ水を思わせる淡い青色。
細身の眼鏡をかけ、落ち着いた色の上着と長いスカートを身につけている。
手には、数枚の書類が挟まれたクリップボードを持っていた。
女性は黒凪の姿を見た瞬間、少しだけ目を見開いた。
そして、ふっと微笑んだ。
「……本当に久しぶりね」
「ええ。元気そうで何よりだわ、水葉」
黒凪がそう答える。
次の瞬間、水葉は門を開け、二人の前へ歩み寄った。
「三十年ぶりくらいかしら?」
「そうね。直接会うのは、それくらいになるわね」
「あなた、相変わらずね」
「あら。それはお互い様でしょう?」
二人は顔を見合わせて笑った。
銀澪は少し離れたところで、そのやり取りを眺めていた。
黒凪が昔からの友人と話している。
それだけのことなのに、いつもとは少し違う表情をしているように見えた。
親しみのある相手に向ける、自然な笑顔。
どこか懐かしさを含んだ声。
彼女にも、こうして長い年月を共に過ごしてきた友人がいるのだ。
銀澪はそのことが、少し嬉しかった。
やがて水葉が、彼の存在に気づいた。
「……そちらが?」
黒凪は頷いた。
「ええ。手紙で話した銀澪よ」
銀澪は一歩前へ出た。
「初めまして。銀澪といいます」
丁寧に頭を下げる。
「今日はお時間をいただいて、ありがとうございます」
水葉は一瞬、目を丸くした。
それから、柔らかく微笑んだ。
「……こちらこそ、来てくれてありがとう」
彼女は軽く頭を下げ返した。
「水葉です。黒凪とは、随分昔からの付き合いなの」
「お話は聞いています」
「そう? 変なことを言っていなければいいけれど」
水葉はちらりと黒凪を見た。
黒凪は涼しい顔で答える。
「真面目で、少し研究熱心な友人だと紹介しただけよ」
「……少し?」
水葉の眉が上がった。
「あなた、昔は散々『調べ始めると止まらない』って言っていたでしょう?」
「実際、止まらなかったじゃない」
「それは……必要な調査だったからよ」
二人のやり取りに、銀澪は思わず笑ってしまった。
水葉が顔を向ける。
「……あら?」
「あ、すみません。何だか、仲がいいんだなって思って」
水葉は少し驚いたように瞬きをした。
それから、楽しそうに笑った。
「……そうね。長い付き合いだから」
黒凪も小さく頷いた。
「ええ。お互い、昔から変わらないところがあるもの」
水葉は少しだけ肩をすくめた。
「まったく。あなたにだけは言われたくないわ」
その声には、どこか嬉しそうな響きがあった。
◇
資料館の中は、外観から想像していたよりも広かった。
入口付近には地域の歴史を紹介する展示が並び、古い農具や生活用品が丁寧に保管されている。
奥には小さな事務室と、資料を閲覧するための部屋があった。
水葉は二人を案内しながら、建物について説明した。
「ここは元々、里の古い庄屋屋敷だったの。今は地域の資料館として使われているけれど、奥には龍人たちの記録も保管しているわ」
「……龍人の記録も?」
銀澪が尋ねる。
水葉は頷いた。
「ええ。ただし、一般公開しているわけではないの。里の人間にも、存在を知らない人はいるから」
彼女は廊下の奥にある扉を開けた。
「こちらへどうぞ」
通されたのは、小さな和室だった。
床の間には水墨画が掛けられ、窓の向こうには庭が見える。
中央には低い机が置かれ、座布団が三枚並べられていた。
水葉は二人へ席を勧めると、茶の準備を始めた。
「長旅だったでしょう。まずは少し休んで」
「ありがとう、水葉」
黒凪が腰を下ろす。
銀澪も隣へ座った。
窓の外からは、水の流れる音が聞こえてくる。
ここでも、山の水は身近な存在らしい。
しばらくして、水葉が茶を運んできた。
三人分の湯呑みと、小さな菓子皿。
菓子皿には、薄い緑色の餅菓子が並んでいる。
「これ、里で作っているお菓子なの。よかったら食べてみて」
銀澪は一つ手に取り、口へ運んだ。
柔らかな餅の中には、甘さを抑えた餡が入っていた。
「……美味しいですね」
「そう? よかった」
水葉は嬉しそうに微笑んだ。
「この辺りで採れる草を少し混ぜているの。昔から里に伝わる作り方なのよ」
「……いいですね、こういうの」
銀澪は菓子を眺めた。
「地域ごとに昔からの食べ物が残っているのって、好きなんです」
水葉は少しだけ目を細めた。
「……あなた、黒凪から聞いていたとおりの人ね」
「……え?」
「いえ。龍の話だけじゃなくて、土地の暮らしにも興味があるんだなって」
銀澪は少し照れくさそうに笑った。
「……昔から、こういう場所が好きだったので」
水葉は頷いた。
「なら、ここも気に入ってもらえるかもしれないわね」
黒凪は隣で、穏やかにお茶を飲んでいた。
その表情は、どこか安心しているように見えた。
◇
少し休憩した後、水葉は机の上へ数冊の記録帳を並べた。
黒凪も持参していた水脈図を取り出し、慎重に広げる。
三人は机を囲むように座った。
「……まずは、現在分かっていることを整理しましょう」
水葉の声が、少しだけ変わった。
先ほどまでの穏やかな話し方はそのままだが、言葉の一つひとつが明確になっている。
研究者としての顔なのだろう。
「黒凪からの手紙には、あなたたちの山で水脈の逆流に似た現象が確認されたと書いてあったわね」
「ええ。実際に見たわ」
黒凪が答える。
「湧水の流れが一瞬止まって、その後、わずかに逆向きへ動いたの」
水葉は頷き、記録帳を開いた。
「こちらでも同じような現象が起きているの。場所は三か所。里の北側にある湧水と、東の谷にある沢。それから、少し離れた山腹の地下水路よ」
銀澪は地図を見つめた。
三つの地点には、それぞれ赤い印が付けられている。
「……全部、水脈でつながっているんですか?」
「少なくとも、古い記録ではね」
水葉は頷いた。
「ただ、現代の地形や地下の状態が完全に一致しているとは限らない。だから、今も調査を続けているの」
彼女は一枚の記録用紙を取り出した。
そこには、水量の変化を示す細かな線が描かれていた。
「これを見て」
銀澪は身を乗り出した。
線はほとんど一定の高さを保っている。
しかし、一部分だけ、鋭く上下していた。
「……ここだけ変わっていますね」
「そう。短い時間だけ水量が減って、その直後に元へ戻っているの」
水葉は別の紙を重ねた。
「そして、こっちは別の場所で観測した記録」
銀澪は二枚を見比べた。
確かに、似たような変化が記されている。
ただし、発生した時刻には少しずれがあった。
「……同時ではないんですね」
「よく気づいたわね」
水葉は小さく頷いた。
「完全に同時ではないの。数分程度の差がある」
黒凪が顔を上げた。
「……水の流れに沿って、順番に起きている可能性がある?」
「私もそう考えているわ。でも、まだ断定はできない」
水葉は記録を閉じた。
「水脈の中を何かが移動しているのか。それとも、離れた場所で別々に同じ現象が起きているのか。そこを確かめたいの」
銀澪は黙って考えた。
水が突然逆流する。
それが複数の場所で起きている。
しかも、発生する時刻が少しずつずれている。
普通の自然現象なのだろうか。
それとも、何か別の理由があるのだろうか。
「……銀澪さん」
水葉の声に、顔を上げる。
「はい」
「一つ、聞いてもいいかしら」
「もちろんです」
「黒凪から、あなたは水の流れをかなり広い範囲で感じ取れると聞いたわ」
「……はい。ただ、まだ自分でもよく分からないんです」
「ええ。無理に説明しなくていいわ」
水葉は穏やかに続けた。
「里に入ってきたとき、何か感じなかった?」
銀澪は少し考えた。
車の中で感じた、あの奇妙な感覚。
道路脇の水路。
田畑へ流れる水。
そして、地下深くを進む水脈。
それらが、どこか一つの場所へ集まっているような気がした。
「……水が、集まっている感じがしました」
銀澪が答える。
水葉の眉がわずかに動いた。
「……集まっている?」
「はい。うまく説明できないんですけど、あちこちに流れている水が、何となく同じ方向へ向かっているような……」
銀澪は少し言葉を探した。
「……山の中に、大きな水の通り道があるみたいな感じです」
水葉はすぐには答えなかった。
黒凪も、黙って銀澪を見つめている。
しばらくして、水葉が静かに口を開いた。
「……黒凪」
「何?」
「少し、見てもらいたい場所があるの」
黒凪は水葉の表情を見て、小さく頷いた。
「……分かったわ」
銀澪は二人を見比べた。
「……どこへ行くんですか?」
水葉は記録帳を閉じた。
「里の奥に、古い水路があるの。今は観測施設として使っている場所なんだけれど……」
彼女は少しだけ微笑んだ。
「あなたの感じたものが、何なのか。そこで少し確かめてみたいのよ」
◇
資料館を出ると、三人は里の奥へ向かった。
道の両側には古い民家が並び、軒先には季節の花が飾られている。
小さな畑では、年配の男性が野菜の手入れをしていた。
銀澪は周囲を眺めながら歩いた。
黒凪の屋敷とは違い、ここには人々の生活する音がある。
遠くから聞こえる子どもの声。
畑で使われる農具の音。
家の中から漂う、昼食の匂い。
龍人たちの暮らす里と聞いていたが、そこにあるのは穏やかな日常だった。
「……本当に、普通の村ですね」
銀澪が呟く。
水葉は少し笑った。
「そうでしょう? でも、それが大切なのよ」
「……?」
「ここは、龍が特別な存在として崇められるための場所じゃないの。人間も龍人も、それぞれが普通に暮らすための場所なのよ」
銀澪は頷いた。
「……いいですね」
「ありがとう」
水葉は穏やかに答えた。
そのとき、道の向こうから一人の男性が歩いてきた。
六十代ほどに見える男性で、作業着を身につけ、手には小さな工具箱を持っている。
男性は水葉に気づくと、軽く手を挙げた。
「おう、水葉さん。例の水路、まだ調べてるのかい?」
「ええ。今日も少し確認してくるところです」
「そりゃ大変だなぁ。まあ、何かあったら言ってくれよ」
「ありがとうございます」
男性は頷き、それから黒凪へ目を向けた。
「……おや?」
足を止める。
「もしかして、黒凪さんかい?」
黒凪は少し驚いたように瞬きをした。
「あら。久しぶりね」
「やっぱりそうか! いやぁ、何年ぶりだろうな」
男性は嬉しそうに笑った。
「相変わらず若いねぇ」
「ふふ。そう見えるだけよ」
黒凪も笑って答える。
銀澪は二人のやり取りを眺めていた。
男性は普通の人間に見える。
けれど、黒凪のことを昔から知っているようだった。
その視線に気づいたのか、水葉が小さく説明する。
「この方は、里の水路の管理を手伝ってくれている人なの。昔から私たちの事情を知っている家の方よ」
「……そうなんですね」
銀澪は頷いた。
男性も銀澪へ目を向けた。
「おや、そちらの兄ちゃんは?」
「あ、初めまして。銀澪といいます」
銀澪は丁寧に頭を下げた。
男性は目を細める。
「ほう。綺麗な髪だねぇ。水葉さんの知り合いかい?」
「ええ。今日は少し、調査を手伝ってもらう予定なんです」
水葉が答える。
男性は納得したように頷いた。
「そうかい。じゃあ、よろしく頼むよ」
「はい」
「最近は水の流れが変になることがあってなぁ。昔からここに住んでるけど、こんなことは初めてだよ」
男性は少しだけ眉を寄せた。
「まあ、水葉さんたちが調べてくれてるなら安心だけどな」
水葉は穏やかに微笑んだ。
「できる限りのことはします。でも、何か気になることがあったら、すぐに知らせてくださいね」
「おう。分かった」
男性は軽く手を振り、道を歩いていった。
銀澪はその後ろ姿を見送った。
水葉が隣で口を開く。
「……あの人のお祖父さんも、昔は水路を管理していたのよ」
「……そうなんですか」
「ええ。さらにその前の代から、ずっと」
銀澪は少し驚いた。
「……何代も続いているんですね」
「そう。里の暮らしは、龍人だけで守ってきたものじゃないの」
水葉は静かに続けた。
「人間たちが水路を整え、田畑を耕し、家を建てる。私たちは必要なときに水の流れを見守る。そうやって、長い時間をかけて一緒に暮らしてきたのよ」
銀澪はその言葉を聞き、少しだけ考えた。
龍人は強い力を持つ。
けれど、強い力があるからといって、何でもできるわけではない。
人間には人間の知恵があり、技術がある。
そして、龍には龍の役割がある。
互いに支え合いながら暮らす。
それは、自分が理想としている生き方に近い気がした。
「……いい里ですね」
銀澪が呟く。
水葉は少し驚いたように顔を向けた。
「……そう思う?」
「はい」
銀澪は微笑んだ。
「龍と人間が、こうして普通に暮らしているのが、すごくいいなって」
水葉はしばらく銀澪を見つめていた。
やがて、ふっと表情を和らげる。
「……ありがとう」
その声には、どこか嬉しそうな響きがあった。
黒凪は二人のやり取りを黙って聞いていた。
そして、少しだけ微笑んだ。
◇
里の奥にある水路は、古い石造りだった。
山の斜面を切り開くように作られた水路が、谷の奥へ向かって続いている。
周囲には苔むした石壁があり、その隙間から小さな草花が伸びていた。
水路の一部には、現代的な観測機器が設置されている。
水位を測るための目盛り。
流量を記録する装置。
そして、地下水の動きを調べるための設備。
銀澪はその光景を興味深そうに眺めた。
「……こういう機械も使うんですね」
「ええ。龍の感覚だけに頼っていては、見落とすこともあるから」
水葉は観測装置へ近づき、表示を確認した。
「それに、数値として残しておけば、後から比較できるでしょう?」
「……確かに」
銀澪は頷いた。
黒凪も水路の脇へ歩み寄り、水面を覗き込む。
流れは穏やかだった。
澄んだ水が石の間を通り、下流へ向かっている。
水葉は記録帳を開いた。
「……さて。銀澪さん」
「はい」
「ここで一つだけ、お願いがあるの」
銀澪は姿勢を正した。
「何でしょう?」
「水を操ろうとしないで、流れだけを感じてみてほしいの」
その言葉に、銀澪は少し驚いた。
「……感じるだけ、ですか?」
「ええ。黒凪から、あなたは周囲の水の動きを自然に感じ取れると聞いたから」
水葉は少しだけ微笑んだ。
「その感覚が、観測記録と一致しているか確かめたいの。もちろん、途中で気分が悪くなったらすぐにやめてね」
銀澪は頷いた。
「分かりました」
黒凪も隣で静かに頷く。
「無理はしなくていいからね」
「はい」
銀澪は水路の近くへ進み、静かに目を閉じた。
最初に聞こえたのは、目の前を流れる水の音だった。
石の隙間を通り抜ける水。
小さな段差を落ちる水。
その下で、ゆっくりと移動する地下水。
銀澪は呼吸を整えた。
水は絶えず動いている。
それぞれの流れには、わずかな違いがあった。
速いもの。
遅いもの。
地面の奥へ染み込むもの。
そして、遠くから集まってくるもの。
「……見える」
小さく呟く。
水葉が顔を上げた。
「……何が分かる?」
「水が……いろいろな方向から来ています」
銀澪は目を閉じたまま続ける。
「この水路だけじゃなくて、もっと下の方にも流れがあります。それが……」
そこで、言葉が止まった。
何かが、おかしい。
水の流れそのものは穏やかだった。
しかし、その奥。
地下深くを進む水の一部に、不思議な感覚があった。
水が流れている。
けれど、どこかで何かに引き戻されているような。
「……あれ?」
銀澪は眉を寄せた。
「……水葉さん」
「何?」
「この奥の水……何か、変です」
水葉はすぐに観測装置へ目を向けた。
黒凪も水路の水面を見つめる。
「……どう変なの?」
水葉が尋ねる。
銀澪は少し考えた。
「……うまく言えないんですけど」
目を閉じたまま、言葉を探す。
「水が、行き先を迷っているような感じがします」
水葉の手が止まった。
「……迷っている?」
「はい。普通なら、そのまま下流へ流れていくはずなのに……途中で、別の方向へ向かおうとしているような」
銀澪はゆっくりと目を開いた。
「……そんな感じです」
水葉は何も言わなかった。
ただ、観測装置の画面を見つめている。
黒凪も、水葉の横へ移動した。
「……何か分かった?」
「……ええ」
水葉は小さく頷いた。
「今、地下水の流れに変化が出ているわ」
銀澪は目を見開いた。
「……本当ですか?」
「ええ。まだ小さな変化だけれど、確かに記録されている」
水葉は装置の表示を指差した。
そこには、わずかな数値の変動が現れていた。
「……しかも、銀澪さんが違和感を口にしたのと、ほとんど同じタイミングよ」
黒凪の表情が引き締まった。
「……偶然かしら」
「分からない。でも、少なくとも彼の感覚は、何らかの変化を捉えている可能性があるわ」
水葉は記録帳へ時刻を書き込んだ。
銀澪は、自分の手を見つめた。
何もしていない。
水を動かそうともしていない。
ただ、流れを感じ取っていただけだった。
それなのに、観測装置にも変化が現れている。
「……僕の力って、何なんでしょうね」
思わず呟く。
水葉は記録帳から顔を上げた。
「……まだ分からないわ」
静かな声だった。
「でも、少なくとも、あなたが感じ取っているものを調べる価値はありそうね」
黒凪も頷いた。
「……そうね」
そのときだった。
水路の奥から、かすかな音が聞こえた。
こぽっ。
水が泡立つような、小さな音。
三人が同時に顔を向ける。
水面には、何も変化がないように見えた。
しかし、次の瞬間。
水路の中央に、小さな波紋が広がった。
一つ。
二つ。
そして、三つ。
波紋は次第に大きくなり、石壁へ届く。
「……銀澪さん、少し下がって」
水葉が静かに告げた。
銀澪はすぐに頷き、水路から距離を取る。
黒凪も隣へ移動した。
三人は水面を見つめた。
やがて、水の流れが一瞬だけ弱まった。
ほんの数秒。
それから、元の流れへ戻る。
何事もなかったかのように、水は下流へ向かって流れ始めた。
銀澪は息を吐いた。
「……今の」
「ええ」
水葉は観測装置を確認していた。
「……記録されたわ」
黒凪が顔を向ける。
「どのくらい?」
「短い時間だけ、流量が落ちている。でも……」
水葉は画面を見つめたまま、言葉を止めた。
「……前回と少し違う」
「……違う?」
黒凪が尋ねる。
水葉はゆっくりと頷いた。
「今回は、変化が起きる前に、地下水の流れがわずかに乱れているの」
銀澪は先ほどの感覚を思い出した。
水が、行き先を迷っているような感覚。
その直後に、実際の流れが変化した。
水葉は記録帳を閉じた。
「……なるほど」
彼女は静かに息を吐く。
「少しだけ、分かってきたかもしれないわ」
黒凪が顔を向けた。
「……何が?」
水葉は一度、二人を見渡した。
「今まで私は、水脈の異変が突然起きていると思っていたの。でも、もしかしたら違うのかもしれない」
彼女は水路へ目を向ける。
「異変が起きる前に、何か小さな変化がある。それを、銀澪さんは感じ取っている可能性があるわ」
銀澪は目を見開いた。
「……僕が?」
「ええ。もちろん、まだ一度の観測だけでは何とも言えないけれど」
水葉は少しだけ微笑んだ。
「もしそうなら、これから先、水脈の異変を調べる上で大きな手がかりになるかもしれない」
銀澪は黙っていた。
自分の力。
何も分からないまま手に入れた、龍としての能力。
それが、誰かの役に立つかもしれない。
そのことが、少し嬉しかった。
けれど、同時に不安もあった。
もし、自分の感覚が間違っていたら。
もし、何かを見落としてしまったら。
そんな考えが浮かびかけたとき、黒凪が静かに口を開いた。
「……銀澪」
「はい」
「今の話を聞いて、何か気になることはある?」
銀澪は少し考えた。
そして、正直に答えた。
「……役に立てるなら嬉しいです。でも、まだ自分でもよく分からないので……少し怖いですね」
黒凪は静かに頷いた。
「……そうね」
水葉も顔を向ける。
「大丈夫よ。あなた一人に何かを任せるつもりはないわ」
彼女は穏やかに続けた。
「記録を取るのは私たちの仕事。あなたには、分かることを教えてもらえれば十分よ」
銀澪はゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
「それに、調査は一日で終わるものじゃないもの」
水葉は小さく笑った。
「私なんて、何百年も同じようなことを調べているんだから」
銀澪は思わず笑ってしまった。
「……何百年って、すごいですね」
「ふふっ。慣れれば、そうでもないわよ」
黒凪も隣で小さく笑った。
水路には、再び穏やかな水音が響いていた。
◇
調査を終えた三人は、資料館へ戻った。
水葉は観測記録を整理し、黒凪が持参した古い地図と照らし合わせていた。
銀澪は隣で、今日感じたことをノートへ書き留めている。
水の流れが集まっている感覚。
地下の水が、別の方向へ引かれるような違和感。
そして、その直後に起きた流量の変化。
言葉にするのは難しかったが、できる限り具体的に記録した。
水葉はそのノートを見て、少し感心したように頷いた。
「……丁寧に書いているのね」
「黒凪さんに、記録を残した方がいいって教えてもらったので」
「そう。いい習慣だと思うわ」
水葉は黒凪へ顔を向けた。
「……あなた、いいことを教えているじゃない」
「当然でしょう?」
黒凪は少し得意げに答えた。
水葉はくすりと笑う。
「昔は、あなたの方が記録をつけるのを嫌がっていたのに」
「……水葉」
「何?」
「その話は、今しなくてもいいでしょう?」
黒凪の声が少し低くなった。
銀澪は思わず顔を上げた。
「……え?」
水葉は楽しそうに笑った。
「銀澪さん、知ってる? 黒凪って昔、調査記録を書くのが面倒だって、何度も私に押しつけようとしたのよ」
「……そうなんですか?」
銀澪が黒凪を見る。
黒凪は少しだけ頬を膨らませていた。
「……昔の話よ」
「しかも、文字を綺麗に書くことだけは得意だったから、余計に困ったのよね」
「水葉?」
「はいはい。これくらいにしておくわ」
水葉は笑いながら記録帳を閉じた。
銀澪もつられて笑ってしまう。
「……黒凪さんにも、そんな時期があったんですね」
「もう。あなたまで」
黒凪は少し呆れたようにため息をついた。
けれど、その口元には笑みが浮かんでいた。
銀澪は、その光景を眺めながら静かに思った。
黒凪は、ずっと一人で生きてきたわけではない。
長い年月の中で、多くの人と出会い、笑い合い、時には喧嘩もしてきたのだろう。
その時間が、今の彼女を作っている。
こうして昔の友人と話している姿を見ると、普段とはまた違う一面が見えてくる。
銀澪は少しだけ嬉しくなった。
◇
夕方が近づいた頃。
水葉は二人を資料館の入口まで見送った。
山の向こうには、夕日に照らされた雲が浮かんでいる。
里の水路は変わらず静かに流れ、遠くから子どもたちの声が聞こえていた。
「今日は来てくれてありがとう」
水葉が言う。
黒凪は頷いた。
「こちらこそ。いろいろ分かってよかったわ」
「まだ分からないことの方が多いけれどね」
「それは、いつものことでしょう?」
二人は顔を見合わせて笑った。
水葉は銀澪へ向き直った。
「銀澪さん」
「はい」
「今日は、あなたの感覚について少し知ることができたわ。ありがとう」
銀澪は小さく頭を下げた。
「いえ。僕も、いろいろ勉強になりました」
「そう? なら、よかった」
水葉は穏やかに微笑んだ。
「それと、一つだけお願いがあるの」
「何でしょう?」
「もし、これから水の流れについて何か気になることがあったら、黒凪を通して教えてもらえるかしら」
銀澪は頷いた。
「もちろんです」
「ただし、無理に調べようとしなくていいからね。あなた自身の生活が一番大切なんだから」
「……分かりました」
水葉は満足そうに頷いた。
それから、少しだけ黒凪へ顔を向ける。
「……黒凪」
「何?」
「少し、二人だけで話せる?」
黒凪は一瞬、水葉の表情を見つめた。
そして、静かに頷く。
「……ええ」
銀澪は二人を見比べた。
「僕、先に車で待っていますね」
「ありがとう、銀澪」
黒凪が微笑む。
銀澪は軽く頭を下げ、駐車場へ向かった。
二人の姿が見えなくなったところで、水葉は静かに口を開いた。
「……黒凪」
「何かしら」
「銀澪さんのことだけれど」
黒凪の表情が、少しだけ真剣になった。
「……ええ」
水葉は一度、資料館の奥へ目を向けた。
「今日の観測だけで、彼の力が特別だとは言い切れないわ。ただ、気になることがあるの」
「……何?」
「彼が感じ取った水の変化。あれは、私たちが普段使っている水の感知とは少し違うように思えた」
黒凪は黙っていた。
水葉は続ける。
「普通、龍は自分の力を広げて水を探るでしょう? でも、銀澪さんの場合は……」
そこで、少し考えるように言葉を切った。
「……水の方から、彼に何かを伝えているように見えたの」
黒凪の金色の瞳が、わずかに揺れた。
「……あなたも、そう感じたのね」
「ええ。もちろん、まだ推測だけれど」
水葉は静かに頷いた。
「それと、もう一つ」
彼女は鞄から、小さな紙片を取り出した。
そこには、古い紋様が描かれていた。
二匹の龍が、円を囲むように向かい合っている。
黒凪は息を止めた。
「……これ」
「あなたが送ってくれた地図の紋様と、似ているでしょう?」
黒凪はゆっくりと頷いた。
「……どこで見つけたの?」
「里の古い記録よ。かなり昔のものだから、詳しい由来は分からないけれど」
水葉は紙片を裏返した。
そこには、かすれた文字が書かれていた。
黒凪は目を凝らす。
古い文字。
その中に、一つだけ読み取れる言葉があった。
――双龍。
「……双龍?」
黒凪が呟く。
水葉は頷いた。
「ええ。ただ、それが何を指しているのかは分からない。二匹の龍なのか、一族の名前なのか、それとも別の意味があるのか」
彼女は静かに続けた。
「だから、まだ銀澪さんに結びつけて考えない方がいいと思うわ」
「……そうね」
黒凪は紙片を見つめた。
双龍。
二匹の龍。
そして、古い水脈の紋様。
何かがつながりそうで、まだつながらない。
黒凪は小さく息を吐いた。
「……ありがとう、水葉」
「いいえ。こちらこそ」
水葉は少しだけ微笑んだ。
「それにしても……」
「何?」
「あなた、随分あの子のことを気にかけているのね」
黒凪は一瞬、動きを止めた。
「……そうかしら」
「ええ。昔のあなたなら、もっと距離を置いて様子を見ていたと思うわ」
黒凪は少しだけ視線を外した。
「……事情が事情だもの。放っておけないでしょう?」
「もちろん。それは分かっているわ」
水葉は小さく笑った。
「でも、それだけじゃないように見えたから」
「…………」
黒凪は何も言わなかった。
水葉はそれ以上追及しなかった。
ただ、穏やかな声で続ける。
「……まあ、いいわ。あの子、悪い子じゃなさそうね」
黒凪はゆっくりと顔を上げた。
「……ええ」
その返事には、迷いがなかった。
「少なくとも、私はそう思っているわ」
水葉は微笑んだ。
「なら、よかった」
二人はしばらく、夕日に染まる山々を眺めていた。
◇
帰りの車内は、行きよりも少し静かだった。
銀澪は助手席で、窓の外を流れる山並みを眺めている。
今日一日、いろいろなことがあった。
初めて訪れた龍人の里。
黒凪の古い友人。
龍と人間が共に暮らす村の風景。
そして、自分の力についての新しい手がかり。
頭の中には、まだ整理しきれないことが多かった。
けれど、疲れているだけではなかった。
不思議と、心は満たされていた。
「……銀澪」
黒凪が声をかけた。
「はい?」
「今日は、どうだった?」
銀澪は少し考えた。
そして、静かに笑った。
「……楽しかったです」
黒凪は小さく頷いた。
「そう。それならよかったわ」
「水葉さんも、いい方でしたね」
「ええ。昔から、ああいう子なのよ」
「黒凪さんと仲がいいのも、何となく分かる気がします」
黒凪は少し笑った。
「……そう?」
「はい。お互い、遠慮なく話せる感じがして」
銀澪は少しだけ遠くを見るような目をした。
「……長い付き合いって、いいですね」
黒凪は前を向いたまま、静かに頷いた。
「……そうね」
しばらく沈黙が流れた。
車は山道を進み、木々の影がフロントガラスを横切っていく。
やがて、銀澪がぽつりと呟いた。
「……黒凪さん」
「何?」
「僕も、いつかああいう場所で暮らしてみたいです」
黒凪が少しだけ顔を向けた。
「……水守の里で?」
「はい。というか……ああいう、龍と人間が自然に暮らせる場所がいいなって」
銀澪は少し笑った。
「龍だから特別扱いされるわけでもなく、人間だから見下されるわけでもなく。普通に生活できる場所って、いいですよね」
黒凪はしばらく黙っていた。
それから、静かに答えた。
「……そうね」
その声には、どこか懐かしさがあった。
「私も、そういう場所が好きよ」
銀澪は頷いた。
それから、少しだけ迷って口を開く。
「……それと」
「何?」
「今の屋敷も、すごく好きです」
黒凪は一瞬、目を丸くした。
銀澪は続ける。
「山があって、川があって、静かで……それに」
そこで、少しだけ言葉を止めた。
黒凪は前方を見つめながら、続きを待っている。
「……黒凪さんがいるので」
その言葉に、黒凪の指がわずかに動いた。
「……私?」
「はい」
銀澪は少し照れくさそうに笑った。
「この世界で、最初に会った人ですから。いろいろ教えてもらって、助けてもらって……」
銀澪は窓の外へ目を向けた。
「……だから、あの家は今の僕にとって、落ち着ける場所なんです」
黒凪は何も言わなかった。
ただ、前方の道路を見つめながら、静かに息を吐いた。
銀澪も、それ以上は何も言わなかった。
少しして、黒凪が口を開く。
「……銀澪」
「はい?」
「そう言ってもらえると、嬉しいわ」
その声は、いつもより少し柔らかかった。
銀澪は顔を向ける。
黒凪は前を向いたまま、微笑んでいた。
「……あの家、昔はもっと賑やかだったのよ」
「……はい」
「祖母がいて、家族がいて。朝になると誰かが台所に立って、庭では子どもたちが遊んで……」
黒凪は一度言葉を切った。
「……でも、長い年月の中で、少しずつ静かになっていったわ」
銀澪は黙って聞いていた。
「それが悪いことだとは思っていないの。みんな、それぞれの人生があるんだから」
黒凪は穏やかに続けた。
「ただ……」
そこで、少しだけ微笑んだ。
「最近は、また少し賑やかになったでしょう?」
銀澪は思わず笑った。
「……僕が尻尾で物を倒すからですか?」
黒凪は一瞬、きょとんとした。
それから、声を出して笑った。
「ふふっ……それもあるわね」
「……そこは否定してほしかったです」
「でも、それだけじゃないわよ」
黒凪は少しだけ声を和らげた。
「朝ごはんを一緒に食べて、庭仕事をして、夜になれば今日あったことを話す。そういう時間が増えたでしょう?」
銀澪は静かに頷いた。
「……はい」
「私はね、そういう時間が、嫌いじゃないの」
その言葉を聞いた銀澪は、少しだけ微笑んだ。
「……僕もです」
二人は、それ以上何も言わなかった。
車はゆっくりと山道を進んでいく。
夕日が木々の隙間から差し込み、車内を柔らかな橙色に染めていた。
◇
屋敷へ戻った頃には、空がすっかり暗くなっていた。
銀澪は買ってきた土産物を台所へ運び、黒凪は居間の灯りをつけた。
水葉が帰り際に持たせてくれた、里の菓子。
それから、地元で採れた野菜と茶葉。
銀澪はそれらを一つずつ並べながら、小さく笑った。
「……お土産、結構もらっちゃいましたね」
「そうね。水葉らしいわ」
黒凪は上着を脱ぎ、椅子へ掛けた。
「昔から、誰かが来ると何か持たせたがるのよ」
「……優しい方ですね」
「ええ。少しお節介なところもあるけれど」
黒凪は小さく笑った。
銀澪は野菜を冷蔵庫へしまい、ふと顔を上げた。
「……黒凪さん」
「何?」
「今日のこと、ノートにまとめておこうと思います」
「いいわね。忘れないうちに書いておくといいわ」
「はい。あと、水葉さんにも、後で何か分かったことがあったら伝えたいです」
黒凪は頷いた。
「ええ。私から連絡できるようにしておくわ」
銀澪は少しだけ微笑んだ。
「……ありがとうございます」
「ふふっ。どういたしまして」
二人はそれから、簡単な夕食を用意した。
今日は朝から出かけていたため、手の込んだ料理は作らない。
ご飯を温め、味噌汁を作り、買ってきた野菜を使った簡単な炒め物を並べる。
それだけの夕食だった。
けれど、食卓には二人分の料理が並んでいた。
銀澪はその光景を眺めながら、静かに思った。
龍になってから、まだそれほど時間は経っていない。
それでも、自分の生活には少しずつ形が生まれ始めている。
朝起きて、食事を作り、庭を整える。
分からないことを調べ、時には誰かと話し合う。
そして、夜になればこの屋敷へ戻ってくる。
それが、今の自分の日常だった。
「……銀澪?」
黒凪が声をかけた。
「どうしたの? 何か考え事?」
銀澪は顔を上げた。
それから、少しだけ笑う。
「……いえ」
小さく首を振った。
「今日も、いい一日だったなと思って」
黒凪は一瞬、目を丸くした。
そして、柔らかく微笑んだ。
「……そうね」
彼女は湯呑みを手に取った。
「私も、そう思うわ」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
窓の外では、庭の池が月明かりを受けて静かに輝いていた。
◇
その夜。
銀澪が客間で眠りについた後、黒凪は一人、書庫へ向かっていた。
机の上には、今日水葉から受け取った記録と、古い水脈図が並べられている。
黒凪は椅子に腰を下ろし、二つを見比べた。
水守の里。
山の湧水。
銀澪が目覚めた神社。
そして、三つの谷が交わる場所。
地図の中央には、二匹の龍が向かい合う紋様が描かれていた。
黒凪はその印を見つめた。
「……双龍、か」
小さく呟く。
水葉から聞いた言葉。
古い記録に残されていた、意味の分からない名称。
それが何を指すのか、まだ分からない。
けれど、黒凪には一つだけ気になることがあった。
今日、銀澪が水路で感じたもの。
水が、行き先を迷っているような感覚。
そして、その直後に起きた異変。
水葉は、銀澪が水の変化を事前に感じ取っている可能性があると言っていた。
もしそうなら。
彼の力は、単に水を操るだけではないのかもしれない。
「……銀澪」
黒凪は静かに名前を呟いた。
まだ分からないことばかりだった。
彼がなぜ転生したのか。
どこから来たのか。
そして、なぜ水脈が彼に反応するように見えるのか。
考えれば考えるほど、疑問は増えていく。
それでも、黒凪は不思議と焦っていなかった。
今日、水守の里で銀澪を見ていて、改めて思ったことがある。
彼は、特別な存在になろうとしているわけではない。
ただ、自分が何者なのかを知りたいと思っている。
そして、龍として生きることを、心から楽しもうとしている。
その姿は、黒凪にとって少し眩しく感じられた。
「……本当に、不思議な人ね」
黒凪は小さく笑った。
そして、地図を丁寧に畳む。
今夜は、もう調べるのをやめよう。
そう決めて、立ち上がった。
書庫の灯りを消し、廊下へ出る。
山の奥に建つ古い和風屋敷は、静かな夜に包まれていた。
客間の前を通りかかると、黒凪はふと足を止めた。
襖の向こうからは、何の物音も聞こえない。
どうやら、銀澪はすっかり眠っているらしい。
黒凪は少しだけ微笑んだ。
「……おやすみなさい、銀澪」
小さく呟く。
その声は、誰にも聞こえなかった。
けれど、黒凪自身には、はっきりと聞こえていた。
長い年月を生きてきた。
数えきれないほどの出会いと別れを経験してきた。
その中で、いつしか誰かと同じ屋根の下で暮らすことが、特別なことになっていた。
けれど今は、廊下の向こうにもう一人いる。
朝になれば、また顔を合わせる。
食卓を囲み、何気ない会話を交わす。
そして、一日が終われば、同じ屋敷へ帰ってくる。
黒凪はそのことを、静かに嬉しく思っていた。
まだ、恋ではない。
けれど、誰かがいることで、明日が少し楽しみになる。
そんな感情が、自分の中に生まれ始めている。
黒凪は小さく息を吐いた。
「……さて。明日は何を作ろうかしら」
そう呟き、自室へ向かう。
窓の外では、山の木々が月明かりに照らされていた。
庭の池には、静かな波紋が広がっている。
そして、そのさらに奥。
地面の下を流れる水脈の中で。
ほんの一瞬だけ、何かが脈打つように動いた。
誰にも気づかれないほど小さな変化。
それはすぐに消え、再び静かな流れへ戻った。
けれど、その変化は確かに起きていた。
長い年月、静かに流れ続けてきた山の水。
その奥で、何かが目覚めようとしている。
白龍と黒龍の穏やかな日常の向こうで、古い歴史が少しずつ動き始めていた。




