第九話 水音の向こうに眠るもの
水守の里を訪ねた翌朝、銀澪はいつもより少し遅く目を覚ました。
障子の向こうはすっかり明るくなっている。
山鳥の鳴き声と、庭を流れる水の音。耳を澄ませば、台所の方から食器の触れ合う小さな音も聞こえてきた。
「……もう朝か」
布団の上で身体を起こし、ゆっくりと背伸びをする。
昨日は随分と歩いた。
水守の里へ向かう長い山道に、資料館での調査。そして、初めて出会った水葉との会話。
どれも興味深いものだったが、慣れない環境で気を張っていたのかもしれない。
龍になってから疲れにくくなったとはいえ、心まで無制限に動かせるわけではないらしい。
銀澪は軽く首を回し、布団から出た。
そのとき、枕元に置いていたノートが目に入った。
昨夜、眠る前に書いていたものだ。
開かれたページには、水守の里で感じたことが細かく記されている。
『水が集まっている感覚』
『流れが変化する前の違和感』
『地下の水が、どこか別の方向へ引かれているように感じた』
銀澪はその文字を眺めた。
昨日、水路の前に立ったときのことを思い出す。
確かに、水は何かに引かれていた。
しかし、それが具体的に何なのかは分からない。
水葉の観測記録にも変化は現れていたが、自分の感覚とどこまで関係しているのか、まだ確かなことは言えなかった。
「……考えることが増えてきたな」
小さく呟き、ノートを閉じる。
人間だった頃には、地下水脈の流れを感じ取ることなど考えたこともなかった。
それが今では、目を閉じるだけで水の存在が分かる。
不思議なものだ。
けれど、銀澪が今朝気にしていたのは、それだけではなかった。
昨日の夜、眠りにつく直前。
ほんの一瞬だけ、何かを思い出しかけた気がしたのだ。
雨に濡れた道路。
冷たい空気。
そして、遠くから聞こえてきた金属音。
夢だったのか、記憶だったのか。
目を覚ました今となっては、はっきりしない。
「……あれ、何だったんだろう」
銀澪はしばらく考えた。
しかし、思い出そうとすると、かえって輪郭がぼやけてしまう。
結局、今の段階では答えを出せそうになかった。
銀澪はノートを机へ置き、身支度を始めた。
◇
居間へ入ると、黒凪が台所に立っていた。
今日は薄い灰色のシャツに、黒いゆったりとしたパンツという格好だった。
漆黒のショートウルフは後ろで少し跳ねており、頭から伸びた黒い角の間に、数本の髪が引っかかっている。
背後の長い尻尾は、台所の通路を塞がないよう、身体の横へ緩やかに曲げられていた。
「おはようございます」
銀澪が声をかけると、黒凪が振り返った。
「あら、おはよう。今日はゆっくりだったのね」
「昨日、思ったより疲れていたみたいです」
「そうでしょうね。里まで往復した上に、調査にも付き合ってもらったもの」
黒凪は鍋の火を弱めた。
「身体は大丈夫?」
「はい。特に問題ありません」
「それならよかった。ちょうど朝ごはんができるところよ」
銀澪は台所へ近づき、鍋の中を覗いた。
柔らかく煮込まれた大根と油揚げが、出汁の中でゆっくりと揺れている。
その隣では、小さな鍋から味噌汁の香りが漂っていた。
「……美味しそうですね」
「昨日は少し疲れただろうから、今日は軽めにしてみたの」
「ありがとうございます。食器、並べますね」
「ええ。お願い」
銀澪は棚から茶碗を取り出した。
すでに置き場所は覚えている。
最初の頃は、どこに何があるのか分からず戸惑っていたが、今では黒凪に尋ねなくても大抵のものを取り出せるようになっていた。
その変化が、少し嬉しかった。
銀澪が食器を並べ終えると、黒凪は二人分の料理を運んできた。
「じゃあ、食べましょうか」
「はい。いただきます」
二人は手を合わせ、朝食を食べ始めた。
銀澪は味噌汁を一口飲み、ほっと息を吐く。
温かな出汁の香りが、寝起きの身体に染み込んでいくようだった。
黒凪はその様子を眺め、穏やかに微笑んだ。
「……美味しい?」
「はい。やっぱり黒凪さんの味噌汁、好きです」
「あら、嬉しいことを言ってくれるのね」
彼女は少し照れくさそうに笑った。
その後、しばらくは他愛のない会話が続いた。
昨日、水守の里でもらった菓子のこと。
里の水路が思っていた以上に立派だったこと。
水葉が昔から変わらず研究熱心だという話。
銀澪にとっては、どれも新鮮だった。
けれど、食事が半分ほど進んだところで、黒凪がふと箸を止めた。
「……そういえば、銀澪」
「はい?」
「昨日の夜、何か変わったことはなかった?」
銀澪は顔を上げた。
「……変わったこと、ですか?」
「ええ。水守の里で広い範囲の水を感じ取ったでしょう? その後、身体に何か違和感が出ていないか気になって」
銀澪は少し考えた。
身体に痛みはない。
眠っている間に角や尻尾が暴れた様子もなかった。
しかし、一つだけ気になることがあった。
「……そういえば」
銀澪は箸を置いた。
「昨日、眠る前に少し変なものを見た気がするんです」
黒凪の表情が変わった。
「……変なもの?」
「はい。夢だったのかもしれませんけど……雨の降っている道路みたいな景色が、急に浮かんできて」
「……道路?」
「ええ。それと、何か金属が鳴るような音が聞こえた気がしました」
黒凪は黙って聞いていた。
「人間だった頃にも見たことがあるような景色だったんです。でも、どこだったのか思い出せなくて」
銀澪は困ったように笑った。
「……ただの夢かもしれませんね」
黒凪はすぐには答えなかった。
少し考えてから、穏やかに口を開く。
「……夢だったとしても、書き留めておくといいかもしれないわ」
「……書き留める?」
「ええ。以前の記憶と関係があるかどうかは分からないけれど、同じようなものを何度も見るなら、何か手がかりになるかもしれないでしょう?」
銀澪は頷いた。
「……なるほど」
「ただし、無理に思い出そうとしないこと。記憶は、焦って引き出そうとしても、かえって混乱する場合があるもの」
「……はい」
黒凪は少しだけ笑った。
「まずは、今ある記憶を大切にしましょう」
銀澪も微笑んだ。
「分かりました」
それから、二人は再び朝食を続けた。
窓の外では、庭の池に朝日が差し込んでいる。
いつもと変わらない、穏やかな朝だった。
◇
朝食を終えた少し後。
黒凪のスマートフォンに、一通の連絡が届いた。
送り主は水葉だった。
黒凪は画面を確認し、眉をわずかに寄せる。
「……もう記録をまとめたのね」
銀澪が顔を上げた。
「水葉さんからですか?」
「ええ。昨日の観測結果を送ってくれたみたい」
黒凪は画面を操作した。
送られてきたのは、複数の観測地点を比較した資料だった。
銀澪は黒凪の許可を得て、隣から画面を覗き込む。
数本の折れ線が並んでいる。
それぞれ、異なる水路や湧水の流量を示しているらしい。
「……昨日見たものと、似ていますね」
「そうね。でも、今回は各地点の記録を重ねてあるみたい」
黒凪は画面を拡大した。
三つの観測地点で確認された、小さな変化。
それぞれの発生時刻には、わずかな差がある。
銀澪はその数字を眺めていた。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「この順番……」
銀澪は画面の一部分を指差した。
「水が流れる方向と、逆じゃありませんか?」
黒凪は目を細めた。
「……逆?」
「はい。普通なら上流から下流へ水が流れますよね。でも、異変が起きた順番は……」
銀澪は指を動かした。
「こっちの下流側が先で、その後に上流側が変わっているように見えます」
黒凪はしばらく画面を見つめた。
やがて、静かに頷いた。
「……確かに」
ただし、すぐに別の可能性にも気づいた。
「でも、水葉が書いているとおり、測定の間隔や装置の違いもあるわ。今の記録だけで、水脈の異変が逆向きに広がったとは言い切れないでしょうね」
「……そうですね」
銀澪は頷いた。
それでも、気になることがあった。
昨日、水守の里で感じたもの。
水が、行き先を迷っているような感覚。
そして、その奥から引かれるような違和感。
「……もし、水そのものが動いているわけじゃないとしたら」
銀澪が呟いた。
黒凪が顔を向ける。
「……どういうこと?」
銀澪は少し考えた。
「例えば、何かの合図みたいなものが、水の中を伝わっているとか」
「……合図?」
「はい。水が逆向きに流れているんじゃなくて、水の状態を変える何かが、別の方向へ伝わっているとしたら……」
そこまで言って、銀澪は言葉を止めた。
「……すみません。思いつきです」
黒凪は首を振った。
「いいえ。考える価値はあると思うわ」
彼女は画面を見つめたまま続けた。
「ただ、何が伝わっているのかも分からないし、そもそも同じ原因で起きている現象なのかも、まだ確かめられていないわね」
「……はい」
「水葉にも、今の考えを伝えてみましょうか」
銀澪は少し驚いた。
「……いいんですか?」
「もちろん。昨日は一緒に調査したでしょう?」
黒凪は穏やかに微笑んだ。
「気づいたことがあるなら、遠慮せず話してちょうだい」
銀澪は頷いた。
「……分かりました」
黒凪はその場で水葉へ短い返信を送り、銀澪の気づきも書き添えた。
それから、ふと何かを思い出したように立ち上がる。
「……そうだわ」
「何ですか?」
「昨日見せた古い地図、もう一度確かめてみない?」
銀澪は顔を上げた。
「……三つの谷がつながっている地図ですか?」
「ええ。観測記録を見ていたら、少し気になることが出てきたの」
黒凪は書庫の方へ視線を向けた。
「実際の水の流れと、古い記録がどこまで一致しているのか。今のうちに整理しておきたいわ」
銀澪は頷いた。
「分かりました。手伝います」
二人は並んで居間を出た。
◇
書庫には、いつもどおり乾いた紙と木の香りが漂っていた。
黒凪は古い水脈図を机に広げ、その隣へ水葉から届いた資料を表示した端末を置いた。
銀澪は椅子を一脚運び、彼女の隣へ座る。
「……まずは、この三つの谷ね」
黒凪が地図を指差した。
古い青線が山々の間を縫い、一つの場所へ集まっている。
銀澪はその線を目で追った。
「……ここが水守の里で、こっちが黒凪さんの屋敷のある山ですね」
「そう。それから、この印があなたの目覚めた神社」
黒凪は三つの地点を順番に示した。
「そして、そのさらに奥」
彼女の指が止まった。
そこには、二匹の龍が向かい合う紋様が描かれている。
以前にも見せてもらった印だった。
「……双龍、ですね」
銀澪が呟く。
黒凪は頷いた。
「水葉の記録に、その言葉が残っていたわ。ただ、この紋様が何を意味するのかは分からない」
彼女は机の引き出しから、祖母の木札を取り出した。
地図の横へ置く。
二匹の龍。
中央にある月のような形。
細部は異なるものの、全体の構図はよく似ていた。
銀澪はしばらく見つめていた。
「……この紋様って、黒凪さんの家の門にも似たものがありますよね」
「ええ。よく覚えていたわね」
「初めて来たとき、綺麗だと思ったので」
黒凪は小さく微笑んだ。
「そう。あれも、祖母の代より前から残っているものなの」
「……同じ意味なんでしょうか」
「分からないわ。家の紋として使われたものと、地図上の記号が、必ずしも同じ意味とは限らないもの」
黒凪は慎重に答えた。
銀澪も頷く。
古いものには、時代によって意味が変わることもある。
形が似ているからといって、同じものだとは限らない。
それでも、これほど似た紋様が複数の場所に残されているのは、やはり気になった。
黒凪はさらに別の記録を取り出した。
「……実は、祖母の残した本に、この場所について少しだけ記されていたの」
古い和綴じの書物だった。
表紙には『水脈古録』と書かれている。
黒凪は傷んだページを慎重にめくった。
銀澪は隣から覗き込む。
古い文字が並んでいた。
その中には、今でも読めるものと、ほとんど意味が分からないものが混在している。
「……この辺りよ」
黒凪が一節を指差した。
『三つの谷の水、ひとところに帰す。』
銀澪はゆっくりと読み上げた。
「……三つの谷の水、ひとところに帰す」
続く文章は、墨がかすれていた。
しかし、黒凪はその下に残された数文字へ目を向けていた。
「……ここを見て」
銀澪は身を乗り出した。
かすれた文字の間に、一つの地名らしい言葉があった。
――鏡淵。
「……かがみぶち?」
「ええ。そう読むのだと思うわ」
黒凪は静かに頷いた。
「今の地図には残っていない名前なの。でも、昔はこの辺りに、そう呼ばれる場所があったのかもしれない」
銀澪は古い地図を見た。
双龍の紋様が描かれている場所。
それは、三つの谷の水脈が集まる地点だった。
「……鏡淵」
銀澪はもう一度、その名前を口にした。
その瞬間だった。
胸の奥で、何かが小さく揺れた。
「…………?」
不思議な感覚だった。
知らないはずの言葉。
初めて聞いた地名。
それなのに、耳の奥で何かが響いたような気がした。
銀澪は思わず額へ手を当てた。
「……銀澪?」
黒凪が顔を向ける。
「どうしたの?」
「……いえ」
銀澪は小さく首を振った。
「何でも……」
そこまで言ったところで、言葉が止まった。
耳の奥に、水の音が聞こえていた。
書庫の外から聞こえる、庭の滝の音ではない。
もっと遠く。
もっと深い場所から、何かが響いているような感覚。
そして、その音に重なるように。
別の音が聞こえた。
からん。
金属が触れ合うような、乾いた音。
「……っ」
銀澪は息を呑んだ。
目の前の景色が、一瞬だけ揺らいだ。
◇
雨が降っていた。
激しい雨ではない。
けれど、細かな雨粒が絶え間なく道路を濡らしている。
灰色の空。
濡れたアスファルト。
道の端には、小さな水たまりがいくつもできていた。
銀澪は、その景色を見ていた。
いや。
見ているのではない。
そこに立っていた。
足元には、人間だった頃に履いていた靴。
視界の端には、見覚えのある上着の袖。
そして、自分の手。
龍の鱗も、鋭い爪もない。
人間の手だった。
「…………」
銀澪は動こうとした。
しかし、身体は思うように動かない。
自分の意思で歩いているというより、誰かの記憶を、そのままなぞっているような感覚だった。
目の前には、小さな橋があった。
古いコンクリート製の欄干。
橋の下には、雨で少し増水した川が流れている。
その向こうには、山へ続く細い道が見えた。
道の先には、鳥居らしきものがある。
銀澪は、その景色に見覚えがあるような気がした。
けれど、どこの場所なのかは分からない。
そのとき。
からん。
再び、金属音が響いた。
銀澪は視線を動かそうとする。
音は、橋の向こうから聞こえていた。
小さな鈴のような音。
それとも、何かが風に揺れている音だろうか。
銀澪は、そこへ向かって歩いていた。
一歩。
また一歩。
濡れた道路を踏む感覚が、妙にはっきりとしている。
そして、橋の中央へ差しかかったとき。
不意に、視界の端で何かが動いた。
「……?」
誰かがいた。
橋の向こう。
雨の中に、ぼんやりとした人影が見える。
銀澪は目を凝らそうとした。
けれど、その人物の顔は分からない。
声も聞こえない。
ただ、白っぽい何かが、雨の向こうで揺れていた。
その瞬間。
川の音が、大きくなった。
ごう、と。
足元の水が、一斉に流れ始めたような感覚があった。
銀澪は思わず振り返ろうとした。
しかし――。
「銀澪!」
誰かが名前を呼んだ。
はっきりとした、女性の声だった。
◇
「……っ!」
銀澪は大きく息を吸った。
目の前には、古い書庫があった。
木製の机。
広げられた地図。
そして、心配そうにこちらを見つめる黒凪。
「……銀澪、大丈夫?」
黒凪が静かに尋ねた。
銀澪はしばらく答えられなかった。
胸が速く上下している。
手のひらには、薄く汗が滲んでいた。
「……ここ、は……」
「書庫よ。私の家の」
黒凪は落ち着いた声で答えた。
「今、急に顔色が悪くなったの。私の声は聞こえる?」
銀澪はゆっくりと頷いた。
「……はい」
「そう。じゃあ、まずは椅子に深く座って」
黒凪は机に置かれていた書物を端へ寄せ、銀澪が身体を預けられるようにした。
銀澪は言われたとおりに背もたれへ寄りかかる。
数度、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
すると、少しずつ周囲の感覚が戻ってきた。
椅子の硬さ。
足元の床。
書庫に漂う紙の匂い。
そして、隣にいる黒凪の気配。
「……すみません」
銀澪が小さく呟く。
黒凪は首を振った。
「謝らなくていいわ。何があったの?」
銀澪はしばらく考えた。
先ほどの光景。
雨の降る道路。
古い橋。
山へ続く道。
そして、聞こえてきた鈴のような音。
「……何か、思い出したのかもしれません」
黒凪の表情が、わずかに変わった。
「……記憶?」
「はい。人間だった頃の」
銀澪は自分の両手を見つめた。
今は、白銀の鱗がわずかに浮かぶ龍人の手だ。
けれど、先ほど見た光景では違っていた。
確かに、人間だった頃の身体だった。
「……雨の中にいたんです」
銀澪はゆっくりと話し始めた。
「橋があって、川が流れていて……その向こうに、神社みたいなものが見えました」
黒凪は黙って聞いていた。
「それから、鈴みたいな音がして……誰かがいた気がするんです」
「……誰か?」
「はい。でも、顔は分かりませんでした」
銀澪は小さく首を振った。
「そこから先は……また、何も思い出せなくて」
黒凪は少し考えた。
「……その景色に、見覚えはあった?」
「あるような気はしました。でも、どこだったのかまでは……」
「そう」
黒凪は静かに頷いた。
それから、机の上の『水脈古録』へ目を向ける。
「……この本を見ているときに、起きたのよね」
「はい。鏡淵って名前を聞いた直後だったと思います」
黒凪は眉を寄せた。
「……鏡淵」
小さく繰り返す。
ただ、それ以上は何も言わなかった。
銀澪が何を見たのか。
それが本当に人間だった頃の記憶なのか。
あるいは、水脈の気配によって別の景色が浮かんだだけなのか。
今の段階では分からない。
黒凪は銀澪へ視線を戻した。
「……銀澪」
「はい」
「今の話、もう少し詳しく聞きたい気持ちはあるわ。でも、今日はここまでにしましょう」
銀澪が顔を上げた。
「……いいんですか?」
「ええ。無理に続きを思い出そうとして、また具合が悪くなったら困るもの」
黒凪は立ち上がった。
「少し休みましょう。お茶を淹れてくるわね」
銀澪は何か言いかけた。
けれど、黒凪はその前に柔らかく微笑んだ。
「心配しなくても、本は逃げないわよ」
「……そうですね」
銀澪も小さく笑った。
黒凪は書庫を出た。
その背中を見送りながら、銀澪はゆっくりと息を吐いた。
人間だった頃の記憶。
あの橋。
雨。
そして、聞こえてきた音。
思い出したようで、まだ何も分かっていない。
けれど、確かに何かが動き始めている。
銀澪は自分の胸元へ手を当てた。
「……僕は、あの日……」
小さく呟く。
しかし、続く言葉は出てこなかった。
◇
書庫を出た黒凪は、台所で湯を沸かしていた。
急須へ茶葉を入れ、湯を注ぐ。
慣れた動作だった。
けれど、彼女の頭の中には、先ほどの銀澪の様子が残っていた。
顔色が急に悪くなり、しばらく呼びかけにも反応しなかった。
あれほど穏やかな青年が、あんな表情をするのを初めて見た。
「……雨の中の橋、ね」
黒凪は小さく呟いた。
それだけでは、どこの場所なのか分からない。
山間部には古い橋がいくつもある。
神社へ続く道だって、珍しくはない。
ただ、気になるのは、記憶が浮かんだきっかけだった。
鏡淵。
古い地図に残された名前。
そして、三つの谷を結ぶ水脈。
それらと銀澪の記憶に、何らかの関係があるのだろうか。
黒凪は急須の蓋を閉じた。
少し考えた後、静かに首を振る。
「……駄目ね」
自分へ言い聞かせるように呟いた。
不確かなことを、都合よく結びつけてはいけない。
銀澪は今、ようやく新しい生活に慣れ始めたところだ。
人間だった頃のことを思い出したいという気持ちも、強いだろう。
だからこそ、周囲が軽々しく結論を出すべきではない。
「……まずは、あの子自身のことね」
黒凪は盆へ湯呑みを二つ載せた。
それから、小さな皿に菓子を添える。
書庫へ戻る前に、ふと庭へ目を向けた。
窓の向こうには、いつもと変わらない水の流れがあった。
池。
滝。
そして、山から届く清らかな水。
何百年もの間、見守ってきた場所だった。
黒凪は静かに息を吐いた。
もし、銀澪の記憶がこの山と関係しているのなら。
いつか、その答えにたどり着く日が来るのかもしれない。
けれど、それは今ではない。
今は、温かいお茶を持って戻ることにしよう。
黒凪は盆を手に取り、書庫へ向かった。
◇
午後になると、銀澪の顔色はすっかり戻っていた。
黒凪は無理をしないよう何度か声をかけたが、銀澪自身は少し身体を動かしたいと言った。
そこで二人は、庭の手入れをすることにした。
黒凪が植木の様子を確かめ、銀澪が落ち葉を集める。
いつもどおりの作業だった。
銀澪は竹箒を持ち、石畳の周囲に落ちた葉を一か所へ寄せていく。
白銀の尻尾は、今では自然に身体の横へ収まっていた。
以前のように、落ち葉を散らしてしまうことも少ない。
黒凪はその様子を見て、小さく微笑んだ。
「……上手になったわね」
銀澪が振り返る。
「何がですか?」
「尻尾の扱い方よ。最初の頃とは随分違うわ」
銀澪は自分の尾を見下ろした。
「……そうですね。最近は、あまり意識しなくても動かせるようになってきました」
「ええ。いいことだわ」
黒凪は植木の枝を整えながら続ける。
「身体に慣れてくると、細かな動きも自然になるもの。焦らず続けていけばいいわ」
銀澪は頷いた。
それから、少しだけ笑う。
「……黒凪さんのおかげですね」
「私は教えただけよ」
「でも、教えてもらわなかったら、まだ尻尾で物を倒していたと思います」
黒凪は一瞬、真面目な顔をした。
「……それは、否定できないわね」
「……そこは否定してくださいよ」
銀澪が苦笑する。
黒凪は声を出して笑った。
「ふふっ。ごめんなさい」
二人はしばらく笑い合った。
庭には、竹箒が石畳を擦る音と、木々を揺らす風の音が響いている。
銀澪は再び落ち葉を集め始めた。
その途中、ふと黒凪へ声をかける。
「……黒凪さん」
「何?」
「さっきのこと、少しだけ話してもいいですか?」
黒凪は剪定鋏を置いた。
「……記憶のこと?」
「はい」
銀澪は箒を壁へ立てかけ、縁側へ腰を下ろした。
黒凪も隣へ座る。
庭の池には、午後の光が柔らかく差し込んでいた。
「……僕、少し嬉しかったんです」
銀澪が言った。
黒凪は顔を向ける。
「……嬉しかった?」
「はい。あの景色が本当に記憶なのかは分かりません。でも、もしそうなら……」
銀澪は少し言葉を探した。
「……人間だった頃のことを、まだ思い出せるかもしれないって」
黒凪は静かに聞いていた。
「僕は龍になれたことが嬉しいです。それは、今も変わりません」
銀澪は自分の白銀の尻尾へ目を向けた。
「この身体も、すごく好きです。角も尻尾も、いつか完全な龍になれるかもしれないことも」
そこで、少しだけ笑う。
「でも……人間だった頃のことまで、なかったことにしたくないんです」
黒凪はゆっくりと頷いた。
「……そうね」
「家族のことも、昔の生活も、全部大切だったので」
銀澪は庭を眺めた。
池の水面には、小さな波紋が広がっている。
「……だから、少しずつでも思い出せるなら、それは嬉しいことだと思うんです」
黒凪はしばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「……銀澪」
「はい」
「あなたは、人間だった自分を忘れたくないのね」
銀澪は頷いた。
「……はい」
黒凪は庭へ視線を向けた。
少しだけ考えてから、穏やかに続ける。
「それなら、その気持ちは大切にした方がいいわ」
銀澪が顔を向ける。
「私たち龍人は、長く生きるでしょう? だから、昔のことを忘れてしまいたいと思う者もいるの」
「……忘れてしまいたい?」
「ええ。辛かったことや、別れた人のこと。長く生きていると、思い出すのが苦しくなることもあるから」
黒凪は静かに息を吐いた。
「でも、私はね。忘れたくないと思うの」
「……黒凪さんも?」
「ええ」
彼女は小さく微笑んだ。
「祖母のことも、昔の家族のことも。たとえ寂しくなっても、全部覚えていたいわ」
銀澪は黙って聞いていた。
「だって、それも私が生きてきた時間だから」
その言葉は、静かだった。
けれど、銀澪の胸に深く残った。
長い年月を生きる黒龍。
数えきれないほどの出会いと別れを経験してきた女性。
彼女は、そのすべてを抱えて今を生きている。
銀澪はゆっくりと頷いた。
「……僕も、そうありたいです」
黒凪は少しだけ目を細めた。
「……そう」
それから、柔らかく微笑む。
「なら、焦らず一緒に調べていきましょう」
銀澪は顔を上げた。
「……いいんですか?」
「もちろん。あなた一人で何もかも抱える必要はないでしょう?」
黒凪は少しだけ笑った。
「それに、私だって気になっているもの。あの古い記録のことも、水脈の異変もね」
銀澪は静かに頷いた。
「……ありがとうございます」
「ふふっ。どういたしまして」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
縁側には、穏やかな風が吹いていた。
◇
その夜。
夕食を終えた銀澪は、客間でノートを開いていた。
今日見た景色。
雨の降る道路。
古い橋。
山へ続く道。
そして、鈴のような音。
思い出せる範囲で、一つずつ書き留めていく。
場所は不明。
時刻も分からない。
誰かがいたような気がするが、顔は見えなかった。
銀澪はペンを止めた。
「……本当に、何だったんだろう」
小さく呟く。
あの景色は、人間だった頃の記憶なのだろうか。
それとも、別の何かを見ていたのだろうか。
まだ分からない。
けれど、今は無理に答えを出さなくてもいい。
そう思えるようになっていた。
銀澪はノートを閉じ、窓の外へ目を向けた。
庭の池には月が映っている。
その向こうでは、小さな滝が絶え間なく流れていた。
山の夜は静かだった。
銀澪は障子を少し開け、冷たい空気を吸い込む。
「……いい夜だな」
自然と声が漏れた。
人間だった頃も、こういう静かな夜が好きだった。
山の匂い。
水の音。
そして、遠くから聞こえる虫の声。
今も、その気持ちは変わらない。
銀澪はしばらく庭を眺めていた。
やがて、静かに障子を閉める。
明日もまた、黒凪と朝食を食べる。
庭仕事をして、分からないことを調べて、何気ない会話を交わす。
そんな一日が待っている。
それだけで、少し安心できた。
◇
一方、黒凪は書庫で、古い水脈図を再び広げていた。
机の上には『水脈古録』が置かれている。
彼女は、昼間に見つけた地名をもう一度確かめていた。
鏡淵。
現在の地図には残っていない場所。
三つの谷の水脈が集まる地点。
そして、双龍の紋様。
黒凪は古い文字を指先でなぞった。
「……鏡淵、ね」
小さく呟く。
その名前を聞いた瞬間、銀澪は何かを思い出しかけた。
それが偶然なのか、何らかの関係があるのか。
まだ分からない。
黒凪はしばらく考えた。
それから、机の引き出しを開ける。
中には、祖母が残した小さな木札が入っていた。
二匹の龍が向かい合う紋様。
その中央には、月のような形がある。
黒凪は木札を手に取った。
ふと、裏側へ目を向ける。
そこには、長い年月の間にできた細かな傷があった。
今までは、単なる傷だと思っていた。
けれど、古い地図と照らし合わせるようになってから、その並び方が少し気になっていた。
黒凪は机の灯りへ木札を近づけた。
表面を斜めから照らす。
すると、浅い傷の一部が、規則的な線を描いていることに気づいた。
「……これは」
黒凪は目を細めた。
小さな文字だった。
長い年月を経て、ほとんど読めなくなっている。
けれど、確かに何かが刻まれていた。
黒凪は机から拡大鏡を取り出し、慎重に確かめる。
文字は、古い書体だった。
かすれている部分も多い。
それでも、いくつかは読み取ることができた。
『水鏡は、姿のみを映さず』
黒凪の手が止まった。
「……水鏡?」
小さく呟く。
さらに、その下にも文字があった。
しかし、そこは傷みが激しく、ほとんど判読できない。
黒凪はしばらく木札を見つめていた。
水鏡。
鏡淵。
そして、銀澪が見たという、人間だった頃の景色。
似た言葉が、少しずつ集まり始めている。
けれど、それだけで何かを結論づけることはできなかった。
黒凪は木札を机へ置き、静かに息を吐いた。
「……お祖母様」
誰にも聞こえないほどの声で呟く。
「あなたは、何を知っていたの……?」
答えは返ってこない。
書庫の外では、夜風が木々を揺らしている。
黒凪は古い水脈図へ目を向けた。
三つの谷。
双龍の紋様。
そして、鏡淵。
すべてが、まだ分からないことばかりだった。
けれど、一つだけ確かなことがある。
銀澪が何かを思い出しかけた以上、これまで以上に慎重に調べる必要がある。
彼の記憶を、古い伝承へ無理に当てはめてはいけない。
同時に、手がかりを見落とすことも避けたい。
黒凪はノートを開き、今日分かったことを書き留めた。
そして最後に、小さく一行を付け加えた。
『銀澪の記憶と鏡淵の関係は不明。本人の負担を考え、調査を急がないこと。』
書き終えた後、黒凪はペンを置いた。
それから、ふと客間の方へ目を向ける。
銀澪は、もう眠っているだろうか。
あの青年は、まだ出会って間もないというのに、すっかりこの屋敷の暮らしに馴染み始めている。
朝食を作り、庭を掃除し、夕食の準備を手伝う。
そして、分からないことがあれば素直に尋ねてくる。
その姿を思い出すと、黒凪は自然と微笑んでいた。
「……明日も、いい一日になるといいわね」
小さく呟く。
黒凪は木札を布へ包み、引き出しへ戻した。
それから、書庫の灯りを消す。
長い年月を生きてきた。
数えきれないほどの出来事を経験してきた。
それでも、今はまだ知らないことがある。
そして、新しく出会った誰かと一緒に、その答えを探していくこともできる。
黒凪は静かに扉を閉めた。
廊下には、月明かりが差し込んでいる。
庭の池からは、変わらず水の音が聞こえていた。
そのさらに奥。
地面の下を流れる古い水脈の中で。
ほんの一瞬だけ、遠くの水が震えた。
誰にも気づかれないほど、かすかな変化。
けれど、今度は一度では終わらなかった。
一つ。
二つ。
三つ。
まるで、何かが遠くから合図を送っているように。
小さな揺らぎが、地中深くを伝わっていく。
その先にあるのは、古い地図にだけ名を残す場所。
鏡淵。
長い年月、誰にも知られず眠っていた水の記録。
その奥で、何かが静かに動き始めていた。
そして、客間で眠る銀澪の夢の中には、再びあの雨の橋が現れていた。
濡れた道路。
山へ続く細い道。
遠くで鳴る、小さな鈴。
そして、橋の向こうに立つ人影。
今度は、その人物がゆっくりと振り返った。
しかし、銀澪が顔を確かめようとした瞬間。
雨音が、すべてを覆い隠した。




