第十話 雨の記憶と白龍の夢
雨が降っていた。
細かな雨粒が灰色の空から落ち、濡れたアスファルトに無数の波紋を描いている。
銀澪は、橋の上に立っていた。
いや、正確には、そこに立っている自分を感じていた。
足元にあるのは、見慣れた靴。
視界の端に映るのは、黒い上着の袖。
額には角がなく、背後にも尻尾の重みはない。
人間だった頃の身体だ。
橋の欄干には雨水が伝い、足元を流れる川は、濁った水を下流へ運んでいた。
銀澪は辺りを見渡そうとした。
しかし、視線は思うように動かない。
まるで、かつて自分が見た景色を、もう一度そのまま辿っているようだった。
からん。
乾いた金属音が響いた。
雨音の中でも、不思議とはっきり聞こえる。
その音に導かれるように、視線が橋の向こうへ向いた。
細い山道が続いている。
道の脇には、雨に濡れた石段。
その先には、小さな鳥居が見えた。
そして、鳥居の手前。
誰かが立っていた。
白いものを身につけた、人影。
傘を差しているのか、あるいは白い服を着ているのか。雨に煙って、その輪郭は曖昧だった。
銀澪は、その人物を確かめようとした。
だが、身体は動かない。
声をかけようとしても、喉から音が出なかった。
それでも、何かを伝えなければならない気がした。
何を?
誰に?
分からない。
ただ、胸の奥に焦りだけが広がっていく。
からん。
再び、音が鳴った。
今度は先ほどより近い。
その瞬間、人影がわずかに動いた。
銀澪は息を呑む。
見えそうだった。
もう少しで、相手の顔が分かる。
そう思った直後、視界が激しく揺れた。
川の音が大きくなる。
足元の感覚が消え、冷たい水が身体の周囲を流れ始めた。
銀澪は反射的に手を伸ばした。
何かを掴もうとして。
けれど、その指先は何にも触れず――。
◇
「……っ!」
銀澪は勢いよく身体を起こした。
呼吸が乱れていた。
胸の奥が激しく脈打ち、喉には息を詰めていた後のような違和感が残っている。
目の前には、見慣れ始めた客間の天井があった。
木の梁。
淡い色の壁。
そして、朝の光が透ける障子。
「……夢、か」
額へ手を当てる。
指先に触れたのは、白銀の龍角だった。
背後では、長い尻尾が布団の上をゆっくりと動いている。
銀澪はその感覚を確かめ、深く息を吐いた。
今の自分は龍だ。
人間だった頃の身体ではない。
橋の上にもいない。
黒凪の屋敷にいる。
そう理解すると、少しずつ呼吸が落ち着いてきた。
枕元の時計を見る。
午前五時十二分。
空は明るくなり始めているものの、屋敷の中にはまだ朝の静けさが残っていた。
銀澪はしばらく座ったまま、夢の内容を思い返した。
雨。
古い橋。
鳥居。
白い人影。
そして、鈴のような音。
これで三度目だった。
最初は、ほんの一瞬だけ見えた景色。
二度目は、橋の向こうに誰かがいることが分かった。
そして今朝は、その人影をもう少しはっきり見たような気がする。
ただ、不思議なこともあった。
夢の中で見た橋は、以前の自分が知っている場所のようにも思えた。
けれど、具体的な地名も、そこへ行った理由も思い出せない。
「……僕は、あそこで何をしていたんだろう」
小さく呟く。
返事はない。
銀澪は枕元のノートを開いた。
黒凪に勧められてから、気になることはできるだけ書き留めるようにしている。
今朝の夢についても、忘れないうちに記録しておきたかった。
ペンを握り、ゆっくりと言葉を書き出していく。
濡れた道路。
橋の形。
鳥居の位置。
人影の白い輪郭。
そして、最後に感じた水の冷たさ。
そこまで書いたところで、銀澪の手が止まった。
「……あれ?」
改めて読み返す。
夢の中で、確かに水に包まれた感覚があった。
けれど、実際に川へ落ちた場面は見ていない。
橋が壊れたわけでも、誰かに突き飛ばされたわけでもない。
ただ、急に足元の感覚が消えただけだった。
もしこれが過去の記憶だとしても、見えていない部分を勝手に補ってはいけない。
銀澪はノートの端に、小さく書き加えた。
『水に落ちたかどうかは不明。夢の可能性もある。』
その一文を書き終えると、ようやく少し落ち着いた。
銀澪はノートを閉じ、障子へ目を向けた。
庭から、鳥の声が聞こえる。
今日も、朝が始まろうとしていた。
◇
台所へ向かう途中、銀澪は廊下の窓を開けた。
冷たい山の空気が流れ込み、白銀の髪を揺らす。
遠くの山並みには薄い霧がかかり、木々の間から朝日が差し込み始めていた。
その景色を見ていると、先ほどまでの不安が少しずつ薄れていく。
この山は静かだった。
雨の橋とは違う。
誰かが急いでいるわけでも、何かが迫っているわけでもない。
ただ、水が流れ、鳥が鳴き、朝が来る。
銀澪は窓を閉じ、台所へ向かった。
まだ誰もいないと思っていたが、居間には明かりがついていた。
「あら。おはよう、銀澪」
声をかけてきたのは黒凪だった。
食卓の上には湯呑みが一つ置かれ、彼女は窓際の椅子に腰を下ろしている。
漆黒のショートウルフは普段より少し乱れ、黒い角の根元に柔らかな髪がかかっていた。
どうやら、彼女も起きたばかりらしい。
「おはようございます。黒凪さんも早いですね」
「ええ。少し目が覚めてしまって」
黒凪はそう答えた後、銀澪の顔を見つめた。
「……あなたも、よく眠れなかった?」
銀澪は一瞬、返事に迷った。
隠す必要はない。
けれど、朝から心配をかけるのも申し訳なかった。
「……少し、夢を見まして」
そう答えると、黒凪の表情が変わった。
「また、あの橋?」
「はい」
銀澪は頷いた。
黒凪はすぐには何も言わず、隣の椅子を引いた。
「よかったら、座って。お茶を淹れるわ」
「ありがとうございます」
銀澪が腰を下ろすと、黒凪は立ち上がって台所へ向かった。
しばらくして、湯気の立つほうじ茶を二つ持って戻ってくる。
銀澪は湯呑みを両手で包んだ。
香ばしい匂いが、鼻先をくすぐる。
「……それで?」
黒凪が穏やかに尋ねた。
「今朝は、どんな夢だったの?」
銀澪は少し考え、覚えていることを順番に話した。
橋の向こうに人影がいたこと。
以前より少しだけ近くに見えたこと。
鈴のような音が聞こえたこと。
そして、最後に水に包まれたような感覚があったこと。
黒凪は途中で話を遮らず、静かに聞いていた。
「……そう」
銀澪が話し終えると、彼女は小さく頷いた。
「少しずつ、見えるものが増えているのね」
「はい。ただ、これが本当に記憶なのか、まだ分からなくて」
「ええ。それは今のところ、決めつけない方がいいでしょうね」
黒凪は湯呑みを置いた。
「気になるのは、その夢を見るとき、あなたの身体に何か変化があるかどうかだわ」
「……身体に?」
「ええ。夢を見た後に疲れが残ったり、水の気配が強くなったり。そういうことはない?」
銀澪は少し考えた。
「……疲れは、あります。でも、普通に悪い夢を見たときと同じような感じかもしれません」
「そう。頭痛や、身体の痛みは?」
「ありません」
「なら、ひとまず安心ね」
黒凪は頷いた。
それから、少しだけ声を和らげる。
「でも、眠るのが嫌になるほど続くようなら、ちゃんと言ってちょうだい」
銀澪は顔を上げた。
「……黒凪さん」
「何?」
「僕、少し怖いんです」
その言葉は、考えるより先に口から出ていた。
黒凪は静かに銀澪を見つめる。
銀澪は湯呑みへ視線を落とした。
「夢が怖いというより……もし、あれが本当に最後の記憶だったらと思うと」
そこで、少しだけ言葉を詰まらせる。
「何が起きたのか、知りたいんです。でも、知ったら戻れなくなるような気もして」
黒凪は何も言わなかった。
銀澪は続ける。
「人間だった頃の僕が、どこかでまだ生きているのか。それとも、もう……」
最後まで言えなかった。
自分が本当に死んだのかどうか。
その可能性は、目覚めた日から何度も考えてきた。
龍への転生。
人間だった頃の記憶。
そして、途切れた最後の時間。
それらを考えれば、避けて通れない疑問だった。
けれど、今はまだ答えを知ることが怖かった。
黒凪はしばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「……銀澪」
「はい」
「怖いと思うことは、恥ずかしいことじゃないわ」
銀澪が顔を上げる。
「あなたが知ろうとしているのは、自分の人生に何が起きたのか、ということだもの。簡単に向き合える話ではないでしょう?」
黒凪は少し考え、続けた。
「ただ、私から一つお願いしてもいい?」
「……何でしょう?」
「答えを探すことだけで、今の時間を全部使わないでほしいの」
銀澪は目を瞬かせた。
黒凪は窓の外へ視線を向ける。
「昨日も、あなたは夕食を美味しそうに食べていたでしょう? 庭で新しく咲いた花にも気づいていたし、水守の里でも楽しそうにしていた」
「……はい」
「そういう時間まで、なくしてしまわなくていいのよ」
黒凪は穏やかに微笑んだ。
「過去を知りたい気持ちも大切。でも、今のあなたが何を感じて、何を好きだと思っているのかも、同じくらい大切でしょう?」
銀澪は黙っていた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「……そうですね」
「答えが見つからない日があっても、その日を無駄だったと思わなくていいわ」
銀澪は湯呑みを見つめた。
温かな茶から、細い湯気が立ち上っている。
その向こうには黒凪がいた。
彼女もまた、長い年月を生きてきた。
失ったものも、手放したものも、きっとたくさんあるのだろう。
それでも、今こうして誰かのためにお茶を淹れ、穏やかな朝を迎えている。
「……黒凪さん」
「何?」
「僕、龍になってから、いいこともたくさんあったんです」
黒凪は少し驚いたように瞬きをした。
銀澪は小さく笑う。
「水を操れたことも、尻尾を動かせるようになったことも。黒凪さんの龍の姿を見られたことだって、すごく嬉しかったです」
「……そう」
「水守の里も、また行ってみたいですし。まだ空も飛べていませんから」
黒凪は口元を緩めた。
「ふふっ。そういえば、そうだったわね」
「はい。やりたいこと、いっぱいあるんですよ」
銀澪は少しだけ遠くを見るような目をした。
「……だから、今の暮らしも大切にしたいです」
黒凪はしばらく彼を見つめていた。
そして、柔らかく微笑んだ。
「……それなら、よかった」
その声に、銀澪は不思議な温かさを感じた。
◇
朝食を終えた後、黒凪は水葉へ連絡を入れた。
内容は、祖母の木札に刻まれていた言葉についてだった。
『水鏡は、姿のみを映さず』
それが何を意味しているのか、黒凪にも分からない。
ただ、鏡淵という古い地名と似た表現が残っている以上、調べておきたかった。
連絡を送ってからしばらくすると、水葉から返信が届いた。
黒凪は居間で内容を確認し、銀澪にも声をかけた。
「……銀澪。少し見てもらえる?」
「はい」
銀澪は机の向かい側へ座った。
黒凪は端末の画面を彼にも見えるように向ける。
水葉の返事には、古い記録を撮影した画像が添えられていた。
「……これは?」
「水守の里に残っている、水鏡についての記録だそうよ」
銀澪は画面を覗き込んだ。
古い和紙に、細かな文字が並んでいる。
文字の一部はかすれていたが、水葉が現代の言葉で簡単な説明も添えてくれていた。
黒凪はその部分を読み上げる。
「……昔、水の流れを読む龍たちは、特に静かな淵や池を『水鏡』と呼ぶことがあったそうよ」
「……水鏡」
「水面に映るものを観察することで、周囲の水脈の変化を知るための場所だったらしいわ」
銀澪は頷いた。
「……普通の鏡とは違うんですね」
「そうね。水が静かな場所ほど、わずかな変化にも気づきやすかったのかもしれないわ」
黒凪は続けて画面を確認した。
「それから、古い伝承の中には、水鏡を通して遠い景色や過ぎた日の情景を見たという話もあるそうよ」
銀澪の手が止まった。
「……過ぎた日の情景?」
「ええ。ただし、これは伝承よ」
黒凪はすぐに付け加えた。
「本当に過去が映ったのか、それとも龍が水の揺らぎから何かを読み取ったのか。記録を書いた人も、そこまでは分からなかったようね」
銀澪は静かに頷いた。
「……なるほど」
黒凪は少し考えた。
「水葉も、あなたの夢と結びつけるには情報が足りないと言っているわ」
「……そうですよね」
銀澪は画面を見つめた。
過去を映す水。
もし、そんなものが本当にあるのなら。
自分が何を失ったのか、確かめられるかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
けれど、黒凪の言葉を思い出す。
決めつけないこと。
無理に答えを探そうとしないこと。
銀澪は深く息を吐いた。
「……黒凪さん」
「何?」
「僕、その水鏡っていうものを見てみたいです」
黒凪はすぐには答えなかった。
銀澪は続ける。
「もちろん、今すぐ鏡淵へ行きたいというわけではありません。ただ、どういうものなのか、実際に見てみたくて」
黒凪は少し考えた。
「……そうね」
彼女は庭へ目を向けた。
池には、朝の光が差し込んでいる。
水面は穏やかで、薄い雲が映っていた。
「なら、まずは庭の池で試してみましょうか」
銀澪は顔を上げた。
「……庭の池で?」
「ええ。もちろん、あそこが古い記録にある水鏡と同じものかは分からないわ。でも、静かな水面を観察することならできるでしょう?」
黒凪は少しだけ微笑んだ。
「それに、遠くの山へ出かけるより安全だもの」
銀澪は頷いた。
「……分かりました」
二人は簡単な準備を整え、庭へ向かった。
◇
庭の池は、いつもと変わらず静かだった。
小さな滝から水が流れ込み、石組みの間を通って反対側の水路へ抜けていく。
池の縁には苔むした岩が並び、その近くには低い松が枝を広げていた。
黒凪は池のほとりへしゃがみ込み、銀澪へ手招きした。
「……まずは、普通に水面を見てみて」
銀澪も隣へ腰を下ろした。
水面には、二人の姿が映っている。
白銀の髪。
漆黒のショートウルフ。
白と黒の龍角。
そして、左右で色の異なる銀澪の瞳と、黒凪の金色の瞳。
風が吹くたびに、二人の姿はわずかに揺れた。
「……本当に、鏡みたいですね」
「そうね」
黒凪は小さく頷いた。
「ただ、水面が揺れていると、細かなものは分かりにくいでしょう?」
「……はい」
「だから、昔の龍たちは水を静めて観察したのかもしれないわ」
黒凪は池へ手を伸ばした。
その指先から、淡い水の気配が広がる。
滝から流れ込む水は変わらない。
けれど、二人の目の前にある水面だけが、ゆっくりと静まっていった。
小さな波紋が消え、池の表面が滑らかになる。
銀澪は思わず息を呑んだ。
「……すごい」
「ふふっ。これくらいなら、あなたにもできるようになるわよ」
黒凪は小さく笑った。
「それじゃあ、しばらく眺めてみましょうか」
二人は並んで池を見つめた。
静かな水面。
そこに映る空。
庭木の枝。
そして、自分たちの姿。
銀澪はゆっくりと息を整えた。
以前なら、すぐに水の奥へ意識を向けていただろう。
けれど今日は、無理に感覚を広げようとはしなかった。
ただ、目の前の水を見る。
それだけを意識した。
しばらくして、銀澪は一つのことに気づいた。
「……黒凪さん」
「何?」
「水って、静かにしていても動いているんですね」
黒凪が顔を向けた。
「……どういう意味?」
「表面は止まっているみたいなのに、下の方ではちゃんと流れています」
銀澪は水面を見つめたまま続ける。
「それに、池の端の方では、流れの速さも少し違うみたいです」
黒凪は静かに頷いた。
「ええ。水面が静かでも、水そのものが止まっているわけではないもの」
銀澪は少し考えた。
「……何だか、人間の気持ちみたいですね」
黒凪は一瞬、目を丸くした。
「……人間の気持ち?」
「はい。外から見れば何も変わっていないように見えても、中ではいろいろ考えていたりするじゃないですか」
銀澪は小さく笑った。
「水も、同じなのかなって」
黒凪はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと微笑む。
「……面白い考え方ね」
「……そうですか?」
「ええ。でも、嫌いじゃないわ」
彼女は水面へ目を戻した。
「……確かに、静かなものほど、内側では複雑に動いているのかもしれないわね」
二人はしばらく、黙って池を眺めていた。
そのときだった。
水面の中央に、小さな波紋が広がった。
一つ。
そして、少し遅れてもう一つ。
銀澪は顔を上げた。
「……今の」
黒凪も水面を見つめている。
「……ええ」
銀澪は何もしていない。
黒凪も、すでに水を静めるための力を止めていた。
波紋はゆっくりと広がり、やがて消えた。
池の水面は、再び滑らかになる。
「……水脈の異変でしょうか」
銀澪が尋ねる。
黒凪は慎重に首を振った。
「……まだ分からないわ。魚が動いたのかもしれないし、池の底から空気が上がったのかもしれない」
「……そうですね」
銀澪は頷いた。
黒凪はその様子を見て、少しだけ微笑んだ。
「でも、今のような小さな変化を見落とさないことは大切よ」
銀澪は静かに頷いた。
その後、二人はしばらく水面を観察した。
しかし、特別なものが映ることはなかった。
過去の景色も、知らない場所も。
ただ、庭と空が映っているだけだった。
銀澪は少しだけ残念に思った。
けれど、不思議と落ち込むことはなかった。
何も起きなかった。
それも、一つの結果だ。
そう考えられるようになっていた。
◇
昼食を終えると、銀澪は一人で縁側に座っていた。
黒凪は里から届いた新しい資料を整理している。
銀澪は膝の上にノートを広げ、今朝の夢と池での出来事を見比べていた。
雨の橋。
白い人影。
鈴の音。
そして、水鏡。
似たものを無理に結びつけてはいけない。
それは分かっている。
けれど、何も関係がないと言い切ることもできない。
銀澪はペンを置き、庭へ目を向けた。
池の水面には、午後の光が差し込んでいる。
小さな魚が泳ぎ、石の陰へ姿を消した。
その光景を眺めているうちに、ふと人間だった頃のことを思い出した。
休日に、山の近くまで車を走らせたこと。
川沿いの道を歩き、気に入った景色を写真に撮ったこと。
神社を見つければ、何となく立ち寄っていたこと。
どれも、特別な思い出ではない。
けれど、確かに自分が生きてきた時間だった。
「……そういえば」
銀澪は小さく呟いた。
あの橋も、どこかへ出かけたときに見たのだろうか。
あるいは、普段から通っていた場所なのだろうか。
記憶の中にある景色を、ゆっくりと思い返す。
そのとき、ふと別のことに気づいた。
橋の向こうにあった鳥居。
そして、鈴の音。
もし、あれが神社に関係するものなら。
自分は、そこへ参拝しに行ったのかもしれない。
ただ、それ以上は思い出せなかった。
銀澪はノートを開き、一つだけ書き加える。
『橋の先に鳥居。神社へ向かっていた可能性。ただし未確認。』
書き終えると、ペンを置いた。
今は、それで十分だろう。
◇
夕方。
黒凪は縁側へやってきた。
手には、小さな盆を持っている。
その上には、冷たい麦茶と、昨日水守の里でもらった菓子が並んでいた。
「あら、まだここにいたのね」
黒凪が声をかける。
銀澪は顔を上げた。
「はい。少し考え事をしていました」
「そう。じゃあ、休憩にしましょうか」
黒凪は隣へ腰を下ろし、湯呑みを一つ差し出した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
銀澪は受け取り、一口飲んだ。
冷たい麦茶が喉を通る。
山から吹く風が、二人の髪を揺らした。
しばらく、会話はなかった。
庭では小さな滝が流れ、池の水面には夕日が映っている。
銀澪はその景色を眺めながら、静かに口を開いた。
「……黒凪さん」
「何?」
「僕、少し考えたんです」
黒凪は顔を向けた。
銀澪は続ける。
「人間だった頃のこと、やっぱり知りたいです。あの橋のことも、どうして龍になったのかも」
「……ええ」
「でも、そればかり考えていたら、今の生活をちゃんと楽しめなくなる気がして」
銀澪は少しだけ笑った。
「だから、調べる時間を決めようかなと思っています」
黒凪は瞬きをした。
「……時間を?」
「はい。毎日少しずつ記録を整理して、何か新しいことが分かったら調べる。それ以外の時間は、普通に生活しようかなって」
銀澪は庭へ目を向けた。
「庭仕事もしたいですし、料理ももっと覚えたいです。龍の姿にもなりたいですし……」
そこで、少し照れくさそうに笑う。
「……まだ、黒凪さんに教えてもらいたいことがたくさんありますから」
黒凪はしばらく、銀澪を見つめていた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……いい考えだと思うわ」
銀澪が顔を上げる。
「……本当ですか?」
「ええ。過去を知ることも大切だけれど、今の暮らしを整えることも同じくらい大切だもの」
黒凪は小さく頷いた。
「それに、調べ物は一人で抱え込まなくていいわ。私も水葉も、できる範囲で手伝うから」
「……ありがとうございます」
「ふふっ。どういたしまして」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
それから、銀澪は少しだけ真面目な表情になった。
「……黒凪さん」
「何?」
「一つ、お願いしてもいいですか?」
黒凪は首を傾げた。
「……どうしたの?」
「今度、また龍の姿になる練習をしたいです」
黒凪は一瞬、目を丸くした。
それから、納得したように頷く。
「ああ。真龍の姿ね」
「はい。前回は途中でやめてしまいましたけど……今度は、もう少し身体の感覚を確かめてみたくて」
黒凪は少し考えた。
「……そうね」
彼女は穏やかに微笑んだ。
「ただし、無理はしないこと。前回は水の感覚が一度に広がってしまったでしょう?」
「はい。分かっています」
「それと、変身することだけを目標にしないこと。まずは、龍の姿になろうとしたときの感覚を落ち着いて受け止められるようにしましょう」
銀澪は頷いた。
「……はい」
「なら、明日少しだけ練習してみましょうか」
銀澪の顔が明るくなった。
「……本当ですか?」
「ええ。天気もよさそうだし、前に行った場所なら安全に練習できるでしょう」
黒凪は少しだけ笑った。
「ただし、今度こそ尻尾で山の木を倒さないでね?」
「……まだそんなことしてませんよ」
「あら。念のためよ」
黒凪は楽しそうに笑った。
銀澪もつられて笑う。
その笑い声が、夕暮れの庭へ静かに広がっていった。
◇
夜になり、二人は台所に立っていた。
今夜の夕食は、銀澪の提案で肉じゃがを作ることになった。
黒凪が野菜の皮を剥き、銀澪が食べやすい大きさに切っていく。
鍋の中では、出汁と調味料が温まり始めていた。
「……黒凪さん、じゃがいもはこのくらいでいいですか?」
「ええ。ちょうどいいと思うわ」
「人参も同じくらいに切っておきますね」
「お願い」
二人は自然な調子で言葉を交わしながら、料理を進めていた。
銀澪は鍋へ野菜を入れ、軽く混ぜる。
黒凪はその隣で、調味料を量っていた。
しばらくして、甘辛い香りが台所へ広がり始める。
「……いい匂いですね」
銀澪が呟く。
黒凪は小さく微笑んだ。
「ええ。美味しくできそうね」
「今日は少し甘めにしてみました」
「あら。私の好みに合わせてくれたの?」
「はい。黒凪さん、甘めの味つけが好きでしょう?」
黒凪の手が止まった。
銀澪は鍋の中を見つめたまま続ける。
「前に作った卵焼きも、甘い方が好きだって言っていましたし」
黒凪はしばらく黙っていた。
それから、小さく微笑む。
「……よく覚えているのね」
「一緒に暮らしているので、少しずつ覚えていきたいなって」
銀澪は何気なく答えた。
黒凪はその言葉を聞き、ゆっくりと目を細めた。
「……そう」
その声は、少しだけ柔らかかった。
銀澪は鍋の火加減を調整し、黒凪へ顔を向ける。
「……何か変でしたか?」
「いいえ」
黒凪は静かに首を振った。
「……嬉しかっただけよ」
銀澪は少し驚いた。
それから、自然と微笑んだ。
「……それなら、よかったです」
二人は再び料理を始めた。
鍋の中では、じゃがいもと人参がゆっくりと煮えていく。
窓の外からは、山の夜風が吹き込んでいた。
古い和風屋敷の台所。
そこに、二人分の夕食を作る音が響いている。
ほんの数日前までは、黒凪一人しか立っていなかった場所だった。
けれど今は、隣に銀澪がいる。
そのことが、少しずつ当たり前になり始めていた。
◇
夕食を終えた後、黒凪は一人で書庫にいた。
机の上には、祖母が残した木札と、古い水脈図が置かれている。
黒凪はその二つを見比べながら、静かに考えていた。
水鏡。
鏡淵。
そして、双龍。
少しずつ増えていく手がかり。
けれど、まだ何も確かなことは分からない。
黒凪は小さく息を吐いた。
「……焦らないこと、ね」
今日、銀澪に伝えた言葉だった。
けれど、今は自分自身にも必要なのかもしれない。
長く生きてきた。
いろいろなことを知っているつもりだった。
それでも、分からないことはある。
そして、分からないものを無理に理解しようとすれば、かえって大切なものを見失うこともある。
黒凪は机の上の木札を手に取った。
祖母が大切にしていたもの。
そこに刻まれた言葉は、今も謎のままだ。
「……お祖母様」
小さく呟く。
「あなたなら、どう考えるかしら」
答えは返ってこない。
けれど、黒凪は少しだけ微笑んだ。
祖母なら、きっとこう言うだろう。
慌てるな。
目の前のものをよく見なさい。
そして、誰かを守りたいのなら、自分の心も大切にしなさい。
黒凪は木札を丁寧に置いた。
それから、机に広げた記録を整理し始める。
その途中、ふと気づいた。
今日、銀澪は過去のことを調べる時間を決めると言っていた。
それ以外の時間は、今の生活を大切にしたいとも。
黒凪はその言葉を思い返し、静かに微笑んだ。
「……本当に、前向きな人ね」
銀澪が何者なのか。
なぜ、龍になったのか。
その答えは、まだ分からない。
けれど、今の彼がどんな人物なのかは、少しずつ分かってきた。
人間だった頃の記憶を大切にしていること。
龍として生きることを、心から喜んでいること。
そして、誰かと過ごす何気ない時間を、大切にしようとしていること。
その姿に、黒凪は少しずつ親しみを感じ始めていた。
「……さて」
黒凪は立ち上がった。
「明日は、また練習ね」
そう呟き、書庫の灯りを消す。
廊下には、月明かりが差し込んでいた。
客間の前を通りかかると、黒凪は静かに足を止める。
襖の向こうからは、何の物音も聞こえなかった。
どうやら、銀澪はすでに眠っているらしい。
黒凪は少しだけ微笑んだ。
「……おやすみなさい、銀澪」
小さく呟き、自室へ向かう。
その背中を、月明かりが柔らかく照らしていた。
◇
同じ頃。
銀澪は夢を見ていた。
再び、雨の降る橋だった。
濡れた道路。
山へ続く細い道。
そして、橋の向こうに立つ白い人影。
けれど、今夜は少しだけ違っていた。
人影の向こうにある鳥居。
その奥に、小さな社が見えた。
社の前には、石灯籠が二つ並んでいる。
そして、そのさらに奥。
何かが、淡い光を放っていた。
銀澪は目を凝らした。
光の正体を確かめようとする。
しかし、雨が強くなり、視界が白く霞んでいく。
そのとき。
からん。
鈴の音が響いた。
今までより、ずっとはっきりと。
銀澪は思わず顔を上げた。
白い人影が、ゆっくりとこちらへ向き直る。
けれど、その顔は見えなかった。
代わりに、一つだけ。
人影の手元に、何かが見えた。
小さな、銀色の鈴だった。
その鈴が、雨の中で静かに揺れている。
からん。
再び、音が鳴った。
その瞬間。
銀澪の足元に広がる水たまりが、奇妙な光を帯びた。
水面には、空も橋も映っていない。
代わりに、白銀の龍の姿が映っていた。
枝分かれした角。
長い身体。
そして、蒼と紅の瞳。
銀澪は息を呑んだ。
それは、今の自分の姿に似ていた。
しかし――。
夢の中の自分は、まだ人間だった。
なぜ、そこに白龍が映っているのか。
その疑問が浮かんだ瞬間、景色が揺らいだ。
雨音が遠ざかる。
橋の向こうの人影が、ゆっくりと薄れていく。
銀澪は反射的に手を伸ばした。
今度こそ、何かを確かめようとして。
けれど、その指先が届く前に、景色は闇へ沈んだ。
そして、最後に一度だけ。
からん。
小さな鈴の音が響いた。
それきり、何も聞こえなくなった。




