第十一話 白銀の鱗、空への憧れ
雨音が、まだ耳の奥に残っていた。
銀澪は布団の上で目を開け、しばらく天井を見つめていた。
障子の向こうには、夜明け前の薄青い光が広がっている。庭を流れる水の音はいつもと変わらず穏やかで、昨夜の雨が残した水滴が、ときおり軒先から落ちていた。
もう、橋は見えない。
白い人影も、銀色の鈴も。
けれど、水たまりに映っていた白龍の姿だけは、妙にはっきりと覚えていた。
「……あれは、何だったんだろう」
銀澪は小さく呟き、右手を持ち上げた。
細く、白い指。
手の甲に鱗は見えず、指先も人間とほとんど変わらない。
それでも、わずかに意識を向けるだけで、爪を硬くしたり、皮膚の下に眠る龍の力を感じ取ったりできるようになっていた。
夢の中の自分には、そんな力がなかった。
少なくとも、橋に立っていた自分は人間だった。
なのに、水たまりには白龍が映っていた。
しかも、その龍には――。
「……蒼と、紅の瞳」
銀澪はゆっくりと身体を起こした。
夢の中で見た白龍の瞳。
右が蒼く、左が紅い。
今の自分と同じ色だった。
偶然なのかもしれない。
転生してから見た自分の姿が、人間だった頃の記憶と混ざり、夢として現れているだけとも考えられる。
けれど、橋も鳥居も鈴も、繰り返し現れていた。
ただの夢だと片づけるには、何かが引っかかっている。
銀澪は枕元のノートを開いた。
昨夜までの記録を読み返し、新しいページへ夢の内容を書き足していく。
白い人影。
銀色の鈴。
水たまりに映る白龍。
右の瞳は蒼、左の瞳は紅。
書き終えたところで、銀澪はペンを止めた。
少し考え、最後に一文を添える。
『夢の白龍が自分自身なのかは不明。』
それ以上は書かなかった。
まだ、確かなことは何も分からない。
分からないものを、無理に分かったことにする必要はない。
黒凪も水葉も、そう教えてくれた。
銀澪はノートを閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
「……さて」
背後で白銀の尻尾が動く。
布団の端を軽く持ち上げ、そのまま床の上へ滑り落ちた。
以前のように、何かを倒すことはない。
銀澪はその動きを見つめ、少しだけ笑った。
「今日は、もう一歩進めるかな」
窓の外では、朝日が山の稜線を越えようとしていた。
◇
居間へ向かうと、台所から包丁の音が聞こえてきた。
まな板を叩く軽い音が一定の間隔で続き、その合間に鍋の蓋が触れ合う音が混じっている。
「おはようございます」
銀澪が声をかけると、黒凪が振り返った。
「あら、おはよう。今日は早いのね」
薄い生成り色のシャツに、濃紺のゆったりしたパンツ。黒いエプロンを身につけた彼女は、いつもどおり龍角と尻尾を出した姿だった。
手元では長ねぎが綺麗に刻まれている。
「少し早く目が覚めてしまって」
「そう。……また夢を見た?」
黒凪の問いかけに、銀澪は少し驚いた。
「……分かるんですか?」
「なんとなくね。あなた、考え事をしているときは、少し眉間に力が入るのよ」
黒凪は自分の眉間を指で示した。
「今もちょっとだけ」
「……そんな癖があったんですね」
「ふふっ。自分では気づきにくいものよ」
黒凪は刻んだ長ねぎを小皿へ移し、手を洗った。
「朝食まで少し時間があるわ。よかったら、話してくれる?」
銀澪は頷いた。
二人は台所の隣にある食卓へ移動した。
窓から差し込む朝日はまだ柔らかく、庭の池には薄い霧が漂っていた。
銀澪は椅子に腰を下ろし、昨夜の夢について話し始めた。
橋の上に立っていたこと。
白い人影が銀色の鈴を持っていたこと。
そして、水たまりに白龍が映っていたこと。
黒凪は口を挟まず、最後まで聞いていた。
「……瞳の色まで同じだったのね」
話を聞き終えると、彼女は静かに呟いた。
「はい。ただ、あれが僕なのかどうかは分かりません」
「そうね。夢なら、今のあなたの姿が入り込んでいても不思議ではないもの」
黒凪は少し考え、銀澪へ視線を戻した。
「ただ、一つ気になることがあるわ」
「何でしょう?」
「あなた、その夢を見たとき、怖かった?」
銀澪はすぐには答えなかった。
雨の橋を思い出す。
あの場所に立っている間は、確かに不安だった。
何かを知らなければならない気がして、知らないままではいけないような焦りがあった。
けれど、水たまりに映る白龍を見たときは違った。
「……不思議なんです」
銀澪はゆっくりと口を開いた。
「橋の上では怖かったんです。でも、白龍が映ったときは……驚いたけど、嫌な感じはしませんでした」
「……そう」
「むしろ、何となく安心したというか。懐かしいものを見たような気もして」
黒凪は頷いた。
「分かったわ。その感覚も、ノートに残しておくといいかもしれないわね」
「はい。あとで書いておきます」
黒凪は立ち上がり、再び台所へ向かった。
銀澪も席を立つ。
「何か手伝いますか?」
「じゃあ、そこの卵を二つ取ってくれる?」
「はい」
銀澪は冷蔵庫を開け、卵を取り出した。
そのまま作業台へ置こうとして、ふと口を開く。
「……黒凪さん」
「何?」
「今日の変身練習、予定どおりやっても大丈夫でしょうか」
黒凪の手が止まった。
彼女はすぐに答えず、銀澪へ向き直る。
「身体の調子は?」
「問題ありません。頭痛もないですし、身体もいつもどおりです」
「昨日の夢で、あまり眠れなかったわけではないのね?」
「はい。途中で起きましたけど、その後はちゃんと眠れました」
黒凪はしばらく考え込んだ。
「……そうね。だったら、短い時間だけならいいと思うわ」
銀澪の表情が明るくなる。
「本当ですか?」
「ええ。ただし、今日は前回と同じところから始めましょう。いきなり完全な姿になることを目指さないでね」
「分かりました」
「それと、途中で水の感覚が強くなりすぎたら、すぐにやめること。約束できる?」
銀澪は真剣に頷いた。
「はい。無理はしません」
黒凪はその返事を確かめ、ようやく微笑んだ。
「なら、朝ごはんを食べてから出かけましょうか」
「はい!」
思わず声が大きくなった。
黒凪は一瞬目を丸くし、それから楽しそうに笑った。
「……ふふっ。本当に、龍のことになると元気ね」
「……すみません」
「謝らなくていいわ。あなたが楽しみにしているのは、よく分かっているもの」
黒凪は卵を受け取り、調理台へ向き直った。
「でも、まずは朝食よ。お腹が空いたまま練習しても、集中できないでしょう?」
「……それは確かに」
銀澪は苦笑し、食器棚へ向かった。
◇
山奥の練習場へ向かう道は、すっかり見慣れたものになっていた。
黒凪の屋敷から続く細い山道を登り、杉林を抜け、沢沿いの斜面を進む。
途中には苔むした石段があり、その先には古い獣道が残っている。
銀澪は黒凪の少し後ろを歩きながら、周囲の景色を眺めていた。
木々の隙間から差し込む朝日。
枝に残った水滴。
遠くで鳴く鳥の声。
そのすべてが、いつもより鮮やかに感じられた。
「……銀澪」
前を歩く黒凪が、ふと声をかけた。
「はい?」
「今日は、何を一番確かめたい?」
銀澪は少し考えた。
「……やっぱり、龍の姿になれるかどうか、ですかね」
「それだけ?」
黒凪が振り返る。
銀澪は首を傾げた。
「……それだけ、というと?」
「龍になった後、何をしてみたいの?」
その質問に、銀澪は一瞬黙った。
そして、少し照れくさそうに笑う。
「……空を飛んでみたいです」
黒凪は小さく頷いた。
「そうでしょうね」
「前に黒凪さんが飛んでいるところを見て、余計に憧れてしまって」
銀澪は空を見上げた。
木々の上には、澄んだ青空が広がっている。
「翼がなくても、あんなふうに空を泳げるなんて……昔から夢だったので」
黒凪はしばらく、銀澪の横顔を眺めていた。
それから、静かに口を開く。
「……なら、覚えておいてほしいことがあるわ」
「何でしょう?」
「龍の姿になることと、空を飛ぶことは、別の技術なの」
銀澪が顔を向ける。
黒凪は歩きながら続けた。
「真龍の姿になれたからといって、すぐに空を飛べるわけじゃないのよ。身体の重さや長さを理解して、その上で周囲の空気や龍の力を感じ取らなければならない」
「……なるほど」
「あなたの場合、水の流れには敏感でしょう? でも、空には空の流れがあるわ」
黒凪は片手を持ち上げた。
指先に、小さな風が集まる。
木の葉が一枚、ふわりと舞い上がった。
「水と同じように、風にも道があるの。ただし、水ほど形が見えやすいわけではないから、最初は難しいと思う」
銀澪は舞い上がった葉を見つめた。
「……僕にも、できるようになりますかね」
黒凪は少し考えた。
「できるかどうかは、実際に練習してみないと分からないわ」
予想していたより、慎重な返事だった。
銀澪が顔を向けると、黒凪は穏やかに続けた。
「龍には、それぞれ得意なことがあるの。水を操るのが得意な者もいれば、風を読むのが得意な者もいる。だから、ほかの龍と同じようにできなくても、気にする必要はないわ」
「……はい」
「それに、飛ぶために必要なのは力だけじゃないもの。身体の感覚を覚えることも大切よ」
黒凪は少しだけ笑った。
「まずは地面の上で、ちゃんと龍の姿になれるようになりましょう」
銀澪も微笑んだ。
「……そうですね」
二人は再び歩き始めた。
やがて森が開け、見覚えのある草地が姿を現した。
岩壁に囲まれた広い盆地。
その端には沢が流れ、細い滝が岩肌を伝って落ちている。
以前、黒凪が真龍の姿を見せてくれた場所だった。
◇
黒凪は草地の中央まで歩くと、周囲を見渡した。
近くに人の気配はない。
山鳥が数羽、木々の間を飛び交っているものの、大きな動物が近くにいる様子もなかった。
彼女は岩壁の方へ目を向け、少し考えてから頷いた。
「……今日は、この辺りで練習しましょう」
銀澪も頷く。
「分かりました」
黒凪は鞄を草地の端へ置き、銀澪に向き直った。
「まず、前回のことを思い出してみて」
銀澪は目を閉じた。
白龍の姿を思い描いたとき。
身体の奥から温かなものが広がり、腕に鱗が浮かび上がった。
しかし、その直後。
周囲の水の気配が一斉に流れ込んできた。
自分の身体と、外の水の境界が曖昧になるような感覚。
あれが、前回の失敗だった。
「……水の感覚が、強くなりすぎました」
銀澪が答える。
黒凪は頷いた。
「ええ。あのとき、あなたは龍の姿を思い描くことに集中しすぎていたのかもしれないわ」
「……集中しすぎ?」
「そう。頭の中で理想の姿を作ろうとするあまり、自分の身体が今どうなっているのかを、確かめられなくなっていたように見えたの」
銀澪は少し考えた。
確かに、前回は憧れていた白龍の姿をできるだけ鮮明に思い浮かべようとしていた。
長い身体。
枝分かれした角。
美しい鱗。
空を泳ぐ姿。
そればかり考えていて、自分の身体がどう変化しているのかは、ほとんど意識していなかった。
「……なるほど」
「今日は少し違う方法でやってみましょう」
黒凪は銀澪の横へ移動した。
「まず、今の身体を確かめて。足が地面に触れている感覚、腕の重さ、尻尾の位置。それから呼吸」
銀澪はゆっくりと目を閉じた。
足元の草。
柔らかな土。
山から吹く風。
白銀の尻尾が、背後で緩やかに揺れている。
「……感じられる?」
「はい」
「なら、その感覚を保ったまま、少しずつ身体を変えてみて」
銀澪は静かに頷いた。
まず、右手へ意識を向ける。
指先に、温かな感覚が集まってきた。
手の甲が、わずかに輝く。
そして、細かな白銀の鱗が浮かび上がった。
「……できた」
銀澪は小さく呟いた。
黒凪は頷く。
「いいわ。そのまま、手を開いたり閉じたりしてみて」
銀澪はゆっくりと指を動かした。
鱗に覆われた手。
少しだけ鋭くなった爪。
けれど、感覚は失われていない。
指先に触れる風も、手のひらへ伝わる空気の冷たさも、はっきりと分かった。
「……不思議ですね」
「何が?」
「人間の手と形が違うのに、ちゃんと自分の手なんです」
黒凪は少し微笑んだ。
「それが大切なのよ」
彼女は自分の右手を持ち上げた。
すると、黒い鱗が一瞬だけ浮かび上がり、指先が鋭い爪へ変わった。
「龍の身体は、無理に作るものじゃないわ。もともとあなたの中にあるものを、表へ出すような感覚なの」
銀澪は彼女の手を見つめた。
黒凪はゆっくりと指を動かし、元の形へ戻してみせる。
「……こんなふうにね」
「……なるほど」
銀澪は再び自分の手へ目を向けた。
白銀の鱗。
少し長くなった爪。
そのすべてが、自分の意思に応じて自然に動いている。
銀澪はゆっくりと息を吐いた。
そして、今度は左手へ意識を向けた。
同じように、白い鱗が浮かび上がる。
黒凪は黙って見守っていた。
「……いい調子ね」
しばらくして、彼女が声をかけた。
「今日はここで終えてもいいくらいよ」
銀澪は顔を上げた。
「……もう少し、続けてもいいですか?」
黒凪は彼の様子を確かめた。
呼吸は落ち着いている。
水の気配も、今のところ大きく乱れてはいない。
「……少しだけね」
「はい」
銀澪は頷いた。
それから、ゆっくりと目を閉じた。
◇
身体の内側に、温かな流れが生まれていた。
それは、水に似ていた。
けれど、水そのものではない。
胸の奥から手足へ、背中へ、そして尻尾へと広がっていく感覚。
銀澪は、それを無理に動かそうとはしなかった。
ただ、流れるままに感じ取る。
すると、背中の奥がわずかに震えた。
肩から腰へかけて、身体の輪郭が少しずつ変わり始める。
銀澪は目を開けた。
視界が低くなっていた。
「……あれ?」
足元の草が、先ほどより近い。
驚いて顔を上げようとした瞬間、身体の重心が前へ移動した。
「……っと!」
銀澪は反射的に両手を地面へついた。
その手は、すでに人間のものではなかった。
白銀の鱗に覆われた前脚。
地面を支える鋭い爪。
長く伸び始めた腕は、四足で身体を支えるための形へ変わっていた。
「……黒凪さん!」
銀澪が声を上げる。
黒凪は少し離れた場所から、静かに頷いた。
「大丈夫。慌てなくていいわ」
「……これ、どうすれば……」
「まず、身体を支えることだけ考えて。立ち上がろうとしなくていいの」
銀澪は頷いた。
しかし、次の瞬間。
背後の尻尾が、大きく動いた。
長い尾が草地を擦り、近くの小石をいくつか弾き飛ばす。
「……うわっ!」
銀澪は慌てて振り返ろうとした。
すると、今度は身体全体が横へ傾いた。
足元が滑る。
前脚に力を入れようとしたものの、爪の角度が分からない。
そのまま地面へ倒れそうになった。
「銀澪!」
黒凪が声を上げる。
彼女はすぐに近づこうとしたが、途中で足を止めた。
今の銀澪は、身体の大きさが変わり始めている。
不用意に近づけば、変化途中の尾や脚に巻き込まれるかもしれない。
「私の声を聞いて!」
「……はい!」
「前脚を少し開いて。右側へ体重を戻すの。ゆっくり!」
銀澪は言われたとおり、前脚へ意識を向けた。
右の脚。
左の脚。
それぞれが、地面に触れている。
身体を支えるための四本の脚。
今まで、人間の姿では経験したことのない感覚だった。
「……そう。そのまま」
黒凪の声が聞こえる。
銀澪は呼吸を整えた。
ゆっくりと、重心を戻していく。
傾いていた身体が、少しずつ安定した。
「……よし」
黒凪が静かに頷く。
「いいわ。ちゃんと支えられている」
銀澪は大きく息を吐いた。
しかし、その瞬間。
周囲の水音が、急にはっきりと聞こえ始めた。
「……っ」
沢の流れ。
岩の下を通る水。
地面に染み込んだ雨水。
そして、山の奥深くを進む地下水脈。
前回と同じ感覚だった。
水が、一斉に自分へ近づいてくる。
いや、違う。
自分の意識が、周囲へ広がっているのかもしれない。
どちらなのか、分からない。
銀澪は思わず目を閉じた。
「……黒凪さん」
声が少し震えた。
「また、水が……」
黒凪の表情が引き締まった。
「……分かったわ。今日はここまでにしましょう」
銀澪は一瞬、返事をためらった。
身体は、確かに変わり始めている。
あと少し。
もう少しだけ続ければ、本当の龍になれるかもしれない。
そう思った。
けれど、その直後。
頭の奥で、あの鈴の音が響いた。
からん。
「…………!」
雨の橋。
白い人影。
水たまりに映った白龍。
その景色が、一瞬だけ頭をよぎった。
銀澪は息を呑んだ。
水の感覚が、さらに広がろうとする。
「銀澪!」
黒凪の声が響いた。
「私の声を聞いて!」
銀澪は目を開けた。
黒凪が、まっすぐこちらを見つめている。
金色の瞳。
漆黒の角。
そして、風に揺れる黒い髪。
「……黒凪さん」
「そう。ここにいるわ」
黒凪は静かに続けた。
「今は、水を追わなくていいの。あなたの身体だけを感じて」
銀澪はゆっくりと息を吐いた。
前脚。
後脚。
背中。
そして、長い尻尾。
地面へ触れている感覚を、一つずつ確かめていく。
すると、広がりかけていた水の気配が、少しずつ遠ざかっていった。
銀澪は目を閉じたまま、呼吸を整える。
やがて、身体の奥にあった熱が静かに収まり始めた。
白銀の鱗が淡く揺らぐ。
長く伸びかけた身体が、ゆっくりと元の形へ戻っていく。
最後に、人間に近い両手が草地へ触れた。
銀澪は、その場に座り込んだ。
「……はぁ……」
大きく息を吐く。
黒凪が近づいてきた。
「……大丈夫?」
「……はい」
銀澪は顔を上げた。
「ちょっと、びっくりしました」
黒凪はしゃがみ込み、彼の顔色を確かめた。
「痛いところは?」
「ありません。ただ、少し疲れました」
「そう。だったら、今日はもう練習を終えましょう」
銀澪は頷きかけた。
しかし、そこで少しだけ言葉を止めた。
「……黒凪さん」
「何?」
「僕、今……結構、龍になっていましたよね?」
黒凪は一瞬、目を丸くした。
そして、小さく微笑んだ。
「ええ。前回より、ずっと進んでいたわ」
「……本当ですか?」
「本当よ。前脚だけじゃなくて、身体の長さも変わり始めていたもの」
黒凪は少しだけ笑った。
「もう少しで、真龍の姿になれそうだったわね」
銀澪の顔に、嬉しそうな表情が浮かんだ。
「……そうですか」
「ただし、今日止めた判断は正しかったわ」
黒凪は少し真面目な顔になる。
「龍の力は、使い続ければ必ず慣れるというものではないの。身体が追いついていないときに無理をすると、自分の力に振り回されてしまうわ」
銀澪は静かに頷いた。
「……はい」
「それに、あなたは水の感覚が強すぎるみたいだから。普通の龍より、慎重に進めた方がいいかもしれない」
黒凪は立ち上がり、銀澪へ手を差し出した。
「まずは休みましょう」
銀澪はその手を取った。
「……ありがとうございます」
黒凪は軽く力を込め、彼を立ち上がらせた。
「どういたしまして」
二人は沢のほとりへ移動し、持参した水筒のお茶を飲むことにした。
◇
草地の端にある平らな岩へ腰を下ろすと、銀澪はしばらく黙っていた。
水筒の中のお茶は少し冷たく、喉を通ると身体の奥に残っていた熱がゆっくりと引いていく。
黒凪は隣に座り、遠くの滝へ目を向けていた。
彼女は急かさなかった。
銀澪が自分から話し始めるまで、静かに待っている。
しばらくして、銀澪が口を開いた。
「……少し、悔しいですね」
黒凪が顔を向ける。
「……悔しい?」
「はい。あと少しだったのに、って思ってしまって」
銀澪は自分の右手を見つめた。
そこには、もう鱗は浮かんでいない。
いつもの、白い手だった。
「……でも、無理をしたら危ないのも分かっています」
銀澪は小さく笑った。
「だから、止めてよかったとは思うんですけど」
黒凪は静かに頷いた。
「……そうね」
それから、少しだけ考えて続けた。
「悔しいと思うこと自体は、悪いことじゃないわよ」
銀澪が顔を上げる。
「……そうですか?」
「ええ。できるようになりたいと思っているからこそ、悔しいのでしょう?」
黒凪は穏やかに微笑んだ。
「でも、その気持ちに任せて無理をするかどうかは、別の話よ」
銀澪は静かに頷いた。
黒凪は自分の黒い尻尾を、ゆっくりと動かした。
「私も昔、空を飛ぶ練習で何度も失敗したもの」
「……黒凪さんも?」
「ええ。最初はうまく浮かび上がれなくて、何度も地面へ落ちたわ」
銀澪は少し驚いた。
「……想像できませんね」
「ふふっ。今の私しか知らないものね」
黒凪は懐かしそうに笑った。
「でも、あの頃は本当に悔しかったの。ほかの龍は飛べるのに、どうして自分にはできないんだろうって」
彼女は空を見上げた。
青空には、小さな雲が浮かんでいる。
「……ある日、祖母に言われたのよ」
「……何て?」
「『空を見上げる前に、自分の足元を見なさい』って」
銀澪は少し考えた。
「……足元?」
「ええ。空を飛ぶことばかり考えていて、自分の身体がどう動いているのか、全然分かっていなかったの」
黒凪は小さく笑った。
「だから、まずは地面を歩く練習からやり直したわ。龍の姿で歩いて、走って、身体を曲げて。自分の重さや長さを覚えるところからね」
銀澪は静かに聞いていた。
「……それで、飛べるようになったんですか?」
「すぐにはね。でも、いつの間にか身体の動かし方が分かってきたの」
黒凪は銀澪へ微笑んだ。
「その頃には、空を飛ぶことも少しずつできるようになっていたわ」
銀澪は深く息を吐いた。
「……なるほど」
黒凪は立ち上がった。
「だから、今日は変身の続きをする代わりに、別のことを試してみましょうか」
「……別のこと?」
「ええ。立ってみて」
銀澪は少し不思議そうにしながらも、岩から立ち上がった。
黒凪は彼の前へ移動する。
「角と尻尾は、そのままでいいわ」
銀澪は頷いた。
「……はい」
「じゃあ、目を閉じて。今度は龍の姿を思い描かなくていいから、足元にある空気を感じてみて」
銀澪は目を閉じた。
草地を踏む足。
山から吹く風。
足元を通り抜ける、わずかな空気の流れ。
それらを、一つずつ感じ取っていく。
「……何か分かる?」
黒凪が尋ねる。
銀澪は少し考えた。
「……風が、足元を通っています」
「そう。その風の動きを、少しだけ意識してみて」
銀澪は頷いた。
風が流れる。
草が揺れる。
足元の小さな葉が、一枚だけ動いた。
銀澪は、その感覚を追った。
すると、ほんの一瞬。
身体が軽くなったような気がした。
「……あれ?」
思わず目を開ける。
足は、まだ地面についていた。
けれど、さっきまでとは少し違う。
身体の重さが、わずかに変わったような感覚があった。
「……黒凪さん」
「何?」
「今、少しだけ身体が軽くなった気がしました」
黒凪は目を細めた。
「……そう」
彼女は銀澪の足元を見つめる。
周囲の草は、ほとんど動いていない。
大きな風が吹いたわけでもなかった。
「……まだ、はっきりとは分からないわね」
黒凪は慎重に答えた。
「でも、今の感覚は覚えておいてもいいと思うわ」
「……はい」
「ただし、今日はもう続けないこと。身体も疲れているでしょう?」
銀澪は素直に頷いた。
「分かりました」
黒凪は満足そうに微笑んだ。
「よろしい。じゃあ、そろそろ帰りましょうか」
二人は荷物をまとめ、山道へ向かった。
◇
帰り道、銀澪は何度も自分の手を見つめていた。
白銀の鱗。
鋭い爪。
そして、四本の脚で地面を支えた感覚。
まだ完全な龍にはなれなかった。
けれど、確かに以前よりも近づいている。
「……黒凪さん」
銀澪が声をかける。
「何?」
「今日、初めて分かったことがあります」
黒凪は少しだけ歩く速度を落とした。
「……何かしら?」
「僕、今までは龍の姿になることばかり考えていました」
銀澪はゆっくりと続ける。
「でも、今日みたいに身体が変わり始めると……ちゃんと自分の身体なんだって分かるんですね」
黒凪は静かに頷いた。
「……ええ」
「見た目だけじゃなくて、感覚も変わっていく。地面の触れ方とか、身体の重さとか」
銀澪は少しだけ笑った。
「……何だか、すごく不思議でした」
黒凪は穏やかに微笑んだ。
「そうね。龍の姿になるというのは、ただ大きくなることではないもの」
彼女は前方の山道へ目を向けた。
「あなた自身の身体を、もう一つの形で生きることなのよ」
銀澪はその言葉を静かに受け止めた。
もう一つの形で生きる。
それは、今の自分にとって大切な言葉のように思えた。
人間だった頃の自分。
そして、龍としての自分。
姿は違っても、どちらも自分自身なのだ。
「……僕、もっとこの身体のことを知りたいです」
銀澪が言うと、黒凪は頷いた。
「ええ。少しずつ覚えていきましょう」
それから、少しいたずらっぽい表情になる。
「でも、その前に、尻尾で落ち葉を散らさない練習も続けないとね」
「……それ、もう結構できるようになりましたよ?」
「あら、そうだったかしら」
「黒凪さん、絶対分かって言ってますよね」
黒凪は声を出して笑った。
「ふふっ。どうかしらね」
銀澪も思わず笑ってしまった。
二人の笑い声が、静かな山道へ広がっていく。
その上には、澄んだ青空が広がっていた。
◇
屋敷へ戻った頃には、昼を少し過ぎていた。
銀澪は手を洗い、居間の椅子へ腰を下ろした。
身体は思っていた以上に疲れている。
龍になってから、これほどはっきり疲労を感じたのは初めてかもしれなかった。
「……はぁ」
思わず息を吐く。
そこへ、黒凪が冷たい麦茶を持ってきた。
「お疲れさま」
「ありがとうございます」
銀澪は湯呑みを受け取り、一口飲んだ。
冷たい麦茶が喉を通り、身体の奥に残っていた熱を少しずつ冷ましていく。
黒凪は向かい側へ腰を下ろした。
「……今日は、よく頑張ったわね」
銀澪は少しだけ笑った。
「でも、まだ完全にはなれませんでした」
「そうね。でも、前回よりずっと進んでいたでしょう?」
「……はい」
銀澪は自分の手を見つめた。
今はもう、いつもの龍人の姿だ。
けれど、前脚へ変わったときの感覚は残っている。
地面を支える爪。
身体の重心。
長くなった背中と尻尾。
そのすべてが、確かに自分のものだった。
「……次は、もっと上手くできそうな気がします」
銀澪が呟く。
黒凪は小さく頷いた。
「ええ。でも、今日はもう休みなさい」
「……はい」
「夕食も、今日は私が作るわ。あなたはゆっくりしていて」
銀澪は顔を上げた。
「……でも、何か手伝えることくらいは」
「銀澪」
黒凪が少しだけ眉を上げた。
「休むのも、練習のうちよ」
銀澪は一瞬、言葉に詰まった。
それから、苦笑する。
「……分かりました」
「よろしい」
黒凪は満足そうに頷いた。
しかし、すぐに少しだけ表情を和らげた。
「それに、今日はあなたが頑張ったんだから。たまには私に任せてくれてもいいでしょう?」
銀澪はしばらく黒凪を見つめていた。
そして、ゆっくりと微笑む。
「……そうですね」
黒凪も微笑んだ。
その後、銀澪は縁側へ移動し、しばらく庭を眺めることにした。
池には午後の日差しが差し込み、木々の影が水面へ揺れている。
小さな魚が泳ぎ、石の陰へ姿を消した。
遠くでは、山鳥が鳴いていた。
銀澪はゆっくりと息を吐く。
今日は、完全な龍にはなれなかった。
けれど、確かに前へ進んだ。
それだけで、十分な一日だった。
◇
夕方になると、黒凪は台所で夕食の準備を始めた。
今夜は温かい鍋料理にするという。
野菜を切り、出汁を温め、豆腐と肉を用意する。
銀澪は居間で休んでいたが、しばらくすると台所の方から声が聞こえてきた。
「……銀澪?」
「はい?」
「味見だけ、お願いできるかしら」
銀澪は顔を上げた。
黒凪が小さな器を持って立っていた。
「今日、少し味つけを変えてみたの。あなたの好みに合うか確かめてほしくて」
銀澪は器を受け取った。
中には、温かな出汁が少し入っている。
一口飲むと、昆布と鰹の香りが広がった。
その後から、ほのかな甘みが感じられる。
「……美味しいですね」
「本当?」
「はい。すごく好きな味です」
黒凪は嬉しそうに微笑んだ。
「よかった」
それから、少しだけ笑う。
「前にあなたが作ってくれた卵焼きが美味しかったから、少し甘めにしてみたの」
銀澪は驚いた。
「……僕の好みに合わせてくれたんですか?」
「ええ。いつも私の好みに合わせてもらうばかりじゃ、申し訳ないでしょう?」
黒凪は穏やかに答えた。
銀澪は器を見つめた。
何気ないことだった。
けれど、少し嬉しかった。
自分が相手の好みを覚えるように、相手も自分のことを覚えようとしてくれている。
そういう小さなやり取りが、少しずつ増えてきた。
「……ありがとうございます」
銀澪が言うと、黒凪は微笑んだ。
「どういたしまして」
それから、ふと思い出したように続ける。
「そうだわ。明日は庭の手入れをしようと思っているの。身体の調子がよければ、少し手伝ってもらえる?」
「もちろんです」
「ただし、今日の疲れが残っていたら休んでね」
「分かりました」
銀澪は頷いた。
黒凪は満足そうに微笑み、台所へ戻っていった。
その背中を見送りながら、銀澪は静かに思った。
自分は今、この屋敷で暮らしている。
朝起きて、食事をして、山へ出かけ、夜になれば帰ってくる。
それは、当たり前のようでいて、今の自分にはとても大切なことだった。
人間だった頃の記憶は、まだ戻らない。
龍としての力も、分からないことばかりだ。
けれど、今日もこうして穏やかな時間を過ごせている。
そのことが、何よりありがたかった。
◇
夜。
夕食を終えた銀澪は、客間でノートを開いていた。
今日の練習で分かったことを、一つずつ書き留めていく。
右手に鱗が現れたこと。
左手も同じように変化したこと。
前脚へ変わったとき、身体の重心が大きく動いたこと。
そして、周囲の水の感覚が強くなりすぎたこと。
銀澪はペンを止めた。
「……あの鈴の音」
小さく呟く。
変身の途中で聞こえた音。
夢の中と同じ、乾いた金属音だった。
からん。
確かに、そう聞こえた気がした。
しかし、実際にどこかで鈴が鳴っていたのかは分からない。
黒凪は、何も聞こえなかったと言っていた。
銀澪はノートの端に、一つだけ書き加えた。
『変身中、夢と同じ鈴の音を感じた。実際の音かどうかは不明。』
その一文を書き終えた後、銀澪はしばらくノートを見つめていた。
夢の中の白龍。
今の自分。
そして、まだ見たことのない完全な龍の姿。
何か関係があるのかもしれない。
けれど、今はまだ分からない。
銀澪はノートを閉じた。
そして、障子を少し開ける。
庭には月明かりが差し込み、池の水面には淡い光が映っていた。
その向こうには、黒い山々の稜線が広がっている。
銀澪は空を見上げた。
雲のない夜空。
無数の星が、小さく輝いている。
「……いつか、あそこまで飛んでみたいな」
自然と声が漏れた。
白銀の龍となり、雲の上を泳ぐ。
山を越え、海を渡り、どこまでも自由に進んでいく。
それは、人間だった頃から抱いていた夢だった。
今はまだ、地面の上で身体を支えることさえ難しい。
けれど、少しずつ近づいている。
そのことが、嬉しかった。
銀澪は静かに微笑み、障子を閉めた。
◇
同じ頃。
黒凪は書庫で、今日の練習記録を整理していた。
机の上には、銀澪の変身について書き留めたノートが置かれている。
右手の変化。
左手の変化。
前脚の形成。
そして、身体の重心が四足歩行へ移り始めたこと。
黒凪はそれらを読み返し、静かに頷いた。
「……順調ね」
小さく呟く。
銀澪は、確実に龍の身体へ慣れ始めている。
それ自体は、喜ばしいことだった。
しかし、気になる点も残っていた。
変身の途中で、周囲の水を一度に感じ取ってしまったこと。
そして、そのとき、銀澪自身の気配が一瞬だけ大きく広がったこと。
黒凪はペンを止めた。
「……やっぱり、普通の白龍とは少し違う」
そう呟いたものの、すぐに首を振る。
何が違うのか。
どこまでが個人差なのか。
まだ、判断できるほどの情報はない。
黒凪はノートを閉じ、机の引き出しを開けた。
中には、祖母が残した木札がある。
双龍の紋様。
そして、裏側に刻まれた言葉。
『水鏡は、姿のみを映さず』
黒凪はそれを静かに見つめた。
銀澪が見た夢。
人間だった頃の橋。
そして、水たまりに映っていたという白龍。
偶然なのかもしれない。
けれど、何かを見落としているような気もしていた。
「……水鏡、か」
小さく呟く。
その言葉を何度か繰り返してみる。
すると、ふと祖母の声を思い出した。
幼い頃。
まだ龍の力をうまく扱えなかった自分へ、祖母が語ってくれた言葉。
『水に映るものが、いつも真実とは限らないよ』
黒凪は目を見開いた。
「…………」
記憶の奥から、古い情景が浮かび上がる。
夕暮れの庭。
池のほとりに座る祖母。
そして、まだ幼かった自分。
祖母は何かを教えてくれていた。
水の流れについて。
龍の力について。
そして、水面に映る景色について。
けれど、その先が思い出せない。
「……お祖母様」
黒凪は小さく呟いた。
祖母が残した言葉。
今になって、少しずつ意味を持ち始めている。
黒凪は木札を丁寧に布へ包み、引き出しへ戻した。
そして、静かに立ち上がる。
今日は、もう調べるのをやめよう。
そう決めた。
銀澪も、自分も、少しずつ前へ進んでいる。
今は、それでいい。
黒凪は書庫の灯りを消し、廊下へ出た。
窓からは月明かりが差し込んでいる。
庭の池には、静かな波紋が広がっていた。
その水面を眺めながら、黒凪はふと微笑んだ。
「……銀澪」
小さく名前を呟く。
「いつか、本当に空を飛べるようになるといいわね」
その声は、誰にも聞こえなかった。
けれど、黒凪自身には、はっきりと聞こえていた。
長い年月を生きる黒龍。
そして、人間の記憶を持つ白龍。
二人の間には、まだ知らないことが数多くある。
それでも、同じ時間を過ごし、互いのことを少しずつ理解していくことはできる。
黒凪は静かに息を吐いた。
明日もまた、銀澪と朝食を食べる。
庭の手入れをし、何気ない会話を交わす。
そして、いつか。
あの青年が本当の白龍となり、空を自由に泳ぐ姿を見る日が来るのだろう。
その日を、少し楽しみにしている自分がいた。
黒凪は小さく微笑み、自室へ向かった。
山の奥に建つ古い和風屋敷。
その夜も、二人の龍は静かな眠りについた。
そして、遠く離れた山の奥。
三つの谷の水脈が交わる場所で。
誰にも知られないほど小さな揺らぎが、再び生まれていた。
水は静かに流れている。
けれど、その奥では何かが動き続けていた。
まるで、長い眠りから目覚めようとしているかのように。
その場所の名は、鏡淵。
古い地図にだけ残された、失われた地名。
そして、銀澪の夢に現れる水鏡と、どこか似た響きを持つ場所だった。
まだ、誰も知らない。
その場所に何が眠っているのか。
なぜ水脈が乱れ始めたのか。
そして、白龍となった銀澪の過去と、どのようにつながっているのか。
ただ一つ確かなことがあった。
銀澪は今日、憧れ続けた龍の姿へ、また一歩近づいた。
空はまだ遠い。
けれど、そこへ至る道は、少しずつ見え始めていた。




