第十二話 白龍の初変身
朝露に濡れた草の上を、一匹の蜻蛉が飛んでいた。
透明な翅が朝日を受けて輝き、庭の池を横切っていく。やがて蜻蛉は水辺の細い枝へ止まり、しばらく翅を休めてから、再び空へ舞い上がった。
縁側に腰を下ろした銀澪は、その小さな姿を目で追っていた。
空を飛ぶ。
それは、鳥や虫にとっては当たり前のことなのだろう。
けれど、かつて人間だった銀澪にとっては、今でも特別な意味を持つ言葉だった。
「……自由そうだな」
思わず呟く。
白銀の尻尾が、縁側の板の上で緩やかに動いた。
その先端は以前よりもずっと自然に制御できるようになり、身体の向きを変えたときにも、周囲の物へぶつからなくなっていた。
銀澪がこの屋敷へ来てから、十日余り。
あの日、雨の降る山道で黒凪に出会ったことが、今では随分と昔のように感じられる。
もちろん、時間そのものが長く経ったわけではない。
ただ、あまりにも多くのことが変わった。
見知らぬ神社で目覚め、龍になった自分の姿に驚いたこと。
黒凪と出会い、屋敷へ招かれたこと。
水守の里を訪ね、ほかの龍人たちの暮らしを知ったこと。
そして、初めて真龍への変身に挑んだこと。
銀澪は膝の上へ置いた右手を眺めた。
この数日、変身そのものの練習はしていない。
前回の訓練で身体が大きく変化した後、黒凪から数日間は休むよう言われたためだった。
その代わりに続けていたのが、身体の感覚を確かめる練習である。
角や尻尾を動かす。
腕の一部に鱗を出し、元へ戻す。
足元の風や、地面を伝わる振動を感じ取る。
どれも地味な練習だったが、以前よりも身体の変化を落ち着いて受け止められるようになっていた。
今日は、その成果を確かめる日だった。
「……銀澪」
背後から声が聞こえた。
振り返ると、廊下の向こうに黒凪が立っていた。
薄い藍色の上着に黒いパンツ。髪はいつもの短いウルフカットで、額には黒い枝角が伸びている。
手には小さな包みを持っていた。
「おはようございます、黒凪さん」
「ええ、おはよう。早いのね」
「少し目が覚めてしまって」
「……楽しみで眠れなかった?」
その問いかけに、銀澪は苦笑した。
「否定できませんね」
「でしょうね」
黒凪は口元を緩め、隣へ腰を下ろした。
彼女の黒い尻尾が板の上を滑り、銀澪の尾を避けるように身体の横へ収まる。
「身体の調子は?」
「問題ありません。昨日もよく眠れました」
「頭痛や、あの水の感覚は?」
「特にありません。今は普通に感じられます」
黒凪は頷いた。
それから、銀澪の顔をじっと見つめる。
「……何ですか?」
「いいえ。以前より落ち着いた顔をしているなと思って」
「そうでしょうか」
「ええ。最初の頃は、龍の話になるとすぐに飛び上がりそうな勢いだったもの」
銀澪は少し考え、笑った。
「……今でも、気持ちは変わっていませんよ」
「知っているわ」
黒凪も笑った。
その後、彼女は手にしていた包みを銀澪へ差し出した。
「はい、これ」
「……何ですか?」
「おにぎりよ。今日は山へ行くでしょう? お昼を少し過ぎるかもしれないから」
銀澪は包みを受け取った。
布の中には、竹皮に包まれたおにぎりが入っていた。
「……ありがとうございます」
「あなたが山へ行く準備をしている間に作っておいたの。少し休憩するときに食べましょう」
銀澪は包みを見つめた。
昨日の夕食後、黒凪は明日の練習についていくつか注意を話してくれた。
水の力を無理に広げないこと。
身体の変化に違和感があれば、すぐに止めること。
そして、変身に成功しなくても落ち込まないこと。
そのどれも、銀澪にはありがたかった。
けれど、こうして昼食まで用意してくれているとは思わなかった。
「……黒凪さん」
「何?」
「今日は、頑張れそうな気がします」
銀澪がそう言うと、黒凪は一瞬、目を丸くした。
それから、穏やかに微笑む。
「……そう。なら、よかった」
山の向こうから、朝の風が吹き抜けた。
縁側の風鈴が、小さく音を立てた。
◇
午前九時を少し過ぎた頃、二人は屋敷を出発した。
向かうのは、以前にも訪れた山奥の草地だった。
岩壁に囲まれ、周囲から見通しにくい盆地。
黒凪が昔から真龍の姿で身体を動かすために使ってきた場所である。
道中、銀澪はあまり話さなかった。
緊張しているわけではない。
むしろ、頭の中でこれまでの練習を思い返していた。
右手の変化。
四足になりかけたときの身体の重さ。
そして、周囲の水の感覚に意識を奪われてしまったこと。
黒凪は前を歩きながら、ときどき振り返った。
銀澪が考え事をしているのは分かっていたが、無理に声をかけることはしなかった。
やがて、沢沿いの小道へ差しかかったところで、彼女は足を止めた。
「……銀澪」
「はい?」
「一つ、聞いてもいいかしら」
「もちろんです」
黒凪は少しだけ考えた。
「今日、もし変身に成功したら……最初に何をしたい?」
銀澪は思わず瞬きをした。
「……何を、ですか?」
「ええ。前に、空を飛びたいと言っていたでしょう?」
「はい」
「でも、今日は飛ぶ練習まではしないつもりなの。それでも、何かしてみたいことはある?」
銀澪はしばらく考えた。
白龍になったら、何をするか。
空を飛ぶ。
山を越える。
雲の中を泳ぐ。
そんな想像なら、昔から何度もしてきた。
けれど、最初に何をしたいかと聞かれると、意外にも答えは簡単だった。
「……自分の姿を見てみたいです」
黒凪が顔を向けた。
「……姿?」
「はい。鏡でも、水面でもいいので」
銀澪は少し照れくさそうに笑った。
「今の僕が、本当にどんな龍なのか。自分の目で確かめたいです」
黒凪はしばらく彼を見つめていた。
それから、ゆっくりと頷く。
「……そうね」
彼女は微笑んだ。
「なら、成功したら沢の水面へ行きましょう。あそこなら、姿がよく映ると思うわ」
「はい」
銀澪は頷いた。
二人は再び歩き始めた。
◇
草地へ到着すると、黒凪はまず周囲の様子を確かめた。
前回と同じように、人が近くにいないことを確認する。
その後、草地の中央から少し離れた場所に荷物を置き、銀澪へ向き直った。
「……今日は、ここで始めましょう」
銀澪は頷いた。
周囲には柔らかな草が広がり、岩壁の近くには小さな沢が流れている。
空は晴れていた。
風は弱く、雲もほとんどない。
変身の練習には、十分な環境だった。
「まずは、いつものように身体の感覚を確かめて」
黒凪が言う。
「はい」
銀澪は目を閉じた。
足元の草。
柔らかな土。
頬を撫でる風。
そして、身体の後ろで揺れる白銀の尻尾。
それらを一つずつ感じ取る。
以前なら、すぐに理想の白龍を思い描こうとしていただろう。
しかし、今日は違う。
今、自分がどこに立っているのか。
何を感じているのか。
まずは、そこから始めた。
「……いいわ」
黒凪の声が聞こえた。
「次は、右手へ意識を向けてみて」
銀澪はゆっくりと息を吸った。
右手の奥に、温かな感覚が広がる。
皮膚の上へ、細かな白銀の鱗が浮かび上がった。
指先の爪が少し伸び、手の甲には淡い光沢が宿る。
銀澪は目を開けた。
変化した右手が、朝日を受けて輝いている。
「……できました」
「ええ。落ち着いているわね」
黒凪は静かに頷いた。
「そのまま、左手も」
銀澪は頷き、反対側の手へ意識を向けた。
同じように、白銀の鱗が現れる。
今度は迷わなかった。
身体の奥にある感覚を、そのまま受け止める。
すると、左手も自然に変化していった。
「……いい感じですね」
銀澪が呟く。
黒凪は少しだけ微笑んだ。
「ええ。前回よりずっと安定しているわ」
彼女は銀澪の周囲をゆっくりと歩き、姿勢を確かめた。
「次は、身体全体へ意識を向けてみましょう。ただし、変化させようと無理に力を込めないこと」
「……はい」
「身体が自然に動きたがる方向を感じてみて」
銀澪は目を閉じた。
白銀の鱗に覆われた両手。
背後へ伸びる長い尻尾。
額から伸びる枝分かれした角。
それらが、今の自分の身体の一部として存在している。
銀澪は深く息を吸った。
すると、胸の奥に温かな流れが生まれた。
それは前回と同じ感覚だった。
けれど、今日は違っていた。
無理に何かを動かそうとしなくても、身体の中をゆっくりと巡っていく。
肩から腕へ。
背中から腰へ。
そして、長い尻尾の先へ。
銀澪はその流れを静かに感じ取った。
やがて、足元が少しずつ変化し始める。
両脚の形が変わり、身体の重心が前へ移動した。
「……っ」
思わず息を呑む。
しかし、黒凪の声がすぐに届いた。
「大丈夫。前回と同じよ。慌てないで」
銀澪は頷いた。
ゆっくりと両手を地面へつく。
白銀の鱗に覆われた手が、四足で身体を支える前脚へ変わり始めた。
鋭い爪が土へ触れる。
その感覚は、前回よりもずっと自然だった。
「……そう。そのまま」
黒凪は少し離れた場所から見守っている。
銀澪は呼吸を整えた。
身体の奥にある温かな流れが、さらに広がっていく。
背中が伸びる。
腰の位置が変わる。
尻尾が長くなり、身体全体の輪郭がゆっくりと変化し始めた。
草地の上で、銀澪の影が少しずつ大きくなっていく。
黒凪は目を細めた。
白銀の鱗。
枝分かれした角。
そして、長くしなやかに伸び始めた身体。
そこには、確かに龍の姿が現れようとしていた。
「……銀澪」
黒凪が静かに声をかけた。
「今、どんな感じがする?」
銀澪は少しだけ考えた。
「……身体が、伸びている感じです」
「痛みは?」
「ありません。ただ……」
そこで、言葉が止まった。
身体の奥から、別の感覚が広がってきた。
水の気配だった。
沢を流れる水。
岩の下を進む地下水。
そして、山の奥にある水脈。
前回と同じように、周囲の水が一斉に感じられ始める。
「……っ」
銀澪は息を詰めた。
まただ。
このままでは、前回と同じように意識を奪われてしまうかもしれない。
その不安が、胸の奥に浮かぶ。
しかし、すぐに黒凪の言葉を思い出した。
『水を追わなくていいの。あなたの身体だけを感じて』
銀澪はゆっくりと息を吐いた。
沢の音は聞こえる。
地下水脈の気配も感じる。
けれど、そこへ意識を向けない。
今は、自分の身体を確かめる。
足元の土。
前脚へ伝わる重さ。
背中を通る温かな流れ。
そして、長い尻尾。
それらを、一つずつ感じ取った。
すると、不思議なことが起きた。
周囲の水の気配が、少しずつ遠ざかっていったのだ。
消えたわけではない。
ただ、自分の意識の外側へ収まっていく。
まるで、遠くで鳴っている水音を、必要なときだけ聞き取れるようになったかのようだった。
「……黒凪さん」
銀澪が静かに声をかける。
「何?」
「……大丈夫、です」
黒凪は一瞬、目を見開いた。
それから、ゆっくりと頷く。
「……そう」
その声には、わずかな安心が混じっていた。
「なら、そのまま続けてみて」
銀澪は頷いた。
身体の奥にある温かな流れが、再び大きくなっていく。
しかし、今度は不安を感じなかった。
むしろ、ずっと前から知っていた感覚のように思えた。
白銀の鱗が、身体全体へ広がっていく。
腕は完全に前脚へ変わり、後脚もそれに合わせて形を変えた。
背中が長く伸び、四本の脚で大地を支える。
尻尾はさらに長くなり、草地の上へ美しい曲線を描いた。
額の角が伸び、白い枝が幾重にも分かれていく。
そして。
銀澪の身体を包んでいた淡い光が、ゆっくりと消えていった。
◇
黒凪は、しばらく動けなかった。
目の前に、一頭の白龍がいた。
全身を覆う鱗は、雪のように白い。
しかし、ただ白いだけではなかった。
光を受ける角度によって、銀色や淡い青色が浮かび上がり、まるで月明かりを閉じ込めたような輝きを放っている。
長くしなやかな身体。
四本の脚には鋭い爪があり、背中から尾へ続く鱗は整然と重なっていた。
額から伸びる角は、白い樹木の枝を思わせる形をしている。
顎の下には細い髭が伸び、風に揺れていた。
そして、その瞳。
右は深い蒼。
左は鮮やかな紅。
左右で異なる色を持つ瞳が、ゆっくりと開いた。
「…………」
黒凪は息を呑んだ。
美しい龍だった。
それは、間違いなかった。
けれど、黒凪が驚いたのは、美しさだけではない。
その姿には、彼女が知っている白龍たちとは少し違う特徴があった。
長い年月の中で、黒凪はさまざまな龍を見てきた。
白龍も、決して珍しい存在ではない。
白い鱗を持つ者。
銀色の角を持つ者。
澄んだ蒼い瞳を持つ者。
そうした龍なら、これまでにも出会ったことがあった。
けれど、目の前の銀澪は違っていた。
鱗の根元に、非常に細い紋様が浮かんでいる。
それは傷でも、鱗の境目でもなかった。
水の流れを思わせる、淡い線。
しかも、その線は身体の左右でわずかに異なる色を帯びていた。
右側には淡い蒼。
左側には、薄い紅。
どちらもほとんど見えないほど繊細だったが、確かに存在している。
「……これは」
黒凪は小さく呟いた。
そのとき。
白龍が、ゆっくりと首を動かした。
蒼と紅の瞳が、黒凪を見つめる。
『……黒凪さん?』
頭の奥へ、声が届いた。
黒凪は我に返る。
「……銀澪?」
『……聞こえますか?』
少し不安そうな声だった。
黒凪は頷いた。
「ええ。ちゃんと聞こえているわ」
白龍は、ゆっくりと首を傾げた。
『……これ、僕の声ですか?』
「そうよ。真龍の姿では、人間のように言葉を発するのが難しいこともあるから、意識を通して声を届けるの」
『……なるほど』
銀澪はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと自分の身体へ目を向ける。
白銀の前脚。
鋭い爪。
長く伸びた身体。
そして、背後に続く尻尾。
『…………』
声が途切れた。
黒凪は少し心配になった。
「……銀澪?」
白龍が、ゆっくりと首を持ち上げる。
その瞳が、青空へ向けられた。
そして。
『……なれた』
小さな声が届いた。
『……本当に、龍になれたんだ』
黒凪は何も言わなかった。
銀澪は自分の前脚を見つめたまま、静かに続ける。
『……夢じゃないんですね』
その声には、かすかな震えがあった。
『ずっと……ずっと、こうなりたかったんです』
黒凪は、彼の姿を見つめていた。
数日前、あの神社で出会った白銀の青年。
自分が龍になったことを、心から喜んでいた。
人間だった頃から、龍という存在に憧れていたのだと話してくれた。
その青年が今、本当の龍として草地に立っている。
黒凪はゆっくりと微笑んだ。
「……ええ」
静かな声で答える。
「あなたは、ちゃんと龍になれたわよ」
銀澪は、しばらく何も言わなかった。
ただ、白銀の尾がゆっくりと動いていた。
その先端が草を撫で、柔らかな音を立てる。
『……黒凪さん』
「何?」
『……ありがとうございます』
黒凪は一瞬、目を丸くした。
それから、少しだけ困ったように笑う。
「……もう。今はお礼より、自分の身体を確かめなさい」
しかし、その声は柔らかかった。
銀澪は静かに頷いた。
『……はい』
◇
最初の一歩は、思っていた以上に難しかった。
銀澪は右の前脚を持ち上げようとしたが、身体の重心が前へ傾き、慌てて左の前脚へ力を入れた。
その結果、身体全体が少し横へ揺れる。
『……あれ?』
黒凪が小さく笑った。
「ほら、急がないの。四本の脚で身体を支えているんだから、一つ動かせば重さのかかり方が変わるでしょう?」
『……そうですね』
「まずは、後脚で身体を支えてみて」
銀澪は言われたとおり、後脚へ意識を向けた。
地面に触れる爪。
足の裏へ伝わる土の感触。
そして、身体全体の重さ。
ゆっくりと重心を移動させる。
すると、右の前脚が自然に持ち上がった。
『……おお』
「そう。そのまま、少し前へ」
銀澪は慎重に前脚を動かした。
草地へ爪が触れる。
一歩。
そして、もう一歩。
長い身体が、ゆっくりと前へ進んだ。
『……歩けた』
思わず声が漏れる。
黒凪は頷いた。
「ええ。上手よ」
銀澪はさらに一歩進んだ。
今度は少しだけ自然に動けた。
しかし、身体の後ろが思ったよりも遅れてついてくる。
長い尾が草地を滑り、近くの小石を押しのけた。
『……うわ』
「尻尾も忘れないでね」
『……はい』
黒凪は笑いながらも、銀澪の動きを真剣に見守っていた。
白龍はゆっくりと草地を進む。
最初はぎこちなかった四本の脚も、少しずつ動きが揃い始めた。
長い尾は身体の後ろで自然な曲線を描き、重心を支えるように動いている。
銀澪はその感覚に、少しずつ慣れていった。
そして、数歩進んだところで足を止めた。
『……黒凪さん』
「何?」
『……すごいです』
黒凪が首を傾げる。
「何が?」
『身体が、ちゃんと動くんです』
銀澪は少し興奮した声で続けた。
『人間だった頃とは全然違うのに、ちゃんと自分の身体なんですよ』
黒凪は静かに微笑んだ。
「……そうね」
『それに、地面の感触がすごくはっきり分かります。草とか、土とか……』
銀澪はゆっくりと前脚を持ち上げた。
白銀の爪の間に、小さな草の葉が挟まっている。
『……こんなに大きな身体なのに、細かいものまで分かるんですね』
「ええ。龍の身体は、見た目ほど鈍感じゃないもの」
黒凪は頷いた。
「ただ、慣れないうちは力を入れすぎないようにね」
『……はい』
銀澪は笑ったように、口元を少し緩めた。
その表情は、人間の姿だった頃とよく似ていた。
黒凪はそのことに気づき、少しだけ目を細めた。
姿は変わっても、銀澪は銀澪なのだ。
当たり前のことだったが、改めてそう感じた。
◇
しばらく歩く練習をした後、黒凪は銀澪を沢の近くへ案内した。
銀澪は大きな身体を慎重に動かしながら、彼女の後についていく。
草地を進むたびに、白銀の鱗が朝日を受けて輝いた。
沢の近くまで来ると、黒凪は足を止めた。
「……ここなら、姿が映ると思うわ」
銀澪も歩みを止めた。
目の前には、小さな水たまりのように広がった浅い淵があった。
周囲を岩に囲まれているため、流れは穏やかだ。
水面には、青空と白い雲が映っている。
銀澪はゆっくりと首を下ろした。
すると。
『…………』
水面に、一頭の白龍が映っていた。
枝分かれした白い角。
長い髭。
銀色に輝く鱗。
そして、蒼と紅の瞳。
銀澪は、しばらく動けなかった。
これが、自分。
今の自分の姿。
人間だった頃、何度も想像していた。
龍になれたら、どんな姿になるだろう。
白い鱗がいい。
大きな角がほしい。
長い身体で、空を自由に泳いでみたい。
そんな夢を、何度も描いてきた。
けれど。
実際に目の前へ現れた姿は、想像していたものよりもずっと鮮やかだった。
銀澪はゆっくりと右の前脚を動かした。
水面の白龍も、同じように動く。
首を傾げる。
水面の龍も、首を傾げた。
『……僕だ』
静かな声が届いた。
『……これが、僕なんだ』
銀澪の胸の奥に、熱いものが広がっていく。
嬉しかった。
ただ、それだけではなかった。
人間だった頃の自分。
その記憶が、今もはっきりと残っている。
家族のこと。
暮らしていた場所。
好きだったもの。
そして、龍に憧れていた気持ち。
それらを持ったまま、自分は今、白龍になっている。
銀澪は水面を見つめた。
すると、ふと夢の光景が浮かんだ。
雨の橋。
銀色の鈴。
そして、水たまりに映っていた白龍。
『…………』
似ている。
夢の中で見た龍と、今の自分。
その姿は、確かによく似ていた。
けれど、銀澪はすぐに首を振った。
今は、答えを急ぐときではない。
夢の中の白龍が何だったのか。
それは、まだ分からない。
ただ一つ、確かなことがある。
今、水面に映っているのは、自分自身だ。
『……黒凪さん』
銀澪が静かに呼びかける。
「何?」
隣で、黒凪が顔を上げた。
『……僕、やっぱり龍になれてよかったです』
黒凪は一瞬、目を丸くした。
それから、ゆっくりと微笑む。
「……そう」
彼女は銀澪の姿を見上げた。
白銀の鱗。
長くしなやかな身体。
そして、蒼と紅の瞳。
「……私も、そう思うわ」
銀澪が顔を向ける。
黒凪は少しだけ照れくさそうに笑った。
「あなたが嬉しそうにしているのを見ていると、私まで嬉しくなるもの」
その言葉に、銀澪はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと首を下ろす。
『……黒凪さん』
「何?」
『……僕の姿、どうですか?』
黒凪は目を瞬かせた。
それから、少しだけ考える。
目の前の白龍を、改めて見つめた。
朝日を受ける白銀の鱗。
長い角。
そして、水面に映る蒼と紅の瞳。
黒凪は自然と微笑んだ。
「……とても綺麗よ」
銀澪の動きが止まった。
『……え?』
「綺麗だと言ったの」
黒凪は少しだけ笑った。
「初めてあなたに会ったとき、私の角や尻尾を見て、そう言ってくれたでしょう?」
銀澪はしばらく黙っていた。
あの日のことを思い出す。
雨の降る山道。
初めて出会った黒龍の女性。
そして、何の迷いもなく口にしてしまった言葉。
『……覚えていたんですね』
「もちろん」
黒凪は穏やかに頷いた。
「だから、今度は私が言う番ね」
銀澪は少し照れくさそうに首を下げた。
『……ありがとうございます』
黒凪は小さく笑った。
「どういたしまして」
沢の水面には、白龍と黒龍の影が並んでいた。
ただし、今は片方だけが真龍の姿だ。
黒凪はその光景を見つめながら、静かに思った。
いつか、この青年が自由に空を飛ぶ日が来るのだろう。
そのとき、自分はどんな気持ちになるのだろうか。
少しだけ、楽しみだった。
◇
変身を始めてから、すでに一時間近くが経っていた。
黒凪は銀澪の様子を確かめ、そろそろ人の姿へ戻るよう勧めた。
「……今日は、このくらいにしましょうか」
銀澪は少しだけ名残惜しそうに首を動かした。
『……もう少し、この姿でいたい気もしますけど』
「気持ちは分かるわ。でも、初めての変身でしょう? 思っている以上に身体へ負担がかかっているかもしれないわ」
『……そうですね』
銀澪は素直に頷いた。
黒凪は草地の中央へ移動し、彼を呼んだ。
「まずは、身体の重さを感じて。変身するときと同じように、無理に力を込めなくていいから」
銀澪は目を閉じた。
四本の脚。
長い身体。
白銀の鱗。
そして、枝分かれした角。
そのすべてを、ゆっくりと感じ取る。
今度は、身体を小さくするというより、慣れ親しんだ龍人の姿へ戻るような感覚だった。
胸の奥に温かな流れが生まれ、身体全体へ広がっていく。
淡い光が白銀の鱗を包み始めた。
長い身体が少しずつ縮まり、四本の脚が人間に近い形へ戻っていく。
やがて、光が静かに消えた。
草地には、白銀の髪を持つ青年が立っていた。
額には枝分かれした角。
背後には長い尻尾。
右の瞳は蒼く、左の瞳は紅い。
銀澪はゆっくりと目を開いた。
「……戻れた」
自分の両手を確かめる。
指の数。
手のひらの感覚。
そして、二本の脚で立つ身体。
すべて、いつもの龍人の姿だった。
「……どう?」
黒凪が尋ねる。
「……不思議な感じです」
銀澪は少し笑った。
「さっきまで四本の脚で歩いていたのに、今は二本で立っているんですよね」
黒凪は小さく頷いた。
「ええ。最初は、その違いにも慣れないものよ」
銀澪は一歩踏み出した。
しかし、その瞬間。
「……あれ?」
身体が少しだけ横へ傾いた。
慌てて足を踏み直す。
黒凪が素早く近づき、銀澪の腕を支えた。
「……大丈夫?」
「……はい。ちょっと、足元が変な感じで」
「無理に歩かなくていいわ。少し座りましょう」
黒凪は銀澪を草地の端へ案内した。
二人は平らな岩に腰を下ろす。
銀澪は深く息を吐いた。
「……思ったより、疲れますね」
「そうでしょう? 身体の形が大きく変わったんだもの」
黒凪は水筒を取り出し、銀澪へ渡した。
「まずは水分を取って。それから、しばらく休憩しましょう」
「はい」
銀澪は水筒を受け取り、ゆっくりと飲んだ。
冷たいお茶が喉を通る。
身体の奥に残っていた熱が、少しずつ収まっていった。
黒凪は隣で、銀澪の顔色を確かめている。
「……頭痛はない?」
「ありません」
「水の感覚は?」
「今は普通です。さっきみたいに広がりすぎる感じもありません」
「そう。なら、ひとまず安心ね」
黒凪は小さく息を吐いた。
銀澪はその様子を見て、少しだけ笑った。
「……黒凪さん」
「何?」
「心配かけましたね」
黒凪は一瞬、目を丸くした。
それから、少しだけ呆れたように微笑む。
「……当たり前でしょう。初めての変身なんだから」
「……そうですよね」
「それに、あなたはまだ自分の力を全部理解しているわけじゃないもの。心配くらいするわよ」
黒凪は少しだけ声を和らげた。
「でも、今日は本当によく頑張ったわ」
銀澪は顔を上げた。
黒凪は穏やかに微笑んでいた。
「おめでとう、銀澪」
その言葉を聞いた瞬間。
銀澪は、ようやく実感した。
自分は今日、初めて完全な白龍になったのだ。
人間だった頃から、何度も夢見ていた姿。
その姿で歩き、身体を動かし、水面に映る自分を見た。
あれは夢ではない。
確かに、現実だった。
「……ありがとうございます」
銀澪は静かに答えた。
黒凪は微笑んだ。
「どういたしまして」
そして、少しだけいたずらっぽい顔になる。
「でも、次はもう少し上手に歩けるようにならないとね」
銀澪は苦笑した。
「……ですよね」
「ふふっ。慌てなくていいわ。まずは今日の成功を喜びましょう」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
◇
休憩を終えた後、二人は用意してきた昼食を食べることにした。
黒凪が包みを広げると、中にはおにぎりが四つ並んでいた。
具は鮭と梅干し。
それに、小さな容器へ入った卵焼きと漬物が添えられている。
「……美味しそうですね」
銀澪が呟く。
「ふふっ。今日は頑張ったものね。しっかり食べなさい」
二人は草地の端に座り、昼食を食べ始めた。
銀澪はおにぎりを一口食べた。
塩加減がちょうどよく、温かさは失われていたものの、米の甘みがしっかりと感じられた。
「……美味しい」
「そう? よかった」
黒凪もおにぎりを手に取った。
しばらくは、穏やかな時間が流れた。
山の風が草を揺らし、遠くでは小さな滝が流れている。
銀澪はふと、隣に座る黒凪へ目を向けた。
「……黒凪さん」
「何?」
「一つ、聞いてもいいですか?」
「もちろん」
銀澪は少しだけ考えた。
「……僕の龍の姿って、普通の白龍と何か違いましたか?」
黒凪の手が止まった。
銀澪は続ける。
「自分で見た感じだと、想像していた白龍に近かったんですけど……黒凪さんから見たら、どうだったのかなって」
黒凪はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと口を開く。
「……そうね」
彼女は銀澪の顔を見つめた。
右が蒼、左が紅の瞳。
その色は、真龍の姿でも変わっていなかった。
「……一つだけ、気になったことがあるわ」
銀澪が顔を上げる。
「……何でしょう?」
「あなたの鱗よ」
「……鱗?」
「ええ。白銀の鱗の根元に、とても細い紋様が浮かんでいたの」
銀澪は自分の腕へ目を向けた。
今は人間に近い皮膚へ戻っている。
「……どんな模様ですか?」
「水の流れに似ていたわ。それも、身体の左右で少し色が違っていたの」
黒凪は静かに続けた。
「右側は淡い蒼。左側は、薄い紅」
銀澪は目を見開いた。
「……瞳と同じですね」
「ええ」
黒凪は頷いた。
「ただ、私もすべての白龍を知っているわけじゃない。だから、それが珍しい特徴なのか、何か別の意味を持つものなのかは分からないわ」
銀澪は少し考えた。
白い鱗。
蒼と紅の瞳。
そして、身体の左右に現れた紋様。
確かに、少し不思議だった。
「……水葉さんなら、何か分かるでしょうか」
「そうね。今度、相談してみてもいいかもしれないわ」
黒凪は穏やかに答えた。
「でも、今日は変身できたことを喜びましょう。謎を解くのは、また別の日でもいいでしょう?」
銀澪は一瞬、目を丸くした。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……そうですね」
彼は残っていたおにぎりへ手を伸ばした。
「今日は、いい日ですから」
黒凪も微笑んだ。
「ええ。本当に」
◇
屋敷へ戻った頃には、午後の日差しが少し傾き始めていた。
銀澪は玄関で靴を脱ぎ、ゆっくりと廊下へ上がった。
身体はまだ少し重い。
けれど、疲労の奥には、確かな満足感があった。
黒凪は先に台所へ向かい、温かいお茶を用意していた。
「……銀澪」
居間から声が聞こえる。
「はい?」
「今日はもう、ゆっくり休みなさいね。夕食は私が作るから」
銀澪は少し考えた。
いつもなら、何か手伝わせてほしいと言っていただろう。
けれど今日は、素直に頷いた。
「……分かりました。お言葉に甘えます」
黒凪は少し驚いたように瞬きをした。
そして、満足そうに微笑む。
「……よろしい」
銀澪は小さく笑った。
それから、ふと玄関の方へ目を向ける。
山の奥に建つ古い屋敷。
自分がここへ来てから、まだ十日余りしか経っていない。
けれど、今では帰ってくると自然に安心できる場所になっていた。
銀澪は少しだけ照れくさそうに笑った。
「……ただいま、黒凪さん」
黒凪の手が止まった。
その言葉は、あまりにも自然に口にされたものだった。
ただいま。
帰ってきた人が、家にいる誰かへ伝える言葉。
黒凪はしばらく銀澪を見つめていた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……おかえりなさい、銀澪」
銀澪も微笑んだ。
それだけのやり取りだった。
けれど、二人にとっては、少しだけ特別なものになった。
◇
その夜。
銀澪は客間で、今日の出来事をノートへ書き留めていた。
初めて真龍の姿になれたこと。
四本の脚で歩いたこと。
沢の水面に、自分の姿が映っていたこと。
そして、黒凪が綺麗だと言ってくれたこと。
銀澪はそこまで書き、少しだけ手を止めた。
「……改めて考えると、すごい一日だったな」
小さく呟く。
人間だった頃。
自分は、龍になりたいと何度も願っていた。
その願いが、今は現実になっている。
けれど、ただ姿が変わっただけではない。
龍としての身体を知り、力の使い方を学び、そして誰かと一緒に暮らしている。
そのすべてが、今の自分の人生だった。
銀澪はノートの最後に、一つだけ書き加えた。
『今日、初めて本当の白龍になれた。』
そして、その下にもう一文。
『いつか、空を飛びたい。』
書き終えた後、銀澪はペンを置いた。
障子を少し開けると、庭には月明かりが差し込んでいた。
池の水面には、淡い光が映っている。
銀澪はその景色を眺めながら、ゆっくりと微笑んだ。
「……次は、空だな」
小さく呟く。
まだ、その日は遠いのかもしれない。
けれど、今日の自分なら、いつか必ずたどり着けるような気がした。
◇
一方、黒凪は書庫で、今日の記録を整理していた。
机の上には、銀澪の変身について書き留めたノートが置かれている。
白銀の鱗。
枝分かれした角。
蒼と紅の瞳。
そして、身体の左右に浮かんでいた細い紋様。
黒凪は、その最後の項目へ目を向けた。
「……左右で色が違う鱗紋、ね」
小さく呟く。
長い年月の中で、さまざまな龍を見てきた。
けれど、あのような紋様は、記憶にない。
もちろん、それだけで特別な血筋だとは断定できない。
ただ、銀澪の持つ水の感覚と合わせて考えると、何かが気になった。
黒凪は机の引き出しを開け、祖母が残した木札を取り出した。
二匹の龍が向かい合う紋様。
その中央には、月のような形が刻まれている。
黒凪は木札を見つめた。
今日見た銀澪の鱗紋。
右側に淡い蒼。
左側に薄い紅。
それらが身体の中央へ向かうように伸びていたことを思い出す。
「……まさか、ね」
黒凪は小さく首を振った。
似ているように見えるだけかもしれない。
古い紋様と、龍の身体に現れた特徴を、安易に結びつけるべきではない。
そう考え、木札を机へ置いた。
しかし、その手が止まる。
今日、初めて真龍になった銀澪。
水面に映る自分の姿を見つめ、言葉を失っていた。
そして、嬉しそうに呟いた言葉。
『……これが、僕なんだ』
黒凪は静かに目を細めた。
あの表情が、忘れられなかった。
長い年月を生きてきた自分にとって、龍の姿になることは当たり前だった。
けれど、銀澪にとっては違う。
何年も、何十年も憧れ続けた姿。
それを初めて自分のものとして受け止めた瞬間だったのだ。
黒凪は自然と微笑んだ。
「……本当に、嬉しそうだったわね」
小さく呟く。
そして、ふと気づいた。
自分もまた、今日の出来事を嬉しく感じている。
銀澪が変身できたこと。
彼が怪我をせずに戻れたこと。
そして、帰り際に何気なく口にした言葉。
『……ただいま、黒凪さん』
黒凪はしばらく、その言葉を思い返していた。
ただいま。
おかえり。
昔は、この屋敷でも毎日のように交わされていた言葉だった。
祖母がいて、家族がいて。
誰かが帰ってくれば、別の誰かが迎える。
それが当たり前だった。
けれど、いつしか屋敷は静かになり、その言葉を交わす相手もいなくなっていた。
黒凪は小さく息を吐いた。
「……また、聞けるようになったのね」
その声には、わずかな懐かしさがあった。
黒凪は机の上の記録を閉じ、立ち上がった。
銀澪の転生。
水脈の異変。
双龍の紋様。
調べるべきことは、まだ山ほどある。
けれど、今夜はそれらを少しだけ脇へ置いておきたかった。
今日、銀澪は初めて白龍になった。
それは、彼にとって大切な一日だった。
そして、自分にとっても。
黒凪は書庫の灯りを消し、廊下へ出た。
窓の外には、月明かりが広がっている。
庭の池には、白い月が映っていた。
「……銀澪」
小さく名前を呟く。
「いつか、本当に空を飛べるようになるといいわね」
黒凪は静かに微笑んだ。
そのときが来たら、自分も一緒に飛んでみようか。
長い年月の中で、何度も眺めてきた山々。
何度も越えてきた空。
けれど、誰かと一緒なら、また違って見えるのかもしれない。
そんな考えが、ふと浮かんだ。
黒凪は少しだけ驚いたように瞬きをした。
そして、小さく笑った。
「……ふふっ。私も、随分変わったものね」
廊下の向こうには、銀澪の眠る客間がある。
明日になれば、また顔を合わせる。
食卓を囲み、庭仕事をして、何気ない会話を交わす。
そして、いつか。
白龍となった銀澪が、空を自由に泳ぐ姿を見る日が来る。
その未来を、黒凪は少し楽しみにしていた。
山の奥に建つ古い和風屋敷。
その夜、白龍と黒龍は、同じ屋根の下で静かな眠りについた。
銀澪はまだ知らない。
自分の真龍の姿に現れた鱗紋が、黒凪の一族に伝わる古い記録と、どこか似ていることを。
そして、黒凪もまだ知らない。
銀澪と共に過ごす何気ない日々が、いつしか自分の人生にとって、かけがえのないものになっていくことを。
ただ、今は。
二人の間に、小さな約束が生まれていた。
いつか、一緒に空を飛ぶ。
まだ言葉にして交わしたわけではない。
それでも、黒凪の胸には、そんな未来が静かに浮かんでいた。




