第十三話 黒龍の知らない笑顔
朝、目を覚ました銀澪は、自分の足が二本しかないことに違和感を覚えた。
もちろん、それが今の龍人の姿としては普通なのだと理解している。昨夜もこの姿で布団に入り、何の問題もなく眠りについたはずだった。
それなのに、身体を起こそうとした瞬間、無意識にもう二本の脚を動かそうとしていた。
「……あれ?」
銀澪は布団の上で動きを止めた。
右手を持ち上げる。
指は五本。
手の甲に鱗はなく、爪も人間と変わらない形をしている。
腰の後ろには白銀の尻尾が伸びていたが、昨日の真龍の姿に比べれば随分と短かった。
「……昨日の感覚が残ってるのかな」
小さく呟き、手を握ったり開いたりする。
昨日、銀澪は初めて完全な白龍へ変身した。
四本の脚で大地を踏み、長い身体を動かし、沢の水面に映った自分自身の姿を見た。
幼い頃から夢見ていたことが、ようやく現実になったのだ。
その興奮は、今も胸の奥に残っている。
ただし、身体の方は少々疲れているらしい。
布団から立ち上がると、背中から腰にかけて、普段とは違う重さを感じた。
痛みというほどではない。
長い時間、使い慣れない筋肉を動かした後のような感覚だった。
「……今日は大人しくしておいた方がよさそうだな」
銀澪は苦笑した。
黒凪からも、初めて真龍になった翌日は無理をしないようにと言われていた。
今日は屋敷で過ごし、簡単な家事を手伝う程度にしておこう。
そう決めて、銀澪は布団を畳み始めた。
ところが、掛け布団を持ち上げようとした瞬間、身体がわずかに前へ傾いた。
「……おっと」
慌てて足を踏み直す。
昨日までなら、何も考えずにできていた動作だった。
けれど今は、一瞬だけ四本の脚で身体を支えようとしてしまう。
銀澪は思わず笑った。
「……龍になった後の方が、普通に歩くのが難しいなんて」
何とも贅沢な悩みである。
それでも、その不便ささえ少し嬉しかった。
昨日の出来事が夢ではなかった証拠のように思えたからだ。
◇
台所からは、出汁の香りが漂っていた。
銀澪が居間へ入ると、黒凪は鍋の火を弱めているところだった。
今日は薄い藤色の上着に黒いパンツを合わせ、腰にはいつものエプロンを結んでいる。漆黒の角と尻尾も出したままで、その姿はすっかり見慣れたものになっていた。
「おはようございます」
「あら、おはよう、銀澪」
黒凪は振り返り、彼の顔を見た。
「身体の調子はどう?」
「少し疲れが残っていますけど、大丈夫です。ただ……」
「ただ?」
「二本足で歩くのが、ちょっと変な感じで」
黒凪は一瞬、目を丸くした。
それから、納得したように笑う。
「ああ、真龍の感覚が残っているのね」
「やっぱり、そういうことってあるんですか?」
「ええ。初めて身体を大きく変えた後は、珍しくないわよ。私も昔、似たようなことがあったもの」
黒凪は鍋の蓋を閉じ、銀澪へ向き直った。
「だから今日は、あまり無理をしないこと。庭仕事も休んでいいわ」
「……でも、食器を並べるくらいなら」
「それくらいならお願いしようかしら」
銀澪がほっとした顔をすると、黒凪は小さく笑った。
「本当に、じっとしているのが苦手なのね」
「何もしないのも落ち着かなくて」
「だったら、食器を並べ終えたら座っていて。今日は少し話しておきたいこともあるの」
銀澪は食器棚へ向かいかけたところで振り返った。
「……何でしょう?」
「昨日の、あなたの龍の姿についてよ」
黒凪は食卓の端に置かれたノートへ目を向けた。
「水葉に相談するため、特徴を整理しておこうと思うの。あなたにも確認してもらった方がいいでしょう?」
「ああ、鱗の模様ですね」
「ええ。私の記憶だけで伝えるより、二人で確認した方が確かだから」
銀澪は頷いた。
昨日、真龍の姿になった自分には、白銀の鱗の根元に細かな紋様が浮かんでいたらしい。
身体の右側には淡い蒼。
左側には薄い紅。
瞳の色と同じ二色が、鱗の間を流れるように走っていたという。
自分では背中まで見ることができなかったため、詳しい形はまだ分からない。
「……水葉さんなら、何か知っているでしょうか」
「分からないわ。でも、あの子は古い龍の記録を随分集めているから、比較してもらう価値はあると思う」
黒凪は少し考えてから続けた。
「ただ、あなたの身体に関することだから、送る内容は一緒に決めましょうね」
銀澪は小さく頷いた。
「はい。お願いします」
「それと……」
黒凪は何かを思い出したように、居間の時計へ目を向けた。
「今日は昼前にお客様が来るの」
「……お客様?」
「ええ。昔から付き合いのある人よ。ずっと前に頼んでいたものを届けてくれることになっていてね」
銀澪は少し驚いた。
黒凪の屋敷に来客があるのは、彼が暮らし始めてから初めてだった。
「……僕も、ご挨拶した方がいいですよね」
「もちろん。でも、そんなに緊張しなくていいわよ」
黒凪は少し笑った。
「気さくな人だから、すぐに打ち解けられると思うわ」
それから、ふと真面目な表情になる。
「その人は、私が龍であることも知っているの」
銀澪が顔を上げた。
「……人間の方なんですか?」
「ええ。もう長い付き合いになるわ」
黒凪は穏やかに続けた。
「その家では、昔から私たちの秘密を守ってくれているの。だから、屋敷の中では角や尻尾を隠す必要もないわ」
「……そうなんですね」
「ただ、あなたの事情までは話していないの。どう説明するかは、あなた自身と相談したいと思って」
銀澪は少し考えた。
「……今は、黒凪さんのところで龍の生活を教えてもらっている、と伝えてもらえれば」
「ええ。それなら、私も説明しやすいわ」
黒凪は微笑んだ。
「じゃあ、そうしましょう」
二人は朝食の準備を再開した。
炊きたてのご飯。
豆腐と長ねぎの味噌汁。
焼き魚と、昨夜の残りの煮物。
いつもと変わらない食卓だった。
けれど、銀澪は少しだけ楽しみになっていた。
今日、黒凪の古い知人に会える。
水葉とはまた違う、彼女の昔を知る人。
その人の目には、黒凪がどんなふうに映っているのだろうか。
◇
午前十一時を少し過ぎた頃。
屋敷の門の方から、車のエンジン音が聞こえてきた。
黒凪は縁側でノートを広げていたが、その音に気づくと顔を上げた。
「あら、来たみたいね」
銀澪は隣で、彼女が描いていた絵を見つめていた。
そこには、昨日の自分の真龍の姿が描かれている。
長くしなやかな身体に、枝分かれした角。白銀の鱗が整然と重なり、身体の左右には色の異なる細い線が走っていた。
黒凪は絵を描くのも上手らしい。
少なくとも、銀澪が想像していた以上に、自分の姿が分かりやすく表現されていた。
「……続きは、あとにしましょうか」
「はい」
黒凪はノートを閉じて立ち上がった。
銀澪もその後へ続く。
玄関を抜け、石畳の道を歩いていくと、門の前に小さな車が停まっていた。
その脇には、一人の年配の女性が立っている。
年齢は七十代半ばほどだろうか。
短く切り揃えた白髪に、穏やかな目元。深緑色の上着を着ており、手には紺色の風呂敷包みを抱えていた。
女性は黒凪を見つけると、ぱっと表情を明るくした。
「おや、黒凪さん!」
「こんにちは、文枝さん。遠いところをありがとう」
「何言ってるんだい。これくらい、まだまだ平気だよ」
女性は笑いながら歩み寄った。
黒凪も自然に笑みを浮かべる。
「でも、山道は気をつけてね。最近、雨が多かったでしょう?」
「分かってるよ。無茶な運転はしないさ」
それから、女性は黒凪の隣にいる銀澪へ目を向けた。
「……おや?」
足を止める。
「珍しいねぇ。黒凪さんのところに、若いお客さんがいるなんて」
黒凪は頷いた。
「ええ。今、うちでしばらく一緒に暮らしているの」
「……一緒に?」
女性は少しだけ目を丸くした。
銀澪は一歩前へ出て、丁寧に頭を下げた。
「初めまして。銀澪といいます」
「銀澪さん、ね」
女性は微笑んだ。
「私は高瀬文枝。昔から、こちらのお屋敷にはお世話になっているの」
そして、黒凪の方を見る。
「……それにしても、あんたが誰かを家に泊めるなんてねぇ」
「……文枝さん」
黒凪が少し困ったように名前を呼んだ。
文枝は楽しそうに笑う。
「いやいや、悪い意味じゃないよ。珍しいこともあるもんだと思っただけさ」
黒凪は小さく息を吐いた。
「銀澪には、今いろいろ教えているところなの。少し事情があってね」
「そうかい」
文枝は銀澪へ顔を向けた。
「じゃあ、黒凪さんには厳しくされてるんじゃないかい?」
「……え?」
銀澪は思わず瞬きをした。
文枝は続ける。
「この人、昔から面倒見はいいんだけどね。教えるとなると、案外厳しいところがあるんだよ」
黒凪が眉を上げる。
「……文枝さん?」
しかし、銀澪は少し考えてから答えた。
「……確かに、危ないことをするときは厳しいですね」
「ほら、やっぱり」
文枝が笑った。
銀澪も続ける。
「でも、ちゃんと理由を説明してくれますし、無理なことはさせません。僕に合わせて教えてくれるので、すごく助かっています」
その言葉に、文枝の笑い声が止まった。
黒凪も少し驚いたように銀澪を見る。
銀澪は首を傾げた。
「……何か変でしたか?」
文枝は数秒間、銀澪を見つめていた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……いいや」
その声は、先ほどより少し柔らかかった。
「何でもないよ。いい先生に出会えたみたいで、よかったね」
銀澪は素直に頷いた。
「はい」
その隣で、黒凪が少しだけ視線を外した。
◇
居間へ通されると、文枝は風呂敷包みを食卓へ置いた。
黒凪が結び目をほどく。
中から現れたのは、二枚の座布団だった。
深い藍色の布地に、控えめな刺し子模様が施されている。
縁には細い銀糸が使われ、古い布の風合いを残しながらも、丁寧に補修されていた。
「……まあ」
黒凪が小さく声を漏らした。
「随分綺麗になったわね」
「元の布をなるべく残しておいたよ。全部新しくするのは簡単だけど、それじゃあ意味がないだろう?」
文枝は座布団を一枚持ち上げ、縁の部分を指差した。
「傷んでいたところは裏から補強してある。普段使いには十分だけど、あんまり乱暴に扱わないでおくれよ」
「ええ。もちろん」
黒凪は座布団を受け取り、指先で布地を撫でた。
その手つきは、とても丁寧だった。
銀澪は隣から覗き込む。
「……綺麗な模様ですね」
「そうだろう?」
文枝が嬉しそうに答える。
「これ、黒凪さんのお祖母様が昔使っていた布なんだよ」
銀澪は顔を上げた。
「……お祖母さんの?」
「ええ」
黒凪が頷いた。
「古い座布団だったから、随分傷んでしまってね。文枝さんにお願いして、直してもらっていたの」
銀澪はもう一度、布地を見た。
深い藍色。
細かな刺し子。
そして、長い年月を経ても残されている、柔らかな風合い。
黒凪が大切にしている理由が、少しだけ分かる気がした。
「……新しくするより、直して使う方がいいこともありますよね」
銀澪が呟く。
文枝は頷いた。
「そうなんだよ。特に、思い出があるものはね」
彼女は黒凪へ顔を向けた。
「この人、昔からそういうものを捨てられないんだ」
「……文枝さん」
黒凪が少し困ったように笑う。
文枝は気にした様子もなく続けた。
「家の古い道具も、着物も、壊れたら直して使う。新しいものを買った方が早いって言っても、なかなか聞かないんだから」
銀澪は少し笑った。
「……黒凪さんらしいですね」
「そうかい?」
「はい。古いものを、すごく大切にしているので」
黒凪は二人を見比べた。
「……何だか、私の話ばかりになっていない?」
文枝は楽しそうに笑った。
「そりゃあ、長い付き合いだからね。話すことはいくらでもあるよ」
銀澪も、つられて笑った。
黒凪は小さくため息をついたが、その口元には笑みが浮かんでいた。
◇
文枝の家は、代々、布の仕立てや修繕を仕事にしてきたという。
今では店そのものは娘夫婦に任せているが、文枝も頼まれれば針を持つ。
黒凪の屋敷との付き合いは、文枝が生まれるよりもずっと前から続いていた。
彼女の祖父母も、黒凪のことを知っていたらしい。
「……子どもの頃はね」
文枝は湯呑みを手に取りながら話し始めた。
「この屋敷へ来るのが、少し怖かったんだよ」
銀澪は驚いた。
「……怖かったんですか?」
「ああ。山の奥に大きな家があって、そこには年を取らない綺麗な女の人が住んでいる。そんな話を聞かされてごらん。子どもなら、そりゃあ怖がるさ」
文枝は笑った。
黒凪も少し懐かしそうに微笑む。
「……そんなふうに思われていたのね」
「そうだよ。初めて会ったときなんて、あたしは母親の後ろに隠れていたんだから」
「覚えているわ」
黒凪が頷いた。
「でも、その後は随分懐いてくれたでしょう?」
「そりゃあね。怖い人かと思ったら、お菓子を出してくれたんだから」
文枝は楽しそうに笑った。
「それに、あんたは何も聞かずに、あたしの話を聞いてくれた」
黒凪は少しだけ目を細めた。
「……そうだったかしら」
「そうだったよ」
文枝は湯呑みを置いた。
「子どもの頃、学校で嫌なことがあったり、家で叱られたりすると、よくここへ来たんだ。黒凪さんは、あたしが泣いていても、無理に笑わせようとはしなかった」
銀澪は黙って聞いていた。
「ただ、お茶を出して、話を聞いてくれたんだよ」
文枝は少し遠くを見るような目をした。
「それが、ありがたかったんだ」
黒凪は何も言わなかった。
ただ、湯呑みを両手で包み、静かに話を聞いていた。
文枝は小さく笑う。
「……まあ、若い頃には意見が合わなくて喧嘩もしたけどね」
黒凪が顔を上げた。
「あら。あれは文枝さんが頑固だったからでしょう?」
「何言ってるんだい。黒凪さんだって、相当頑固だったじゃないか」
銀澪は思わず笑ってしまった。
「……何があったんですか?」
文枝は少し考えた。
「そうだねぇ。あたしが町の外へ出て仕事を覚えたいと言ったときだったかな」
黒凪は小さく頷いた。
「……ああ、あのときね」
「うちの親は反対していたんだよ。家業を手伝えってね。でも、あたしは別の土地でも修業してみたかった」
文枝は銀澪へ顔を向けた。
「それで黒凪さんに相談したんだ」
「……黒凪さんは、何て?」
銀澪が尋ねる。
文枝は微笑んだ。
「『自分で選んだ道なら、最後まで自分の足で歩いてみなさい』って」
銀澪は黒凪を見た。
彼女は少し照れくさそうに視線を外している。
「ただし、その後に続きがあったのよ」
黒凪が口を開いた。
「失敗したら、帰ってくればいい。戻れる場所まで捨てる必要はないって」
文枝は静かに頷いた。
「……そう。それも言ってくれた」
しばらく、誰も話さなかった。
庭からは、小さな滝の音が聞こえている。
文枝は湯呑みへ視線を落とし、穏やかに続けた。
「あたしは結局、町の外へ出て修業したよ。うまくいかないこともあったし、泣きたくなることもあった。でも、あのときの言葉があったから、帰りたいときには帰ってこられると思えたんだ」
銀澪は静かに頷いた。
黒凪が以前、水守の里について話してくれたことを思い出す。
里を離れる者の自由を妨げてはならない。
その教えは、彼女自身の生き方にも深く根づいているのだろう。
「……黒凪さんらしいですね」
銀澪が呟くと、黒凪は少しだけ困ったように笑った。
「……また、それ?」
「だって、本当にそう思うので」
文枝は二人のやり取りを見て、小さく笑った。
しかし、その笑みには、先ほどとは少し違うものが混じっていた。
何かを確かめるように、黒凪の顔を見つめている。
「……どうしたの、文枝さん?」
黒凪が尋ねた。
文枝はゆっくりと首を振った。
「……いや、何でもないよ」
そう答えた後、少しだけ微笑む。
「ただ、久しぶりにいいものを見たなと思ってね」
黒凪は不思議そうに首を傾げた。
銀澪も、その言葉の意味は分からなかった。
◇
昼食は、三人で食卓を囲むことになった。
黒凪が朝のうちに下ごしらえをしていた炊き込みご飯に、厚揚げと大根の煮物。それから、銀澪が用意した青菜のおひたしと、きのこの澄まし汁。
銀澪は食器を並べながら、いつもより少し緊張していた。
黒凪以外の誰かに、自分が作った料理を食べてもらうのは初めてだったからだ。
「……お口に合えばいいんですけど」
そう言いながら澄まし汁を置くと、文枝が笑った。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。いい匂いがしてるじゃないか」
「……ありがとうございます」
三人は手を合わせ、食事を始めた。
文枝はまず澄まし汁を飲み、目を細めた。
「……ああ、美味しいねぇ」
銀澪は思わず顔を上げた。
「本当ですか?」
「ああ。出汁がよく出てる。きのこの香りもいいね」
文枝は小さく頷いた。
「銀澪さんが作ったのかい?」
「はい。黒凪さんに教わりながらですけど」
「へえ。黒凪さん、いい弟子ができたじゃないか」
黒凪は炊き込みご飯をよそいながら微笑んだ。
「ええ。料理はもともとできる人なのよ。私の方が教わることもあるくらい」
「……黒凪さん」
銀澪は少し照れくさそうに笑った。
文枝は二人の様子を見て、また小さく笑った。
「……そうかい、そうかい」
それから、黒凪が銀澪の前へ小鉢を置いた。
「銀澪。こっちのおひたしも食べてね。少し多めに作ってあるから」
「あ、はい」
「それと、炊き込みご飯はおかわりしていいわよ。昨日、随分頑張ったでしょう?」
「……ありがとうございます。でも、さすがに昨日ほどは食べられないかもしれません」
「あら、そう?」
黒凪は少し残念そうに笑った。
「昨日は、変身した後におにぎりをあっという間に食べていたのに」
「……あれは、すごくお腹が空いていたので」
銀澪が苦笑すると、文枝が目を丸くした。
「……変身?」
銀澪は一瞬、口を閉じた。
黒凪が頷く。
「ええ。昨日、銀澪が初めて真龍の姿になれたの」
「……へえ!」
文枝は驚いたように銀澪を見た。
「それはおめでたいじゃないか!」
銀澪は少し照れくさそうに頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「そうかい。初めて龍になれたのかい」
文枝は嬉しそうに笑った。
「そりゃあ、黒凪さんも嬉しかっただろうねぇ」
黒凪は少しだけ瞬きをした。
「……え?」
「だって、ずっと練習を見ていたんだろう?」
「ええ。それはそうだけれど……」
文枝は何でもないことのように続けた。
「誰かができなかったことをできるようになるって、嬉しいもんだよ。教えていた人なら、なおさらさ」
黒凪はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと微笑む。
「……そうね」
そして、銀澪へ顔を向けた。
「昨日は、私も嬉しかったわ」
銀澪は少し驚いた。
黒凪はそれ以上何も言わず、炊き込みご飯を一口食べた。
その横顔には、柔らかな笑みが残っていた。
文枝はその様子を、静かに見つめていた。
◇
食後、銀澪は食器を片づけるため台所へ向かった。
黒凪も立ち上がろうとしたが、文枝が軽く手を上げた。
「黒凪さん。少し、ここで話していかないかい?」
黒凪は首を傾げた。
「……何かしら?」
「いや、大した話じゃないよ」
文枝は穏やかに微笑んだ。
「たまには、昔話でもしようと思ってね」
黒凪は少し考えた後、席へ戻った。
銀澪は二人へ声をかける。
「じゃあ、食器は僕が片づけておきますね」
「大丈夫? 身体はまだ疲れているでしょう?」
黒凪が尋ねた。
「はい。洗い物くらいなら平気です」
銀澪は笑って答えた。
「お二人は、ゆっくりお話ししていてください」
黒凪は少し迷ったが、やがて頷いた。
「……分かったわ。無理はしないでね」
「はい」
銀澪は食器を持ち、台所へ向かった。
その背中を見送ってから、文枝は静かに口を開いた。
「……いい子だねぇ」
黒凪は頷いた。
「ええ。少し遠慮がちなところはあるけれど、真面目で優しい人よ」
「そうみたいだね」
文枝は湯呑みを手に取った。
「それに、随分あんたのことを見ている」
黒凪が顔を上げた。
「……私?」
「ああ。あんたが何を大切にしているのか、少しずつ知ろうとしているんだろうね」
黒凪は何も言わなかった。
文枝は穏やかな表情で続けた。
「さっきも、座布団のことを聞いていただろう? ただ古いからって、捨てればいいとは言わなかった」
「……ええ」
「それに、食事のときもそうだよ。あんたが気を遣っているのを、ちゃんと受け取っていた」
黒凪は少し考えた。
銀澪は、助けてもらうことに慣れていない。
最初の頃は、何かをしてもらうたびに恐縮していた。
けれど最近は、黒凪が作った料理を素直に喜び、自分からも何かを返そうとしてくれる。
それが、少しずつ自然になってきた。
「……そうね」
黒凪は静かに頷いた。
「私も、あの人から教わることがあるわ」
文枝はその言葉を聞き、少しだけ目を細めた。
それから、ふと微笑む。
「……黒凪さん」
「何?」
「最近、よく笑うようになったね」
黒凪は一瞬、動きを止めた。
「……そうかしら」
「ああ」
文枝は迷わず頷いた。
「昔から笑わない人じゃなかったけど、今とは少し違うね」
黒凪は不思議そうに首を傾げた。
「……どう違うの?」
文枝はしばらく考えた。
そして、ゆっくりと言葉を選んだ。
「……前はね、笑っていても、どこか遠くを見ているようなところがあったんだよ」
黒凪は黙って聞いていた。
「もちろん、楽しいときはちゃんと笑っていたさ。でも、その後はすぐにいつもの静かな顔へ戻っていた」
文枝は庭へ目を向けた。
「この家が静かになってからは、特にね」
「…………」
「でも今日は、違う」
文枝は黒凪へ向き直った。
「銀澪さんと話しているとき、あんたは笑った後も、ずっと楽しそうなんだよ」
黒凪の金色の瞳が、わずかに揺れた。
「……私が?」
「ああ」
文枝は穏やかに微笑んだ。
「きっと、自分じゃ気づいていないんだろうね」
黒凪は視線を落とした。
何かを言おうとしたものの、言葉が見つからなかった。
文枝はそれ以上、無理に話を続けなかった。
ただ、窓の外の庭を眺めている。
しばらくして、黒凪が小さく口を開いた。
「……あの人が来てから、家の中が少し変わったの」
文枝は静かに頷いた。
「そうだろうね」
「朝起きると、台所から音が聞こえてくることがあるわ。夕食を作るときも、何を食べたいか相談するようになった」
黒凪は自分の湯呑みを見つめた。
「庭仕事をしていると、向こうから声がかかるの。何か手伝うことはないかって」
少しだけ笑う。
「……何でもないことばかりでしょう?」
「そうだね」
文枝は頷いた。
「でも、そういうことが大事なんだよ」
黒凪は顔を上げた。
文枝は静かに続けた。
「誰かと一緒に暮らすって、大きな出来事ばかりじゃないからね。今日のお昼は何にしようとか、雨が降りそうだから洗濯物を取り込もうとか」
彼女は少しだけ目を細めた。
「そういう小さなことを、一緒に考える相手がいるってことなんだと思うよ」
黒凪は何も言わなかった。
ただ、その言葉を静かに受け止めていた。
やがて文枝が、少しだけ笑った。
「……まあ、あんたは長生きだからね。こういう時間がどれほど大切か、あたしよりずっとよく知っているかもしれないけど」
黒凪はゆっくりと首を振った。
「……いいえ」
その声は、少しだけ柔らかかった。
「長く生きているからこそ、忘れてしまうこともあるわ」
文枝は静かに頷いた。
「……そうかい」
二人はしばらく、庭を眺めていた。
◇
午後二時を過ぎた頃、文枝は帰り支度を始めた。
黒凪と銀澪は玄関まで見送ることにした。
修繕した座布団は居間へ運び、代わりに黒凪が用意した茶葉と菓子を小さな袋へ入れて渡した。
「……こんなに気を遣わなくてもいいのに」
文枝が笑う。
「いいのよ。いつもお世話になっているもの」
「まったく。あんたは昔からそうだねぇ」
文枝は袋を受け取り、銀澪へ顔を向けた。
「銀澪さん」
「はい」
「今日は、いろいろありがとうね」
銀澪は頭を下げた。
「こちらこそ。黒凪さんの昔のお話を聞けて、楽しかったです」
「そうかい。それならよかった」
文枝は少しだけ笑った。
「でも、まだまだ話せることはあるよ」
黒凪が眉を上げた。
「……文枝さん?」
「冗談だよ、冗談」
文枝は楽しそうに笑った。
銀澪もつられて笑う。
それから、文枝は少しだけ真面目な顔になった。
「……銀澪さん」
「はい?」
「黒凪さんはね、昔から人のことをよく見ているんだ」
銀澪は静かに頷いた。
「……はい。僕も、そう思います」
「困っている人がいれば手を貸すし、誰かが悩んでいれば話を聞いてくれる。でも、自分のことになると、案外何も言わないところがある」
銀澪は黒凪へ目を向けた。
黒凪は少し困ったように笑っている。
「……文枝さん。そんなことまで言わなくても」
「いいじゃないか。せっかく話せる相手ができたんだから」
文枝は穏やかに続けた。
「だから、たまには黒凪さんの話も聞いてやっておくれ」
銀澪はしばらく考えた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
そして、黒凪へ向き直る。
「もちろんです」
黒凪は少し驚いたように目を見開いた。
銀澪は自然に続けた。
「黒凪さんには、僕の話をたくさん聞いてもらっていますから。今度は、黒凪さんの話も聞かせてほしいです」
黒凪は何も言わなかった。
ただ、彼の顔を見つめていた。
文枝はその様子を見て、小さく微笑んだ。
「……そうかい」
それから、二人へ向き直った。
「じゃあ、そろそろ帰るよ。日が暮れる前に山を下りたいからね」
黒凪が頷く。
「ええ。気をつけて帰ってね」
「もちろんさ」
文枝は車へ向かった。
しかし、運転席の扉を開ける前に、ふと思い出したように振り返った。
「……ああ、そうだ」
二人が顔を上げる。
「写真を一枚、撮らせてもらってもいいかい?」
黒凪は少し驚いた。
「……写真?」
「ああ。せっかく久しぶりに来たんだし、記念にね」
文枝は鞄からスマートフォンを取り出した。
「もちろん、人に見せるつもりはないよ。家の中のものを勝手に外へ出すような真似はしないさ」
黒凪は少し考えた。
それから、銀澪へ顔を向ける。
「……銀澪はどう?」
銀澪は頷いた。
「僕は大丈夫です」
「そう。なら、一枚だけお願いしようかしら」
文枝は嬉しそうに微笑んだ。
三人は門の内側へ戻り、屋敷の庭を背景に並んだ。
黒凪が中央。
その右に銀澪。
左に文枝。
文枝はスマートフォンを小さな台へ置き、撮影の準備を整えた。
「……じゃあ、撮るよ」
銀澪は少しだけ姿勢を正した。
黒凪も隣で微笑む。
しかし、文枝は画面を見ながら首を傾げた。
「……黒凪さん」
「何?」
「そんなにかしこまらなくてもいいんだよ」
黒凪は少し困ったように笑った。
「……そう言われても」
「いつもどおりでいいのさ」
文枝は楽しそうに続けた。
「ほら、銀澪さん。さっきの話、もう一度してみたらどうだい?」
銀澪は首を傾げた。
「……さっきの話?」
「黒凪さんの昔話をもっと聞きたいって話さ」
銀澪は少し考えた。
それから、黒凪へ顔を向ける。
「……そういえば、黒凪さん」
「何?」
「今度、また子どもの頃のお話を聞かせてもらえませんか?」
黒凪は一瞬、目を丸くした。
「……また?」
「はい。庭の池をひっくり返した話とか、物干し台を倒した話とか」
「……銀澪」
黒凪が少しだけ頬を膨らませる。
「あなた、そういう話ばかり覚えているのね」
「だって、面白かったので」
「もう……!」
黒凪は思わず笑ってしまった。
その瞬間。
小さな電子音が響いた。
文枝が設定していた撮影の合図だった。
三人は同時に顔を向ける。
少し遅れて、もう一度電子音が鳴った。
「……あら?」
黒凪が瞬きをする。
文枝はスマートフォンを確認し、楽しそうに笑った。
「……ふふっ。いい写真が撮れたよ」
画面には、庭を背景に並ぶ三人の姿が映っていた。
中央の黒凪は、少しだけ顔を横へ向けている。
その隣で銀澪が笑っていた。
文枝も、楽しそうに微笑んでいる。
そして、黒凪の表情。
それは、普段の落ち着いた微笑みとは少し違っていた。
目元が柔らかく緩み、口元には飾り気のない笑顔が浮かんでいる。
まるで、何も考えずに笑ってしまった瞬間を切り取ったようだった。
「……あら」
黒凪は画面を見つめた。
そして、小さく呟く。
「……私、こんな顔をしていたのね」
文枝は穏やかに微笑んだ。
「そうだよ」
その声は、とても柔らかかった。
「……今日、何度も見た顔さ」
黒凪は何も言わなかった。
ただ、画面に映る自分の姿を見つめていた。
◇
文枝を見送った後、二人は居間へ戻った。
庭には午後の光が差し込み、池の水面には細かな波紋が広がっている。
黒凪は先ほどの写真を自分のスマートフォンにも受け取っていた。
彼女は縁側に腰を下ろし、画面を見つめている。
銀澪は隣へ座った。
「……いい写真でしたね」
黒凪は小さく頷いた。
「ええ」
そして、少しだけ笑う。
「……でも、何だか不思議だわ」
「何がですか?」
「自分では、いつもと同じように過ごしているつもりだったの」
黒凪は画面を見つめたまま続けた。
「朝起きて、食事を作って、庭の手入れをして。誰かが来たらお茶を出して……」
少しだけ言葉を切る。
「……でも、文枝さんには違って見えたのね」
銀澪はしばらく考えた。
「……黒凪さん」
「何?」
「僕は、今の黒凪さんしか知りません」
黒凪が顔を向ける。
銀澪は穏やかに続けた。
「昔の黒凪さんが、どんなふうに笑っていたのかも、どんな暮らしをしていたのかも、まだよく分からないです」
「……ええ」
「でも、今の黒凪さんが楽しそうにしていると、僕も嬉しいです」
黒凪の瞳が、わずかに揺れた。
銀澪は少し照れくさそうに笑った。
「……それだけじゃ、駄目ですか?」
黒凪はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと首を振った。
「……いいえ」
その声は、とても静かだった。
「十分よ」
黒凪はスマートフォンを膝の上へ置いた。
庭の木々が風に揺れている。
しばらく、二人の間に会話はなかった。
しかし、その沈黙は気まずいものではなかった。
やがて黒凪が、ぽつりと口を開いた。
「……文枝さんも、随分年を取ったわ」
銀澪は顔を向けた。
「……そうなんですね」
「ええ。初めて会ったときは、まだ小さな女の子だったのよ」
黒凪は少しだけ遠くを見るような目をした。
「お母さんの後ろに隠れて、私のことを怖がっていたわ。それが、いつの間にか大人になって、結婚して、子どもを育てて……」
彼女は静かに微笑んだ。
「……今では、お孫さんもいるの」
銀澪は黙って聞いていた。
「人間の一生は、私たち龍にとっては短いものよ」
黒凪は庭へ目を向けた。
「でも、その短い時間の中で、本当にたくさんのことを経験するのね」
銀澪はゆっくりと頷いた。
文枝の顔を思い出す。
白髪。
柔らかな目元。
何度も針仕事を重ねてきたのだろう、少し節の目立つ指。
その一つひとつに、長い年月が刻まれていた。
「……黒凪さんは、寂しくありませんか?」
銀澪は静かに尋ねた。
黒凪はすぐには答えなかった。
庭の池を見つめたまま、しばらく考えていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……寂しいわよ」
その答えは、思っていたよりも率直だった。
「文枝さんが子どもだった頃のことも、つい昨日のように覚えているもの。でも、あの人はもう、私よりずっと年上に見えるでしょう?」
黒凪は少しだけ笑った。
「……不思議なものね」
銀澪は静かに頷いた。
黒凪は続ける。
「昔はね、誰かと親しくなることが怖くなった時期もあったの」
銀澪が顔を上げる。
「……怖くなった?」
「ええ。いつか別れることが分かっているなら、最初から距離を置いた方がいいんじゃないかって」
黒凪は自分の手を見つめた。
長い年月を生きてきた。
その間に、数えきれないほどの出会いがあった。
親しくなった人。
共に笑った人。
家族のように過ごした人。
そして、もう会えなくなった人。
「……でも、そうしていると、今度は何も残らなくなるのよ」
黒凪は静かに続けた。
「別れが怖いから誰とも親しくならない。傷つきたくないから、何も大切にしない」
そこで、少しだけ言葉を止める。
「……それは、やっぱり寂しい生き方だと思ったの」
銀澪は黙って聞いていた。
黒凪は庭へ視線を戻した。
「文枝さんとも、いつか別れる日が来るでしょうね」
その声には、わずかな寂しさがあった。
「でも、今日会えてよかったと思うわ。あの人が笑ってくれて、昔の話をしてくれて……」
黒凪は膝の上のスマートフォンへ目を向けた。
「……こうして、写真も残ったもの」
銀澪はゆっくりと頷いた。
「……そうですね」
少し考えてから、静かに続ける。
「僕も、人間だった頃のことを忘れたくないです」
黒凪が顔を向ける。
「家族のことも、昔の生活も。たとえ今の自分が龍になっていても、大切だったことは変わらないので」
銀澪は庭を眺めた。
「……それと同じで、今の時間も大切にしたいです」
黒凪はしばらく彼を見つめていた。
「……銀澪」
「はい?」
「あなたは、いつか自分の家族のことが分かったら……」
そこで、言葉が止まった。
銀澪は続きを待った。
黒凪は少しだけ迷い、それから静かに尋ねる。
「……この家を離れたいと思うかしら」
銀澪はすぐには答えなかった。
それは、いつか考えなければならないことだった。
人間だった頃の家族。
今の自分の立場。
そして、これからどこで暮らしていくのか。
まだ何も決まっていない。
けれど、今の気持ちなら答えられる。
「……正直に言うと、分かりません」
黒凪は静かに頷いた。
「……そうよね」
「でも」
銀澪は少しだけ顔を上げた。
「もし、いつかここを離れることになったとしても、何も言わずにいなくなるようなことはしたくないです」
黒凪が顔を向ける。
「この家には、すごくお世話になっていますし……何より、僕にとって大切な場所になってきているので」
銀澪は小さく笑った。
「だから、そのときはちゃんと相談します」
黒凪はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……そう」
その声には、少しだけ安堵が混じっていた。
「なら、私もちゃんと話すわね」
銀澪が首を傾げる。
「……何をですか?」
「私が、どう思っているのか」
黒凪は庭へ目を向けた。
「あなたに何かを決めてもらうとき、私の気持ちもちゃんと伝えるようにするわ」
銀澪は少し驚いた。
それから、ゆっくりと頷く。
「……はい」
黒凪も頷いた。
その約束は、とても小さなものだった。
けれど、互いの人生を尊重しながら同じ時間を過ごすためには、大切なことのように思えた。
◇
夕方になり、銀澪は居間で黒凪の描いた絵を眺めていた。
昨日の真龍の姿。
白銀の鱗。
枝分かれした角。
そして、蒼と紅の瞳。
黒凪は隣で、鱗の紋様を少し描き直している。
「……この辺りだったと思うの」
彼女は絵の右側を指差した。
「蒼い線が、肩の辺りから背中へ伸びていたわ」
「……なるほど」
「左側は、もう少し細かったかしら」
黒凪は静かに線を加えた。
銀澪はしばらく眺めた後、口を開いた。
「……黒凪さん」
「何?」
「今度、また龍になったときに、写真を撮ってもらってもいいですか?」
黒凪は顔を上げた。
「……写真?」
「はい。自分の姿を、ちゃんと残しておきたくて」
銀澪は少し照れくさそうに笑った。
「人間だった頃から憧れていた姿ですから。せっかくなら、記念に」
黒凪は少し考えた。
「……そうね」
そして、穏やかに微笑む。
「いいと思うわ」
「……本当ですか?」
「ええ。ただし、写真を撮る場所は慎重に選びましょう。龍の姿が写ったものを、外へ出すわけにはいかないから」
「もちろんです」
銀澪は頷いた。
黒凪は再び絵へ目を向けた。
「それに、写真があれば水葉にも特徴を説明しやすいわね」
「……そうですね」
銀澪は少しだけ笑った。
黒凪も微笑む。
「でも、次の変身は身体が十分回復してからよ」
「……はい」
「今日はもう、無理をしないこと」
「……分かっています」
黒凪は小さく笑った。
「なら、よろしい」
二人は顔を見合わせ、穏やかに微笑んだ。
◇
その夜。
銀澪は客間で、今日の出来事をノートへ書き留めていた。
黒凪の古い知人。
高瀬文枝という女性。
修繕された座布団。
そして、三人で囲んだ昼食。
銀澪はペンを止めた。
「……黒凪さんにも、いろいろな歴史があるんだな」
小さく呟く。
長い年月を生きるということ。
それは、ただ寿命が長いというだけではない。
誰かが子どもから大人になり、年を取り、人生を終えていく。
その時間を見守り続けるということでもある。
銀澪は窓の外へ目を向けた。
庭には月明かりが差し込み、池の水面が静かに輝いている。
今の自分も、これから長い年月を生きるのだろう。
その間に、何人の人と出会い、どれほどの別れを経験するのだろうか。
まだ、想像もできない。
それでも、今日一つだけ分かったことがある。
長く生きるからといって、誰かと過ごす時間が軽くなるわけではない。
むしろ、その一つひとつが大切になっていくのかもしれない。
銀澪はノートを開き、最後に一文を書き加えた。
『今日、黒凪さんの昔を少し知ることができた。』
それから、少し考える。
そして、もう一文。
『これからも、少しずつ知っていきたい。』
書き終えた後、銀澪はペンを置いた。
障子を閉め、布団へ入る。
今日は少し疲れていた。
けれど、心地よい疲れだった。
銀澪はゆっくりと目を閉じた。
◇
同じ頃。
黒凪は自室で、文枝から送られてきた写真を眺めていた。
庭を背景に並ぶ三人。
銀澪。
文枝。
そして、自分。
黒凪は画面を少し拡大した。
そこには、思いきり笑っている自分がいた。
「……ふふっ」
自然と笑みがこぼれる。
文枝の言葉を思い出す。
『最近、よく笑うようになったね』
自分では、そんなつもりはなかった。
銀澪が来る前も、穏やかに暮らしていた。
寂しいと思うことはあっても、それを特別不幸だとは感じていなかった。
長い年月をかけて、自分なりの生活を作ってきたつもりだった。
けれど。
黒凪は画面の中の銀澪へ目を向けた。
白銀の髪。
蒼と紅の瞳。
そして、少し照れくさそうな笑顔。
数日前まで、名前すら知らなかった青年だった。
それなのに、今は毎朝顔を合わせている。
食事を作り、庭仕事をして、時には一緒に山へ出かける。
そして、あの青年が嬉しそうに笑うと、自分まで笑ってしまう。
「……そういうこと、なのかしら」
小さく呟く。
黒凪はスマートフォンを膝の上へ置いた。
窓の外では、庭の木々が風に揺れている。
長い年月を一人で過ごしてきた。
その生活に不満があったわけではない。
けれど、誰かが隣にいることで、初めて気づくこともあるのかもしれない。
黒凪は静かに微笑んだ。
そして、もう一度写真を開いた。
画面の中の自分は、相変わらず楽しそうに笑っている。
その笑顔を見つめながら、黒凪は小さく息を吐いた。
「……こんな顔、していたのね」
今度は、少しだけ嬉しそうな声だった。
そのとき、ふと文枝の言葉が蘇った。
『誰かと一緒に暮らすって、大きな出来事ばかりじゃないからね』
黒凪はゆっくりと頷いた。
朝食の献立を考えること。
庭の落ち葉を集めること。
夕食の味つけを相談すること。
誰かが帰ってきたら、おかえりと言うこと。
そんな当たり前の日々を、今は大切にしたいと思っている。
黒凪は写真を閉じず、そのまま机の上へスマートフォンを置いた。
そして、小さく微笑んだ。
「……明日も、いい日になるといいわね」
その声は、静かな部屋に柔らかく響いた。
山の奥に建つ、古い和風屋敷。
そこでは今、白龍と黒龍が同じ屋根の下で暮らしている。
まだ互いのことを、すべて知っているわけではない。
銀澪には、人間だった頃の記憶がある。
黒凪には、長い年月の中で積み重ねてきた思い出がある。
それぞれの過去は違い、歩いてきた道も違う。
けれど、今は同じ食卓を囲み、同じ庭を眺めている。
その時間が、少しずつ二人の新しい思い出になっていく。
黒凪はもう一度、写真の中の自分を見た。
そこには、彼女自身も知らなかった笑顔があった。
誰かと過ごすことを、こんなにも楽しんでいる自分がいる。
そのことに、ようやく気づき始めていた。




