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第十三話 黒龍の知らない笑顔

朝、目を覚ました銀澪は、自分の足が二本しかないことに違和感を覚えた。


 もちろん、それが今の龍人の姿としては普通なのだと理解している。昨夜もこの姿で布団に入り、何の問題もなく眠りについたはずだった。


 それなのに、身体を起こそうとした瞬間、無意識にもう二本の脚を動かそうとしていた。


「……あれ?」


 銀澪は布団の上で動きを止めた。


 右手を持ち上げる。


 指は五本。


 手の甲に鱗はなく、爪も人間と変わらない形をしている。


 腰の後ろには白銀の尻尾が伸びていたが、昨日の真龍の姿に比べれば随分と短かった。


「……昨日の感覚が残ってるのかな」


 小さく呟き、手を握ったり開いたりする。


 昨日、銀澪は初めて完全な白龍へ変身した。


 四本の脚で大地を踏み、長い身体を動かし、沢の水面に映った自分自身の姿を見た。


 幼い頃から夢見ていたことが、ようやく現実になったのだ。


 その興奮は、今も胸の奥に残っている。


 ただし、身体の方は少々疲れているらしい。


 布団から立ち上がると、背中から腰にかけて、普段とは違う重さを感じた。


 痛みというほどではない。


 長い時間、使い慣れない筋肉を動かした後のような感覚だった。


「……今日は大人しくしておいた方がよさそうだな」


 銀澪は苦笑した。


 黒凪からも、初めて真龍になった翌日は無理をしないようにと言われていた。


 今日は屋敷で過ごし、簡単な家事を手伝う程度にしておこう。


 そう決めて、銀澪は布団を畳み始めた。


 ところが、掛け布団を持ち上げようとした瞬間、身体がわずかに前へ傾いた。


「……おっと」


 慌てて足を踏み直す。


 昨日までなら、何も考えずにできていた動作だった。


 けれど今は、一瞬だけ四本の脚で身体を支えようとしてしまう。


 銀澪は思わず笑った。


「……龍になった後の方が、普通に歩くのが難しいなんて」


 何とも贅沢な悩みである。


 それでも、その不便ささえ少し嬉しかった。


 昨日の出来事が夢ではなかった証拠のように思えたからだ。


     ◇


 台所からは、出汁の香りが漂っていた。


 銀澪が居間へ入ると、黒凪は鍋の火を弱めているところだった。


 今日は薄い藤色の上着に黒いパンツを合わせ、腰にはいつものエプロンを結んでいる。漆黒の角と尻尾も出したままで、その姿はすっかり見慣れたものになっていた。


「おはようございます」


「あら、おはよう、銀澪」


 黒凪は振り返り、彼の顔を見た。


「身体の調子はどう?」


「少し疲れが残っていますけど、大丈夫です。ただ……」


「ただ?」


「二本足で歩くのが、ちょっと変な感じで」


 黒凪は一瞬、目を丸くした。


 それから、納得したように笑う。


「ああ、真龍の感覚が残っているのね」


「やっぱり、そういうことってあるんですか?」


「ええ。初めて身体を大きく変えた後は、珍しくないわよ。私も昔、似たようなことがあったもの」


 黒凪は鍋の蓋を閉じ、銀澪へ向き直った。


「だから今日は、あまり無理をしないこと。庭仕事も休んでいいわ」


「……でも、食器を並べるくらいなら」


「それくらいならお願いしようかしら」


 銀澪がほっとした顔をすると、黒凪は小さく笑った。


「本当に、じっとしているのが苦手なのね」


「何もしないのも落ち着かなくて」


「だったら、食器を並べ終えたら座っていて。今日は少し話しておきたいこともあるの」


 銀澪は食器棚へ向かいかけたところで振り返った。


「……何でしょう?」


「昨日の、あなたの龍の姿についてよ」


 黒凪は食卓の端に置かれたノートへ目を向けた。


「水葉に相談するため、特徴を整理しておこうと思うの。あなたにも確認してもらった方がいいでしょう?」


「ああ、鱗の模様ですね」


「ええ。私の記憶だけで伝えるより、二人で確認した方が確かだから」


 銀澪は頷いた。


 昨日、真龍の姿になった自分には、白銀の鱗の根元に細かな紋様が浮かんでいたらしい。


 身体の右側には淡い蒼。


 左側には薄い紅。


 瞳の色と同じ二色が、鱗の間を流れるように走っていたという。


 自分では背中まで見ることができなかったため、詳しい形はまだ分からない。


「……水葉さんなら、何か知っているでしょうか」


「分からないわ。でも、あの子は古い龍の記録を随分集めているから、比較してもらう価値はあると思う」


 黒凪は少し考えてから続けた。


「ただ、あなたの身体に関することだから、送る内容は一緒に決めましょうね」


 銀澪は小さく頷いた。


「はい。お願いします」


「それと……」


 黒凪は何かを思い出したように、居間の時計へ目を向けた。


「今日は昼前にお客様が来るの」


「……お客様?」


「ええ。昔から付き合いのある人よ。ずっと前に頼んでいたものを届けてくれることになっていてね」


 銀澪は少し驚いた。


 黒凪の屋敷に来客があるのは、彼が暮らし始めてから初めてだった。


「……僕も、ご挨拶した方がいいですよね」


「もちろん。でも、そんなに緊張しなくていいわよ」


 黒凪は少し笑った。


「気さくな人だから、すぐに打ち解けられると思うわ」


 それから、ふと真面目な表情になる。


「その人は、私が龍であることも知っているの」


 銀澪が顔を上げた。


「……人間の方なんですか?」


「ええ。もう長い付き合いになるわ」


 黒凪は穏やかに続けた。


「その家では、昔から私たちの秘密を守ってくれているの。だから、屋敷の中では角や尻尾を隠す必要もないわ」


「……そうなんですね」


「ただ、あなたの事情までは話していないの。どう説明するかは、あなた自身と相談したいと思って」


 銀澪は少し考えた。


「……今は、黒凪さんのところで龍の生活を教えてもらっている、と伝えてもらえれば」


「ええ。それなら、私も説明しやすいわ」


 黒凪は微笑んだ。


「じゃあ、そうしましょう」


 二人は朝食の準備を再開した。


 炊きたてのご飯。


 豆腐と長ねぎの味噌汁。


 焼き魚と、昨夜の残りの煮物。


 いつもと変わらない食卓だった。


 けれど、銀澪は少しだけ楽しみになっていた。


 今日、黒凪の古い知人に会える。


 水葉とはまた違う、彼女の昔を知る人。


 その人の目には、黒凪がどんなふうに映っているのだろうか。


     ◇


 午前十一時を少し過ぎた頃。


 屋敷の門の方から、車のエンジン音が聞こえてきた。


 黒凪は縁側でノートを広げていたが、その音に気づくと顔を上げた。


「あら、来たみたいね」


 銀澪は隣で、彼女が描いていた絵を見つめていた。


 そこには、昨日の自分の真龍の姿が描かれている。


 長くしなやかな身体に、枝分かれした角。白銀の鱗が整然と重なり、身体の左右には色の異なる細い線が走っていた。


 黒凪は絵を描くのも上手らしい。


 少なくとも、銀澪が想像していた以上に、自分の姿が分かりやすく表現されていた。


「……続きは、あとにしましょうか」


「はい」


 黒凪はノートを閉じて立ち上がった。


 銀澪もその後へ続く。


 玄関を抜け、石畳の道を歩いていくと、門の前に小さな車が停まっていた。


 その脇には、一人の年配の女性が立っている。


 年齢は七十代半ばほどだろうか。


 短く切り揃えた白髪に、穏やかな目元。深緑色の上着を着ており、手には紺色の風呂敷包みを抱えていた。


 女性は黒凪を見つけると、ぱっと表情を明るくした。


「おや、黒凪さん!」


「こんにちは、文枝さん。遠いところをありがとう」


「何言ってるんだい。これくらい、まだまだ平気だよ」


 女性は笑いながら歩み寄った。


 黒凪も自然に笑みを浮かべる。


「でも、山道は気をつけてね。最近、雨が多かったでしょう?」


「分かってるよ。無茶な運転はしないさ」


 それから、女性は黒凪の隣にいる銀澪へ目を向けた。


「……おや?」


 足を止める。


「珍しいねぇ。黒凪さんのところに、若いお客さんがいるなんて」


 黒凪は頷いた。


「ええ。今、うちでしばらく一緒に暮らしているの」


「……一緒に?」


 女性は少しだけ目を丸くした。


 銀澪は一歩前へ出て、丁寧に頭を下げた。


「初めまして。銀澪といいます」


「銀澪さん、ね」


 女性は微笑んだ。


「私は高瀬文枝。昔から、こちらのお屋敷にはお世話になっているの」


 そして、黒凪の方を見る。


「……それにしても、あんたが誰かを家に泊めるなんてねぇ」


「……文枝さん」


 黒凪が少し困ったように名前を呼んだ。


 文枝は楽しそうに笑う。


「いやいや、悪い意味じゃないよ。珍しいこともあるもんだと思っただけさ」


 黒凪は小さく息を吐いた。


「銀澪には、今いろいろ教えているところなの。少し事情があってね」


「そうかい」


 文枝は銀澪へ顔を向けた。


「じゃあ、黒凪さんには厳しくされてるんじゃないかい?」


「……え?」


 銀澪は思わず瞬きをした。


 文枝は続ける。


「この人、昔から面倒見はいいんだけどね。教えるとなると、案外厳しいところがあるんだよ」


 黒凪が眉を上げる。


「……文枝さん?」


 しかし、銀澪は少し考えてから答えた。


「……確かに、危ないことをするときは厳しいですね」


「ほら、やっぱり」


 文枝が笑った。


 銀澪も続ける。


「でも、ちゃんと理由を説明してくれますし、無理なことはさせません。僕に合わせて教えてくれるので、すごく助かっています」


 その言葉に、文枝の笑い声が止まった。


 黒凪も少し驚いたように銀澪を見る。


 銀澪は首を傾げた。


「……何か変でしたか?」


 文枝は数秒間、銀澪を見つめていた。


 そして、ゆっくりと微笑んだ。


「……いいや」


 その声は、先ほどより少し柔らかかった。


「何でもないよ。いい先生に出会えたみたいで、よかったね」


 銀澪は素直に頷いた。


「はい」


 その隣で、黒凪が少しだけ視線を外した。


     ◇


 居間へ通されると、文枝は風呂敷包みを食卓へ置いた。


 黒凪が結び目をほどく。


 中から現れたのは、二枚の座布団だった。


 深い藍色の布地に、控えめな刺し子模様が施されている。


 縁には細い銀糸が使われ、古い布の風合いを残しながらも、丁寧に補修されていた。


「……まあ」


 黒凪が小さく声を漏らした。


「随分綺麗になったわね」


「元の布をなるべく残しておいたよ。全部新しくするのは簡単だけど、それじゃあ意味がないだろう?」


 文枝は座布団を一枚持ち上げ、縁の部分を指差した。


「傷んでいたところは裏から補強してある。普段使いには十分だけど、あんまり乱暴に扱わないでおくれよ」


「ええ。もちろん」


 黒凪は座布団を受け取り、指先で布地を撫でた。


 その手つきは、とても丁寧だった。


 銀澪は隣から覗き込む。


「……綺麗な模様ですね」


「そうだろう?」


 文枝が嬉しそうに答える。


「これ、黒凪さんのお祖母様が昔使っていた布なんだよ」


 銀澪は顔を上げた。


「……お祖母さんの?」


「ええ」


 黒凪が頷いた。


「古い座布団だったから、随分傷んでしまってね。文枝さんにお願いして、直してもらっていたの」


 銀澪はもう一度、布地を見た。


 深い藍色。


 細かな刺し子。


 そして、長い年月を経ても残されている、柔らかな風合い。


 黒凪が大切にしている理由が、少しだけ分かる気がした。


「……新しくするより、直して使う方がいいこともありますよね」


 銀澪が呟く。


 文枝は頷いた。


「そうなんだよ。特に、思い出があるものはね」


 彼女は黒凪へ顔を向けた。


「この人、昔からそういうものを捨てられないんだ」


「……文枝さん」


 黒凪が少し困ったように笑う。


 文枝は気にした様子もなく続けた。


「家の古い道具も、着物も、壊れたら直して使う。新しいものを買った方が早いって言っても、なかなか聞かないんだから」


 銀澪は少し笑った。


「……黒凪さんらしいですね」


「そうかい?」


「はい。古いものを、すごく大切にしているので」


 黒凪は二人を見比べた。


「……何だか、私の話ばかりになっていない?」


 文枝は楽しそうに笑った。


「そりゃあ、長い付き合いだからね。話すことはいくらでもあるよ」


 銀澪も、つられて笑った。


 黒凪は小さくため息をついたが、その口元には笑みが浮かんでいた。


     ◇


 文枝の家は、代々、布の仕立てや修繕を仕事にしてきたという。


 今では店そのものは娘夫婦に任せているが、文枝も頼まれれば針を持つ。


 黒凪の屋敷との付き合いは、文枝が生まれるよりもずっと前から続いていた。


 彼女の祖父母も、黒凪のことを知っていたらしい。


「……子どもの頃はね」


 文枝は湯呑みを手に取りながら話し始めた。


「この屋敷へ来るのが、少し怖かったんだよ」


 銀澪は驚いた。


「……怖かったんですか?」


「ああ。山の奥に大きな家があって、そこには年を取らない綺麗な女の人が住んでいる。そんな話を聞かされてごらん。子どもなら、そりゃあ怖がるさ」


 文枝は笑った。


 黒凪も少し懐かしそうに微笑む。


「……そんなふうに思われていたのね」


「そうだよ。初めて会ったときなんて、あたしは母親の後ろに隠れていたんだから」


「覚えているわ」


 黒凪が頷いた。


「でも、その後は随分懐いてくれたでしょう?」


「そりゃあね。怖い人かと思ったら、お菓子を出してくれたんだから」


 文枝は楽しそうに笑った。


「それに、あんたは何も聞かずに、あたしの話を聞いてくれた」


 黒凪は少しだけ目を細めた。


「……そうだったかしら」


「そうだったよ」


 文枝は湯呑みを置いた。


「子どもの頃、学校で嫌なことがあったり、家で叱られたりすると、よくここへ来たんだ。黒凪さんは、あたしが泣いていても、無理に笑わせようとはしなかった」


 銀澪は黙って聞いていた。


「ただ、お茶を出して、話を聞いてくれたんだよ」


 文枝は少し遠くを見るような目をした。


「それが、ありがたかったんだ」


 黒凪は何も言わなかった。


 ただ、湯呑みを両手で包み、静かに話を聞いていた。


 文枝は小さく笑う。


「……まあ、若い頃には意見が合わなくて喧嘩もしたけどね」


 黒凪が顔を上げた。


「あら。あれは文枝さんが頑固だったからでしょう?」


「何言ってるんだい。黒凪さんだって、相当頑固だったじゃないか」


 銀澪は思わず笑ってしまった。


「……何があったんですか?」


 文枝は少し考えた。


「そうだねぇ。あたしが町の外へ出て仕事を覚えたいと言ったときだったかな」


 黒凪は小さく頷いた。


「……ああ、あのときね」


「うちの親は反対していたんだよ。家業を手伝えってね。でも、あたしは別の土地でも修業してみたかった」


 文枝は銀澪へ顔を向けた。


「それで黒凪さんに相談したんだ」


「……黒凪さんは、何て?」


 銀澪が尋ねる。


 文枝は微笑んだ。


「『自分で選んだ道なら、最後まで自分の足で歩いてみなさい』って」


 銀澪は黒凪を見た。


 彼女は少し照れくさそうに視線を外している。


「ただし、その後に続きがあったのよ」


 黒凪が口を開いた。


「失敗したら、帰ってくればいい。戻れる場所まで捨てる必要はないって」


 文枝は静かに頷いた。


「……そう。それも言ってくれた」


 しばらく、誰も話さなかった。


 庭からは、小さな滝の音が聞こえている。


 文枝は湯呑みへ視線を落とし、穏やかに続けた。


「あたしは結局、町の外へ出て修業したよ。うまくいかないこともあったし、泣きたくなることもあった。でも、あのときの言葉があったから、帰りたいときには帰ってこられると思えたんだ」


 銀澪は静かに頷いた。


 黒凪が以前、水守の里について話してくれたことを思い出す。


 里を離れる者の自由を妨げてはならない。


 その教えは、彼女自身の生き方にも深く根づいているのだろう。


「……黒凪さんらしいですね」


 銀澪が呟くと、黒凪は少しだけ困ったように笑った。


「……また、それ?」


「だって、本当にそう思うので」


 文枝は二人のやり取りを見て、小さく笑った。


 しかし、その笑みには、先ほどとは少し違うものが混じっていた。


 何かを確かめるように、黒凪の顔を見つめている。


「……どうしたの、文枝さん?」


 黒凪が尋ねた。


 文枝はゆっくりと首を振った。


「……いや、何でもないよ」


 そう答えた後、少しだけ微笑む。


「ただ、久しぶりにいいものを見たなと思ってね」


 黒凪は不思議そうに首を傾げた。


 銀澪も、その言葉の意味は分からなかった。


     ◇


 昼食は、三人で食卓を囲むことになった。


 黒凪が朝のうちに下ごしらえをしていた炊き込みご飯に、厚揚げと大根の煮物。それから、銀澪が用意した青菜のおひたしと、きのこの澄まし汁。


 銀澪は食器を並べながら、いつもより少し緊張していた。


 黒凪以外の誰かに、自分が作った料理を食べてもらうのは初めてだったからだ。


「……お口に合えばいいんですけど」


 そう言いながら澄まし汁を置くと、文枝が笑った。


「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。いい匂いがしてるじゃないか」


「……ありがとうございます」


 三人は手を合わせ、食事を始めた。


 文枝はまず澄まし汁を飲み、目を細めた。


「……ああ、美味しいねぇ」


 銀澪は思わず顔を上げた。


「本当ですか?」


「ああ。出汁がよく出てる。きのこの香りもいいね」


 文枝は小さく頷いた。


「銀澪さんが作ったのかい?」


「はい。黒凪さんに教わりながらですけど」


「へえ。黒凪さん、いい弟子ができたじゃないか」


 黒凪は炊き込みご飯をよそいながら微笑んだ。


「ええ。料理はもともとできる人なのよ。私の方が教わることもあるくらい」


「……黒凪さん」


 銀澪は少し照れくさそうに笑った。


 文枝は二人の様子を見て、また小さく笑った。


「……そうかい、そうかい」


 それから、黒凪が銀澪の前へ小鉢を置いた。


「銀澪。こっちのおひたしも食べてね。少し多めに作ってあるから」


「あ、はい」


「それと、炊き込みご飯はおかわりしていいわよ。昨日、随分頑張ったでしょう?」


「……ありがとうございます。でも、さすがに昨日ほどは食べられないかもしれません」


「あら、そう?」


 黒凪は少し残念そうに笑った。


「昨日は、変身した後におにぎりをあっという間に食べていたのに」


「……あれは、すごくお腹が空いていたので」


 銀澪が苦笑すると、文枝が目を丸くした。


「……変身?」


 銀澪は一瞬、口を閉じた。


 黒凪が頷く。


「ええ。昨日、銀澪が初めて真龍の姿になれたの」


「……へえ!」


 文枝は驚いたように銀澪を見た。


「それはおめでたいじゃないか!」


 銀澪は少し照れくさそうに頭を下げた。


「……ありがとうございます」


「そうかい。初めて龍になれたのかい」


 文枝は嬉しそうに笑った。


「そりゃあ、黒凪さんも嬉しかっただろうねぇ」


 黒凪は少しだけ瞬きをした。


「……え?」


「だって、ずっと練習を見ていたんだろう?」


「ええ。それはそうだけれど……」


 文枝は何でもないことのように続けた。


「誰かができなかったことをできるようになるって、嬉しいもんだよ。教えていた人なら、なおさらさ」


 黒凪はしばらく黙っていた。


 やがて、ゆっくりと微笑む。


「……そうね」


 そして、銀澪へ顔を向けた。


「昨日は、私も嬉しかったわ」


 銀澪は少し驚いた。


 黒凪はそれ以上何も言わず、炊き込みご飯を一口食べた。


 その横顔には、柔らかな笑みが残っていた。


 文枝はその様子を、静かに見つめていた。


     ◇


 食後、銀澪は食器を片づけるため台所へ向かった。


 黒凪も立ち上がろうとしたが、文枝が軽く手を上げた。


「黒凪さん。少し、ここで話していかないかい?」


 黒凪は首を傾げた。


「……何かしら?」


「いや、大した話じゃないよ」


 文枝は穏やかに微笑んだ。


「たまには、昔話でもしようと思ってね」


 黒凪は少し考えた後、席へ戻った。


 銀澪は二人へ声をかける。


「じゃあ、食器は僕が片づけておきますね」


「大丈夫? 身体はまだ疲れているでしょう?」


 黒凪が尋ねた。


「はい。洗い物くらいなら平気です」


 銀澪は笑って答えた。


「お二人は、ゆっくりお話ししていてください」


 黒凪は少し迷ったが、やがて頷いた。


「……分かったわ。無理はしないでね」


「はい」


 銀澪は食器を持ち、台所へ向かった。


 その背中を見送ってから、文枝は静かに口を開いた。


「……いい子だねぇ」


 黒凪は頷いた。


「ええ。少し遠慮がちなところはあるけれど、真面目で優しい人よ」


「そうみたいだね」


 文枝は湯呑みを手に取った。


「それに、随分あんたのことを見ている」


 黒凪が顔を上げた。


「……私?」


「ああ。あんたが何を大切にしているのか、少しずつ知ろうとしているんだろうね」


 黒凪は何も言わなかった。


 文枝は穏やかな表情で続けた。


「さっきも、座布団のことを聞いていただろう? ただ古いからって、捨てればいいとは言わなかった」


「……ええ」


「それに、食事のときもそうだよ。あんたが気を遣っているのを、ちゃんと受け取っていた」


 黒凪は少し考えた。


 銀澪は、助けてもらうことに慣れていない。


 最初の頃は、何かをしてもらうたびに恐縮していた。


 けれど最近は、黒凪が作った料理を素直に喜び、自分からも何かを返そうとしてくれる。


 それが、少しずつ自然になってきた。


「……そうね」


 黒凪は静かに頷いた。


「私も、あの人から教わることがあるわ」


 文枝はその言葉を聞き、少しだけ目を細めた。


 それから、ふと微笑む。


「……黒凪さん」


「何?」


「最近、よく笑うようになったね」


 黒凪は一瞬、動きを止めた。


「……そうかしら」


「ああ」


 文枝は迷わず頷いた。


「昔から笑わない人じゃなかったけど、今とは少し違うね」


 黒凪は不思議そうに首を傾げた。


「……どう違うの?」


 文枝はしばらく考えた。


 そして、ゆっくりと言葉を選んだ。


「……前はね、笑っていても、どこか遠くを見ているようなところがあったんだよ」


 黒凪は黙って聞いていた。


「もちろん、楽しいときはちゃんと笑っていたさ。でも、その後はすぐにいつもの静かな顔へ戻っていた」


 文枝は庭へ目を向けた。


「この家が静かになってからは、特にね」


「…………」


「でも今日は、違う」


 文枝は黒凪へ向き直った。


「銀澪さんと話しているとき、あんたは笑った後も、ずっと楽しそうなんだよ」


 黒凪の金色の瞳が、わずかに揺れた。


「……私が?」


「ああ」


 文枝は穏やかに微笑んだ。


「きっと、自分じゃ気づいていないんだろうね」


 黒凪は視線を落とした。


 何かを言おうとしたものの、言葉が見つからなかった。


 文枝はそれ以上、無理に話を続けなかった。


 ただ、窓の外の庭を眺めている。


 しばらくして、黒凪が小さく口を開いた。


「……あの人が来てから、家の中が少し変わったの」


 文枝は静かに頷いた。


「そうだろうね」


「朝起きると、台所から音が聞こえてくることがあるわ。夕食を作るときも、何を食べたいか相談するようになった」


 黒凪は自分の湯呑みを見つめた。


「庭仕事をしていると、向こうから声がかかるの。何か手伝うことはないかって」


 少しだけ笑う。


「……何でもないことばかりでしょう?」


「そうだね」


 文枝は頷いた。


「でも、そういうことが大事なんだよ」


 黒凪は顔を上げた。


 文枝は静かに続けた。


「誰かと一緒に暮らすって、大きな出来事ばかりじゃないからね。今日のお昼は何にしようとか、雨が降りそうだから洗濯物を取り込もうとか」


 彼女は少しだけ目を細めた。


「そういう小さなことを、一緒に考える相手がいるってことなんだと思うよ」


 黒凪は何も言わなかった。


 ただ、その言葉を静かに受け止めていた。


 やがて文枝が、少しだけ笑った。


「……まあ、あんたは長生きだからね。こういう時間がどれほど大切か、あたしよりずっとよく知っているかもしれないけど」


 黒凪はゆっくりと首を振った。


「……いいえ」


 その声は、少しだけ柔らかかった。


「長く生きているからこそ、忘れてしまうこともあるわ」


 文枝は静かに頷いた。


「……そうかい」


 二人はしばらく、庭を眺めていた。


     ◇


 午後二時を過ぎた頃、文枝は帰り支度を始めた。


 黒凪と銀澪は玄関まで見送ることにした。


 修繕した座布団は居間へ運び、代わりに黒凪が用意した茶葉と菓子を小さな袋へ入れて渡した。


「……こんなに気を遣わなくてもいいのに」


 文枝が笑う。


「いいのよ。いつもお世話になっているもの」


「まったく。あんたは昔からそうだねぇ」


 文枝は袋を受け取り、銀澪へ顔を向けた。


「銀澪さん」


「はい」


「今日は、いろいろありがとうね」


 銀澪は頭を下げた。


「こちらこそ。黒凪さんの昔のお話を聞けて、楽しかったです」


「そうかい。それならよかった」


 文枝は少しだけ笑った。


「でも、まだまだ話せることはあるよ」


 黒凪が眉を上げた。


「……文枝さん?」


「冗談だよ、冗談」


 文枝は楽しそうに笑った。


 銀澪もつられて笑う。


 それから、文枝は少しだけ真面目な顔になった。


「……銀澪さん」


「はい?」


「黒凪さんはね、昔から人のことをよく見ているんだ」


 銀澪は静かに頷いた。


「……はい。僕も、そう思います」


「困っている人がいれば手を貸すし、誰かが悩んでいれば話を聞いてくれる。でも、自分のことになると、案外何も言わないところがある」


 銀澪は黒凪へ目を向けた。


 黒凪は少し困ったように笑っている。


「……文枝さん。そんなことまで言わなくても」


「いいじゃないか。せっかく話せる相手ができたんだから」


 文枝は穏やかに続けた。


「だから、たまには黒凪さんの話も聞いてやっておくれ」


 銀澪はしばらく考えた。


 それから、ゆっくりと頷いた。


「……はい」


 そして、黒凪へ向き直る。


「もちろんです」


 黒凪は少し驚いたように目を見開いた。


 銀澪は自然に続けた。


「黒凪さんには、僕の話をたくさん聞いてもらっていますから。今度は、黒凪さんの話も聞かせてほしいです」


 黒凪は何も言わなかった。


 ただ、彼の顔を見つめていた。


 文枝はその様子を見て、小さく微笑んだ。


「……そうかい」


 それから、二人へ向き直った。


「じゃあ、そろそろ帰るよ。日が暮れる前に山を下りたいからね」


 黒凪が頷く。


「ええ。気をつけて帰ってね」


「もちろんさ」


 文枝は車へ向かった。


 しかし、運転席の扉を開ける前に、ふと思い出したように振り返った。


「……ああ、そうだ」


 二人が顔を上げる。


「写真を一枚、撮らせてもらってもいいかい?」


 黒凪は少し驚いた。


「……写真?」


「ああ。せっかく久しぶりに来たんだし、記念にね」


 文枝は鞄からスマートフォンを取り出した。


「もちろん、人に見せるつもりはないよ。家の中のものを勝手に外へ出すような真似はしないさ」


 黒凪は少し考えた。


 それから、銀澪へ顔を向ける。


「……銀澪はどう?」


 銀澪は頷いた。


「僕は大丈夫です」


「そう。なら、一枚だけお願いしようかしら」


 文枝は嬉しそうに微笑んだ。


 三人は門の内側へ戻り、屋敷の庭を背景に並んだ。


 黒凪が中央。


 その右に銀澪。


 左に文枝。


 文枝はスマートフォンを小さな台へ置き、撮影の準備を整えた。


「……じゃあ、撮るよ」


 銀澪は少しだけ姿勢を正した。


 黒凪も隣で微笑む。


 しかし、文枝は画面を見ながら首を傾げた。


「……黒凪さん」


「何?」


「そんなにかしこまらなくてもいいんだよ」


 黒凪は少し困ったように笑った。


「……そう言われても」


「いつもどおりでいいのさ」


 文枝は楽しそうに続けた。


「ほら、銀澪さん。さっきの話、もう一度してみたらどうだい?」


 銀澪は首を傾げた。


「……さっきの話?」


「黒凪さんの昔話をもっと聞きたいって話さ」


 銀澪は少し考えた。


 それから、黒凪へ顔を向ける。


「……そういえば、黒凪さん」


「何?」


「今度、また子どもの頃のお話を聞かせてもらえませんか?」


 黒凪は一瞬、目を丸くした。


「……また?」


「はい。庭の池をひっくり返した話とか、物干し台を倒した話とか」


「……銀澪」


 黒凪が少しだけ頬を膨らませる。


「あなた、そういう話ばかり覚えているのね」


「だって、面白かったので」


「もう……!」


 黒凪は思わず笑ってしまった。


 その瞬間。


 小さな電子音が響いた。


 文枝が設定していた撮影の合図だった。


 三人は同時に顔を向ける。


 少し遅れて、もう一度電子音が鳴った。


「……あら?」


 黒凪が瞬きをする。


 文枝はスマートフォンを確認し、楽しそうに笑った。


「……ふふっ。いい写真が撮れたよ」


 画面には、庭を背景に並ぶ三人の姿が映っていた。


 中央の黒凪は、少しだけ顔を横へ向けている。


 その隣で銀澪が笑っていた。


 文枝も、楽しそうに微笑んでいる。


 そして、黒凪の表情。


 それは、普段の落ち着いた微笑みとは少し違っていた。


 目元が柔らかく緩み、口元には飾り気のない笑顔が浮かんでいる。


 まるで、何も考えずに笑ってしまった瞬間を切り取ったようだった。


「……あら」


 黒凪は画面を見つめた。


 そして、小さく呟く。


「……私、こんな顔をしていたのね」


 文枝は穏やかに微笑んだ。


「そうだよ」


 その声は、とても柔らかかった。


「……今日、何度も見た顔さ」


 黒凪は何も言わなかった。


 ただ、画面に映る自分の姿を見つめていた。


     ◇


 文枝を見送った後、二人は居間へ戻った。


 庭には午後の光が差し込み、池の水面には細かな波紋が広がっている。


 黒凪は先ほどの写真を自分のスマートフォンにも受け取っていた。


 彼女は縁側に腰を下ろし、画面を見つめている。


 銀澪は隣へ座った。


「……いい写真でしたね」


 黒凪は小さく頷いた。


「ええ」


 そして、少しだけ笑う。


「……でも、何だか不思議だわ」


「何がですか?」


「自分では、いつもと同じように過ごしているつもりだったの」


 黒凪は画面を見つめたまま続けた。


「朝起きて、食事を作って、庭の手入れをして。誰かが来たらお茶を出して……」


 少しだけ言葉を切る。


「……でも、文枝さんには違って見えたのね」


 銀澪はしばらく考えた。


「……黒凪さん」


「何?」


「僕は、今の黒凪さんしか知りません」


 黒凪が顔を向ける。


 銀澪は穏やかに続けた。


「昔の黒凪さんが、どんなふうに笑っていたのかも、どんな暮らしをしていたのかも、まだよく分からないです」


「……ええ」


「でも、今の黒凪さんが楽しそうにしていると、僕も嬉しいです」


 黒凪の瞳が、わずかに揺れた。


 銀澪は少し照れくさそうに笑った。


「……それだけじゃ、駄目ですか?」


 黒凪はしばらく黙っていた。


 それから、ゆっくりと首を振った。


「……いいえ」


 その声は、とても静かだった。


「十分よ」


 黒凪はスマートフォンを膝の上へ置いた。


 庭の木々が風に揺れている。


 しばらく、二人の間に会話はなかった。


 しかし、その沈黙は気まずいものではなかった。


 やがて黒凪が、ぽつりと口を開いた。


「……文枝さんも、随分年を取ったわ」


 銀澪は顔を向けた。


「……そうなんですね」


「ええ。初めて会ったときは、まだ小さな女の子だったのよ」


 黒凪は少しだけ遠くを見るような目をした。


「お母さんの後ろに隠れて、私のことを怖がっていたわ。それが、いつの間にか大人になって、結婚して、子どもを育てて……」


 彼女は静かに微笑んだ。


「……今では、お孫さんもいるの」


 銀澪は黙って聞いていた。


「人間の一生は、私たち龍にとっては短いものよ」


 黒凪は庭へ目を向けた。


「でも、その短い時間の中で、本当にたくさんのことを経験するのね」


 銀澪はゆっくりと頷いた。


 文枝の顔を思い出す。


 白髪。


 柔らかな目元。


 何度も針仕事を重ねてきたのだろう、少し節の目立つ指。


 その一つひとつに、長い年月が刻まれていた。


「……黒凪さんは、寂しくありませんか?」


 銀澪は静かに尋ねた。


 黒凪はすぐには答えなかった。


 庭の池を見つめたまま、しばらく考えていた。


 やがて、ゆっくりと口を開く。


「……寂しいわよ」


 その答えは、思っていたよりも率直だった。


「文枝さんが子どもだった頃のことも、つい昨日のように覚えているもの。でも、あの人はもう、私よりずっと年上に見えるでしょう?」


 黒凪は少しだけ笑った。


「……不思議なものね」


 銀澪は静かに頷いた。


 黒凪は続ける。


「昔はね、誰かと親しくなることが怖くなった時期もあったの」


 銀澪が顔を上げる。


「……怖くなった?」


「ええ。いつか別れることが分かっているなら、最初から距離を置いた方がいいんじゃないかって」


 黒凪は自分の手を見つめた。


 長い年月を生きてきた。


 その間に、数えきれないほどの出会いがあった。


 親しくなった人。


 共に笑った人。


 家族のように過ごした人。


 そして、もう会えなくなった人。


「……でも、そうしていると、今度は何も残らなくなるのよ」


 黒凪は静かに続けた。


「別れが怖いから誰とも親しくならない。傷つきたくないから、何も大切にしない」


 そこで、少しだけ言葉を止める。


「……それは、やっぱり寂しい生き方だと思ったの」


 銀澪は黙って聞いていた。


 黒凪は庭へ視線を戻した。


「文枝さんとも、いつか別れる日が来るでしょうね」


 その声には、わずかな寂しさがあった。


「でも、今日会えてよかったと思うわ。あの人が笑ってくれて、昔の話をしてくれて……」


 黒凪は膝の上のスマートフォンへ目を向けた。


「……こうして、写真も残ったもの」


 銀澪はゆっくりと頷いた。


「……そうですね」


 少し考えてから、静かに続ける。


「僕も、人間だった頃のことを忘れたくないです」


 黒凪が顔を向ける。


「家族のことも、昔の生活も。たとえ今の自分が龍になっていても、大切だったことは変わらないので」


 銀澪は庭を眺めた。


「……それと同じで、今の時間も大切にしたいです」


 黒凪はしばらく彼を見つめていた。


「……銀澪」


「はい?」


「あなたは、いつか自分の家族のことが分かったら……」


 そこで、言葉が止まった。


 銀澪は続きを待った。


 黒凪は少しだけ迷い、それから静かに尋ねる。


「……この家を離れたいと思うかしら」


 銀澪はすぐには答えなかった。


 それは、いつか考えなければならないことだった。


 人間だった頃の家族。


 今の自分の立場。


 そして、これからどこで暮らしていくのか。


 まだ何も決まっていない。


 けれど、今の気持ちなら答えられる。


「……正直に言うと、分かりません」


 黒凪は静かに頷いた。


「……そうよね」


「でも」


 銀澪は少しだけ顔を上げた。


「もし、いつかここを離れることになったとしても、何も言わずにいなくなるようなことはしたくないです」


 黒凪が顔を向ける。


「この家には、すごくお世話になっていますし……何より、僕にとって大切な場所になってきているので」


 銀澪は小さく笑った。


「だから、そのときはちゃんと相談します」


 黒凪はしばらく黙っていた。


 そして、ゆっくりと微笑んだ。


「……そう」


 その声には、少しだけ安堵が混じっていた。


「なら、私もちゃんと話すわね」


 銀澪が首を傾げる。


「……何をですか?」


「私が、どう思っているのか」


 黒凪は庭へ目を向けた。


「あなたに何かを決めてもらうとき、私の気持ちもちゃんと伝えるようにするわ」


 銀澪は少し驚いた。


 それから、ゆっくりと頷く。


「……はい」


 黒凪も頷いた。


 その約束は、とても小さなものだった。


 けれど、互いの人生を尊重しながら同じ時間を過ごすためには、大切なことのように思えた。


     ◇


 夕方になり、銀澪は居間で黒凪の描いた絵を眺めていた。


 昨日の真龍の姿。


 白銀の鱗。


 枝分かれした角。


 そして、蒼と紅の瞳。


 黒凪は隣で、鱗の紋様を少し描き直している。


「……この辺りだったと思うの」


 彼女は絵の右側を指差した。


「蒼い線が、肩の辺りから背中へ伸びていたわ」


「……なるほど」


「左側は、もう少し細かったかしら」


 黒凪は静かに線を加えた。


 銀澪はしばらく眺めた後、口を開いた。


「……黒凪さん」


「何?」


「今度、また龍になったときに、写真を撮ってもらってもいいですか?」


 黒凪は顔を上げた。


「……写真?」


「はい。自分の姿を、ちゃんと残しておきたくて」


 銀澪は少し照れくさそうに笑った。


「人間だった頃から憧れていた姿ですから。せっかくなら、記念に」


 黒凪は少し考えた。


「……そうね」


 そして、穏やかに微笑む。


「いいと思うわ」


「……本当ですか?」


「ええ。ただし、写真を撮る場所は慎重に選びましょう。龍の姿が写ったものを、外へ出すわけにはいかないから」


「もちろんです」


 銀澪は頷いた。


 黒凪は再び絵へ目を向けた。


「それに、写真があれば水葉にも特徴を説明しやすいわね」


「……そうですね」


 銀澪は少しだけ笑った。


 黒凪も微笑む。


「でも、次の変身は身体が十分回復してからよ」


「……はい」


「今日はもう、無理をしないこと」


「……分かっています」


 黒凪は小さく笑った。


「なら、よろしい」


 二人は顔を見合わせ、穏やかに微笑んだ。


     ◇


 その夜。


 銀澪は客間で、今日の出来事をノートへ書き留めていた。


 黒凪の古い知人。


 高瀬文枝という女性。


 修繕された座布団。


 そして、三人で囲んだ昼食。


 銀澪はペンを止めた。


「……黒凪さんにも、いろいろな歴史があるんだな」


 小さく呟く。


 長い年月を生きるということ。


 それは、ただ寿命が長いというだけではない。


 誰かが子どもから大人になり、年を取り、人生を終えていく。


 その時間を見守り続けるということでもある。


 銀澪は窓の外へ目を向けた。


 庭には月明かりが差し込み、池の水面が静かに輝いている。


 今の自分も、これから長い年月を生きるのだろう。


 その間に、何人の人と出会い、どれほどの別れを経験するのだろうか。


 まだ、想像もできない。


 それでも、今日一つだけ分かったことがある。


 長く生きるからといって、誰かと過ごす時間が軽くなるわけではない。


 むしろ、その一つひとつが大切になっていくのかもしれない。


 銀澪はノートを開き、最後に一文を書き加えた。


『今日、黒凪さんの昔を少し知ることができた。』


 それから、少し考える。


 そして、もう一文。


『これからも、少しずつ知っていきたい。』


 書き終えた後、銀澪はペンを置いた。


 障子を閉め、布団へ入る。


 今日は少し疲れていた。


 けれど、心地よい疲れだった。


 銀澪はゆっくりと目を閉じた。


     ◇


 同じ頃。


 黒凪は自室で、文枝から送られてきた写真を眺めていた。


 庭を背景に並ぶ三人。


 銀澪。


 文枝。


 そして、自分。


 黒凪は画面を少し拡大した。


 そこには、思いきり笑っている自分がいた。


「……ふふっ」


 自然と笑みがこぼれる。


 文枝の言葉を思い出す。


『最近、よく笑うようになったね』


 自分では、そんなつもりはなかった。


 銀澪が来る前も、穏やかに暮らしていた。


 寂しいと思うことはあっても、それを特別不幸だとは感じていなかった。


 長い年月をかけて、自分なりの生活を作ってきたつもりだった。


 けれど。


 黒凪は画面の中の銀澪へ目を向けた。


 白銀の髪。


 蒼と紅の瞳。


 そして、少し照れくさそうな笑顔。


 数日前まで、名前すら知らなかった青年だった。


 それなのに、今は毎朝顔を合わせている。


 食事を作り、庭仕事をして、時には一緒に山へ出かける。


 そして、あの青年が嬉しそうに笑うと、自分まで笑ってしまう。


「……そういうこと、なのかしら」


 小さく呟く。


 黒凪はスマートフォンを膝の上へ置いた。


 窓の外では、庭の木々が風に揺れている。


 長い年月を一人で過ごしてきた。


 その生活に不満があったわけではない。


 けれど、誰かが隣にいることで、初めて気づくこともあるのかもしれない。


 黒凪は静かに微笑んだ。


 そして、もう一度写真を開いた。


 画面の中の自分は、相変わらず楽しそうに笑っている。


 その笑顔を見つめながら、黒凪は小さく息を吐いた。


「……こんな顔、していたのね」


 今度は、少しだけ嬉しそうな声だった。


 そのとき、ふと文枝の言葉が蘇った。


『誰かと一緒に暮らすって、大きな出来事ばかりじゃないからね』


 黒凪はゆっくりと頷いた。


 朝食の献立を考えること。


 庭の落ち葉を集めること。


 夕食の味つけを相談すること。


 誰かが帰ってきたら、おかえりと言うこと。


 そんな当たり前の日々を、今は大切にしたいと思っている。


 黒凪は写真を閉じず、そのまま机の上へスマートフォンを置いた。


 そして、小さく微笑んだ。


「……明日も、いい日になるといいわね」


 その声は、静かな部屋に柔らかく響いた。


 山の奥に建つ、古い和風屋敷。


 そこでは今、白龍と黒龍が同じ屋根の下で暮らしている。


 まだ互いのことを、すべて知っているわけではない。


 銀澪には、人間だった頃の記憶がある。


 黒凪には、長い年月の中で積み重ねてきた思い出がある。


 それぞれの過去は違い、歩いてきた道も違う。


 けれど、今は同じ食卓を囲み、同じ庭を眺めている。


 その時間が、少しずつ二人の新しい思い出になっていく。


 黒凪はもう一度、写真の中の自分を見た。


 そこには、彼女自身も知らなかった笑顔があった。


 誰かと過ごすことを、こんなにも楽しんでいる自分がいる。


 そのことに、ようやく気づき始めていた。

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