第十四話 白龍の記録、黒龍の秘密
朝の庭に、柔らかな雨が降っていた。
屋根瓦を伝う雫が軒先から落ち、石畳に小さな波紋を作っている。池の向こうにある松の枝は雨を含んで重たげに垂れ、遠くの山並みは薄い霧に包まれていた。
銀澪は客間の机に向かい、一冊のノートを開いていた。
机の上には鉛筆と消しゴム。それから、黒凪に借りた小さな定規が置かれている。
ノートには、昨夜から描き始めた一枚の絵があった。
古い橋。
その下を流れる川。
橋の向こうへ続く山道と、木々の間に立つ鳥居。
繰り返し夢に現れる景色だった。
「……こんな感じだったかな」
銀澪は鉛筆を動かし、橋の欄干に線を加えた。
夢の中で見たものを、そのまま正確に描くことは難しい。目を覚ました直後には覚えていたはずの細部も、時間が経つにつれて曖昧になってしまう。
ただ、いくつか印象に残っているものがあった。
欄干は古いコンクリート製だったこと。
川の幅は、それほど広くなかったこと。
そして、橋の向こうに続く道が、緩やかに右へ曲がっていたこと。
銀澪は最後の線を描き終えると、鉛筆を置いた。
描かれた風景を眺める。
どこかで見たことがある気もする。
けれど、それ以上の記憶は出てこなかった。
「……本当に、どこなんだろう」
小さく呟く。
人間だった頃の自分には、山間の神社や渓流を訪ねる習慣があった。
休日には車を走らせ、静かな場所を見つけて歩いたこともある。小さな神社を見つければ参拝し、気に入った景色があれば写真を撮った。
だからこそ、夢の中の橋も、かつて訪れた場所の一つなのかもしれなかった。
しかし、そうだとしても、あの日なぜ雨の中を歩いていたのかは分からない。
銀澪はノートの余白に、三つの見出しを書いた。
『覚えていること』
『夢で見たこと』
『推測していること』
それから、これまでの記録を読み返し、一つずつ書き分けていった。
人間だった頃の家族や暮らしについては、今も覚えている部分が多い。
けれど、最後に何が起きたのかは分からない。
雨の橋は、夢の中で何度も見た。
しかし、現実にその場所を訪ねたのかどうかは確認できていない。
銀色の鈴を持つ人影についても同じだった。
姿は思い浮かぶ。
けれど、相手が誰なのかは分からない。
「……こうして分けると、意外と分からないことが多いな」
銀澪は苦笑した。
ただ、以前ほど落ち込むことはなかった。
少なくとも、何を調べればよいのかは少しずつ見えてきている。
それに、今は一人で考えているわけではない。
黒凪も、水守の里の水葉も、できる範囲で協力すると言ってくれていた。
銀澪はノートを閉じようとした。
そのとき、廊下から足音が聞こえてきた。
「銀澪? 起きている?」
黒凪の声だった。
「はい。起きています」
「少し入ってもいいかしら」
「もちろんです」
襖が静かに開いた。
黒凪は薄い灰青色の上着に黒いパンツという姿で、手には小さな盆を持っていた。
盆の上には、湯気の立つ湯呑みが二つ載っている。
「あら」
彼女は机の上へ目を向けた。
「絵を描いていたの?」
「はい。夢の中で見た橋を、思い出せる範囲で描いてみたんです」
「見せてもらってもいい?」
「どうぞ」
銀澪はノートを彼女の方へ向けた。
黒凪は盆を机の端へ置き、少し身を屈めて絵を覗き込む。
しばらく黙って眺めていたが、やがて一つの部分を指差した。
「……この鳥居は、橋を渡った先にあるのね?」
「はい。木々の間に、少しだけ見えていました」
「それで、橋の下には川が流れていた」
「ええ。雨が降っていたので、少し水量が多かった気がします」
黒凪は頷いた。
それから、ノートの見出しへ視線を移す。
「……覚えていることと、夢で見たことを分けたのね」
「はい。混ぜて考えると、何が確かなのか分からなくなりそうだったので」
黒凪は少しだけ微笑んだ。
「いい方法だと思うわ」
「ありがとうございます」
銀澪は照れくさそうに笑った。
黒凪は椅子を一脚引き、彼の隣へ腰を下ろした。
「この絵、後で水葉にも見てもらっていいかしら?」
「……水葉さんに?」
「ええ。あの子は古い地図や水路の記録をたくさん持っているでしょう? もしかしたら、似た場所を知っているかもしれないわ」
銀澪は少し考えた。
自分の夢の話を他人に伝えるのは、まだ少し気恥ずかしい。
けれど、これまで水葉が見せてくれた記録や調査の丁寧さを思い出すと、相談してみる価値はあるように思えた。
「……はい。構いません」
銀澪は頷いた。
「ただ、確かな記憶じゃないことは伝えておいてください」
「もちろんよ」
黒凪は穏やかに答えた。
それから、持ってきたほうじ茶を銀澪へ差し出した。
「まずは少し休みましょう。朝ごはんは、もう少ししたらできるから」
「ありがとうございます」
銀澪は湯呑みを受け取った。
香ばしい茶の匂いが、静かな客間へ広がった。
◇
昼前には、雨がほとんど上がっていた。
空はまだ薄い灰色だったが、雲の切れ間から淡い光が差し込み始めている。
朝食と片づけを終えた二人は、居間の食卓にノートと端末を広げていた。
今日は、銀澪が初めて真龍になったときの記録を整理する予定だった。
黒凪が描いた白龍の姿。
その周囲には、鱗の色や角の形についての細かな書き込みがある。
銀澪は改めてその絵を眺めた。
「……何度見ても、不思議ですね」
「何が?」
「これが、自分の姿だなんて」
黒凪は小さく笑った。
「ふふっ。昨日も、同じようなことを言っていたわね」
「だって、まだ慣れないので」
銀澪は絵の中の白龍を指差した。
「特に、この角。思っていたより立派だったんですね」
「ええ。あなたの角は、枝分かれが少し多いわね」
黒凪は自分の黒い角へ軽く触れた。
「私のものとも形が違うでしょう?」
銀澪は彼女の角と絵を見比べた。
黒凪の角は、根元から滑らかに伸び、先端でいくつかの枝に分かれている。
一方、銀澪の角は白い樹木の枝を思わせる形で、途中から細かな分岐がいくつも伸びていた。
「……確かに」
「角の形は龍によって違うものよ。だから、それ自体は不思議ではないわ」
黒凪は絵の右側へ指を移した。
「私が気になっているのは、こっちね」
白銀の鱗の間に描かれた、細い蒼色の線。
さらに、身体の反対側には紅色の線がある。
「……鱗紋、ですね」
「ええ」
黒凪は頷いた。
「鱗の模様そのものは珍しくないわ。でも、あなたの場合は左右で色が違っていた。それに、単なる色の濃淡ではなく、流れるような線になっていたの」
銀澪は絵を見つめた。
「……僕の瞳と、同じ二色ですね」
「そうね。ただ、理由までは分からないわ」
黒凪は慎重に答えた。
「古い龍の記録にも、身体の左右で異なる特徴を持つ者は出てくる。でも、それがあなたと同じものなのかどうかは、まだ確かめられていないの」
「……なるほど」
銀澪は頷いた。
黒凪は端末を手に取り、水葉との連絡画面を開いた。
「水葉へ送る前に、内容を確認しましょうか」
「はい」
彼女は画面を銀澪にも見えるように置いた。
そこには、真龍の姿についての簡単な説明が書かれていた。
白銀の鱗を持つこと。
左右の瞳の色が異なること。
身体の左右に、淡い蒼と紅の鱗紋が現れたこと。
初めての変身で四本の脚を使って歩けたこと。
そして、変身中に周囲の水の感覚が強くなること。
「……ここまでなら、大丈夫です」
銀澪が言うと、黒凪は頷いた。
「分かったわ」
彼女は絵を撮影し、文章と一緒に水葉へ送った。
送信が終わると、端末を机の端へ置く。
「……これでよし。あとは水葉の返事を待ちましょう」
「はい」
銀澪は頷いた。
そのとき、黒凪の視線が机の上の別のノートへ向いた。
銀澪が朝に描いていた、雨の橋の絵だった。
黒凪はしばらくそれを見つめていた。
そして、何かを決めたように静かに息を吐いた。
「……銀澪」
「はい?」
「今日は、もう一つ話しておきたいことがあるの」
銀澪は顔を上げた。
黒凪の声が、少しだけ真面目になっていた。
「……何でしょう?」
黒凪はすぐには答えなかった。
しばらく机の上のノートを見つめ、それから静かに口を開く。
「……あなたが、あの神社で目覚めた日のことよ」
銀澪の手が止まった。
黒凪は続けた。
「私が、どうしてあの日あそこにいたのか。まだ、きちんと説明していなかったでしょう?」
「……そういえば」
銀澪は少し考えた。
あの日は、雨が降っていた。
見知らぬ身体で目を覚まし、山道を歩いていたとき、黒凪と出会った。
彼女は銀澪が龍人であることに気づき、事情を聞いた上で屋敷へ招いてくれた。
それは覚えている。
けれど、黒凪自身がなぜあの神社へ向かっていたのか、詳しく聞いたことはなかった。
「……何か、理由があったんですか?」
銀澪が尋ねる。
黒凪は静かに頷いた。
「ええ」
彼女は一度、窓の外へ目を向けた。
雨上がりの庭には、薄い霧が残っている。
「……実はね。あなたと出会う数日前から、この山の水脈に妙な変化を感じていたの」
銀澪は目を見開いた。
「……数日前から?」
「ええ。最初は、ごく小さなものだったわ。沢の流れが一瞬だけ乱れたり、地下水の気配が普段と違っていたり」
黒凪はゆっくりと続けた。
「それで、古い神社の辺りを確かめに行ったの。あそこは昔から、水脈と関わりの深い場所だったから」
銀澪は黙って聞いていた。
「そして、あなたと出会った」
「…………」
「最初は、本当に驚いたわ。あの場所に、見知らぬ白龍の青年がいるなんて思っていなかったもの」
黒凪は少しだけ視線を落とした。
「あなたを屋敷へ招いたのは、困っている様子を放っておけなかったから。それは本当よ」
そこで、言葉を切る。
「でも……それだけではなかったの」
銀澪は彼女を見つめた。
黒凪は静かに続けた。
「あなたが水脈の異変と関係しているのかもしれない、と思ったの。だから、近くで様子を確かめたかった気持ちもあったわ」
居間に、短い沈黙が落ちた。
庭の滝の音だけが、静かに聞こえている。
銀澪はすぐに返事をしなかった。
黒凪はそれ以上何も言わず、彼が口を開くのを待っていた。
やがて、銀澪が静かに尋ねた。
「……それは、僕が危険かもしれないと思ったからですか?」
黒凪は少しだけ目を伏せた。
「……その可能性も考えたわ」
銀澪の表情が、わずかに曇った。
黒凪は続ける。
「でも、あなたが危険な存在だと決めつけたわけではないの。何も分からなかったからこそ、慎重になっていたのよ」
「……そう、ですか」
銀澪は膝の上で手を組んだ。
あの日のことを思い出す。
雨の山道。
初めて出会った黒凪。
そして、屋敷へ招いてもらったこと。
銀澪にとっては、あまりにも突然で、ありがたい出来事だった。
けれど、黒凪には黒凪の事情があった。
それ自体は理解できる。
自分でも、見知らぬ龍が突然現れたら警戒するだろう。
しかし、今まで知らなかったことを聞かされ、少し戸惑っているのも事実だった。
「……黒凪さん」
「何?」
「それを、今まで話さなかったのは……どうしてですか?」
黒凪は静かに息を吐いた。
「……不確かなことを話して、あなたを不安にさせたくなかったの」
少し考えてから、続ける。
「それに、あなたは自分がどうして龍になったのか分からず、困っていたでしょう? そんなときに、山の異変と関係があるかもしれないなんて言われたら……」
そこで、言葉が止まった。
銀澪は黙って待っていた。
黒凪は、ゆっくりと顔を上げる。
「……でも、それは私の判断だったわ」
静かな声だった。
「あなたがどう感じるかを、私が先に決めてしまったのね」
銀澪は少し驚いた。
黒凪は続けた。
「守ろうとしたつもりで、あなたが知るべきことまで隠してしまったのかもしれない」
彼女は小さく首を振った。
「……ごめんなさい、銀澪」
銀澪は何も言わなかった。
すぐに大丈夫だと答えることもできた。
けれど、それでは自分の中に残った小さな戸惑いまで、なかったことにしてしまう気がした。
しばらくして、銀澪は静かに口を開いた。
「……正直に言うと、少し驚いています」
黒凪は頷いた。
「……ええ」
「黒凪さんが警戒していたことは、分かります。僕だって、突然見知らぬ龍が現れたら、同じように考えると思いますから」
銀澪は言葉を選びながら続けた。
「でも、僕のことかもしれない話を、自分だけ知らないままだったと思うと……少し怖いです」
黒凪は静かに目を伏せた。
「……そうね」
「助けてくれたことを疑っているわけじゃありません。ただ……」
銀澪は顔を上げた。
「自分のことは、自分でも考えたいんです」
その言葉に、黒凪の瞳がわずかに揺れた。
銀澪は続ける。
「たとえ不安になるような話でも、確かなことと、まだ分からないことを分けて教えてもらえれば、僕も一緒に考えられます」
黒凪はしばらく、彼を見つめていた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「……ええ」
彼女は静かに答えた。
「あなたの言うとおりだわ」
そして、少しだけ微笑んだ。
「これからは、そうするようにする」
銀澪も小さく頷いた。
ただ、そこで黒凪はすぐに話を終えなかった。
「……もう一つ、伝えておきたいことがあるの」
銀澪が顔を上げる。
「……何でしょう?」
黒凪は一度、書庫のある廊下へ目を向けた。
「あなたがこの家へ来た最初の夜、古い書物を調べていたの」
銀澪は静かに聞いていた。
「その中に、少し気になる文章が残されていたわ」
黒凪はゆっくりと続けた。
「……人間としての生を終え、龍の身となって再び世に現れる者がいる、と」
銀澪の呼吸が、一瞬止まった。
「…………え?」
黒凪は彼の顔を見つめた。
「かなり古い記録よ。しかも、前後の文章が傷んでいて、詳しいことは読み取れないの」
彼女は慎重に言葉を選んだ。
「ただ、あなたが話してくれた転生のことと、少し似ていると思ったわ」
銀澪はしばらく動けなかった。
人間としての生を終え、龍となって現れる。
それは、今の自分の状況にあまりにも近い言葉だった。
「……そんな記録が、あったんですか」
ようやく声が出た。
黒凪は頷く。
「ええ。でも、あなたがその記録にある存在だとは限らないわ。伝承なのか、実際にあった出来事なのかも分からない」
銀澪は黙っていた。
驚きと、わずかな期待。
そして、言いようのない不安。
そのすべてが、胸の中で混ざり合っていた。
黒凪は静かに口を開いた。
「……銀澪」
「はい」
「もし、あなたが望むなら……」
彼女は書庫の方へ視線を向けた。
「その本を、一緒に読んでみない?」
銀澪は顔を上げた。
黒凪は続けた。
「これまで私だけで調べていたものを、あなたにも見てもらいたいの。分からないことは分からないまま、二人で確かめてみたい」
銀澪はしばらく考えた。
胸の奥には、まだ少し戸惑いが残っている。
けれど、それ以上に知りたいと思った。
自分がなぜ龍になったのか。
あの神社で、何が起きたのか。
答えは見つからないかもしれない。
それでも、確かめることはできる。
銀澪はゆっくりと頷いた。
「……はい」
黒凪の金色の瞳を見つめる。
「一緒に、見せてください」
黒凪は静かに頷いた。
「……分かったわ」
彼女は立ち上がった。
銀澪も、その後へ続く。
窓の外では、雨がすっかり上がっていた。
濡れた庭石の上へ、淡い日差しが差し込み始めていた。
◇
書庫の扉が開くと、乾いた紙と古い木の匂いが漂ってきた。
銀澪は黒凪に続いて中へ入った。
天井近くまで届く書棚には、和綴じの本や巻物が整然と収められている。これまで何度か入ったことはあったが、まだ見たことのない棚も多かった。
黒凪は部屋の奥へ進み、一番下の引き出しを開けた。
そこから、薄い青色の表紙を持つ古い書物を取り出す。
「……これよ」
彼女は慎重に机へ置いた。
銀澪は椅子を引き、隣へ腰を下ろす。
黒凪は書物の下に柔らかな布を敷き、傷んだ表紙をゆっくりと開いた。
古い紙が、かすかな音を立てる。
墨で書かれた文字の中には、すでに読めなくなった部分も多かった。
「……この辺り」
黒凪が一つの文章を示した。
銀澪は身を乗り出す。
そこには、古い文字でこう記されていた。
『人の生を終え、龍の身にて再び世に現る者あり』
銀澪は、ゆっくりと読み上げた。
「……人の生を終え、龍の身にて再び世に現る者あり」
そして、言葉を失った。
その文章は、あまりにも今の自分に似ていた。
人間だった頃の記憶を持ったまま、白龍として目覚めた。
それまで龍など、物語の中にしかいないと思っていた。
なのに今は、額に角があり、腰から尻尾が伸びている。
銀澪は自分の右手へ目を向けた。
「……本当に、こんなことが書いてあるんですね」
「ええ」
黒凪は静かに頷いた。
「でも、ここから先が読めないの」
彼女は文章の下へ指を移した。
そこには、水に濡れたような大きな染みが広がっていた。
墨が滲み、いくつもの文字が判読できなくなっている。
かろうじて読めるのは、ほんの数文字だけだった。
「……これは、いつ頃の記録なんですか?」
銀澪が尋ねる。
黒凪は首を振った。
「正確には分からないわ。書かれている文字や紙の特徴から、おおよその時代を考えることはできるけれど、この本自体が古い記録を書き写したものかもしれないから」
「……なるほど」
「それに、誰が書いたのかも不明なの。祖母が大切に保管していたことは分かるけれど、それ以上のことは……」
黒凪は少しだけ眉を寄せた。
「……まだ、調べられていないわ」
銀澪は再び文章を見つめた。
短い言葉。
しかし、その意味は大きかった。
自分と同じように、人間から龍へ生まれ変わった存在がいたのだろうか。
それとも、昔の人々が考えた物語にすぎないのだろうか。
「……黒凪さん」
「何?」
「この文章が本当だったとしても、僕のことを書いているとは限らないんですよね」
「ええ。そうよ」
黒凪はすぐに頷いた。
「古い時代に別の事例があったのかもしれないし、比喩的な表現なのかもしれない。今は、それさえ分からないわ」
銀澪は静かに息を吐いた。
「……そうですよね」
少しだけ落胆した。
けれど、同時に安心もしていた。
もし黒凪が、この文章を根拠に自分の正体を決めつけていたら、もっと不安になっていただろう。
今、彼女は分からないことを分からないと話してくれている。
そのことが、ありがたかった。
銀澪はしばらく考え、静かに口を開いた。
「……でも、一つだけ分かった気がします」
黒凪が顔を向ける。
「何かしら?」
「少なくとも、昔からこういう話があったんですね」
銀澪は文章を指差した。
「僕が初めての存在なのかどうかは分からない。でも、人間から龍になるという考え方そのものは、昔の龍人たちにも知られていた可能性がある」
黒凪は少し考えた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……ええ。それなら、言えるかもしれないわね」
銀澪は小さく笑った。
「少し、希望が持てました」
黒凪はその言葉を聞き、静かに目を細めた。
「……そう」
そして、柔らかく微笑んだ。
「なら、よかったわ」
◇
二人はその後も、書物を少しずつ確かめていった。
ただし、無理にページを開こうとはしなかった。
古い本は綴じ糸が弱くなっており、力を加えれば紙が破れてしまいそうだったからだ。
黒凪は傷みの少ない部分だけを開き、銀澪は読める文字をノートへ書き写した。
しばらくして、銀澪がふと顔を上げた。
「……黒凪さん」
「何?」
「この本って、ずっと書庫にあったんですよね?」
「ええ。祖母が亡くなってからも、ここで保管していたわ」
「お祖母さんは、この文章の意味を知っていたんでしょうか」
黒凪の手が止まった。
「……どうかしら」
彼女は少し考えた。
「祖母は古い記録に詳しい人だったけれど、すべてを私に教えていたわけではないの。私がまだ幼かった頃には、難しい話を避けていたこともあったでしょうし」
「……そうですよね」
「それに、祖母も知らなかったことがあると思うわ」
黒凪は静かに続けた。
「長く生きているからといって、何でも知っているわけじゃないもの」
銀澪は頷いた。
黒凪はしばらく書物を見つめていたが、やがて何かを思い出したように顔を上げた。
「……そういえば」
「何ですか?」
「祖母が残した古い写真の中に、あの神社のものがあったはずだわ」
銀澪は目を瞬かせた。
「……僕が目覚めた神社ですか?」
「ええ。随分昔に撮られた写真だけれど」
黒凪は立ち上がり、反対側の棚へ向かった。
「少し探してみましょうか」
銀澪も席を立とうとしたが、黒凪が軽く手を上げた。
「あなたはそこにいて。棚の奥にあるから、私が取るわ」
「……分かりました」
銀澪は椅子へ座り直した。
黒凪は棚からいくつかの箱を取り出し、中身を確かめ始める。
古い写真。
封筒に入った書類。
地域の地図。
どれも、長い年月を経て大切に保管されてきたものだった。
しばらくして、黒凪が小さく声を上げた。
「……あったわ」
手には、薄い茶色の封筒があった。
黒凪は机へ戻り、慎重に中身を取り出した。
現れたのは、数枚の白黒写真だった。
「……これよ」
彼女は一枚を銀澪の前へ置いた。
写真には、山の斜面に建つ小さな神社が写っていた。
苔むした石段。
木々の間に立つ鳥居。
そして、その奥にある古い社。
銀澪は思わず身を乗り出した。
「……ここ」
写真を見つめる。
鳥居の形。
社の屋根。
石段の配置。
どれも、見覚えがあった。
「……僕が目覚めた場所ですね」
「そうね。今とは少し違うけれど」
黒凪は頷いた。
写真が撮られた頃には、社の屋根もまだ傷んでおらず、石段の周囲も綺麗に整備されていたらしい。
銀澪は写真を見つめたまま、静かに口を開いた。
「……昔は、こんなに綺麗だったんですね」
「ええ。今より人が訪れる場所だったのよ」
黒凪は別の写真を取り出した。
「この辺りも、昔は小さな集落があったの。今はほとんど残っていないけれどね」
銀澪は頷いた。
写真の一枚には、山道が写っていた。
道の端には石垣があり、その向こうには木造の民家が並んでいる。
別の写真には、小さな橋が写っていた。
銀澪は、その写真で手を止めた。
「…………」
黒凪が顔を向ける。
「……銀澪?」
銀澪は写真を見つめていた。
古いコンクリート製の橋。
その下を流れる川。
そして、橋の向こうへ続く細い山道。
銀澪はゆっくりと息を吸った。
「……黒凪さん」
「何?」
「これ……」
彼は写真の端を指差した。
「……僕の夢に出てくる橋に、少し似ています」
黒凪の表情が変わった。
彼女はすぐに、朝のノートを手元へ引き寄せた。
銀澪が描いた橋の絵。
そして、古い白黒写真。
二つを並べて見比べる。
欄干の形。
橋の幅。
向こう側へ続く道の曲がり方。
確かに、似ている部分があった。
「……似ているわね」
黒凪が静かに呟いた。
銀澪は頷いた。
「……はい」
ただし、写真には鳥居が写っていなかった。
撮影された角度の問題なのか、それとも別の場所なのかは分からない。
銀澪は少し考えた。
「……でも、こういう橋って、ほかにもありますよね」
「ええ。特に昔の山道には、似た造りの橋がいくつもあったと思うわ」
黒凪は慎重に答えた。
「それに、あなたが夢で見た橋と、写真に写っている橋が同じものだとは、まだ言い切れない」
銀澪は頷いた。
「……そうですね」
それでも、胸の奥に小さな期待が生まれていた。
夢の中で見た風景。
その一部と似たものが、現実の写真に残されている。
偶然かもしれない。
けれど、確かめてみる価値はある。
銀澪は写真の裏側へ目を向けた。
「……何か、書いてありますか?」
黒凪は写真を慎重に裏返した。
裏には、薄くかすれた文字が残されていた。
撮影された時期らしい数字。
それから、短い地名。
「……旧参道橋」
黒凪が読み上げた。
銀澪は小さく繰り返した。
「……きゅうさんどうばし」
黒凪は少し考えた。
「この神社へ向かう古い参道にあった橋かもしれないわね」
「……今も残っているんでしょうか」
「分からないわ。道路が整備されたときに架け替えられた可能性もあるし、使われなくなっているかもしれない」
黒凪は写真を見つめた。
「でも、場所を調べることはできると思うわ」
銀澪は顔を上げた。
「……本当ですか?」
「ええ。古い地図や地域の記録を確かめれば、どこにあった橋なのか、ある程度は分かるでしょう」
黒凪は少しだけ微笑んだ。
「それに、水葉も似た記録を持っているかもしれないわね」
銀澪はゆっくりと頷いた。
「……調べてみたいです」
その声には、はっきりとした意思があった。
黒凪は静かに答えた。
「ええ。一緒に調べましょう」
銀澪は写真をもう一度見つめた。
古い橋。
その向こうへ続く山道。
そして、自分が目覚めた神社。
まだ何も確かなことは分からない。
それでも、夢の中にしかなかった景色が、少しだけ現実に近づいた気がした。
◇
書庫を出た頃には、午後三時を過ぎていた。
長い時間、古い記録を読み続けていたためか、銀澪は少し疲れを感じていた。
居間へ戻ると、黒凪が温かいお茶を用意してくれた。
二人は縁側へ腰を下ろし、雨上がりの庭を眺めた。
池の水面には、雲の切れ間から差し込む光が映っている。
遠くでは、山鳥が鳴いていた。
しばらくして、銀澪が静かに口を開いた。
「……黒凪さん」
「何?」
「今日は、いろいろ話してくれてありがとうございました」
黒凪は顔を向けた。
銀澪は湯呑みを両手で包んだまま続ける。
「正直、まだ少し考える時間は必要です」
黒凪は静かに頷いた。
「……ええ」
「でも、話してもらえてよかったと思っています」
銀澪は庭へ目を向けた。
「もし、今まで何も知らないままだったら……あとで分かったとき、もっと戸惑っていたかもしれませんから」
黒凪はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……そうね」
そして、少しだけ視線を落とした。
「私も、あなたに頼ってほしいと言いながら、肝心なところでは自分だけで判断していたのかもしれないわ」
銀澪は彼女の横顔を見た。
黒凪は続ける。
「長く生きていると、つい自分の経験を基準に考えてしまうことがあるの。相手を守るためには、何を知らせて、何を知らせない方がいいのか……」
そこで、少しだけ苦笑する。
「……でも、あなたはもう、自分で考えられる大人なのよね」
銀澪は静かに頷いた。
「……はい」
「それを、忘れないようにするわ」
黒凪は彼へ顔を向けた。
「これからは、あなた自身に関係することなら、できるだけ一緒に考えたいと思っているの」
銀澪はしばらく彼女を見つめていた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……僕も、そうしたいです」
黒凪の表情が柔らかくなる。
「……そう」
短い返事だった。
けれど、その声には安堵が混じっていた。
しばらくして、銀澪がふと口を開いた。
「……それと、もう一つ」
「何?」
「黒凪さんが、あのとき僕を屋敷へ招いてくれたこと」
黒凪は静かに彼を見た。
銀澪は続ける。
「水脈のことが気になっていたとしても、僕が困っていたのを助けてくれたことは、変わらないと思っています」
「…………」
「だから、そのことには今も感謝しています」
黒凪は何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
銀澪は慌てて付け加える。
「……あ、でも、これで全部気にしていないって意味じゃないですよ」
黒凪が顔を上げる。
「……え?」
「これからは、ちゃんと話してくださいね。僕も、気になることは聞くようにしますから」
その言葉に、黒凪は一瞬、目を丸くした。
そして、ふっと笑った。
「……ええ」
彼女は静かに頷いた。
「約束するわ」
銀澪も微笑んだ。
庭には、雨上がりの風が吹いていた。
◇
夕方、黒凪の端末に水葉から返信が届いた。
銀澪と黒凪は居間の食卓へ戻り、一緒に画面を確認した。
水葉の文章は、いつものように丁寧だった。
銀澪の鱗紋について、古い龍の記録をいくつか調べたという。
しかし、完全に一致する特徴はまだ見つかっていないらしい。
白龍の中には、鱗に淡い色の筋を持つ者もいる。
左右で異なる特徴を持つ龍も、記録には残されている。
けれど、蒼と紅の二色が身体の左右に分かれて現れる例については、現時点で確かな資料がないということだった。
「……やっぱり、珍しいんでしょうか」
銀澪が呟く。
黒凪は慎重に答えた。
「珍しい可能性はあるわ。でも、記録が残っていないだけかもしれないから、まだ何とも言えないわね」
「……そうですよね」
銀澪は頷いた。
黒凪は続けて画面を確認した。
水葉は、今度銀澪が真龍になったとき、安全な場所で写真を撮れたら、比較資料として見せてほしいと書いていた。
ただし、画像を外部へ公開することはせず、保管方法についても銀澪本人と相談したいという。
「……どうする?」
黒凪が尋ねる。
銀澪は少し考えた。
「……写真を撮ること自体は、前にお願いしましたし、大丈夫です」
黒凪は頷いた。
「ええ」
「でも、水葉さんへ送るのは、撮ってからもう一度確認させてください」
黒凪は微笑んだ。
「もちろんよ」
銀澪は少し安心したように頷いた。
その後、二人は水葉からの資料を確認し、必要な部分だけノートへ書き写した。
古い龍の記録。
左右で異なる鱗の特徴。
そして、まだ分からない銀澪の血筋。
謎は増えた。
けれど、不思議と以前ほど不安は感じなかった。
少なくとも、今は自分もその調査に加わっている。
何を調べているのか。
何が分かっていて、何が分からないのか。
それを、一緒に確かめることができる。
銀澪にとって、それは大きな違いだった。
◇
夜。
夕食を終えた銀澪は、客間でノートを開いていた。
今日の出来事を整理するためだった。
黒凪が話してくれたこと。
古い書物に残されていた文章。
そして、夢の橋に似た写真。
銀澪は一つずつ書き留めていった。
最初に、確かなこと。
『黒凪さんは、僕と出会う前から山の水脈の異変を調べていた。』
『古い書物に、人間から龍へ生まれ変わる者についての記述がある。』
『神社の古い写真の中に、夢の橋と似た橋が写っていた。』
次に、まだ分からないこと。
『水脈の異変と自分の転生が関係しているか。』
『古い書物の文章が、実際の出来事を記したものか。』
『夢の橋と、写真の橋が同じ場所なのか。』
銀澪はペンを止めた。
そして、少し考える。
今日、黒凪は自分へ謝った。
それは、銀澪にとって予想していなかったことだった。
彼女は長い年月を生きる黒龍だ。
自分よりずっと多くのことを知っていて、龍としての力も、経験もある。
そんな相手が、自分の判断を振り返り、間違っていたかもしれないと認めた。
銀澪はそのことを、静かに思い返していた。
「……黒凪さんも、何でも分かるわけじゃないんだな」
小さく呟く。
もちろん、今までもそう言われてきた。
けれど、今日ほどはっきり感じたことはなかった。
黒凪にも迷うことがある。
何を話すべきか悩み、相手を不安にさせたくないと思うことがある。
そして、ときには自分の考えを変えることもある。
それは、何千年も生きる龍だからといって、変わらないのだろう。
銀澪は少しだけ微笑んだ。
彼女のことを、また一つ知ることができた気がした。
ノートの最後に、一文を書き加える。
『分からないことは、二人で考える。』
銀澪はその文字をしばらく見つめた。
それから、静かにノートを閉じた。
◇
同じ頃。
黒凪は書庫で、古い青表紙の書物を丁寧に片づけていた。
机の上には、銀澪が書き写した記録が残されている。
黒凪はそれを眺めながら、今日の会話を思い返していた。
自分が銀澪を屋敷へ招いた理由。
水脈の異変を感じていたこと。
そして、人間から龍へ生まれ変わる者についての記録。
今まで、一人で抱えていたことだった。
けれど、今日初めて銀澪へ話した。
彼は驚いていた。
少し傷ついたようにも見えた。
それでも、自分の気持ちをきちんと言葉にしてくれた。
黒凪は静かに息を吐いた。
「……あの人、思っていたよりずっと強いのね」
小さく呟く。
もちろん、龍としての力のことではない。
自分の知らない事実を聞かされ、戸惑いながらも、相手と向き合おうとする強さ。
それは、長い年月を生きる自分にとっても、簡単なことではなかった。
黒凪は机の引き出しを開け、祖母が残した木札を取り出した。
二匹の龍が向かい合う紋様。
その中央には、月のような形が刻まれている。
黒凪は指先で、その模様をなぞった。
「……お祖母様」
静かに呟く。
「私、少し間違えていたのかもしれないわ」
祖母は昔、よくこう言っていた。
『守るというのは、何もかも代わりに決めてやることではないよ』
黒凪はその言葉を、今になって思い出していた。
子どもの頃には、意味がよく分からなかった。
けれど、今日の銀澪との会話を通して、少しだけ理解できた気がした。
誰かを守りたいと思う。
困っている人がいれば、助けたいと思う。
それ自体は、悪いことではない。
けれど、相手にも考えがあり、選ぶ権利がある。
自分が正しいと思ったことを、相手も同じように受け止めるとは限らない。
黒凪は木札を机へ置いた。
「……まだまだ、学ぶことがあるのね」
小さく笑う。
何百年も生きてきた。
さまざまな人と出会い、いろいろなことを経験してきた。
それでも、新しく学ぶことはある。
そして、それを教えてくれたのは、まだ出会って十日余りの白龍だった。
黒凪は少しだけ目を細めた。
「……本当に、不思議な人ね」
その声には、親しみが混じっていた。
黒凪は古い書物を棚へ戻し、書庫の灯りを消した。
廊下へ出ると、山の夜風が静かに吹き込んできた。
窓の外には、雲の切れ間から月が見えている。
庭の池には、淡い光が映っていた。
黒凪は客間の方へ目を向ける。
銀澪は、もう眠っているだろうか。
今日はいろいろなことを話した。
驚かせてしまったこともあった。
けれど、最後には一緒に古い記録を調べることができた。
そのことが、少し嬉しかった。
「……明日も、話せるといいわね」
小さく呟く。
黒凪は自室へ向かって歩き始めた。
山の奥に建つ古い和風屋敷。
そこでは今、白龍と黒龍が同じ時間を過ごしている。
互いに知らないことは、まだ多い。
銀澪には、人間だった頃の記憶がある。
黒凪には、長い年月の中で積み重ねてきた秘密がある。
そして、二人の前には、まだ答えの出ていない謎が残されていた。
けれど、今日一つだけ変わったことがある。
黒凪は、自分が知っていることを銀澪へ話した。
銀澪は、それを受け止め、自分の考えを伝えた。
そのやり取りは、決して大きな出来事ではないのかもしれない。
けれど、これから長い時間を共に過ごす可能性がある二人にとって、大切な一歩だった。
そして、机の上に残された一枚の古い写真。
そこには、今では使われなくなった山道と、小さな橋が写っていた。
写真の裏側には、かすれた文字で一つの名前が残されている。
――旧参道橋。
銀澪の夢に現れる橋と、よく似たその場所。
まだ、偶然なのかもしれない。
けれど、確かめるための手がかりは残されていた。
雨の記憶。
白龍の夢。
そして、古い山道。
それらを結びつける答えは、まだ遠い。
それでも、銀澪と黒凪は今日、確かに一歩前へ進んだ。
答えを急ぐのではなく、互いの言葉を確かめながら。
これから先も、そうして歩いていくために。




